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【読切版/完結】追放された宮廷女医師は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito


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10/21

10話:同じ水

馬車を降りた。三日ぶりのブライテン。


門をくぐって通りを歩く。市場は昼を過ぎて落ち着いている。荷車の男が手を上げた。覚えがある。先週、肩を診た男だ。


「先生、肩もう痛くねえ!」


「無理しないでくださいね」


通りを曲がった。診療所が見える。


扉の前に人がいた。


三人。座り込んでいる。一人は子供を抱えた女。一人は杖をついた老人。もう一人は若い男で、顔色が悪い。


(何だ、これ)


扉が開いた。中からリーナが出てきた。額に汗。髪がほどけかけている。


「エリカさん! おかえりなさい!」


「……何人待ってるの」


「えっと、この方たちと、中に二人と、さっき帰った人が三人で——」


「今日だけ?」


「今日だけです」


リーナの声は明るい。明るいが、目の下に隈がある。


「昨日は?」


「七人!」


「一昨日」


「六人です!」


(三日前まで、一日に三人来ればいい方だったのに)


「なんで急に」


リーナが少し困った顔をした。


「エリカさんが宮廷に呼ばれたって話が広まっちゃって。追放された先生が呼び戻されたって。それで……」


(そういうことか)


「腕のいい先生がいるぞ、って。お金なくても診てくれるって」


「後半が余計ね」


「でも断れないじゃないですか! 来てるんだから!」


(それはそうだ)


鞄を置いた。白衣はない。エプロンを借りた。


「次の人、入れて」


***


老人。七十がらみ。咳が出る。


胸に耳を当てた。痰が絡んでいる。肺の音は悪くない。


「いつからですか」


「もう二月になるかのう」


「二ヶ月。薬は飲んでます?」


「グスタフ先生に出してもらったが、効かんでな。高いばかりで」


(グスタフの患者か。ここにまで流れてくるのは、よほどだ)


背中を叩いて痰を出させた。薬草を煎じて吸入させる。十分ほどで楽になった顔をした。


「先生、いくらじゃ」


「煎じた薬草の分だけ。二銅貨」


老人が財布を出した。中身を覗いた。銅貨が数枚。


「……二銅貨」


ぴったり出して、大事そうに財布を閉じた。


(あの財布の中身が全部だろうな)


「一週間後にまた来てください」


「ああ。ありがとうよ、先生」


***


子供を抱えた女。子供は三つくらい。


「お腹が痛いって言うんです。昨日の夜から」


子供の腹に触れた。柔らかい。右下を押しても痛がらない。


「何を食べましたか」


「煮た芋と、干した魚を少し」


「水は」


「井戸のを」


「どの井戸ですか」


「裏通りの。みんな使ってる——」


普通の問診だ。特別な理由はない。水を聞くのは基本。


腹を温めて、腸を落ち着かせる薬草を少量煎じた。飲ませたら三十分で泣き止んだ。


「先生——お代は」


「一銅貨」


女が頭を下げた。何度も。


***


若い男。二十前後。顔色が悪い。


「下痢が止まらなくて。三日くらい」


「食べたものは」


「いつもと変わんねえんだけど」


「水は」


「井戸の——裏通りの」


腹に手を当てた。腸が張っている。ただし炎症が強いわけではない。


注視した。


【腸管——粘膜に軽度の炎症】


(昨日の子供と同じだ。全く同じ所見。——偶然か?)


水分を取らせた。塩と砂糖を溶かした水。少しずつ。


「三日間、煮た水だけ飲んで。井戸の水はそのまま飲まないで」


「煮た水? なんでだ?」


「……いいから。煮てから冷まして飲んで」


男の顔が怪訝だった。当然だ。理由を説明するには細菌の概念がいる。ない。


「火を通せば安全ですから」


「安全って。毒でも入ってんのか」


「毒じゃないけど、火を通した方がいい」


男は首を傾げながら帰った。言われた通りにするかは分からない。


***


夕方。最後の患者を送り出した。


机に突っ伏した。


リーナが茶を持ってきた。


「お疲れ様です。今日は合計八人でした」


「多すぎる」


「でも全員診れましたよ!」


「薬草は足りた?」


リーナが目を逸らした。


「……ギリギリです。明日の分は、あります。たぶん」


(たぶん、が怖い)


茶を飲んだ。薄い。いつもの。


「リーナ」


「はい」


「今日の患者で、前にも来た人いた?」


「えっと……あ、裏通りのカイルさん。先週も腹痛で来ました。同じ症状で」


「先週、治した?」


「はい! エリカさんに教わった通りに。水分取らせて、腸を休ませて」


「で、一週間で同じ症状」


リーナが首を傾げた。


「治し方が悪かったですか?」


「治し方は合ってる。治ったのも本当だと思う」


「じゃあなんで——」


「それが分からない」


窓の外を見た。暗くなり始めている。


(同じ症状が繰り返す。治療は合っている。なのに再発する。つまり原因が残っている。原因を断たないまま症状だけ消しているから、また同じところに戻る)


(水。さっきの子供も、若い男も、裏通りの井戸の水を飲んでいた。先週のカイルも裏通りだったか?)


「リーナ。先週のカイルさん、どこに住んでるか分かる?」


「えっと、確か南の裏通りの——」


(南の裏通り。今日の二人も裏通り。同じ場所だ)


まだ確信はない。井戸の水が原因だと決めつけるには情報が足りない。他の共通点があるかもしれない。食べ物。生活。仕事。


でも、引っかかる。


「明日、もう少し聞いてみる」


「何をですか?」


「どこに住んでるか。どの井戸を使ってるか」


リーナが不思議そうな顔をしたが、頷いた。


***


翌朝。クラウスの屋敷に向かった。


甘草の分を持っていく。日課になっている。


裏通りを抜けて、目立たない道を選ぶ。この道順もすっかり覚えた。


扉を叩いた。使用人が開けた。


「おはようございます、先生」


「クラウスさんは」


「居間におられます」


居間に入った。クラウスが窓際の椅子に座って本を読んでいた。


(前は寝台にいることが多かったのに。起きて、座って、本を読んでいる。それだけのことが——)


「おはよう」


「おはようございます」


本を閉じた。表情は相変わらず読みにくいが、顔色がいい。一ヶ月前とは別人だ。


脈を取った。安定している。


「どうですか」


「悪くない。昨日は庭に出た」


「フリッツさんは」


「後ろでうるさく付いてきた。傷が治りきってない人間が歩き回る方が問題だと思うんだが」


奥からフリッツの声がした。


「聞こえておりますので、先にそう申し上げておきます」


クラウスが天井を見た。


甘草を煎じた水を渡した。クラウスが一口飲んで、顔をしかめた。


「まだ慣れん」


「慣れるって言いましたよね」


「あんたが嘘をつくとは思わなかった」


「嘘じゃないです。個人差です」


椅子に座った。いつもの位置。窓からの光が明るい。


「診療所の方は」


「忙しくなりました。宮廷行きの話が広まったみたいで」


「そうか。繁盛しているなら良いことだ」


「繁盛っていうか……金のない患者ばかり増えてます」


「金のない患者」


「治療費を取れない。薬草代すら持ち出しになる。リーナがそれを断れないから——私も断れないんですけど」


クラウスが本を置いた。


「この街の南側は職人と日雇いが多い。稼ぎが安定しない」


「詳しいですね」


「三年いれば分かる」


窓の外を見ている。何かを考えている目。


「それと、ひとつ気になってることがあって」


「何だ」


「同じ症状の患者が繰り返し来るんです。治してるのに、一週間で戻ってくる。腹を壊して、治って、また壊す」


「場所は」


「南の裏通りです」


クラウスが黙った。一瞬。


「裏通りか」


それだけだった。それ以上は聞かなかった。表情も変わらなかった。


ただ、窓の外を見る目が、さっきと少し違った。


(何か知ってるのか。この人)


聞こうかと思った。でもこの人は聞いても答えない時がある。自分から言うまで待つしかない。それはもう分かっている。


「時間を取らせました。また明日来ます」


「ああ」


立ち上がりかけた。


「エリカ」


「はい」


「……裏通りの井戸は、二つあるはずだ。東と西で」


それだけ言って、本を開いた。


(二つ? 患者はどっちの井戸を使ってる?)


聞き返そうとした。クラウスはもう本に目を落としている。会話は終わっている。


「……ありがとうございます」


屋敷を出た。


***


診療所に戻った。午前の患者は四人。全員、簡単な症例。リーナが捌いていた。


昼前に、見覚えのある顔が来た。


三十がらみの男。痩せている。目の下に隈。


リーナが「あ」と小さく声を出した。


「カイルさん。また——」


「すまねえ。また腹がよ」


三度目だった。先週リーナが治した。先々週も来ていたらしい。今日また同じ腹痛で来ている。


「座って」


腹に触れた。先週と同じだ。腸の張り。


注視した。


【腸管——粘膜に軽度の炎症】


(昨日の若い男と同じ。これはもう偶然ではなさそう)


「カイルさん」


「はい」


「先週、治った後の一週間で何を食べました?」


「いつもの。芋と、安い麦のパンと」


「水は」


「井戸の。いつもの」


「どの井戸?」


「裏通りの東の方。近いから」


(東。昨日の二人はどっちだ——聞いてなかった。聞いておくべきだった)


「カイルさん。今日から一週間、その井戸の水を使わないでもらえますか」


「はあ? じゃあどこの水飲めってんだ」


「西の井戸を使ってください。遠いのは分かるんですけど」


「歩いて倍かかるぞ。仕事前にそんな——」


「一週間だけ。それで腹を壊さなかったら、原因が分かります」


カイルが渋い顔をした。


「原因って。水が悪いってのか」


「まだ分からない。だから確かめたいんです」


「……先生に言われちゃしょうがねえな」


塩水を飲ませて腸を落ち着かせた。帰り際、もう一度「西の井戸」と念を押した。


リーナがこちらを見ていた。


「エリカさん。水が原因かもって、思ってるんですか」


「思ってる。まだ確信はない」


「でも井戸の水って、みんな普通に飲んでますよね。ずっと」


「うん。だから厄介なの」


リーナが黙った。何かを考えている顔。


「私、先々週にカイルさんを治した時、『また来たらどうしよう』って思ったんです。治し方が間違ってたのかなって」


「間違ってない。治し方は合ってる」


「でも治ってないですよね。結局」


「症状は治ってる。原因が残ってるだけ」


「それって、治ってるって言うんですか」


返す言葉に詰まった。


(この子、いいところを突く)


「……言わないね。治ったとは」


リーナが少しだけ、真剣な顔になった。


***


午後。


患者の合間に、リーナに聞いた。


「ベッカー先生って、この辺りの地理に詳しかった?」


「めちゃくちゃ詳しかったです。どの通りに誰が住んでて、どこの井戸が深くて、どの季節にどの地区で病気が増えるか、全部頭に入ってました」


「三十年分の蓄積か」


「はい。私がどこの患者さんかって言うだけで、『ああ、あの辺りはこの時期に胃腸を壊す人間が多い』って。理由は言わないんですけど、当たるんです」


(経験則として知っている。原因は分からなくても、パターンは掴んでいる)


「会いに行きたい」


リーナの手が止まった。


「……先生、人に会うの嫌がるんです」


「知ってる。リーナから聞いてた」


「何回か行ったんです。エリカさんが来たことも伝えて。でも『いい』って」


「体が辛いから?」


リーナが頷いた。


「腰が。ずっと痛いみたいで。寝返りも辛そうで。私が行っても、長く話せなくて」


「……それも含めて、行きたい」


「診るんですか?」


「教えてほしいことがあるの。この街のことを。三十年診てきた人にしか分からないことが」


リーナが少し黙った。


「……先生に言ってみます。エリカさんが話を聞きたいって。それなら、もしかしたら」


「お願い」


リーナが小さく頷いた。


***


夜。


記録帳を開いた。今日までの患者を書き出す。


症状。住所。使っている井戸。食事。仕事。


裏通りの患者が目立つ。南側。腸の症状が多い。繰り返している。


(まだ足りない。もっとデータが要る。誰がどの井戸を使っているか、全部聞かないと線は引けない)


ペンを置いた。


前世なら水質検査で終わる話だ。採水して、培養して、菌を同定して、行政に報告。それだけ。


この世界にはそのどれもない。


(でもパターンは見える。東の井戸を使っている患者に腸の症状が集中しているなら、それだけで十分な根拠になる。菌が見えなくても、統計は嘘をつかない)


カイルが一週間、西の井戸を使って腹を壊さなかったら。


それが、最初の一手になる。


窓の外。暗い通り。この先に裏通りがある。


(治すだけじゃ足りない。分かってる。でも今の私にできることは——)


扉が開いた。リーナだった。


「エリカさん」


「どうだった」


「先生、『話を聞きたいなら来い』って」


(……話を聞きたいなら、ね)


「明日の午後、行きます」


リーナが笑った。安心したような、困ったような、複雑な顔だった。


「先生、怖い人じゃないんです。ただ——」


「分かってる。大丈夫」


記録帳を閉じた。


明日はベッカー先生のところへ行く。この街の三十年分を、聞きに。


診て欲しくはなさそうだけど、医者に「診るな」は、難しい注文ね。

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