10話:同じ水
馬車を降りた。三日ぶりのブライテン。
門をくぐって通りを歩く。市場は昼を過ぎて落ち着いている。荷車の男が手を上げた。覚えがある。先週、肩を診た男だ。
「先生、肩もう痛くねえ!」
「無理しないでくださいね」
通りを曲がった。診療所が見える。
扉の前に人がいた。
三人。座り込んでいる。一人は子供を抱えた女。一人は杖をついた老人。もう一人は若い男で、顔色が悪い。
(何だ、これ)
扉が開いた。中からリーナが出てきた。額に汗。髪がほどけかけている。
「エリカさん! おかえりなさい!」
「……何人待ってるの」
「えっと、この方たちと、中に二人と、さっき帰った人が三人で——」
「今日だけ?」
「今日だけです」
リーナの声は明るい。明るいが、目の下に隈がある。
「昨日は?」
「七人!」
「一昨日」
「六人です!」
(三日前まで、一日に三人来ればいい方だったのに)
「なんで急に」
リーナが少し困った顔をした。
「エリカさんが宮廷に呼ばれたって話が広まっちゃって。追放された先生が呼び戻されたって。それで……」
(そういうことか)
「腕のいい先生がいるぞ、って。お金なくても診てくれるって」
「後半が余計ね」
「でも断れないじゃないですか! 来てるんだから!」
(それはそうだ)
鞄を置いた。白衣はない。エプロンを借りた。
「次の人、入れて」
***
老人。七十がらみ。咳が出る。
胸に耳を当てた。痰が絡んでいる。肺の音は悪くない。
「いつからですか」
「もう二月になるかのう」
「二ヶ月。薬は飲んでます?」
「グスタフ先生に出してもらったが、効かんでな。高いばかりで」
(グスタフの患者か。ここにまで流れてくるのは、よほどだ)
背中を叩いて痰を出させた。薬草を煎じて吸入させる。十分ほどで楽になった顔をした。
「先生、いくらじゃ」
「煎じた薬草の分だけ。二銅貨」
老人が財布を出した。中身を覗いた。銅貨が数枚。
「……二銅貨」
ぴったり出して、大事そうに財布を閉じた。
(あの財布の中身が全部だろうな)
「一週間後にまた来てください」
「ああ。ありがとうよ、先生」
***
子供を抱えた女。子供は三つくらい。
「お腹が痛いって言うんです。昨日の夜から」
子供の腹に触れた。柔らかい。右下を押しても痛がらない。
「何を食べましたか」
「煮た芋と、干した魚を少し」
「水は」
「井戸のを」
「どの井戸ですか」
「裏通りの。みんな使ってる——」
普通の問診だ。特別な理由はない。水を聞くのは基本。
腹を温めて、腸を落ち着かせる薬草を少量煎じた。飲ませたら三十分で泣き止んだ。
「先生——お代は」
「一銅貨」
女が頭を下げた。何度も。
***
若い男。二十前後。顔色が悪い。
「下痢が止まらなくて。三日くらい」
「食べたものは」
「いつもと変わんねえんだけど」
「水は」
「井戸の——裏通りの」
腹に手を当てた。腸が張っている。ただし炎症が強いわけではない。
注視した。
【腸管——粘膜に軽度の炎症】
(昨日の子供と同じだ。全く同じ所見。——偶然か?)
水分を取らせた。塩と砂糖を溶かした水。少しずつ。
「三日間、煮た水だけ飲んで。井戸の水はそのまま飲まないで」
「煮た水? なんでだ?」
「……いいから。煮てから冷まして飲んで」
男の顔が怪訝だった。当然だ。理由を説明するには細菌の概念がいる。ない。
「火を通せば安全ですから」
「安全って。毒でも入ってんのか」
「毒じゃないけど、火を通した方がいい」
男は首を傾げながら帰った。言われた通りにするかは分からない。
***
夕方。最後の患者を送り出した。
机に突っ伏した。
リーナが茶を持ってきた。
「お疲れ様です。今日は合計八人でした」
「多すぎる」
「でも全員診れましたよ!」
「薬草は足りた?」
リーナが目を逸らした。
「……ギリギリです。明日の分は、あります。たぶん」
(たぶん、が怖い)
茶を飲んだ。薄い。いつもの。
「リーナ」
「はい」
「今日の患者で、前にも来た人いた?」
「えっと……あ、裏通りのカイルさん。先週も腹痛で来ました。同じ症状で」
「先週、治した?」
「はい! エリカさんに教わった通りに。水分取らせて、腸を休ませて」
「で、一週間で同じ症状」
リーナが首を傾げた。
「治し方が悪かったですか?」
「治し方は合ってる。治ったのも本当だと思う」
「じゃあなんで——」
「それが分からない」
窓の外を見た。暗くなり始めている。
(同じ症状が繰り返す。治療は合っている。なのに再発する。つまり原因が残っている。原因を断たないまま症状だけ消しているから、また同じところに戻る)
(水。さっきの子供も、若い男も、裏通りの井戸の水を飲んでいた。先週のカイルも裏通りだったか?)
「リーナ。先週のカイルさん、どこに住んでるか分かる?」
「えっと、確か南の裏通りの——」
(南の裏通り。今日の二人も裏通り。同じ場所だ)
まだ確信はない。井戸の水が原因だと決めつけるには情報が足りない。他の共通点があるかもしれない。食べ物。生活。仕事。
でも、引っかかる。
「明日、もう少し聞いてみる」
「何をですか?」
「どこに住んでるか。どの井戸を使ってるか」
リーナが不思議そうな顔をしたが、頷いた。
***
翌朝。クラウスの屋敷に向かった。
甘草の分を持っていく。日課になっている。
裏通りを抜けて、目立たない道を選ぶ。この道順もすっかり覚えた。
扉を叩いた。使用人が開けた。
「おはようございます、先生」
「クラウスさんは」
「居間におられます」
居間に入った。クラウスが窓際の椅子に座って本を読んでいた。
(前は寝台にいることが多かったのに。起きて、座って、本を読んでいる。それだけのことが——)
「おはよう」
「おはようございます」
本を閉じた。表情は相変わらず読みにくいが、顔色がいい。一ヶ月前とは別人だ。
脈を取った。安定している。
「どうですか」
「悪くない。昨日は庭に出た」
「フリッツさんは」
「後ろでうるさく付いてきた。傷が治りきってない人間が歩き回る方が問題だと思うんだが」
奥からフリッツの声がした。
「聞こえておりますので、先にそう申し上げておきます」
クラウスが天井を見た。
甘草を煎じた水を渡した。クラウスが一口飲んで、顔をしかめた。
「まだ慣れん」
「慣れるって言いましたよね」
「あんたが嘘をつくとは思わなかった」
「嘘じゃないです。個人差です」
椅子に座った。いつもの位置。窓からの光が明るい。
「診療所の方は」
「忙しくなりました。宮廷行きの話が広まったみたいで」
「そうか。繁盛しているなら良いことだ」
「繁盛っていうか……金のない患者ばかり増えてます」
「金のない患者」
「治療費を取れない。薬草代すら持ち出しになる。リーナがそれを断れないから——私も断れないんですけど」
クラウスが本を置いた。
「この街の南側は職人と日雇いが多い。稼ぎが安定しない」
「詳しいですね」
「三年いれば分かる」
窓の外を見ている。何かを考えている目。
「それと、ひとつ気になってることがあって」
「何だ」
「同じ症状の患者が繰り返し来るんです。治してるのに、一週間で戻ってくる。腹を壊して、治って、また壊す」
「場所は」
「南の裏通りです」
クラウスが黙った。一瞬。
「裏通りか」
それだけだった。それ以上は聞かなかった。表情も変わらなかった。
ただ、窓の外を見る目が、さっきと少し違った。
(何か知ってるのか。この人)
聞こうかと思った。でもこの人は聞いても答えない時がある。自分から言うまで待つしかない。それはもう分かっている。
「時間を取らせました。また明日来ます」
「ああ」
立ち上がりかけた。
「エリカ」
「はい」
「……裏通りの井戸は、二つあるはずだ。東と西で」
それだけ言って、本を開いた。
(二つ? 患者はどっちの井戸を使ってる?)
聞き返そうとした。クラウスはもう本に目を落としている。会話は終わっている。
「……ありがとうございます」
屋敷を出た。
***
診療所に戻った。午前の患者は四人。全員、簡単な症例。リーナが捌いていた。
昼前に、見覚えのある顔が来た。
三十がらみの男。痩せている。目の下に隈。
リーナが「あ」と小さく声を出した。
「カイルさん。また——」
「すまねえ。また腹がよ」
三度目だった。先週リーナが治した。先々週も来ていたらしい。今日また同じ腹痛で来ている。
「座って」
腹に触れた。先週と同じだ。腸の張り。
注視した。
【腸管——粘膜に軽度の炎症】
(昨日の若い男と同じ。これはもう偶然ではなさそう)
「カイルさん」
「はい」
「先週、治った後の一週間で何を食べました?」
「いつもの。芋と、安い麦のパンと」
「水は」
「井戸の。いつもの」
「どの井戸?」
「裏通りの東の方。近いから」
(東。昨日の二人はどっちだ——聞いてなかった。聞いておくべきだった)
「カイルさん。今日から一週間、その井戸の水を使わないでもらえますか」
「はあ? じゃあどこの水飲めってんだ」
「西の井戸を使ってください。遠いのは分かるんですけど」
「歩いて倍かかるぞ。仕事前にそんな——」
「一週間だけ。それで腹を壊さなかったら、原因が分かります」
カイルが渋い顔をした。
「原因って。水が悪いってのか」
「まだ分からない。だから確かめたいんです」
「……先生に言われちゃしょうがねえな」
塩水を飲ませて腸を落ち着かせた。帰り際、もう一度「西の井戸」と念を押した。
リーナがこちらを見ていた。
「エリカさん。水が原因かもって、思ってるんですか」
「思ってる。まだ確信はない」
「でも井戸の水って、みんな普通に飲んでますよね。ずっと」
「うん。だから厄介なの」
リーナが黙った。何かを考えている顔。
「私、先々週にカイルさんを治した時、『また来たらどうしよう』って思ったんです。治し方が間違ってたのかなって」
「間違ってない。治し方は合ってる」
「でも治ってないですよね。結局」
「症状は治ってる。原因が残ってるだけ」
「それって、治ってるって言うんですか」
返す言葉に詰まった。
(この子、いいところを突く)
「……言わないね。治ったとは」
リーナが少しだけ、真剣な顔になった。
***
午後。
患者の合間に、リーナに聞いた。
「ベッカー先生って、この辺りの地理に詳しかった?」
「めちゃくちゃ詳しかったです。どの通りに誰が住んでて、どこの井戸が深くて、どの季節にどの地区で病気が増えるか、全部頭に入ってました」
「三十年分の蓄積か」
「はい。私がどこの患者さんかって言うだけで、『ああ、あの辺りはこの時期に胃腸を壊す人間が多い』って。理由は言わないんですけど、当たるんです」
(経験則として知っている。原因は分からなくても、パターンは掴んでいる)
「会いに行きたい」
リーナの手が止まった。
「……先生、人に会うの嫌がるんです」
「知ってる。リーナから聞いてた」
「何回か行ったんです。エリカさんが来たことも伝えて。でも『いい』って」
「体が辛いから?」
リーナが頷いた。
「腰が。ずっと痛いみたいで。寝返りも辛そうで。私が行っても、長く話せなくて」
「……それも含めて、行きたい」
「診るんですか?」
「教えてほしいことがあるの。この街のことを。三十年診てきた人にしか分からないことが」
リーナが少し黙った。
「……先生に言ってみます。エリカさんが話を聞きたいって。それなら、もしかしたら」
「お願い」
リーナが小さく頷いた。
***
夜。
記録帳を開いた。今日までの患者を書き出す。
症状。住所。使っている井戸。食事。仕事。
裏通りの患者が目立つ。南側。腸の症状が多い。繰り返している。
(まだ足りない。もっとデータが要る。誰がどの井戸を使っているか、全部聞かないと線は引けない)
ペンを置いた。
前世なら水質検査で終わる話だ。採水して、培養して、菌を同定して、行政に報告。それだけ。
この世界にはそのどれもない。
(でもパターンは見える。東の井戸を使っている患者に腸の症状が集中しているなら、それだけで十分な根拠になる。菌が見えなくても、統計は嘘をつかない)
カイルが一週間、西の井戸を使って腹を壊さなかったら。
それが、最初の一手になる。
窓の外。暗い通り。この先に裏通りがある。
(治すだけじゃ足りない。分かってる。でも今の私にできることは——)
扉が開いた。リーナだった。
「エリカさん」
「どうだった」
「先生、『話を聞きたいなら来い』って」
(……話を聞きたいなら、ね)
「明日の午後、行きます」
リーナが笑った。安心したような、困ったような、複雑な顔だった。
「先生、怖い人じゃないんです。ただ——」
「分かってる。大丈夫」
記録帳を閉じた。
明日はベッカー先生のところへ行く。この街の三十年分を、聞きに。
診て欲しくはなさそうだけど、医者に「診るな」は、難しい注文ね。
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