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【読切版/完結】追放された宮廷女医師は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito


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11/21

11話:三十年分

午前の患者を片付けて、午後。


「リーナ、行ってくるから」


「あ、私も——」


「留守番。午後にも来るかもしれないでしょう」


「……はい」


リーナが鞄を見た。


「それ、持っていくんですか」


「荷物だから」


「鞄の中に道具入ってますよね」


「医者だから」


リーナが何か言いたそうな顔をした。言わなかった。代わりに「お茶菓子持ってってください」と焼き菓子を二つ包んだ。


***


診療所の裏手。路地を抜けて、石段を上がった先。


小さな家だった。平屋。壁が古い。窓が少ない。


庭がある。


手前に雑草が伸びている。奥の方に——畝が見えた。崩れかけているが、等間隔に並んでいる。何か植わっていた痕。枯れたものと、まだ緑を残しているものが混在している。


(薬草畑だ。半年放置されてこの状態なら、相当手入れしていたんだな)


扉を叩いた。返事がない。もう一度。


「……開いてる」


低い声。掠れている。


入った。暗い。窓が小さいせいだ。台所と居間が一体になっている。棚に本が詰まっている。薬瓶もある。机の上に記録帳が何冊も積まれている。


奥の寝台に男がいた。


痩せている。六十がらみ。白髪。頬が削げている。仰向けに寝たまま、首だけでこちらを向いた。


「エリカか」


「はい。お邪魔します」


「リーナから聞いている。三十年分が聞きたいと」


「はい」


「……座れ。そこの椅子」


椅子を引いた。寝台の横。近い。


目が慣れてきた。ベッカーの顔が見える。頬が痩けて、目の周りが暗いが、目そのものは濁っていなかった。


焼き菓子を置いた。ベッカーが一瞬そちらを見た。


「リーナか」


「はい」


「……あの子は余計なことばかりする」


口調は素っ気ない。だが焼き菓子から目を戻す時、ほんの少しだけ表情が緩んだ。見逃すところだった。


「先生。患者が増えています」


「聞いてる。壁越しにリーナの声が聞こえる。朝からばたばた走り回ってるだろう」


「そこまで聞こえるんですか」


「静かな家だからな。あの子の声だけは嫌でも届く」


(確かに)


「診療所を始めた頃もああだったか」


寝台に向けた独り言のような問い。答えを求めていない声。


「金のない患者が増えて、薬草代が持ち出しになっています。この先もっと増えたら、回りません」


「そうだろうな」


「ベッカー先生は、三十年間どうやって回してたんですか」


ベッカーが天井を見た。


「金がない人間が来るのは当たり前だ。この街はそういう街だ。南側の職人、日雇い、行商人。まともに銅貨を出せる人間の方が少ない」


「それでどうやって」


「金の代わりに出せるものを出してもらう」


「物々交換」


「大げさなもんじゃない。薪を持ってくる者。魚を置いていく者。屋根を直してくれた男もいた。診療所の窓枠、あれはガラス職人の患者が入れたものだ」


(あの窓枠。リーナが「ベッカー先生の頃からあるんです」と言っていた)


「誰が何を持っているか、何ができるか。それを知っておく。診察の時に聞くんだ。『何の仕事をしてる』は問診の一部だろう」


「はい」


「仕事を聞けば生活が分かる。生活が分かれば病気の原因が見える。そしてその人間が何を出せるかも分かる。全部繋がっている」


(問診の延長に経済を組み込んでいる。三十年の仕組みだ)


「ただ、これには時間がかかる。信用がないうちは誰も物を持ってこない。あんたはまだこの街に来て日が浅い」


「はい」


「リーナが繋いでくれる。あの子はこの街で育った。顔が広い。……広すぎて困ることもあるが」


ベッカーの声に力がない。だが途切れない。話す内容を選んでいる。無駄な言葉を使わない。


「もうひとつ。全員に同じ手間をかけるな」


「仕分け、ですか」


「来た人間の顔を見て、声を聞いて、歩き方を見る。それで十のうち六は分かる。寝てれば治る。水を飲め。暖かくしろ。薬を出すのは残りの四。手を動かすのは一か二だ」


「リーナにはそれが——」


「できん。あの子は全員に全力でぶつかる。心配するな、そのうちできるようになる。あんたが横で見せてやればいい」


(横で見せる、か)


「今はできなくていい。できないうちに無理にやらせると、見落としで人が死ぬ。覚えるまでは、あんたが仕分けて、あの子に回せ」


「……はい」


「あの子の話は終わりだ。聞きたいことは他にもあるんだろう」


(この人、話の切り方が的確だ。要点を過不足なく話して、終わったら次に行く。三十年患者を診てきた人間の会話の仕方だ)


「南の裏通りの患者について聞きたいんです」


「裏通りか」


「腸の症状で繰り返し来る患者が集中してます。治しても一週間で戻る」


ベッカーが少し黙った。


「何年前からだと思いますか」


「ずっとだ。私がこの街に来た頃からある。夏場にひどくなる。雨の後にも増える」


「雨の後」


「秋の長雨の後は特にだ。あの辺り一帯の腹下しが一気に増える。毎年だ」


(雨の後に増える。夏に悪化する。——水だ。ほぼ間違いない。雨で地表の汚れが井戸に流れ込む。気温が上がれば水の中の——いや、この世界の言葉では説明できない)


「原因は分かりますか」


「分からん。だが場所は分かる。南の裏通り。あと、東寄りの長屋街。この二箇所は毎年同じだ」


「東寄りの長屋街にも井戸がありますか」


「ある。古い。もう三十年は使ってるはずだ」


ベッカーがこちらを見た。天井を見ていた目が、初めてまっすぐこちらに向いた。


「あんた、原因に見当がついてるな」


「……まだ確信はないです」


「確信があるかは聞いてない。見当がついてるかと聞いた」


(この人の前では誤魔化せない)


「水を疑っています」


「井戸か」


「はい。東の井戸を使っている患者に症状が集中している可能性がある。今、一人に西の井戸に替えてもらって経過を見ています」


ベッカーが黙った。長い沈黙だった。


「……私は三十年、あの辺りの患者を診てきた。毎年同じ時期に同じ場所で同じ症状が出る。場所と時期は掴んでいた。だが、井戸と結びつけたことはなかった」


「先生の記録帳、見せてもらえますか」


ベッカーの目が机の上に動いた。積まれた記録帳。何冊もある。


「好きにしろ。ただし持ち出すな」


「ありがとうございます」


立ち上がって、机に近づいた。一冊目を開いた。几帳面な字。日付、患者名、住所、症状、処置。住所まで記録しているのはベッカーの習慣だったのだろう。


(これだ。この記録があれば、どの場所にどの症状が集中しているか、年単位で追える)


「時間がかかります。何日か通ってもいいですか」


「来たければ来い」


記録帳を閉じて、椅子に戻った。


ベッカーは寝台に目を戻していた。さっきより疲れている。話が長かった。痛みが表情ににじんでいる。腰だろう。仰向けのまま動かない。動けない。


見えた。見るつもりはなかった。でも見えた。


寝返りの打ち方。片腕で身体を支えようとして、途中で止める。腰から下を動かすのを避けている。左足のつま先がわずかに外を向いている。右は真っ直ぐ。左右差。


(腰椎。椎間板が潰れて神経を圧迫している。たぶん左寄り。足に痺れが出ているはず)


口を開きかけた。


「見てるな」


ベッカーの声だった。天井を向いたまま。


「……見えてます」


「知ってる。自分の腰ぐらい分かる。四番と五番の間だろう」


(自分で分かってる。場所まで)


「分かっていて、何もしていないんですか」


「何ができる。腰の骨が潰れたものを、薬で治せるか。切って戻せるか」


「切っては治せません。でも——」


「『でも』の先に何がある」


「動かし方を変えれば、圧迫を減らせます。周りの筋を鍛えて支えを作る。時間はかかります。でも、立てるようにはなる」


ベッカーが黙った。


「今すぐどうこうする話じゃないです。でも、ここに通うなら——記録帳を見に来るついでに、少しずつ」


「ついで、か」


「ついでです」


長い間があった。


「……好きにしろ」


二度目だった。記録帳の時と同じ言葉。だが声の温度が少し違った。


***


家を出た。


庭の畑をもう一度見た。枯れた株の間に、緑の葉が残っている。カモミール。丈夫な種だ。放置されても生き残る。


(この畑、手を入れれば使えるかもしれない。でもそれは——もう少し先の話だ)


診療所に向かって歩いた。


リーナが待っているだろう。「どうでした」と聞くだろう。何から話そうか。


物々交換の話をしよう。明日から、患者に聞いてみよう。「何の仕事をしてますか」はもう聞いている。その先を聞く。「金の代わりに、何か出せるものはありますか」。


言い方が難しい。押しつけがましくなれば患者は来なくなる。


(やってみないと分からないな。……リーナに任せた方がうまくいくかもしれない。あの子の方が、人との距離が近い)


診療所が見えた。扉が開いている。リーナの声がする。患者がいるらしい。


「おかえりなさい! 先生どうでした!」


「いい人だった」


「でしょう!」


「声が大きすぎるとは言ってた」


「えっ。聞こえてるんですか」


「壁越しに」


リーナが口を押さえた。


***


夜。


甘草の根を取り出した。削って、明日の分を量る。


残りを見た。


(あと十日分。——いや、少し節約して、十二日か)


フリッツの交易商からの返事はまだない。ないまま、日が過ぎている。


毎日の診療に追われて、この問題を後回しにしていた。でも甘草は減り続けている。


(見つからなかったら。手に入らなかったら。あの人の身体は——)


削った根を布に包んだ。明日、届けに行く。いつも通りに。


いつも通りに、がいつまで続くかは分からない。


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