11話:三十年分
午前の患者を片付けて、午後。
「リーナ、行ってくるから」
「あ、私も——」
「留守番。午後にも来るかもしれないでしょう」
「……はい」
リーナが鞄を見た。
「それ、持っていくんですか」
「荷物だから」
「鞄の中に道具入ってますよね」
「医者だから」
リーナが何か言いたそうな顔をした。言わなかった。代わりに「お茶菓子持ってってください」と焼き菓子を二つ包んだ。
***
診療所の裏手。路地を抜けて、石段を上がった先。
小さな家だった。平屋。壁が古い。窓が少ない。
庭がある。
手前に雑草が伸びている。奥の方に——畝が見えた。崩れかけているが、等間隔に並んでいる。何か植わっていた痕。枯れたものと、まだ緑を残しているものが混在している。
(薬草畑だ。半年放置されてこの状態なら、相当手入れしていたんだな)
扉を叩いた。返事がない。もう一度。
「……開いてる」
低い声。掠れている。
入った。暗い。窓が小さいせいだ。台所と居間が一体になっている。棚に本が詰まっている。薬瓶もある。机の上に記録帳が何冊も積まれている。
奥の寝台に男がいた。
痩せている。六十がらみ。白髪。頬が削げている。仰向けに寝たまま、首だけでこちらを向いた。
「エリカか」
「はい。お邪魔します」
「リーナから聞いている。三十年分が聞きたいと」
「はい」
「……座れ。そこの椅子」
椅子を引いた。寝台の横。近い。
目が慣れてきた。ベッカーの顔が見える。頬が痩けて、目の周りが暗いが、目そのものは濁っていなかった。
焼き菓子を置いた。ベッカーが一瞬そちらを見た。
「リーナか」
「はい」
「……あの子は余計なことばかりする」
口調は素っ気ない。だが焼き菓子から目を戻す時、ほんの少しだけ表情が緩んだ。見逃すところだった。
「先生。患者が増えています」
「聞いてる。壁越しにリーナの声が聞こえる。朝からばたばた走り回ってるだろう」
「そこまで聞こえるんですか」
「静かな家だからな。あの子の声だけは嫌でも届く」
(確かに)
「診療所を始めた頃もああだったか」
寝台に向けた独り言のような問い。答えを求めていない声。
「金のない患者が増えて、薬草代が持ち出しになっています。この先もっと増えたら、回りません」
「そうだろうな」
「ベッカー先生は、三十年間どうやって回してたんですか」
ベッカーが天井を見た。
「金がない人間が来るのは当たり前だ。この街はそういう街だ。南側の職人、日雇い、行商人。まともに銅貨を出せる人間の方が少ない」
「それでどうやって」
「金の代わりに出せるものを出してもらう」
「物々交換」
「大げさなもんじゃない。薪を持ってくる者。魚を置いていく者。屋根を直してくれた男もいた。診療所の窓枠、あれはガラス職人の患者が入れたものだ」
(あの窓枠。リーナが「ベッカー先生の頃からあるんです」と言っていた)
「誰が何を持っているか、何ができるか。それを知っておく。診察の時に聞くんだ。『何の仕事をしてる』は問診の一部だろう」
「はい」
「仕事を聞けば生活が分かる。生活が分かれば病気の原因が見える。そしてその人間が何を出せるかも分かる。全部繋がっている」
(問診の延長に経済を組み込んでいる。三十年の仕組みだ)
「ただ、これには時間がかかる。信用がないうちは誰も物を持ってこない。あんたはまだこの街に来て日が浅い」
「はい」
「リーナが繋いでくれる。あの子はこの街で育った。顔が広い。……広すぎて困ることもあるが」
ベッカーの声に力がない。だが途切れない。話す内容を選んでいる。無駄な言葉を使わない。
「もうひとつ。全員に同じ手間をかけるな」
「仕分け、ですか」
「来た人間の顔を見て、声を聞いて、歩き方を見る。それで十のうち六は分かる。寝てれば治る。水を飲め。暖かくしろ。薬を出すのは残りの四。手を動かすのは一か二だ」
「リーナにはそれが——」
「できん。あの子は全員に全力でぶつかる。心配するな、そのうちできるようになる。あんたが横で見せてやればいい」
(横で見せる、か)
「今はできなくていい。できないうちに無理にやらせると、見落としで人が死ぬ。覚えるまでは、あんたが仕分けて、あの子に回せ」
「……はい」
「あの子の話は終わりだ。聞きたいことは他にもあるんだろう」
(この人、話の切り方が的確だ。要点を過不足なく話して、終わったら次に行く。三十年患者を診てきた人間の会話の仕方だ)
「南の裏通りの患者について聞きたいんです」
「裏通りか」
「腸の症状で繰り返し来る患者が集中してます。治しても一週間で戻る」
ベッカーが少し黙った。
「何年前からだと思いますか」
「ずっとだ。私がこの街に来た頃からある。夏場にひどくなる。雨の後にも増える」
「雨の後」
「秋の長雨の後は特にだ。あの辺り一帯の腹下しが一気に増える。毎年だ」
(雨の後に増える。夏に悪化する。——水だ。ほぼ間違いない。雨で地表の汚れが井戸に流れ込む。気温が上がれば水の中の——いや、この世界の言葉では説明できない)
「原因は分かりますか」
「分からん。だが場所は分かる。南の裏通り。あと、東寄りの長屋街。この二箇所は毎年同じだ」
「東寄りの長屋街にも井戸がありますか」
「ある。古い。もう三十年は使ってるはずだ」
ベッカーがこちらを見た。天井を見ていた目が、初めてまっすぐこちらに向いた。
「あんた、原因に見当がついてるな」
「……まだ確信はないです」
「確信があるかは聞いてない。見当がついてるかと聞いた」
(この人の前では誤魔化せない)
「水を疑っています」
「井戸か」
「はい。東の井戸を使っている患者に症状が集中している可能性がある。今、一人に西の井戸に替えてもらって経過を見ています」
ベッカーが黙った。長い沈黙だった。
「……私は三十年、あの辺りの患者を診てきた。毎年同じ時期に同じ場所で同じ症状が出る。場所と時期は掴んでいた。だが、井戸と結びつけたことはなかった」
「先生の記録帳、見せてもらえますか」
ベッカーの目が机の上に動いた。積まれた記録帳。何冊もある。
「好きにしろ。ただし持ち出すな」
「ありがとうございます」
立ち上がって、机に近づいた。一冊目を開いた。几帳面な字。日付、患者名、住所、症状、処置。住所まで記録しているのはベッカーの習慣だったのだろう。
(これだ。この記録があれば、どの場所にどの症状が集中しているか、年単位で追える)
「時間がかかります。何日か通ってもいいですか」
「来たければ来い」
記録帳を閉じて、椅子に戻った。
ベッカーは寝台に目を戻していた。さっきより疲れている。話が長かった。痛みが表情ににじんでいる。腰だろう。仰向けのまま動かない。動けない。
見えた。見るつもりはなかった。でも見えた。
寝返りの打ち方。片腕で身体を支えようとして、途中で止める。腰から下を動かすのを避けている。左足のつま先がわずかに外を向いている。右は真っ直ぐ。左右差。
(腰椎。椎間板が潰れて神経を圧迫している。たぶん左寄り。足に痺れが出ているはず)
口を開きかけた。
「見てるな」
ベッカーの声だった。天井を向いたまま。
「……見えてます」
「知ってる。自分の腰ぐらい分かる。四番と五番の間だろう」
(自分で分かってる。場所まで)
「分かっていて、何もしていないんですか」
「何ができる。腰の骨が潰れたものを、薬で治せるか。切って戻せるか」
「切っては治せません。でも——」
「『でも』の先に何がある」
「動かし方を変えれば、圧迫を減らせます。周りの筋を鍛えて支えを作る。時間はかかります。でも、立てるようにはなる」
ベッカーが黙った。
「今すぐどうこうする話じゃないです。でも、ここに通うなら——記録帳を見に来るついでに、少しずつ」
「ついで、か」
「ついでです」
長い間があった。
「……好きにしろ」
二度目だった。記録帳の時と同じ言葉。だが声の温度が少し違った。
***
家を出た。
庭の畑をもう一度見た。枯れた株の間に、緑の葉が残っている。カモミール。丈夫な種だ。放置されても生き残る。
(この畑、手を入れれば使えるかもしれない。でもそれは——もう少し先の話だ)
診療所に向かって歩いた。
リーナが待っているだろう。「どうでした」と聞くだろう。何から話そうか。
物々交換の話をしよう。明日から、患者に聞いてみよう。「何の仕事をしてますか」はもう聞いている。その先を聞く。「金の代わりに、何か出せるものはありますか」。
言い方が難しい。押しつけがましくなれば患者は来なくなる。
(やってみないと分からないな。……リーナに任せた方がうまくいくかもしれない。あの子の方が、人との距離が近い)
診療所が見えた。扉が開いている。リーナの声がする。患者がいるらしい。
「おかえりなさい! 先生どうでした!」
「いい人だった」
「でしょう!」
「声が大きすぎるとは言ってた」
「えっ。聞こえてるんですか」
「壁越しに」
リーナが口を押さえた。
***
夜。
甘草の根を取り出した。削って、明日の分を量る。
残りを見た。
(あと十日分。——いや、少し節約して、十二日か)
フリッツの交易商からの返事はまだない。ないまま、日が過ぎている。
毎日の診療に追われて、この問題を後回しにしていた。でも甘草は減り続けている。
(見つからなかったら。手に入らなかったら。あの人の身体は——)
削った根を布に包んだ。明日、届けに行く。いつも通りに。
いつも通りに、がいつまで続くかは分からない。
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