7話:四度目
——幕間——
答えはもう決まっていた。
あの女が椀を差し出した時には、もう。
炭の水を飲まされた時は意識が朦朧としていた。選ぶ余地がなかった。呪いではなく病だと言われた時は、言葉の意味を受け止めるので精一杯だった。フリッツの腹を切り開いた時は、ただ見ていることしかできなかった。
全部、この女だった。
三度。三度、この女に命を渡している。四度目を拒む理由があるとすれば、それはただの意地だ。
「……量を間違えれば死ぬと、言ったな」
「はい」
「間違えないと」
「間違えません」
「なぜこれが俺に効くと分かる」
「この根は、量を間違えなければ薬になります。あなたの身体に足りないものを補えます」
答えになっていなかった。なぜ知っているか、ではなく、何に効くか、にすり替えている。
この女は嘘をつかない。代わりに、言わないことがある。
椀の中身を見た。茶色い液体。甘い匂い。
あの女の手を見た。
椀を持つ指が真っ直ぐだった。毒かもしれないものを差し出している人間の手ではなかった。薬だと知っている人間の手だった。
「——死んだら化けて出るぞ」
受け取った。口をつけた。まずい。
「……まずいな」
「炭の水よりはましでしょう」
「どっちもどっちだ」
笑いそうになった。こんな場面で。
半分ほど飲んで、腕から力が抜けた。椀を取られた。目が閉じかけている。
「寝ていいです。今夜はそばにいます」
そばにいる。この女は、いつもそう言う。
薄れていく意識の中で、椅子に座るあの女の横顔を目が追っていた。
自然と見てしまう。いつからだ。
この女がいなくなったら困る、と思った。
医者としてではなく。
眠った。
***
三日目。
朝、脈を取った。
(……昨日より、強い?)
わずかに。確信が持てない。
注視した。
【副腎——微弱な反応あり。コルチゾール分泌:痕跡程度】
(動いてる。まだほんのわずかだけど、甘草が効いてる。分解が遅くなった分だけ、身体に残ってる)
量を記録した。この世界の甘草は前世のものより少し濃い。慎重にいく。
「今日の具合は」
「変わらん」
「食欲は」
「ない」
「昨日は粥を三口でしたけど」
「……四口ぐらいなら」
「増えてるじゃないですか」
「誤差だ」
注視しながら、量を少しだけ増やした。
【副腎——反応に変化なし。増量の余地あり】
(もう少しいける)
***
この屋敷に寝泊まりして三日。見えるものが増えた。
使用人の振る舞い。フリッツの言葉遣い。クラウスの所作。食器の質。窓の位置。外から見た時に人の出入りが分かりにくい造り。紋章がないのは飾らないのではなく、隠しているのだ。
フリッツが声を落として「殿」と呼ぶのは何度も聞いている。
(聞くつもりはない。向こうから言うまで)
知ったところで、やることは変わらない。患者は患者だ。
***
七日目。
クラウスが自分で起き上がった。
「おはようございます」
「……ああ」
「自分で起きましたね」
「起きただけだ」
「昨日まで手伝ってましたけど」
注視した。
【副腎——コルチゾール分泌:低値だが安定。末梢血流改善】
(安定してきた。この量でいい)
「……なあ」
「はい」
「この薬は、いつまで飲む」
「ずっと、です」
クラウスがこちらを見た。
「あなたの身体の中で止まっている機能は、おそらく元には戻りません。この薬で補い続けます」
「一生か」
「はい」
クラウスが窓の外を見た。
「一生飲むのか。あのまずい水を」
「慣れます」
「慣れるのか」
「炭の水よりましだって言ってたでしょう」
「あれを基準にするな」
クラウスの手は、震えていなかった。
***
フリッツが目を覚ました。
傷口の経過を確認している時だった。まぶたが動いて、目が開いた。天井を見ていた。
「……殿は」
第一声がそれだった。腹に包帯が巻かれていることより、傍にいるのが誰かより先に。
「元気ですよ。隣の部屋にいます」
「……ご無事ですか」
「あなたの方が刺されてたんですけどね」
フリッツの目が潤んだ。堪えている。口元が歪んでいる。
クラウスが入ってきた。自分の足で。
フリッツの目が見開かれた。
顔色を見ている。三年間、蒼白の主人を見てきた目。今、クラウスの顔にはわずかに色が戻っている。
「殿——お顔が——」
「毒を飲まされた」
「毒……!?」
「薬だ。効いてる。……らしい」
「らしいじゃなくて効いてます」
フリッツがエリカを見た。クラウスを見た。もう一度エリカを見た。
両手で顔を覆った。声が漏れた。
「——申し訳ございません。私がそばにおれぬ間に——」
「泣くな。腹に響く」
「申し訳——」
「泣くなと言っている」
クラウスがフリッツの寝台の横に座った。何も言わず、そこにいた。
しばらくして、フリッツが落ち着いた。目はまだ赤い。
「先生。その薬というのは」
「甘草という根です。この国では毒草扱いですが、量を間違えなければ薬になる。殿……クラウスさんの身体に足りないものを補えます」
「それを、ずっと」
「はい。ただ——今手元にある分では、長くは持ちません。流通していないので、継続的な入手先がまだ見つかっていません」
フリッツの目が変わった。泣いていた目ではなくなっていた。
「他国であれば、扱いが違う可能性は」
「あると思います。もともと薬草屋にあった分も、他国の商人から仕入れたものでしたから」
「心当たりがございます。北部の交易商に、他国の薬草を扱う者が何人か。私が動けるようになり次第——」
「まず傷を塞いでからにしてください」
「……承知いたしました」
クラウスが口を開いた。
「フリッツ。お前は寝てろ。こちらで当たれる伝手がないか、俺の方で確かめる」
「殿が直接お動きになることは——」
「書を出すだけだ。身体は動かさん」
フリッツがこちらを見た。止めてくれ、という目だった。
「書を出すくらいなら問題ありません」
フリッツが諦めた顔をした。
***
クラウスが出ていった。
フリッツがこちらを向いた。
「先生」
「はい」
「主の顔色が——あんなに色のあるお顔は、三年見ておりません」
「まだ始まったばかりです」
「腹を切っていただいたことも。この命も。殿のことも。……すべて」
深く頭を下げようとした。腹に力が入って、顔をしかめた。
「動かないでって言ったでしょう」
「……申し訳ございません」
「お礼は傷が塞がってからにしてください」
フリッツが笑った。泣きながら。
***
診療所に戻った。
「おかえりなさい!」
「ごめんね。長く空けた」
「大丈夫です! 包帯の替え方も覚えましたし、薬草の煎じ方もメモ見ながら——」
棚を見た。薬草の並び順。
「リーナ」
「はい」
「これ、順番違うけど」
リーナが固まった。
「…………バレました?」
「見れば分かる。間違えたでしょう」
「……一回だけ。煎じる順番間違えて、作り直しました。足りなくなって、一人帰ってもらいました」
「他には」
「判断できない患者さんが二人いて、翌日来てくださいって」
「それでいい。分からないまま出す方がずっと悪い」
リーナが目をぱちぱちさせた。
「……怒らないんですか」
「怒らない。正しい判断だよ」
「……えへへ」
茶を飲んだ。薄い。いつもの茶。
扉が叩かれた。穏やかに。
リーナが開けた。
旅装の男が立っていた。見たことのない顔。
「失礼いたします。宮廷医師エリカ殿は、こちらにおいでと伺ったのですが」
宮廷医師。その呼び方は、もう使われていないはずだ。
「元、ですけど」
男が書状を差し出した。封蝋。紋章。
エストール侯爵家。
封を切った。読んだ。
「……リーナ。しばらく診療所、任せていい?」
「え——また? どこ行くんですか?」
手紙を畳んだ。
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