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【完結】追放された宮廷女医師は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito


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6話:助けます

屋敷に着いた時、玄関の床に血が点々と続いていた。


居間に運び込まれていた。寝台の上にフリッツ。白いシャツが左腹部から赤黒く染まっている。顔面蒼白。呼吸が浅い。


クラウスが傍に立っていた。顔から表情が消えている。


使用人が二人、布を押し当てている。血が止まらない。布が赤くなるたびに取り替えている。


「どけて」


使用人を下がらせた。布をめくった。


左腹部。刺創。一箇所。幅は指二本分ほど。深い。


注視した。


【腹腔内——脾臓に裂傷。出血継続中】

【腸管——損傷なし】


(脾臓だ。血の塊みたいな臓器。出血が多い。このまま何もしなければ失血で死ぬ)


脈を取った。速い。弱い。身体が血を失っている。時間がない。


「リーナ、蒸留酒と布は」


「あります!」


「机をひとつ空けて。一番大きいやつ。明かりを集めて。蝋燭でいい、とにかく数を」


使用人が動いた。大きな机が運ばれてくる。蝋燭が並べられた。


鞄からメスを出した。鉗子。針と糸。蒸留酒に浸す。


「フリッツさんを机に乗せて。仰向けに」


フリッツが運ばれた。意識はない。


傷口の周囲に蒸留酒をかけた。


「腹を切ります」


部屋が凍った。


使用人の一人が前に出た。


「何を——正気ですか! 腹を切るなど——」


もう一人が続いた。


「フリッツ様を殺す気か! グスタフ先生を呼べ!」


「グスタフ先生では助けられません。この出血は外からは止められない」


「だからって——」


「エリカ」


クラウスの声だった。静かだった。


「腹を切れば、助かるのか」


目を見た。


「助けます」


クラウスが使用人を見た。


「下がれ」


「しかし——」


「下がれと言っている。この医者に任せる」


使用人が下がった。まだ信じていない顔だったが、クラウスの声には逆らえなかった。


メスを持った。


「リーナ、ここに立って。私が手を出したら、器具を渡して。まず鉗子を手に持っておいて」


「は——はい」


傷口から刃を入れた。切り広げる。腹腔が開いた。


血だった。暗い赤が溢れてくる。


「布。吸わせて」


リーナに手を出した。


返ってこなかった。


振り向いた。リーナが立っていた。鉗子を握ったまま、動かない。目が開いているのに何も見ていない。顔が白い。手が震えている。


(ああ——そうだよね)


知識として知っていることと、目の前で人間の腹が開くことは違う。


「リーナ」


「だ、大丈夫です、私——」


声が震えていた。唇に色がない。膝ががくがくしている。身体が全部「大丈夫じゃない」と言っている。


「下がって」


「でも——」


「今のあなたの手は使えない。下がりなさい」


きつい声が出た。自分でも分かった。


リーナが後ずさった。壁際まで下がって、そこにしゃがみ込んだ。


(——前世の、最初のオペ。私もああだった。指導医に怒鳴られて、器具を握ったまま泣いた。あれと同じだ)


でも今は、怒鳴ってくれる指導医はいない。


一人でやる。


左手で腹腔内の血を布で拭った。視界を確保する。


注視した。


【脾臓下極——裂傷。長さ約三寸。出血源特定】


(見えた。ここだ)


右手のメスを置いた。鉗子を自分で取った。出血している血管を挟む。血が止まる。


針を持った。脾臓の裂傷を縫う。


一針。二針。手がぶれない。前世で何百回とやった動き。身体が覚えている。


三針目で、ほぼ止まった。


腹腔に溜まった血を布で丁寧に吸い取っていく。新しい出血がないことを確認する。


【腹腔内——出血停止。他臓器損傷なし】


(大丈夫だ)


腹壁を縫い始めた。層ごとに。筋膜、皮下、皮膚。蒸留酒をかけて、清潔な布で覆った。


最後の糸を切った時、手が重かった。


フリッツの脈を取った。まだ弱い。だが速さが少し落ち着いている。出血が止まった分、身体が持ち直し始めている。


「……終わりました」


部屋が静かだった。


使用人たちが、何を見たか分からないという顔で立っていた。


クラウスは椅子に座っていた。いつ座ったのか分からない。組んだ手の上に顎を乗せて、こちらを見ていた。表情が読めなかった。


***


フリッツを寝台に戻した。腹帯を巻いて、姿勢を固定した。


「水分を少しずつ。目が覚めても動かさないで。傷口が開きます」


使用人に指示を出した。


壁際を見た。リーナがまだしゃがんでいた。膝を抱えている。


近づいて、隣にしゃがんだ。


「リーナ」


顔を上げた。目が赤い。泣いていた。


「すみません、私——使い物にならなくて——」


「当たり前でしょう。あんなの見たことないんだから」


「でも、エリカさんが一人で——」


「私も最初はそうだったよ」


リーナが目を丸くした。


「人の腹を初めて見た時、手が動かなくなって、ずっと泣いてた。器具を握ったまま」


「エリカさんが……?」


「立ってるだけで精一杯だった。だから、あなたは正常」


リーナの肩が少し下がった。


「ただし——」


「はい」


「次は動いてもらう。今日見たことを忘れないで。手の動き、順番、どこを切って何を縫ったか。覚えてる限りでいい」


「……覚えてます。全部見てました」


「見てたの。固まりながら」


「はい。……怖かったけど、目は離せなくて」


(この子は——大丈夫だ)


「上出来。じゃあ明日、私が何をやったか説明する。全部」


「はい!」


声に力が戻っていた。


***


リーナを先に帰した。


フリッツの寝台の脇に座った。呼吸は安定している。脈も少しずつ回復している。峠は越えた。


クラウスが入ってきた。外套を脱いでいた。痩せた身体のまま、寝台の傍に立った。


フリッツの顔を見ていた。


「……十五の時からそばにいる」


独り言のようだった。こちらに向けているのかも分からない。


「王宮の誰も寄りつかなくなった後も、こいつだけが残った」


「目を覚ましますよ。身体は持ち直してます」


「ああ。……あんたが来なければ、死んでいた」


「たまたま近くにいただけです」


「たまたまが多いな、あんたは」


こちらを見た。さっきの読めない顔ではなかった。もっと単純な——ただの、疲れた顔だった。


「礼を言う。——ありがとう」


「いいです。寝てください。あなたも限界でしょう」


「俺は——」


立っていた。


立っていたはずだった。


声の途中で、足が消えた。膝が折れた。身体が傾いた。


「クラウス——!」


名前を呼んでいた。受け止める前に床に崩れた。支えた時にはもう、手の中でぐったりしていた。


脈。速い。弱い。さっきのフリッツと同じだ——いや、違う。これは出血じゃない。


副腎だ。


数日間のストレス。フリッツが刺された報せ。手術の間ずっと立っていた緊張。副腎がとっくに限界を超えていたのに、気力だけで保たせていた。


それが、今——。


「塩水。誰か、塩水を——」


使用人が走った。


抱えた身体が軽かった。


クラウスの目が薄く開いていた。焦点が合っていない。意識が沈みかけている。


塩水が来た。飲ませた。ほとんどこぼれた。


(足りない。これじゃ足りない)


鞄が目に入った。今朝入れたまま。布に包まれた茶色い根。


甘草。毒と呼ばれているもの。


手に取った。


少量を削って、塩水に溶かした。


クラウスの顔の前に持っていった。


「クラウス。聞こえますか」


「…………」


「これは毒草と呼ばれています。でも薬になる」


目が動いた。こちらを見ている。見えているかは分からない。


「ーー私を、信じられますか?」

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