3話:殿と呼んだ
ブライテンに来て十日が経った。
診療所には毎日、誰かしらが来た。
咳が止まらない老婆。胸に耳を当てれば痰が絡んでいるのが分かる。背中を叩いて痰を出させ、薬草の蒸気を吸わせた。リーナは驚いていたが、これは前世の知識というより基本だ。
指を切った漁師。リーナが包帯を巻こうとしていたが、傷口を見れば深さが違う。腱に届いている。縫った。
腹を壊した子供。問診で昨日何を食べたか聞けば一発だった。これはリーナでもできる。だが水分の取らせ方を知らなかった。「少しずつ、何度も」。教えた。
どれも重い病気ではない。だが一つ一つに、知識の差が出る。
(リーナは真面目だ。教えたことは次からちゃんとやる。ただ、引き出しが少なすぎる)
「エリカさん! この薬草とこの薬草って一緒に煎じていいんですか!」
「それは駄目。片方が効果を消す」
「えっ、今まで普通に出してました!」
「……患者は治った?」
「治ったり治らなかったり!」
「治らなかった方はそれが原因かもね」
「ええーっ!!」
(……先は長い)
***
患者を診る合間に、道具を揃え始めた。
宮廷にいた頃とは比べものにならないが、やれることはある。蒸留酒。メス。鉗子。鍛冶屋に図面を持ち込んで、首を傾げられながら作ってもらう。
蒸留酒は市場で一番度数の高いものを買い占めた。店主に「こんなに飲むのか」と呆れられた。飲まない。
仕上がったメスを蒸留酒に浸していたら、リーナが横で目を丸くしていた。
「いいお酒なのにもったいなくないですか?」
「器具を清潔にするため」
「洗えばよくないですか?」
「水で洗っただけじゃ落ちないものがある」
「何がです?」
「目に見えない、小さな——」
言いかけて、やめた。細菌の概念がこの世界にはない。説明しても通じない。
「……いいから。刃物を使う前は必ずこれに浸すこと。煮沸でもいい。約束して」
「はい! 分かりました! 理由は分かんないですけど!」
(理由は分からなくていい。やってくれれば)
***
十一日目の朝。
「おい。お前か」
診療所の前に男が立っていた。白髪交じりの初老の男。薬箱を持っている。
見覚えがあった。通りで倒れた男を診た時、解熱の薬湯を飲ませようとしていた医者だ。
「市場の通りで好き勝手やった女だな。名前は」
「エリカ」
「私はグスタフ。この街で三十年医者をやっている」
リーナが奥から出てきた。
「グスタフ先生……? どうしたんですか」
「リーナ。この女は何者だ。いつからここにいる」
「えっと、十日くらい前から——」
「この街で医療行為を行うには、医師組合の承認が要る。知らんとは言わせんぞ」
(来たか)
分かっていた。いつか来るとは思っていた。
「ベッカー先生の診療所だから、ベッカー先生の承認の下にいると思ってたんですけど——」
リーナが言いかけた。グスタフが遮った。
「ベッカーは引退した。承認の効力は本人にしかない。この女は無関係だ」
「承認の手続きがあるなら踏みます」
「組合の審査には推薦人が二名必要だ。この街の医師の」
(この街の医師。つまりこの男の承認が要る、という仕組みか)
グスタフの顔を見た。推薦する気がないのは明らかだった。
「私の患者が三人、あの後この診療所に来ている。勝手に診たな」
「勝手にも何も、来たから診ただけですけど」
「それが問題だと言っている」
グスタフの声が大きくなった。通りに人が集まり始めている。
「身元も分からん女が、無資格で——」
「グスタフ先生」
リーナが前に出た。声が震えていた。でも前に出た。
「エリカさんは私が——」
「黙れ、小娘。お前もベッカーの承認で辛うじてやっている身だろう」
リーナが黙った。手が握られていた。言い返す言葉を持っていないのではなく、言い返したら自分の立場まで危うくなると分かったのだ。
(私一人の問題ならいいけど、リーナを巻き込むのは——)
「分かりました。承認がないなら——」
「何を騒いでいる」
声が割り込んだ。
低い声。静かだが、通った。
人だかりの向こう。黒髪の男が立っていた。質のいい外套。傍にフリッツ。
クラウスだった。
顔色は万全ではない。だが目は真っ直ぐグスタフを見ていた。
グスタフが振り向いた。
「あんたは——」
「十日前、通りで倒れた男だ。この医者に命を救われた。覚えているか」
グスタフの顔が強張った。覚えているだろう。公衆の面前で、自分の処置を否定された日だ。
「あの時、先生の薬湯を飲ませていたら私は今ここにいない。そうだな」
「……それは」
「承認が必要なら、私が推薦人になろう。二名要るなら、もう一名はこの街で探す。それで手続き上の問題はないはずだ」
「あんた何者だ。医師でもない人間に推薦の資格は——」
「推薦人は医師に限るのか」
グスタフが口をつぐんだ。限らないのだろう。言葉に詰まった時点で分かった。
フリッツが一歩前に出た。それだけで空気が変わった。何も言わない。ただ立っている。だが従者の立ち方ではなかった。主人の盾として、自然に位置を取っている。
(この二人、何者だ)
グスタフは何も言えなくなっていた。
「……手続きを踏むなら、文句は言わん」
背を向けて去っていった。
人だかりが散っていく。リーナが大きく息を吐いた。
「こ、怖かった……。でもあの人すごい。何者ですか?」
知らない。私も聞きたい。
クラウスがこちらを見た。
「大事なかったか」
「助かりました。……ただ、推薦人の件、本当にいいんですか」
「構わない。あの医者の薬湯を飲まずに済んだ借りがある」
口の端がわずかに動いた。皮肉とも笑みとも取れる顔。
リーナが「お茶でも淹れますね!」と奥に引っ込んだ。
「フリッツ、推薦の書式を——」
言いかけて、止まった。
顔から色が引いた。
一瞬だった。さっきまで普通に立っていた人間の足元が揺れた。
「——殿」
フリッツが声を落として支えた。殿。聞こえた。
クラウスの手が壁に触れた。身体を支えている。額に汗が浮いている。
(血圧が落ちてる。急激に)
さっきまでの緊張。グスタフとのやり取り。声は静かだったが、身体には負荷がかかっていたはずだ。
注視した。
【副腎——著しい機能低下。コルチゾール分泌ほぼ停止】
【血圧——急速な低下。末梢循環不全の兆候】
(——やっぱり。あの時見たのと同じだ。副腎が動いていない)
「大丈夫だ。少し立ちくらみが——」
「大丈夫じゃありません」
近づいた。脈を取る。速い。弱い。補償しようとして心臓が空回りしている。
「座ってください。リーナ、塩と水」
「はい!」
リーナが走った。
クラウスの顔を見た。蒼白だが、意識ははっきりしている。
「……あんたは、すぐ人の身体に踏み込むな」
「医者なので」
塩水を作って飲ませた。少しずつ。顔色がわずかに戻る。だがこれは応急処置でしかない。
フリッツが傍に膝をついていた。顔が白い。主人より従者の方がよほど動揺している。
「よくあることなんですか」
フリッツに聞いた。フリッツがクラウスを見た。クラウスが目を閉じた。答えないつもりだ。
「先生」
フリッツの声が低くなった。
「お願いです。主を——診ていただけませんか」
クラウスが目を開けた。
「フリッツ」
「お許しください。ですが——」
「今ここでする話じゃない」
そうだ。通りの真ん中だ。人目がある。
「場所を変えましょう。あなたの家で」
クラウスがこちらを見た。
「……あんたに診せる義理はない」
「義理はない。でもこのまま帰したら、あなたは家で倒れます。さっきの立ちくらみで済まなくなる」
クラウスが黙った。
(この人、自分の身体のことをある程度分かってる。分かった上で、誰にも診せていない)
首元を見た。外套の襟が高い。あの色素沈着は隠れている。やはり隠している。自分の症状を、意図的に。
「……好きにしろ」
立ち上がった。フリッツが支える。
リーナに振り返った。
「午後の患者、任せていい?」
「はいっ! 任せてください! ……たぶん!」
(たぶん、が正直すぎる)
鞄を掴んだ。クラウスの後ろを歩く。
フリッツが先導して、裏通りに入った。
石造りの屋敷が見えた。目立たない場所にある。小さくはないが、飾り気がない。紋章もない。門番もいない。
(貴族だろう。それも相当上の。なのにこの人数で、この街に。しかもさっきフリッツは——「殿」と呼んだ)
扉が開いた。
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