2話:ベッカー診療所
子供の母親——名前はマルタといった——に連れられて、裏通りを歩く。
「先生のところ、ここからすぐなんです。リーナ先生っていって、若いけどいい子で」
「リーナ先生」
「ベッカー先生のお弟子さんで。先生が身体を悪くされてからは、一人で」
(一人で診療所を回してる?)
「ここです」
木の看板。文字がかすれている。「ベッカー診療所」。扉が半開きだった。
中に入った。
棚に薬瓶が並んでいる。整理されていない。机の上に包帯が出しっぱなし。奥のベッドに患者の姿はない。
そして、床。
女が一人、しゃがみ込んでいた。薬瓶の中身をぶちまけたらしく、手で粉を集めている。
「あーっ、もう! これ三日分なのに!」
若い。二十代前半。栗色の髪を雑にまとめている。白衣ではなくエプロン。袖がまくられて、腕に擦り傷がいくつか。
マルタが声をかけた。
「リーナ先生、お客さんです」
「え! 患者さん!? ちょ、ちょっと待って今片付けるから——」
「患者じゃなくて。紹介したい方がいて」
リーナが顔を上げた。粉まみれの手。額にも粉がついている。
「……どなた?」
「エリカ。医者です」
「お医者さん!?」
立ち上がった。勢いで膝を机の角にぶつけた。
「いったー!」
(……大丈夫か、この診療所)
***
マルタが帰った後、リーナが茶を淹れてくれた。欠けた椀。茶葉は安い。
「ベッカー先生が倒れたのが半年前で、それからずっと一人で」
「半年」
「患者さん来るんです、毎日。先生がいなくなっても。お金ない人ばっかりだけど来るんです。だって他に行くところないから」
(そうだろうな。前世みたいに保険制度が整ってるわけでもない、それにそもそもこの街の規模の割に医者が少ないんだろうな)
「薬代も持ち出しですか」
「あはは……聞かないでください、それは」
笑っている。目は笑っていなかった。一瞬だけ。すぐ笑顔に戻した。
「でも! やめるわけにいかないし! 先生に教わったこと、まだ全然できてないし!」
(情熱だけで回してる。身体も家計も限界が近いだろうに)
薬を擂り潰して、運んで、患者を支えて。一人で全部やっている身体だ。
「泊まるところを探してるんですけど」
「うちに!」
即答だった。
「奥に部屋あるんです! ベッカー先生が使ってた部屋! 空いてます! 家賃とかそういうのいいんで!」
「いや、さすがに——」
「手伝ってくれるなら全然! むしろ助かります! いてください!」
前のめりだった。目が輝いている。
(断る理由を探す方が難しい状況だな)
「……しばらく、でいいなら」
「やった!!」
声が診療所の外まで響いた。たぶん通りの向こうまで。
***
午後。
診療所に患者が来た。
五十がらみの男。レンガ職人だという。リーナが応対している。
「どうしました?」
「めまいがひどくてよ。朝起きたら天井がぐるぐる回って」
「いつからですか!」
「三日前から。寝返り打つたびにくらっとくる。立ってりゃ平気なんだが」
リーナが男の顔を覗き込んだ。額に手を当てる。
「熱は……ないですね。顔色も悪くないし」
棚に向かった。薬草を選び始めている。
「血の巡りが悪いのかも。頭に血を送る薬草を煎じますね!」
(違う)
奥から見ていた。口を出すつもりはなかった。
でも。
「リーナさん」
「はい?」
「その人、頭を動かした時だけめまいがするって言いましたよね」
「はい。寝返り打つとって」
「立ってれば平気だと」
「そうです。だから、横になると血が——」
「血の巡りなら立っても座ってもめまいが出ます」
リーナが止まった。
患者に近づいた。注視する。
【内耳右側——耳石器に異常。位置ずれ】
(やっぱり)
「少し診させてもらっていいですか」
男が頷いた。
「ベッドに腰掛けて。——今から頭を右に向けてもらいます。ゆっくり」
男が右を向いた。
「そのまま、後ろに倒れてください。頭は私が支えます」
倒した。
男の目が大きく動いた。黒目がぐるぐると回っている。
「うおっ——回る、回ってる——!」
「はい。そのまま。動かないで」
三十秒。目の動きが収まるのを待つ。
「次、頭を左に。ゆっくり」
「おい、何してんだ——」
「大丈夫。もう少しです」
左を向かせた。また目が回る。待つ。収まる。
「そのまま、身体ごと左を向いて。横向きに」
男が従った。
「最後。ゆっくり起き上がって」
男が起き上がった。
「…………あれ?」
「どうですか」
「回ってねえ」
「右を向いてみて」
男が右を向いた。おそるおそる。
「……回ってねえ! なんだこれ! 何した!?」
「耳の中に、小さい石みたいなものがあるんです。平衡感覚を保つための。それがずれると、頭を動かすたびに目が回る」
「石? 耳に?」
「今やったのは、頭の向きを変えて石を元の位置に戻しただけです」
男が自分の耳を触った。信じられないという顔。
リーナも同じ顔をしていた。
「えっ……えっ? 頭を動かしただけで? 薬も使ってないのに?」
「薬じゃ治りません。石の位置の問題だから」
「そんなの聞いたことない……」
「耳の中に平衡器官があること自体、まだあまり知られてないので」
リーナが患者と私を交互に見ている。口が半開きだった。
「三日間ずっとこれで寝込んでたのに……」
「放っておいてもそのうち治ることが多いです。石が自然に戻るか、身体が慣れるかで。ただ、その間ずっと働けないでしょう」
男が深く頷いた。
「三日も仕事休んでる。女房に申し訳なくてよ」
「今日から寝返りは気をつけて。急に頭を動かさないこと。再発したらまた来てください。同じことをやります」
男が何度も頭を下げて帰っていった。
リーナがこちらを見ていた。
「エリカさん」
「なに」
「すごいです」
「別に。知ってただけ」
「知ってるってことがすごいんです! 私、ベッカー先生に二年ついて、めまいの患者さん何人も診て、全員に血の巡りの薬出してました。治らない人もいて、なんでだろうって——」
「全員が同じ原因とは限らない。血の巡りのめまいもあるし、耳のめまいもある。見分けるのは、症状がいつ出るか。動いた時だけか、ずっとか。それだけ」
「それだけって……」
「知ってるか知らないかの差です。あなたは知らなかっただけ。覚えればいい」
リーナが黙った。それから、ぶんぶんと首を縦に振った。
「覚えます! 絶対覚えます!」
(……元気だな)
***
夕方。日が傾き始めた頃。
診療所の扉が叩かれた。
「はい! どうぞ!」
リーナが開けた。
立っていたのは、中年の男。身なりがいい。昨日、通りで倒れた男の隣にいた従者だ。
「失礼いたします。昨日、主を助けていただいた者ですが——エリカ先生はいらっしゃいますか」
「えっ、エリカさんのお知り合い?」
奥から出た。
「昨日の」
「フリッツと申します。主が、どうしてもお礼をと」
風呂敷を差し出した。開けると、干し肉と果物。それに銀貨が数枚。
「受け取れません」
「主がそうおっしゃると思っておりました。その場合は置いて帰れと言われております」
「…………」
(押し問答しても勝てなさそうだな、この人)
リーナが横から覗き込んだ。
「わ! いいお肉!」
「……あなたの方が、具合はどうですか」
フリッツに聞いた。
「おかげさまで。今朝には粥を召し上がれるまでに」
「水分はしっかり。固いものはもう二、三日控えて」
「承知いたしました。先生のおっしゃる通りに」
言葉遣いが丁寧だ。従者にしては教養がある。
(聞きたいことがある)
あの首筋。褐色の沈着。副腎の異常。
昨日から、頭の隅にずっとある。
「あの方——」
「はい」
「……いえ。何でもありません」
聞けなかった。
昨日たまたま通りで助けた相手だ。名前も素性も知らない。その人間に「他にも病気がありますよね」と踏み込む根拠がない。
フリッツがこちらを見ていた。穏やかな目。何かを測っている目でもあった。
「先生。この街には長くいらっしゃるのですか」
「……まだ分かりません」
「います!」
横からリーナが割り込んだ。
「いてもらいます! うちの先生なんで!」
(いつから「うち」になった)
フリッツの目がわずかに和らいだ。
「それは心強い。主も、この街におりますので。何かあれば」
頭を下げて、出ていった。
(何かあれば、か)
何かはある。あの首筋。あの色素沈着。
でも、今は——
「エリカさん!」
振り返った。リーナが干し肉を掲げていた。
「今夜これ焼いていいですか! 久しぶりにまともなお肉!」
「あなたの分は好きにしなさい」
「エリカさんの分もですよ! 二人分! 一人で食べるわけないじゃないですか!」
椅子に座った。
窓から夕日が入っている。薬瓶が並ぶ棚。散らかった机。安い茶。包帯の匂い。
三日前までいた場所とは何もかも違う。
「エリカさん、焼き加減どうします!」
「……任せる」
「じゃあ私好みで! こんがり!」
(うるさいな)
嫌ではなかった。
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