1話:身体は嘘をつかない
「宮廷医師エリカ。主席医師の治療方針に背き、禁忌薬草を独断で患者に投与し、エストール侯爵家令息レナート様の容態を悪化させた罪により——」
(処方量を間違えたのはそっちでしょう)
大講堂。宮廷医師団の白衣が左右に並んでいる。三年同じ建物にいて、まともに話した相手は片手で足りる。
罪状が続く。長い。
(投与記録を見れば一発なんだけど。読める人がいないか、この中に)
正面にヴェルナー主席医師。堂々と腕を組んでいる。
右手の指先が震えていた。中指と薬指。本人は気づいていないだろう。
(自分のミスだって分かってるじゃない。手がそう言ってるわよ)
その隣のエストール侯爵。睨んでいる——つもりだろうが、目線が額に浮いている。喉仏が動いた。
(息子の容態が誰のおかげで安定してたか、知ってるくせに)
「——以上の罪により、宮廷医師団からの除名、および王都退去を命じる。申し開きはあるか」
(はいはい。ない。あるけど、ない。
「ございません」
ざわめく。反論すると思っていたらしい。
「よろしい。即日——」
「レナートの薬のことなんですけど」
静まった。
「朝の分、半量にしてください。肝臓が追いついてません。続けたら二週間で黄疸が出ます」
ヴェルナーが口を開きかけた。遮る。
「左腹部を押すと痛がるはず。あれは治ってない。引き継ぎ、誰がやるんですか」
誰も答えない。ヴェルナーの指の震えが大きくなっていた。
「……聞いてます?」
「もうよい。去れ」
侯爵の声。
「去るのはいいんですけど、レナートの——」
「去れと言っている」
(ああ、そう)
だめだ。この人たちの耳には届かない。
白衣を脱いだ。畳んで、椅子の背に掛ける。
(薬の量、変えないだろうな。記録も読まないだろうな。二週間後にあの子が黄色くなって、そこで初めて慌てるんだ)
背を向けた。
(でも言った。言わないわけにいかないでしょう、あの子の主治医なんだから)
講堂の通路を歩く。白衣の列の間を。
誰も、目を合わせない。三年間の同僚。こちらを見たら立場を決めなければならないから、天井や壁を見ている。
その中で、一人だけ目が合った。
ブルーノ。同期の宮廷医師。赤ら顔で恰幅がいい。いい酒を飲んで、いいものを食べている身体だ。こちらを見て、隠しもしない笑みを浮かべていた。
「残念だったな、エリカ。だから言ったろう。余計なことをするなと」
(余計なこと、ね。患者の命が余計なこと)
立ち止まった。
ブルーノの身体が目に入る。注視する、というほどのことでもない。見れば分かる。
【右足第一趾——関節部に腫脹の兆候。炎症反応:初期】
【肝臓周辺——肥大の傾向。血流にやや濁り】
浮かんで、見えた。
この力は前世にはなかった。この世界で目覚めた。前世の記憶と一緒に。人の身体を見れば、異常が浮かぶ。
便利ではある。ただし、万能じゃない。
見えるのは「何がおかしいか」だけ。「なぜおかしいか」は、自分の知識で判断するしかない。
ブルーノの右足。関節の腫脹。肝臓の肥大。この体型、この顔色、この生活。前世の知識と合わせれば答えは出る。
「ブルーノ先生」
「何だ」
「そのまま太り続けると、近いうちに大変なことになりますよ。冗談じゃなくて。風が吹いただけで激痛が走る。立てなくなりますよ」
ブルーノの顔が赤くなった。怒りだ。
「黙れ。罪人の分際で——」
「忠告です。……ま、せいぜい美味しいお酒や食事を今のうちに楽しんでください。歩けなくなる前に」
歩き出した。
(誰の忠告も聞かないでしょうけどね、この人たち)
レナートの薬のことも。ブルーノの足のことも。
言った。伝わらなくても。
講堂の扉が閉まった。
***
三日歩いた。
馬車は出ない。追放された平民の医者にそんな待遇はない。革鞄ひとつ。道具と着替えと記録帳。
北に向かった。南は王都に近い。東は海。西は国境で物騒だと聞いた。消去法だ。
道を歩いていると、すれ違う人間の身体がいちいち目に入る。荷馬車を引く男の腰の歪み。宿場町の女の手の腫れ。
見たくなくても見えてしまう。
(身体は見える。でも、見えるだけ。通り過ぎるだけの他人に、私がどうこうできるわけでもない)
三日目の午後、城壁の街が見えた。
ブライテン。北部の地方都市。門が大きい。兵士が立っている。中に入ると、思ったより人が多かった。市場が開いている。荷車と商人の声。
宛てはない。肩書きもない。
(とりあえず、宿か)
通りを歩いた。曲がった。
「大丈夫だってば。痛くないよ」
子供の声が聞こえた。
***
広場の端。石塀の下。
男の子が座っていた。五つか六つ。膝に擦り傷。母親らしい女性がしきりに体を触って確かめている。
「ほんとに? 結構高かったのよ?」
「平気だって。ねえ、もう遊んでいい?」
元気だ。声も出ている。顔色も悪くない。母親も「大げさだったかしら」という顔になりかけていた。
通り過ぎようとして、足が止まった。
胸。何か引っかかった。
注視する。
【右胸部——拡張不全。左右差あり】
左は普通に動いている。右が浅い。
(外からは傷も腫れもない。でも右が動いてない。原因は——分からない)
見えただけでは足りない。いつもそうだ。
しゃがんだ。子供と目を合わせる。
「ねえ。さっきどこから落ちたの」
「……だれ?」
「医者。ちょっとだけ教えて」
母親が寄ってきた。当然だ。
「あの、すみません。何か——」
「お母さん、どのくらいの高さでした?」
「塀の上から……大人の背丈くらい。でも、すぐ立ち上がって——」
子供に向き直る。
「落ちた時、どっち側から落ちた?」
「横。こっち」
右を指さした。
「ここ、ぶつけた?」
右の脇腹のあたりを示す。
「……ちょっとだけ」
「服めくっていい?」
母親に確認する。頷いた。
右の胸郭。打撲の痕がうっすら。この程度なら、普通は湿布で終わりだろう。
手を当てた。左胸。呼吸に合わせてしっかり動く。右胸。
ほとんど動いていない。
右側をぶつけた。肋骨にヒビ。肺まで届いた。穴が空いて空気が漏れている。
(気胸。まだ小さいから本人は気づいてない。でもこのままだと——)
「お母さん。この子の胸に手を当ててもらえますか。まず左。次に右」
母親が従った。左。普通の呼吸。右。
顔色が変わった。
「動いてない……右だけ……」
「肋骨にヒビが入って、肺に穴が空いてます。空気が漏れて肺が膨らめなくなってる」
「嘘。だってこの子、元気に——」
「穴が小さいうちは自覚がないんです。でも空気は漏れ続けてます」
「……治せるんですか」
「今なら」
鞄を開けた。針を出す。
「横にしてください。暴れないように」
母親が子供を寝かせた。手を握っている。子供は不安そうな顔で私を見ている。
「ねえ、何するの。ぼく痛くないよ」
「うん。でもね、あなたの身体はそう言ってないの」
右の肋骨の間。位置を確かめる。
「ちょっとチクッとするよ」
刺した。
——シュッ。
空気が抜けた。
子供がびくっとして、母親の手を握った。一秒。二秒。
右の胸が、動き始めた。
「……あ」
呼吸が変わった。
「息、できる」
さっきまでと顔が違う。苦しかったのだ。自分でも気づかないまま。楽になって初めて、自分がどれだけ苦しかったか分かった顔。
母親が泣いた。声を出さずに。子供は困った顔で母親を見ている。
大丈夫。痛くない。平気。子供は嘘をついていたわけじゃない。本当にそう思っていた。でも身体は違った。
針を抜いて、傷口を処置した。周りに人が集まっている。何が起きたかは分からなくても、子供の顔色が変わったことは見えただろう。
「しばらく走らないで。深呼吸を一日三回。痛みが増したらすぐ医者に」
母親が手を掴んだ。
「先生、お名前——」
「エリカ」
「あの、主人の友人がこの街で医者をしていまして。先生、泊まるところが——」
答えようとした時、通りの向こうで声が上がった。
「人が倒れてるぞ!」
「誰か——医者を!」
鞄を掴んだ。走った。
***
通りを走った。人だかりが見える。
かき分けて入ると、男が一人、道の真ん中に倒れていた。
若い。二十代半ば。黒髪。質のいい服。従者らしい中年の男が傍にしゃがんで声をかけている。
「旦那様——旦那様!」
その隣に、もう一人。白髪交じりの初老の男が薬箱を広げていた。
「熱がある。解熱の薬湯を飲ませろ」
従者が椀を持ち上げ、倒れた男の口元に運ぼうとしている。
注視した。
【心拍——不規則。頻脈】
【腹部——胃壁に強い炎症。腸管蠕動異常】
【末梢血流——著しく低下】
(熱じゃない。胃の中で何かが暴れてる)
薬箱がちらりと見えた。解熱の調合。胃に負担がかかる組み合わせだ。
「待って」
従者の手が止まった。医者が振り向いた。
「何だ。お前は」
「その薬湯、止めてください。胃が荒れてます。飲ませたら悪化する」
「何を根拠に言っている。熱があるのだ。解熱が先だろう」
「熱は結果です。原因は胃にある」
「診もせずに——」
「顔が蒼い。汗の量。脈の速さ。これは熱のせいじゃない」
「若い女が見ただけで診断か。私は三十年——」
「その三十年で、この症状を見たことがありますか」
医者が口をつぐんだ。
従者が割り込んだ。
「旦那様のお命が——どちらを信じれば——」
「薬湯を飲ませたら助からなくなります」
倒れた男の呼吸がさらに浅くなった。
「いつから具合が悪いですか」
従者に聞いた。
「今朝から……朝食の後に気分が悪いと。昼過ぎに急に——」
「朝食に何を」
「宿の食事です。肉と煮込みと——」
「あなたも同じものを?」
「はい。私は何とも」
「この方だけが食べたもの、何かありませんか」
従者が考えた。
「……宿の主人が珍しい果実酒だと。旦那様だけがお召し上がりに」
(そこだ)
「その果実酒、まだ残ってますか」
「宿に戻れば——」
「後で。今は先にやることがある」
傍にしゃがんだ。腹に触れる。固い。胃のあたりが張っている。男の眉がかすかに動いた。
「聞こえますか」
「……ああ」
「吐き気は」
「……ある」
「吐いてもらいます。楽になるから」
塩を水に溶かした。
「おい、何をする気だ」
街の医者が声を上げた。無視した。
「少しずつ飲んで。一気にいかなくていい」
男が塩水を口に含んだ。一口。二口。
身体が震えた。
吐いた。
胃の中身が地面にぶちまけられた。野次馬が後ずさる。液体の色が暗い。普通じゃない。
「もう一度。出し切って」
また吐いた。
「水を」
少しだけ飲ませる。呼吸がわずかに深くなった。まだ足りない。吸収された分が残っている。
「炭はありますか」
従者が目を丸くした。
「木炭。細かく砕いたもの」
「炭だと! 何を飲ませる気だ!」
街の医者がまた叫んだ。
「毒を吸い着けるんです」
「聞いたこともない!」
「知らないことと、間違っていることは違います」
従者が走った。近くの店から炭をもらってきた。砕いて、水に混ぜる。黒い水。
「飲めますか」
男が薄く目を開けた。黒い水を見た。
「……何だ、それは」
「薬です」
「……味は」
「最悪です」
男の口の端がわずかに動いた。
飲んだ。顔をしかめた。半分ほど飲んだところで、呼吸が変わった。
注視する。
【心拍——安定傾向。頻脈緩和】
【腹部——炎症反応微減。蠕動正常化】
(落ち着いてきた)
「横にして。右を下に」
従者が男を横たえた。
顔色が変わり始めていた。蒼白から、血の色が戻っている。周りで見ていた人間にも分かっただろう。
街の医者は、薬箱を抱えたまま黙っていた。
「しばらくは水だけ。固形物は明日まで食べさせないで」
地面の吐瀉物を見る。暗い色の液体に、果肉の欠片が混じっていた。
「これ、保管しておいてください。果実酒と合わせて確認します」
従者が深く頭を下げた。
「ありがとうございます。先生、お名前を——」
「エリカ」
「エリカ先生。恩に着ます……」
従者が泣きそうな顔をしていた。仕えている、というより心配している目。
男の顔を、もう一度見た。目は閉じている。呼吸は安定している。
安心して、鞄を閉じようとした時だった。
首筋が目に入った。
服の襟元から覗く鎖骨のあたり。褐色の沈着。日焼けではない。不規則な、まだらの色。
——注視した。
【副腎——著しい機能低下】
手が止まった。
(……え?)
それ以上は見なかった。今はそれどころじゃない。食中毒の処置が先だ。
でも目が離せなかった。一瞬だけ。
(……後で)
立ち上がった。
「今夜はそばにいてあげてください。容態が変わったらすぐ呼んで」
「はい……はい」
通りを戻った。子供の母親が待っていた。宿と、知り合いの医者の話を聞かなければ。
歩きながら、さっきの首筋を思い出していた。
(気のせいだと、いいんだけど)
気のせいじゃないことは分かっていた。
***
——幕間——
ブライテンの外れ。石造りの屋敷。
「殿下」
「声が大きい、フリッツ」
寝台に横たわる男——クラウス・フォン・ヴァイセンブルク。第三王子。
「病弱な第三王子」。王都での肩書きはそれだけだ。北部に「療養」の名目で送られて三年。迎えは来ない。
「身分を知られては——」
「知らなかったから助けたんだろう」
フリッツが黙った。
クラウスは天井を見ていた。
あの女の顔を思い出していた。鞄ひとつ。名乗りは「エリカ」だけ。白衣も肩書きもなかった。
塩水と炭の水。常識外れの処置。だが身体が楽になるのは分かった。
そして——最後。
意識は朦朧としていた。だが、あの目だけは覚えている。
自分の首元を見た時、あの女の顔が変わった。
何を見た。
「フリッツ」
「はい」
「あの医者、この街にいるのか」
「お調べいたしましょうか」
「……いい。向こうから来る」
「なぜそうお思いに」
「患者を放っておける顔じゃなかった」
目を閉じた。
炭の水の味が、まだ舌に残っていた。
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