19話:病気じゃない
翌朝。宮廷の客間で目を覚ました。
天井が高い。ブライテンの診療所とは何もかも違う。ベッドが柔らかすぎて、かえって背中が痛い。
(リーナは元気でやってるかな。ベッカー先生のリハビリ、忘れてないだろうな。ジャムの在庫は——)
考えるのはそっちのことばかりだった。
***
午前。侯爵に呼ばれた。
書斎に、書類が一式揃っていた。追放処分の撤回書。宮廷医師団への復帰令。
「目を通してくれ。署名が要る」
書類を読んだ。
『宮廷医師エリカの追放処分を撤回し、宮廷医師団への復帰を命ずる。追放の根拠となった禁忌薬草使用の件は、宮廷薬務局の不正に起因するものであり、エリカに過失はない——』
(不正に起因する、か。ヴェルナーの処方ミスについては触れていない。薬務局に全部載せた形だ)
「侯爵。一つ確認させてください」
「何だ」
「復帰は義務ですか」
侯爵の眉が動いた。
「……義務ではない。権利の回復だ。戻るかどうかは、貴殿が決めることだ」
「ありがとうございます。署名はいたします。ただ、すぐに戻るかどうかは——」
「考える時間は取ってくれ。息子の薬の調整だけは、頼みたいが」
「もちろんです。今日中に仕上げます」
署名した。書類が侯爵の机に戻った。
(宮廷医師。肩書きが戻った。戻ったけど——)
何も感じなかった。嬉しくもなく、悔しくもなく。紙の上の文字だ。
***
薬を調合した。鉛の排出を促す処方。手順書をつけた。ヴェルナーの分と、次の担当侍医の分と、レナート本人に渡す分。三部。
ヴェルナーに渡しに行った。
医局の前で会った。ヴェルナーは痩せていた。頬がこけている。目の下の隈が深い。
「指示書です。鉛の排出用の処方を加えています。前回の分と合わせて、この通りにしてください」
ヴェルナーが書類を受け取った。目を通した。
「……了解した」
「お願いします」
背を向けた。
「エリカ」
足を止めた。
「……すまなかった」
振り返った。ヴェルナーの目は書類に落ちていた。こちらを見ていない。
「あの時——追放の日に、あんたの言う通りにしていれば。レナート様がこんな目に遭うこともなかった」
右手が震えていた。中指と薬指。追放の日と同じ指。
「ヴェルナー先生。あの時のことは終わりました。これからのことだけ考えてください」
「…………」
「指示書の通りにすれば、レナートは良くなります。今度こそ」
ヴェルナーが頷いた。顔を上げなかった。
(この人も——苦しんでいたんだな。自分のミスだと分かっていて、認められなくて)
***
午後。レナートの病室。
扉を叩いた。
「はい!」
元気な声。開けた。
レナートがベッドの端に座っていた。足を下ろして。窓からの光が差している。顔色がいい。昨日より良い。ハインツの拘束で、今日の薬は別の侍医が運んだのだろう。
「先生! 来てくれたんですね!」
「薬の調整をしに来ました」
「……それだけ?」
「挨拶も。明日、発ちます」
レナートの顔が止まった。笑顔のまま。だが目の奥が変わった。
「……帰るんですか。ブライテンに」
「はい」
「また?」
「また」
レナートが膝の上の手を見た。
新しい薬を渡した。手順を説明した。朝と夜。量。煎じ方。いつもの作業。
レナートは頷きながら聞いていた。真剣な顔。でも時々、薬ではなくこちらの顔を見ていた。
説明が終わった。椀を渡した。
「今日の分。飲んで」
「はい」
手が触れた。
レナートの顔が赤くなった。耳まで。呼吸が変わった。
——注視した。
【心拍——上昇。頻脈】
(また出た。前と同じだ。薬の副作用じゃない。炎症でもアレルギーでもない。触れた瞬間に心拍が跳ね上がって、顔面に血が集まる。原因が分からない——)
「レナート」
「は、はい」
「この症状、前にもありましたよね。私が触ると、心拍が上がる」
「……はい」
「痛みは」
「ないです」
「苦しい?」
「苦しくは——苦しいかもしれない。でも嫌じゃない。嫌じゃない苦しさっていうか——」
レナートが言葉を探していた。
「先生が来ると、胸のここが、ぎゅってなるんです」
胸の真ん中を押さえた。
「先生が帰ると、ずっとそのままで。手紙が来ると、少し楽になって。でも読み終わるとまたぎゅってなって」
「…………」
「これって——何かの病気ですか。先生なら分かりますか」
(——あ)
分かった。
分かってしまった。前世の知識でも、この世界の医学でも、スキルでも辿り着けなかった答え。
心拍の上昇。顔面への血流集中。接触時の急性反応。周期的な胸部圧迫感。対象人物の存在に依存する症状。
全部、一つの原因を指している。
病気ではない。
「……レナート」
「はい」
「病気じゃないよ」
レナートが目を丸くした。
「でも、胸が——」
「病気じゃない」
二度言った。前に「呪いじゃない」と言った時と同じだ。名前を付け直すこと。間違った名前を正しい名前に変えること。
ただし今回は、正しい名前を口にするのが——難しかった。
「あなたの身体は正常です。心臓も、肺も、血管も。どこも壊れていない。——身体が教えてくれていたのよ。ずっと」
レナートはこちらを見ていた。赤い顔のまま。目が潤んでいた。
分かっている。この子も、多分——薄々分かっていた。分かっていて、医者に聞いた。病気だと言ってほしかったのか。病気じゃないと言ってほしかったのか。
「……先生」
「うん」
「先生がどこにいても、手紙書いていいですか」
「前も言ったでしょう。いつでも」
「絶対ですか」
「絶対」
レナートの目から涙がこぼれた。声は出さなかった。椀を持ったまま、膝の上で手が震えていた。
「薬、冷めるよ」
「……はい」
飲んだ。顔をしかめた。
「まずい」
「知ってる」
レナートが笑った。泣きながら。
***
病室を出た。
廊下を歩いた。長い廊下。三年間歩いた通路。
(あの子の気持ちに、私は応えられない。応えるつもりもない。——でも、手紙は書く。あの子の身体は、ちゃんと守る。それは嘘じゃない)
足が止まった。
(身体は嘘をつかない、か。ずっとそう思ってきた。スキルで身体を見れば、全部分かると。病気も、怪我も、嘘も)
(でも——あの子の心拍を見て、私は分からなかった。見えていたのに。身体が教えてくれていたのに。読めなかった)
(身体は嘘をつかない。読めないのは、こっちの問題だ)
窓の外に宮廷の庭が見えた。夕方の光。
明日、馬車が出る。ブライテンまで三日。
帰ろう。
***
——幕間——
レナートは窓を見ていた。
エリカが出ていった廊下の方。もう足音は聞こえない。
『病気じゃない』
先生はそう言った。二度。
分かっていた。多分、ずっと前から。先生の手が冷たくて、先生の字が読みにくくて、先生が来ると嬉しくて帰ると寂しい。それが何なのか。
でも先生に聞きたかった。先生の口から聞きたかった。先生が「病気じゃない」と言ってくれたら、それは——
(先生は、僕の気持ちを知った上で「いつでも」と言ってくれた。手紙を書いていいと。絶対と。それで十分だ)
十分だと、思うことにした。
椀の中の薬は空になっていた。まずかった。でも先生が作ったものだ。
窓の外、空が暮れていく。
ブライテンは、馬車で三日。手紙は、もう少しかかる。
(先生。僕は待てます。手紙が届くまで。何日でも)
便箋を出した。今日の分を書く。
朝。パンと卵。薬はロルフが持ってきた。体調は良い。
昼。先生が来た。薬を調整してもらった。体調は——
ペンが止まった。
体調は、とても良い。
そう書いた。
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