18話:灰色の粉
馬車で三日。二度目の王都。
前回は追放された後に呼び戻された。今回は侯爵に招かれて来ている。同じ道だが、立場が違う。
(立場が変わっても、やることは同じだけど)
***
エストール侯爵邸。
通された部屋は前回の病室ではなく、書斎だった。重い机。棚に書類。窓の外に中庭が見える。
侯爵が立っていた。前回——追放の日に見た時とは、顔が違う。あの時は息子を奪われた怒りと、医者への不信が混在していた。今は別のものがある。
「エリカ殿。遠路ご苦労だった」
「レナートの具合は」
挨拶を飛ばした。侯爵の目がわずかに動いたが、咎めなかった。
「息子は安定している。貴殿の指示書のおかげだ。だが——」
「ハインツの件ですね」
侯爵が頷いた。椅子を勧められた。今度は座った。
「貴殿の書状を受けて、内密に調査を行った。ハインツの居室を調べさせた」
「何か見つかりましたか」
「小瓶が一つ。薬棚の奥に隠されていた。中身は灰色の粉末だ。調合師に見せたが、何か分からんと言っている」
(灰色の粉末。薬棚に隠していた。——鉛の化合物か)
「その粉末、私に見せていただけますか」
侯爵が頷いた。使用人が小瓶を持ってきた。
蓋を開けた。匂いを嗅いだ。無臭。指先に少量取って、色を見た。灰白色。粒子が細かい。重い。
(鉛白。化粧料に使われることがある。無味に近い。水に溶ける。薬に混ぜても気づかれない。少量ずつ摂取させれば、じわじわと臓器を蝕む)
「侯爵。これはおそらく鉛の化合物です」
「鉛?」
「金属です。少量ずつ体内に入ると蓄積して、腹痛、吐き気、倦怠感を引き起こします。一度に大量でなければ死には至らないが、長く続ければ内臓を壊す」
侯爵の顔から色が引いた。
「息子は——」
「今の段階なら、薬の投与を止めさせれば回復します。蓄積量はまだ深刻ではないはずです」
「はずでは困る」
「直接診れば分かります。後で伺います。——先にハインツに会わせてください」
「会ってどうする」
「確認したいことがあります」
***
侯爵が手配した別室に、ハインツが呼ばれた。
扉が開いた。
若い男が入ってきた。二十代半ば。細身。侍医の白衣。顔が——
(蒼い。灰色がかった蒼白。普通の顔色じゃない)
ハインツがこちらを見た。エリカの顔を見て、一瞬だけ表情が強張った。すぐに戻した。
「お呼びと伺いましたが——」
「座ってください」
椅子を示した。ハインツが座った。
手を見た。テーブルの上に置かれた両手。
爪の根元に暗い線がある。微かだが、見える。手の甲の色も灰色がかっている。
口元。話す時に歯茎が覗いた。
歯茎の縁に、青灰色の線。細い。だがある。
(バートン線。鉛を慢性的に扱っている人間の歯茎に出る色素沈着。見間違いじゃない)
注視した。
【腎臓——軽度の機能低下。鉛蓄積の兆候】
【末梢神経——伝導速度低下。初期の障害】
(自分にも入ってる。薬に混ぜる時にこぼれたか、素手で扱っていたか。鉛を扱う人間が自分も被曝するのは、前世でも定番だった)
ハインツの右手が微かに震えていた。緊張か。それとも、神経障害の初期症状か。
「ハインツさん。あなた、最近手に力が入りにくくなっていませんか」
ハインツの目が動いた。
「……何の話ですか」
「細かい作業が前より辛い。瓶の蓋が開けにくい。指先の感覚が鈍い。——ありませんか」
「私の体調のことで呼ばれたんですか」
「いいえ。レナート様の件です」
空気が変わった。ハインツの手が止まった。動かしていた指が、テーブルの上で固まった。
「レナート様がどうかされましたか」
「薬に何かを加えていますね」
「何を——根拠のないことを——」
「根拠はあります」
記録帳を開いた。レナートの三週間分のデータ。テーブルに置いた。
「レナート様の症状が悪化した日を赤で囲みました。五日あります。五日全て、あなたが薬を運んだ日です。他の侍医が運んだ日は十六日。一度も悪化していません」
ハインツは記録帳を見なかった。
「偶然でしょう」
「偶然は三回までです。五回は偶然とは言いません。しかも食事に共通点はない。変数はあなただけです」
「そんなもの——患者が勝手に記録しただけの——」
「あなたの居室から灰色の粉末が見つかっています」
ハインツの呼吸が止まった。一瞬。再開した時、リズムが変わっていた。
「そしてあなた自身の身体が証拠です」
立ち上がった。ハインツの前に近づいた。
「歯茎を見せてください」
「なぜそんな——」
「鉛を長期間扱うと、歯茎の縁に青灰色の線が出ます。あなたの歯茎に出ています。今、ここから見えています」
ハインツが口を閉じた。唇を結んだ。
「手の爪。根元の暗い線。手の色。全部、鉛を扱っている人間の特徴です。あなたは薬に鉛の粉末を加えていた。自分でも被曝した。身体がそう言っています」
「…………」
「レナート様の薬に、いつから混ぜていましたか」
沈黙が重かった。
ハインツの肩が落ちた。指先が震えている。もう隠す余裕がない。
「……半年前から」
侯爵の拳がテーブルに落ちた。部屋が揺れた。
「半年——半年もか!」
「お待ちください、侯爵」
エリカが手を上げた。侯爵を止めた。
「まだ聞くことがあります。——誰の指示ですか」
ハインツが顔を上げた。
「あなた単独の判断ではないでしょう。侍医の給料で鉛の化合物を入手し続けるのは難しい。指示した人間がいる」
「…………」
「答えなければ、あなた一人が全ての罪を被ることになります」
ハインツの目が泳いだ。壁を見て、床を見て、窓を見て——最後にこちらを見た。
「……宮廷薬務局の副局長です。ゲルハルトという男で——」
名前が出た。侯爵がすぐに使用人を走らせた。
「何のためにこんなことを」
「分かりません。金を渡されただけです。レナート様を殺せとは言われていない。『少しずつ弱らせろ。気づかれないように』と。理由は聞いていません」
「聞かずにやったのか」
ハインツが目を伏せた。
***
ハインツが連行された後、侯爵と二人になった。
「ゲルハルト。——宮廷薬務局の副局長か」
侯爵が椅子に座った。疲れている。怒りの後に来る虚脱。
「心当たりはありますか」
「ゲルハルトは先代の局長に引き上げられた男だ。薬草の流通を管轄している。——甘草の件、繋がるかもしれん」
エリカの手が止まった。
「薬務局が甘草の禁忌に関わっているということですか」
「甘草の禁忌令は宮廷薬務局の上申で発布された。三十年以上前だ。当時の局長が『過量投与による死亡事故』を根拠に上申し、王命として全国に禁じた」
「その死亡事故は——」
「あったことはあった。だが一件だ。一件の事故で薬草を全面禁止にする判断が妥当だったのか、当時も疑問の声はあった」
「疑問があったのに通った」
「薬務局の権限が強い。薬草の認可と禁止はあの部署の専権だ。——そしてその権限は、利権でもある」
(甘草を禁じれば、甘草で治療できた病は別の方法に頼るしかなくなる。別の方法は薬務局が認可した高価な薬草。流通を握っている人間が儲かる構造)
「エリカ殿。甘草の件は私の方で調べる。ゲルハルトを取り調べれば、繋がりが出てくるだろう」
「お願いします」
侯爵が立ち上がった。
「それと——」
「はい」
「貴殿の追放処分の件だ。ヴェルナーが貴殿の処方を無視した結果、息子が悪化した。追放の根拠となった『禁忌薬草の独断使用』も、薬務局の不正が絡んでいるのであれば、処分自体の正当性が揺らぐ」
「……はい」
「追放の撤回と、宮廷医師としての復帰を、正式に手続きする。異論はあるか」
(復帰。宮廷医師への)
「……ありがたいお言葉です」
「言葉ではない。手続きだ。必要な書類は用意させる」
侯爵が部屋を出た。
一人になった。
椅子に座ったまま、窓の外を見た。宮廷の中庭。三年間歩いた場所。
(戻れる。ここに。宮廷医師として)
***
レナートの病室に向かった。
扉を叩いた。
「はい」
開けた。
レナートがベッドに起き上がっていた。半年前より顔色がいい。ハインツの毒が止まったわけではないが、日によって量が違ったのだろう。投与されない日が身体を回復させていた。
「エリカ先生」
声が弾けた。半身を起こして、こちらに身を乗り出した。
「レナート。起き上がれるようになったのね」
「先生の薬のおかげです。——あと、毎日書いてたから。先生が読んでくれると思うと、ちゃんとしなきゃって」
「ちゃんとしてた。あの記録のおかげで、大事なことが分かりました」
「分かったんですか? 何が」
「あなたの薬に、余計なものを入れていた人間がいました。もう止めさせました」
レナートの表情が変わった。驚き。それから——怒りではなかった。
「ハインツさんですか」
「分かってた?」
「分かってたっていうか……先生が名前を書けって言ったから、名前を書きました。それで、そういうことかなって」
(この子は——聡い。自分では分析できなくても、情報を正確に渡せば答えが出ることを理解している)
「先生。僕の記録、役に立ちましたか」
「あなたの記録がなければ、特定できませんでした」
レナートが笑った。嬉しそうに。
診察をした。脈を取った。腹に触れた。以前よりずっと良い。
注視した。
【体内——鉛の蓄積。微量】
【肝臓——炎症軽減】
(大丈夫だ。蓄積量は深刻ではない。投与を止めれば、時間はかかるが排出される)
「薬を調整します。鉛を排出しやすくするものを加えます。一ヶ月もあれば身体から抜けるはず」
「先生が作ってくれるんですか」
「今日の分は私が作る。手順は書き残す」
「また行っちゃうんですか」
声が少し落ちた。
「……まだ分かりません」
嘘だった。ブライテンに帰るつもりでいる。でも今ここで言うことではない。
「先生」
「何」
「あの——手紙、書いてよかったです。毎日」
「うん。助かった」
「先生が遠くにいても、手紙があれば繋がってるって思えました」
(この子は——)
「これからも書いていいですか。先生がどこにいても」
「いつでも」
レナートが笑った。安心した顔。二十にもならない子の顔だ。
薬を調合して、渡した。手が触れた。レナートの頬が赤くなった。
(また。あの反応。心拍が上がって、顔に血が集まる——前世の知識でも説明がつかなかったやつ。前と同じだ)
首を傾げたまま、病室を出た。
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