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【読切版/完結】追放された宮廷女医師は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito


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17話:結果が先

南の裏通りから、腹痛の患者が来なくなった。


正確には、減った。先月は週に五人来ていた。今週はゼロだ。


「エリカさん。今週、裏通りの患者さん一人も来てないですよ」


「知ってる」


「ジャムのおかげですかね」


「それだけじゃないと思うけど、一因ではある」


棚を見た。瓶が並んでいる。ハーゲブッテの保存食。最初の十二瓶から、今は六十瓶になっている。野バラの実はリーナが見つけた茂みから大量に採れた。蜂蜜は養蜂家のエルンストが卸してくれている。対価はエルンストの腰の治療だ。


市場でも噂になっている。「ベッカー診療所の赤い瓶」。パンに塗ると美味しい。子供が喜ぶ。貰った家が隣に分けて、隣がまた隣に分けて。


(広がってる。思ったより早い。味が良ければ勝手に広まるという読みは当たった)


「あと、水を煮沸する人も増えたんです」


「え?」


「ジャムを配る時に、リーナが一言添えてるらしくて」


「何て言ってるの」


「『このジャム、煮沸したお湯で溶かして飲むともっと美味しいですよ!』って」


「……それは初耳」


「エリカさんに聞かれたら怒られるかなと思って」


「怒らない。——いい手だ」


リーナが照れたように頭を掻いた。


(煮沸を「義務」ではなく「美味しい飲み方」として広めた。この子、私より一枚上手かもしれない)


***


午前の患者を終えて、ベッカーの家に向かった。


リハビリは二ヶ月目に入っている。


玄関を開けた。いつもなら寝台に仰向けのベッカーが——


立っていた。


台所の入口に、壁に手をついて。片足に体重を偏らせているが、立っている。


「先生」


「……来たか。少し早いぞ」


「立ってるじゃないですか」


「壁がなければ倒れる。立ってるとは言わん」


「壁があれば立てるってことです」


ベッカーが鼻を鳴らした。だが壁から手を離さなかった。離せないのではなく、離さない。慎重な人だ。


リハビリを始めた。今日は座った状態で足を上げる運動。左足が前より高く上がる。


「庭のハーゲブッテ、随分持っていったな」


「おかげさまで。南の裏通りの患者が減りました」


「……あの実にそんな力があるとは思わんかったが」


「実の力というより、食べてもらえた力です」


ベッカーが黙った。


「リーナが上手くやっています。配るのも、広めるのも」


「あの子か」


「先生の弟子ですから」


ベッカーは何も言わなかった。窓の方を見ていた。庭の方角。もう実が少なくなった茂みが見えているはずだ。


***


午後。クラウスの屋敷。


甘草を届けた。いつもの日課。脈を取った。安定。


居間に座ると、フリッツが書類を持って入ってきた。


「先生。お見せしたいものがございます」


「何ですか」


紙を広げた。表になっている。ブライテン南部の患者数。月ごとの推移。先月と今月の比較。


「これは……誰がまとめたんですか」


「私が。先生の記録帳と、聞き取りを元に」


数字が並んでいる。先月の裏通りの腹痛患者、二十三件。今月、七件。長屋街東側、先月十五件。今月、四件。


「三分の一以下に減っているな」


クラウスが横から言った。


「はい。ジャムの配布を始めた時期と一致しています。それと——」


フリッツが別の紙を出した。排水溝の工事の進捗。図面。


「排水溝の延長工事が裏通り全域に達しました。東の井戸への地表水の流入が、構造的に遮断されています」


エリカの手が止まった。


排水溝の工事。三ヶ月前から少しずつ進んでいたあの工事。親方の名前を聞いても分からなかった。市の事業ではなかった。


フリッツを見た。フリッツはこちらを見ていない。クラウスを見ている。


クラウスを見た。


クラウスは窓の外を見ていた。


「……あの工事、あなたでしたか」


「何の話だ」


「裏通りの排水溝。三ヶ月前から。誰が出してるか分からなかった工事」


「フリッツが手配しただけだ。俺は何もしてない」


「指示したのは」


「暇だったからな」


(暇だった。——この人が暇だったことなんか一度もないでしょう)


フリッツが咳払いをした。


「殿——クラウス様は、先生が役所で門前払いをされたと伺った翌日に、工事の規模を倍にするよう指示されました。それ以前から、南側の排水は気にかけておいでで——」


「フリッツ。余計なことを言うな」


「お言葉ですが、先生にはお伝えすべきかと」


クラウスが天井を見た。


エリカは手元の書類を見ていた。患者数の推移。排水溝の図面。どちらも、自分が知らないところで動いていたもの。


(ジャムは「下から」。排水溝は「上から」。——この人は最初から、両方やるつもりだったのか)


「この数字を、ディーターに見せるつもりですか」


クラウスがこちらを向いた。


「あんたが見せろ。データを揃えたのはあんただ」


「でも排水溝の工事は——」


「工事は終わった事実だ。誰がやったかは関係ない。重要なのは、工事の前と後で患者が減ったという結果だ。結果が出れば行政は動く」


(結果が先。この人が言っていた通りだ)


「ディーターは悪い人間じゃない。前例がないから動けなかった。前例を作ってやれば、次からは動く」


「……ありがとうございます」


「だから、何もしてないと言ってる」


(何もしてない人間の顔じゃないけどね)


書類を受け取った。明日、もう一度役所に行く。今度は数字がある。結果がある。


***


翌日。市庁舎。


ディーターの部屋に通された。今度は椅子を勧められた。前回とは違う。噂が届いているのかもしれない。


「エリカ先生。また衛生の件か」


「はい。前回の続きです」


書類を広げた。


「前回お見せした地図に、今月の数字を加えました。南の裏通りと長屋街の腹痛患者が、先月比で七割減っています」


ディーターの目が数字に止まった。


「七割」


「はい。二つの要因があります。一つは、住民への保存食の配布。栄養状態の改善です。もう一つは、排水溝の整備。東の井戸への汚水流入が構造的に遮断されました」


「排水溝の整備? 市の予算からは出ていないが」


「有志の寄付で行われたと聞いています」


ディーターが腕を組んだ。前回と同じ姿勢。だが目が違う。数字を追っている。


「死者が出ていないから動けない、とおっしゃいました。これは逆です。死者を出さなかった結果が、ここにあります」


ディーターが黙った。


長い沈黙だった。


「……エリカ先生。この数字が本当なら——」


「本当です。患者は名前も住所も記録しています。確認していただいて構いません」


「排水溝の維持費は」


「構造が完成していれば、維持は大きな費用ではないはずです。新規の工事ではなく、既存の溝の管理ですから」


ディーターが書類を手に取った。表を見ている。裏を見た。もう一度表を見た。


「……前例ができたな」


「はい」


「市として、南側の衛生管理を正式な事業に組み込むことを検討する。——検討、だ。約束はできない」


「十分です」


「それと、あの保存食。市の予算で支援できるか、併せて検討する」


「ありがとうございます」


立ち上がった。


「エリカ先生」


「はい」


「前回、失礼なことを言った」


「いいえ。正しいことをおっしゃっていました。前例がなかった。結果がなかった。今は両方あります」


ディーターが頷いた。


***


市庁舎を出た。


通りを歩いた。空が高い。秋の空気だ。


(通った)


足取りが軽かった。自分でも分かる。


診療所に向かう途中で、裏通りの入口を通った。排水溝が綺麗に整備されている。石組みがしっかりしている。水が流れている。溜まっていない。


子供が二人、溝を跨いで遊んでいた。


***


診療所に着いたら、リーナが駆けてきた。


「エリカさん! 手紙! 王都から!」


「レナートから?」


「違います! 封蝋に紋章がついてます! すごく立派な!」


受け取った。エストール侯爵家の紋章。


封を切った。



『エリカ殿


貴殿の書状、確かに受け取った。


息子の件、重く受け止めている。貴殿の示した記録と分析は説得力がある。当家として直ちに内密の調査を開始した。


ついては、貴殿に王都まで来ていただきたい。調査の結果を踏まえ、直接確認すべきことがある。貴殿の医学的知見が不可欠である。


甘草の件についても、調べを進めている。こちらも、会って話したい。


馬車を手配する。届き次第、出立されたし。


エストール侯爵 ヴィルヘルム』



手紙を畳んだ。


リーナがこちらを見ていた。


「……行くんですか」


「行く」


「いつ」


「馬車が来たら」


リーナが唇を引き結んだ。それから、背筋を伸ばした。


「任せてください。ジャムの配布も、患者さんも。大工のハンスさんに棚の増設も頼んであるし、蜂蜜の次の分もエルンストさんと話つけてあります」


「……全部手配済みなの」


「エリカさんがいなくなっても回るようにって、先週から準備してました」


「先週から? まだ行くとも——」


「行くと思ってました」


(この子は——いつの間に)


「ベッカー先生のリハビリだけ、代わりに行ってほしい。足の運動、メニューは書き出しておく」


「はい」


「判断に迷う患者が来たら、無理をしないで翌日に回して」


「はい」


「あと——」


「大丈夫です」


リーナが笑った。手術の時に壁際にしゃがんでいた子と同じ人間とは思えなかった。


「行ってきます、は出発の時に言ってくださいね。まだ馬車来てないんですから」


「……そうだね」


クラウスの屋敷に報告に行かなければ。侯爵から返事が来たこと。王都に行くこと。


それと——甘草の分を、留守の間どうするか。


(考えることが多い。でも、動き出した。全部、動き出してる)


窓の外、秋の空が広がっていた。

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