16話:薬じゃない
ベッカーの庭で、赤い実を摘んだ。
ハーゲブッテ。野バラの実。籠に半分ほど集まった。小さくて固い。そのまま齧ってみた。渋い。種が多い。
(前世なら砂糖と煮詰めてジャムにする。ビタミンCが豊富で、保存がきく。冬場の栄養補給に使われていた——問題は、この世界に精製された砂糖がどれだけあるかだ)
「何を摘んでるんだ」
窓から、ベッカーの声。
「ハーゲブッテです。煮詰めて保存食を作ろうと思って」
「あんな渋いもの、誰が食うんだ」
「食べたくなるように作ります」
「……変わった医者だな」
(変わった医者なのは自覚してる)
***
診療所の台所。
鍋に実を入れて、水で煮た。柔らかくなったら潰して、種と皮を濾す。残った果肉に蜂蜜を加える。砂糖は高い。蜂蜜の方がこの辺りでは手に入る。
煮詰める。焦げないようにかき混ぜ続ける。
「エリカさん、何作ってるんですか」
リーナが覗き込んだ。
「保存食。果実の煮詰めたもの」
「お菓子?」
「お菓子じゃない。——いや、お菓子みたいなものかもしれない」
「どっちですか」
「食べてみて」
木のさじで少しすくって、リーナに差し出した。
リーナが口に入れた。目が丸くなった。
「——おいしい! 何これ! 甘い! でもちょっと酸っぱくて——おいしい!」
「そう。おいしいでしょう」
「お菓子じゃないですか!」
「薬じゃない。でも身体にはいい」
リーナが首を傾げた。
「南の裏通りの人たちは、干し肉と芋と安い麦パンばかり食べてる。新鮮な果物や野菜はほとんど口にしてない」
「……はい」
「身体の中で足りないものがあると、悪いものに負けやすくなる。水の問題を解決できなくても、身体の側を強くすることはできる」
「それをこれで?」
「これを食べてくれれば。ただし——」
リーナの顔を見た。
「『薬だから食べてください』と言ったら、誰も食べない」
「……確かに」
「『水を煮沸してください』と言っても、やってくれない人が大半だった。正しいことを正しいと言っても、人は動かない」
「じゃあどうするんですか」
「美味しければ、勝手に広まる」
リーナが鍋の中を見た。赤い実の煮詰められた、とろりとした液体。甘い匂いが台所に充満している。
「……これ、パンに塗ったら最高ですね」
「そう。パンに塗って食べるもの。薬じゃない」
「でも身体にはいい」
「そう」
リーナの顔がぱっと明るくなった。
「これ、みんなに配っていいですか!」
「それが目的」
「やった! 私、こういうの得意です! 配るの!」
(知ってる。あなたの顔の広さが、今回は最大の武器になる)
***
瓶に詰めた。小さい瓶で十二個。ベッカーの庭のハーゲブッテだけではこの量が限界だ。
「足りないですよね、これじゃ」
「足りない。でも最初はこれでいい」
午後の患者に、一瓶ずつ渡した。
「これ何ですか、先生」
「果実の保存食。パンに塗って食べて」
「タダでいいのか」
「味の感想を聞かせてくれれば」
患者が蓋を開けた。匂いを嗅いだ。指ですくって舐めた。
「……うまいな、これ」
「でしょう」
「嫁にも食わせていいか」
「どうぞ」
(広がれ)
***
三日後。
「エリカさん! カイルさんの奥さんが来て、『あれもっとないか』って!」
「もうない」
「隣の家の人も!」
「だからもうない」
リーナが困り顔で走り回っている。三日で十二瓶が消えた。
「ハーゲブッテ、もっと採れるところはないんですか」
「ベッカー先生の庭だけじゃ足りない。野生のものを探すか、栽培するか——」
「あ! 市場の裏手に野バラの茂みがあります! 子供の頃に遊んでた! トゲだらけで誰も近づかないけど、実はたくさんなってます!」
「案内して」
「はい! 午後でいいですか! 午前は患者さんが——」
「午後で」
(供給の問題はひとまず何とかなるかもしれない。次は蜂蜜の確保だ。——物々交換の仕組みが使えるかもしれない。養蜂をしている人間がいれば)
***
午後。リーナに案内されて、市場の裏手に行った。
確かに、野バラの茂みが広がっていた。トゲだらけ。赤い実がたわわに実っている。
「すごい量ですね」
「でしょう! ——あいたっ」
リーナが早速トゲに引っかかった。
「革の手袋がいるね」
「大工のハンスさんに聞いてみます! あの人、余った革を持ってるって言ってました!」
(物々交換の網が、ここで繋がる。ハンスの革手袋。患者のネットワーク。リーナの顔の広さ)
実を摘みながら、頭の中で計算した。この茂みだけで瓶五十個分はある。蜂蜜があれば、南の裏通り一帯に配れる量だ。
「エリカさん」
「何」
「これ、お金取っちゃだめですか」
「取らない。最初は」
「最初は?」
「美味しいと分かれば、そのうち欲しがる人が増える。その時は物々交換でいい。蜂蜜を持ってきてくれる人がいれば、回り始める」
「蜂蜜かあ。南の外れに養蜂やってるおじいさんがいますよ。ベッカー先生の患者さんだった人」
(この子の人脈を甘く見ていた)
「紹介して」
「はい!」
***
夕方。診療所に戻ったら、手紙が届いていた。
王都から。レナートの字。封が厚い。
開けた。三枚の便箋にびっしりと書かれていた。三週間分の記録。
一日目から二十一日目まで。毎日。食事。薬を渡した人の名前。体調。
一日も抜けていなかった。
(……全部書いてくれた。本当に、全部)
机に広げた。記録帳を開いて、一覧にした。
悪化した日を赤で囲む。五日。
調子のいい日を青で囲む。十六日。
赤い日の薬を渡した人間。ハインツ。ハインツ。ハインツ。ハインツ。ハインツ。
青い日の薬を渡した人間。ロルフ。ロルフ。マティアス。ロルフ。カール。ロルフ。マティアス。ロルフ。カール。ロルフ。ロルフ。マティアス。ロルフ。カール。ロルフ。マティアス。
(ハインツが持ってきた日。五日。五日全部で悪化。ハインツ以外の日。十六日。一度も悪化していない。食事に共通点はない。日によって鶏だったり魚だったり豆だったり。重なるのは、ハインツの名前だけだ)
ペンを置いた。
(これは偶然じゃない)
五回中五回。例外なし。食事が変数でないなら、薬を渡す人間が変数だ。薬そのものはヴェルナーの調合で同じもののはず。ハインツが渡す段階で、何かが変わっている。
(加えている。ハインツが何かを加えている)
手が冷たくなった。
(あの子に——あの子の薬に、誰かが何かを入れている)
レナートの顔が浮かんだ。椀を受け取る時の、まっすぐな目。あの子は薬を疑わない。渡されたものを、そのまま飲む。
リーナがこちらを見ていた。
「エリカさん。顔、怖いです」
「……ごめん」
「何かあったんですか」
「あった。——リーナ、今日はもう店じまいにして」
「はい」
***
クラウスの屋敷。
日が落ちかけていた。いつもの訪問より遅い時間だ。
フリッツが扉を開けた。
「先生。どうされました」
「クラウスさんに話がある。今すぐ」
フリッツの顔が引き締まった。何かを察したらしい。すぐに通してくれた。
居間。クラウスが椅子に座っていた。本を閉じてこちらを見た。
「どうした。顔色が悪い」
「私じゃなくて、患者の話です」
椅子に座った。記録帳を開いた。レナートの三週間分の記録を見せた。
クラウスが目を通した。赤と青の印。名前の一覧。
「……ハインツ、という侍医か」
「はい。この人間が薬を渡した日だけ、レナートの体調が悪化しています。三週間で五回。例外なし」
クラウスが記録を見ている。目の色が変わっていた。医者の目ではない。別の目。
「薬に何かを加えている、と」
「可能性が高い」
「証拠は」
「この記録だけです。レナートの手紙と、私の分析。物証はありません」
「物証がなければ、告発はできんな」
「分かっています。だから相談に来ました」
クラウスが記録帳を閉じた。窓の外を見た。
「エストール侯爵に伝えるしかない。息子を害している人間がいると」
「侯爵に?」
「親だ。息子が危険にさらされていると知れば動く。調べる権限もある」
「でも、私の言葉だけで——」
「あんたの言葉は通る。黄疸を予告して的中させた医者だ。侯爵はあんたを呼び戻した。信用はある」
(……そうか。あの時の実績が、ここで効いてくるのか)
「手紙を書け。侯爵宛に。俺が添え状を付ける」
「添え状?」
「差出人の格が要る。平民の医者が侯爵に直接書いたら、読まれる前に捨てられる。——俺の名前なら、少なくとも封は開ける」
(この人の名前の「格」。一体何者なんだ、この人は)
聞かなかった。今はそれどころじゃない。
「もうひとつ、お願いがあります」
「何だ」
「甘草のことです。この国だけが甘草を禁じている理由。フリッツさんに調べてもらっていますが、まだ分からない」
「ああ」
「侯爵に手紙を書くなら、甘草の件も一緒に調べてほしいと頼めませんか。王宮に近い人間でなければ分からないことだと思うので」
クラウスが少し黙った。
「……レナートを害している人間と、甘草の禁忌を繋げて考えているか」
「まだ繋がってません。でも、どちらも王宮の中の話です。侯爵が動くなら、一度に調べた方が効率がいい」
「効率の問題か」
「……勘、です。何かがおかしい。両方とも」
クラウスの口の端が動いた。
「勘か。医者らしくないな」
「医者の勘は、データが足りない時の仮説です」
「そういうことにしておこう。——書け。俺も書く。明日の便で出す」
ペンを借りた。侯爵宛の手紙を書き始めた。
レナートの記録の要約。ハインツの名前。データの一致。そして——確認してほしい二つのこと。ハインツが薬に何を加えているか。甘草がこの国で禁じられた本当の理由。
書き終えた時、窓の外は真っ暗だった。
クラウスが添え状を書き終えていた。封をした。蝋を垂らして、指輪で押した。
(紋章だ。——見たことがない紋章。王家の)
見えた。見えたが、何も言わなかった。
「フリッツ。明日の早便で王都に。確実に届く手段で」
「承知いたしました」
***
屋敷を出た。夜道を歩いた。
星が出ていた。こんな時間にここを出るのは初めてだ。
(レナート。あの子の薬に何かが入っている。誰が。なぜ。——ハインツ単独か。誰かの指示か)
分からない。分からないことが多すぎる。でも手紙は出した。動き出す。
帰り道、裏通りの脇を通った。暗くてよく見えないが、排水溝の工事は更に進んでいるようだった。
診療所の灯りが見えた。リーナがまだ起きていた。
「おかえりなさい。遅かったですね」
「ごめん。——明日、野バラの実を摘みに行こう。大量に」
「はい! ……あの、エリカさん」
「何」
「さっきの手紙の話、聞いてもいいですか」
「……前の患者の薬に、誰かが何かを混ぜてる可能性がある」
リーナの顔から色が引いた。
「それって——」
「まだ確定じゃない。調べてもらう手配はした」
「エリカさんが行くんですか? 王都に」
「今は行けない。ここにも患者がいるから」
リーナが黙った。それから、小さく頷いた。
「……私、ここ守ります。エリカさんが行かなきゃいけなくなっても」
「まだ行くとは——」
「いけなくなっても、です」
(この子は——時々、こういう顔をする。ポンコツが消えて、芯だけになる顔)
「ありがとう」
「えへへ」
すぐ戻った。
椅子に座った。茶は飲まなかった。今夜は眠れない気がした。
レナートの手紙を広げた。三枚の便箋。几帳面な字。一日も抜けていない記録。
最後の一行。
『先生。毎日書くのが日課になりました。先生に読んでもらえると思うと、一日の終わりが楽しみです。』
(この子は——)
手紙を畳んだ。記録帳に挟んだ。
(守る。この子の身体は、私が守る。遠くからでも)
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