15話:同じ名前
南の裏通りの患者が三人、立て続けに来た。
一人目。若い男。腹痛。先月も来た。
「先生に言われた通り、西の井戸にしてんだけどよ。嫁がめんどくさがって東のを使っちまうんだ」
「奥さんも体調崩してませんか」
「そういや、先週腹壊してたな」
「でしょうね。西の井戸を使ってください。奥さんにも」
「言ってんだけどよ。遠いって」
(一人を変えても、家族が変わらなければ意味がない。一軒を変えても、隣が変わらなければ——)
二人目。子供を連れた母親。子供の下痢。
「お水、煮沸してから使ってますか」
「煮沸?」
「火にかけてから冷まして飲ませてください」
「……火にかけるんですか。薪が勿体ない」
三人目。老人。腹痛。
「先生よ。井戸の水が悪いって噂を聞いたんだが」
「噂ではなくて——」
「うちのばあさんがな。あの井戸の水で六十年生きてきたんだ。今さら水が悪いと言われてもな」
(六十年の習慣は、医者の一言じゃ変わらない)
三人を送り出した。塩水を飲ませて、腸を休ませて、煮沸を勧めて。同じことの繰り返しだ。
リーナが薬草を棚に戻しながら言った。
「煮沸って、みんなやってくれないですよね」
「薪が要るからね。貧しい家ほど薪を節約してる」
「じゃあどうすれば……」
「分からない」
正直に言った。リーナは黙った。
***
午後。ベッカーの家。
リハビリの三回目。足の曲げ伸ばし、十五回に増やした。ベッカーは黙ってやった。十二回目で息が荒くなったが、止めなかった。
「十五回。お疲れさまです」
「……効いてるのか、これは」
「左足の力の入り方が初日と違います。気づいてませんか」
ベッカーが足首を動かした。動く範囲が少し広がっている。本人も分かったらしく、何も言わなかった。
リハビリの後、記録帳を返しに行った。六冊目を受け取る。
庭を通りかかった時、足が止まった。
前に見た時より、緑が増えている。カモミールが広がっている。その隣に、赤い実をつけた低木が数本。
「先生。あの赤い実、何ですか」
窓越しにベッカーが答えた。
「ハーゲブッテだ。野バラの実。秋に採れる」
「食べられるんですか」
「そのままじゃ渋い。煮詰めれば食える。昔は冬場の保存食に使ったもんだ。最近は誰もやらんが」
(ハーゲブッテ。——ローズヒップか。前世の知識ではビタミンCが豊富。保存がきく。煮詰めて——ジャムにできる)
「先生。あの実、もらっていいですか」
「好きにしろ」
***
診療所に戻ったら、リーナが手を振った。
「エリカさん! 手紙です! 王都から!」
走った。
受け取って、封を切った。
『エリカ先生
先生の手紙が届きました。全部書けと言われたので、全部書きます。
この二週間で気分が悪くなった日は三日ありました。
【一日目——八日前】
朝:パンとチーズと薄い粥。
昼:鶏肉の焼いたものと豆と芋。薬は侍医のハインツが持ってきた。
飲んでから一刻ほどで腹が重くなった。夕食は半分残した。
翌朝には治った。
【二日目——五日前】
朝:パンと卵と果物。
昼:豚の煮込みとパンと豆。薬はハインツが持ってきた。
飲んでから少しして気分が悪くなった。吐き気があったが吐かなかった。
翌朝には治った。
【三日目——昨日】
朝:粥とチーズ。
昼:魚の焼いたものと芋。薬はハインツが持ってきた。
飲んでからしばらくして腹が痛くなった。横になったら楽になった。
今朝は平気。
調子のいい日のことも書きます。
調子のいい日は、薬を別の侍医が持ってくることが多いです。名前はロルフといいます。ロルフの日は何ともありません。
違いはそれくらいです。食事は日によって違うけど、悪くなる日に同じものを食べているわけではないと思います。
先生。こんなに細かく書いたの、初めてです。面倒じゃないです。先生が読んでくれるなら、いくらでも書きます。
レナート』
手紙を机に置いた。
読み返した。もう一度。三度目。
(三日間の悪化日。食事はバラバラ。鶏、豚、魚。パン、芋、豆。共通点がない)
(薬は毎日同じもの。ヴェルナーの調合。指示書通り。変わっていないはず)
(変わっているのは——)
紙を出した。書いた。
悪化日:ハインツ。ハインツ。ハインツ。
調子のいい日:ロルフ。
(全部ハインツだ。悪い日は全部、ハインツが薬を持ってきた日だ)
ペンを止めた。
(まだ二週間分。三回。偶然かもしれない。ハインツの日が多いだけかもしれない。——いや)
レナートは書いている。「調子のいい日は別の侍医が持ってくることが多い」と。つまりハインツだけが持ってくるわけではない。複数の侍医が交代で運んでいる。その中で、ハインツの日だけ悪化する。
(三回は偶然と言い切れない。でも確定もできない。もっとデータが要る)
便箋を出した。
『レナートへ
詳しく書いてくれてありがとう。とても助かる。
お願いがある。これからも同じように記録を続けてほしい。
毎日、調子が良くても悪くても、以下を書いて。
一、その日の食事(朝昼夜、全部)
二、薬を誰が持ってきたか(名前)
三、体調の変化(いつ、どんな症状か。なければ「なし」と書くだけでいい)
一週間ごとにまとめて送ってくれればいい。急がなくていい。ただし、一日も抜かさないで。
大事なのは、悪い日だけじゃなくて良い日も書くこと。比較できないと判断できないから。
ブライテンは元気です。
エリカ』
封をした。
「リーナ。これも王都に」
「はい! ……また問診票ですか?」
「そう」
「レナートさん、大変ですね。毎日記録するの」
「あの子は真面目だから、ちゃんと書く」
「エリカさんが言えば、ですよね」
「どういう意味」
「いえ、何でも!」
(何だ、今の顔は)
***
夕方。クラウスの屋敷。
甘草を届けた。脈を取った。安定。日課が淡々と終わる。
甘草の水を渡した。クラウスが飲んだ。今日は顔をしかめなかった。
「慣れたんですか」
「舌が諦めた」
居間の椅子に座った。フリッツが茶を出してくれた。ここの茶はリーナのより濃い。
「ひとつ相談があるんですけど」
「何だ」
「南の裏通りの衛生問題。役所に行ったんですが、門前払いでした」
「そうか」
驚いていない。
「『前例がない』と言われました」
「ディーターだな。あの男は無能ではないが、前例のないことはやらん。上が動かなければ動かない」
(この人、ディーターのことも知ってるのか)
「正面からは通らないのは分かりました。ただ、このまま放っておくと来年の夏にまた同じことが起きる」
「あんたはどうしたい」
「行政を通さなくても結果が出る方法を探してます。まだ見つかってませんが」
クラウスが窓の外を見た。
「結果が先に出れば、行政は後からついてくる。逆は無理だ。役人は実績がないものには金を出さない」
「実績を作れってことですか」
「正しいことを正しいと言って通じない相手には、正しさの証拠を先に見せるしかない。——俺が言うまでもなく、あんたは分かってるだろう」
(……分かってる。分かってるけど、方法がまだ見えない)
「食い物はどうだ」
「え?」
「あの辺りの人間が何を食っているか。見たか」
「干し肉と芋が多いです。安い麦のパン。生の野菜や果物はほとんど——」
言いかけて、止まった。
クラウスがこちらを見ていた。
「……何を考えてるんですか」
「俺は何も言ってない。あんたが自分で止まった」
(生の野菜や果物がほとんどない。保存食ばかり。栄養が偏ってる。偏った食事は身体の抵抗力を落とす。抵抗力が落ちれば、悪い水を飲んだ時の影響がもっと大きくなる)
(水を変えられないなら——食事を変えればいい? でも「これを食べろ」と言って聞く相手なら、「水を煮沸しろ」だって聞いてくれてる。命令では変わらない)
(じゃあどうすれば。「食べろ」と言わずに食べさせる方法——)
頭の隅で、赤い実が浮かんだ。ベッカーの庭。ハーゲブッテ。煮詰めれば食べられる。保存がきく。
まだ形になっていない。でも何か引っかかった。
「……ありがとうございます」
「何もしてないが」
「考えるきっかけをもらいました」
クラウスの口の端がわずかに動いた。
屋敷を出た。
***
——幕間——
レナートは机に向かっていた。
エリカの手紙を、三度読んだ。紙の端が少し擦れている。何度も広げたからだ。
『全部書いて。一つも省かないで。』
羽根ペンを取った。今日の分を書く。
朝。パンと卵。少し焦げていた。
昼。豆の煮込みとチーズ。薬はロルフが持ってきた。体調は良い。
夜。まだ食べていない。食べたら書く。
毎日、同じことを繰り返している。食べたもの。薬を持ってきた人の名前。体調。
侍女に「何を書いているの」と聞かれた。「日記だ」と答えた。嘘ではない。ただ、読む相手が決まっている日記だ。
一週間分が溜まったら、まとめて送る。エリカがそう言った。
(先生は、この記録から何が見えるんだろう)
自分には分からない。ハインツの日に調子が悪いことには気づいた。でもそれが何を意味するのか、分からない。分からなくていい。先生が読めば分かる。
ペンを置いた。窓の外を見た。王都の空。南の方角。
ブライテンは、ここからどのくらい遠いのだろう。馬車で三日と言っていた。手紙はもう少しかかる。
(先生の字は、きれいじゃない。急いで書いてる字だ。忙しいんだろう。忙しいのに、返事をくれる)
便箋の束を引き出しにしまった。先生からの手紙は全部取ってある。三通。どれも短い。医者の手紙だ。余計なことが書いていない。
でも最後の一行だけ、いつも違う。
一通目。『ブライテンは遠いけど手紙は届く。』
二通目。『ブライテンは元気です。』
(先生は、ブライテンが好きなんだな)
そう思った時、胸の奥が少しだけ痛んだ。痛いというほどではない。ただ、何かが詰まっている感じ。
(これは——何だろう。病気か? いや、違う気がする。先生に診てもらったら分かるかもしれないけど)
分からないまま、夕食の時間になった。
食べたものを書く。書いて、送る。先生に届くまで、何日かかるか分からない。届いたら、また返事が来る。短い手紙。医者の字。
それだけで十分だった。今は。
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