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【読切版/完結】追放された宮廷女医師は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito


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14/21

14話:前例がない

地図を描いた。


ベッカーの記録帳六冊分と、自分の患者記録を並べて、ブライテンの南側を書き出した。どこに誰が住んでいて、どの井戸を使って、いつ腹を壊したか。


線で結ぶと、東の井戸を中心に放射状に広がっている。西の井戸の周辺には、同じ症状がほとんどない。


カイルは三週間、一度も腹を壊していない。


(データは揃った。あとは伝えるだけ)


「エリカさん、何の地図ですか?」


リーナが横から覗き込んだ。


「ブライテンの南側。点が患者で、色が使ってる井戸」


「……わ。赤い点、全部東の井戸の近くですね」


「そう。これを持って、市の役所に行く」


リーナの手が止まった。


「……役所ですか」


「井戸の問題は医者だけじゃ解決できない。排水を直すなり、井戸を調べるなり、行政が動かないと」


「それは、そうなんですけど」


リーナが何か言いかけて、飲み込んだ。


「なに」


「……がんばってください」


(応援の仕方が不安そうだな)


***


市庁舎は市場の北側にあった。石造り。門の脇に兵士が一人。


「衛生に関する件で、担当の方にお会いしたいのですが」


兵士がこちらを見た。


「あんた、医者か」


「はい。ベッカー診療所の」


「……ああ。最近噂の」


しばらく待たされた。奥から男が出てきた。四十がらみ。髭を整えている。仕立てのいい上着。


「衛生の件だと聞いたが。私はディーター。市の公衆管理を担当している」


「エリカです。南の裏通りの井戸について、お話ししたいことがあります」


部屋に通された。机の上に書類が積まれている。ディーターは椅子に座った。こちらには勧めなかった。


立ったまま、地図を広げた。


「この三十年間の患者記録をまとめたものです」


ディーターの目が地図に落ちた。


「南の裏通りと長屋街で、毎年夏から秋にかけて腹痛と下痢の患者が集中しています。赤い点が患者の住所です」


「…………」


「全員が東の井戸を使っています。西の井戸を使っている住人には、同じ症状がほとんどありません」


指で溝の位置を示した。


「東の井戸のすぐ近くに排水溝があります。生活排水が溜まっていて、雨が降ると地面を伝って井戸に流れ込む構造です」


ディーターが腕を組んだ。地図を見て、数字を見て、こちらを見た。


「三十年分というのは、ベッカー先生の記録か」


「はい」


「ベッカー先生本人は何と」


「場所と時期に偏りがあることは把握されていました。原因が井戸だという特定には至っていませんでしたが」


「つまり、ベッカー先生が三十年かけて特定できなかった原因を、あんたが——」


「記録があったから結びつけられました。記録がなければ不可能でした」


「なるほど。それで、具体的にどうしろと」


「東の井戸の水質を調べること。排水溝が井戸に流れ込まないよう、溝の構造を変えること。この二点です」


ディーターが顎に手を当てた。


「エリカ先生。あなたの言うことが正しいかもしれない。だが、いくつか問題がある」


(来る)


「東の井戸を止めるとなると、あの一帯の住人が全員、西の井戸まで水を汲みに行くことになる。距離は倍だ」


「止めなくても、排水の流れ込みを——」


「工事には費用がかかる。市の予算は限られている。それに——」


一拍置いた。


「前例がない」


「前例」


「水が原因で病気が広がるという報告は、この市では過去に一度もない。あの井戸は何十年も使われている。水は澄んでいる。それを『実は危険だ』と住民にどう説明する」


「説明します。私が」


「『見えないが、水が悪い』と? エリカ先生、あなたがどれだけ優秀でも、目に見えないものを人は信じない」


「だからデータを持ってきました。三十年分の——」


「データは見た。だが死者は出ていない」


声は穏やかだった。怒ってもいないし、馬鹿にしてもいない。


「死者が出ていない事案に予算をつける前例がない。これは私の判断ではなく、制度の問題だ」


ディーターがこちらを見た。同情はある。だがそれだけだ。


「考えておく。何か進展があれば、また来てくれ」


地図を畳んだ。


***


通りを歩いた。


(「考えておく」。どの時代でも同じだな、あの言葉は)


データを見せた。三十年分の根拠を揃えた。患者の実例も出した。


足りなかった。「前例がない」「死者が出ていない」「見えないものは信じない」。全部、筋は通っている。通っているから余計にたちが悪い。


(あの人は悪い人間じゃない。動けないだけだ。動く理由を渡せなかった、こっちの負けだ)


足が薬草屋に向いていた。考え事をしていると無意識に歩く癖がある。


店に入った。


「……また来たのか」


「聞きたいことがあります。甘草のことで」


店主の顔が曇った。


「前に引き取った分なら——」


「違います。あれを仕入れた他国の商人のこと」


「何だよ」


「その商人の国では、甘草はどういう扱いでしたか」


「どういうって。普通に棚に並べてたぜ。こっちが珍しがったら、『え、お宅の国じゃ売ってないの?』って逆に驚かれた」


「いつ頃からこの国で禁じられたか、聞いたことは」


「いや——ただ、じいさんの代からこの商売やってて、その頃にはもう『扱うな』だったらしい。王宮から御触れが出たとかって話を親父がしてたな。あやふやだけど」


(王宮から。しかも何十年も前。過量投与の死亡例を理由に——ということになっているが、他国で普通に流通しているものを一国だけがここまで長く禁じ続ける理由としては弱い。量の管理を定めればいいだけの話だ。流通そのものを止める必要がどこにある)


「ありがとうございます」


「おい。また変なもの持ち込むなよ」


「持ち込みません」


(持ち出したけど)


***


午後。ベッカーの家。


リハビリの二回目。横向きに寝てもらって、左足をゆっくり曲げて戻す。十回。


ベッカーは黙ってやった。七回目で顔が歪んだが、止めなかった。


「十回。——十分です」


「……こんなもんで意味があるのか」


「あります。来週には十五回にします」


終わった後、五冊目を借りようとして——やめた。


「先生。市の役所に行ってきました」


ベッカーは天井を向いたまま答えた。


「ディーターか」


「はい」


「駄目だったろう」


(やっぱり分かってる)


「先生も行ったことがあるんですか」


「二十年前だ。あの辺りで腹を壊す人間が増え始めた頃に一度」


「言われたことは」


「同じだったんだろう。前例がない。死者が出ていない」


「全く同じでした」


ベッカーの口の端がかすかに動いた。笑ったのかもしれない。


「二十年前の私はそこで引いた。患者を治す方が先だと思った。治し続けていれば、そのうち問題が目に見える形になると思っていた」


「……なりましたか」


「ならなかった。三十年経っても。患者は毎年増えた。記録帳が増えただけだ」


沈黙が落ちた。


「あんたはどうする」


「諦めません。ただ、正面から行っても通らないのは分かりました」


「正面が駄目なら、どこから行く」


「……まだ分かりません」


ベッカーが天井を見ている。何かを思い出しているのか、何かを考えているのか。


「あんたが来てから、診療所の辺りが騒がしくなった。リーナの声が前より大きい」


「……すみません」


「悪い意味じゃない。あの子が楽しそうにしている」


返す言葉に詰まった。ベッカーがこちらを見た。寝台から、初めて長い目で。


「焦るな。この街は動きが遅い。だが動かないわけじゃない」


五冊目を受け取って、家を出た。


***


帰り道。


裏通りの手前を通った。排水溝の工事がさらに進んでいた。溝が裏通りの奥まで伸びている。石の組み方がしっかりしている。作業員も増えていた。


(三回目だ。確実に進んでいる。誰が出してるんだ、この金)


足を止めなかった。今日はもう十分歩いた。


***


診療所に戻った。


リーナが走ってきた。


「おかえりなさい! 手紙来てます!」


「誰から」


「王都から! レナートさん!」


封を取った。急いで開けた。


二通目。前の手紙への返事ではない。行き違いだ。エリカの「全部書いて」がレナートに届く前に出されている。



『エリカ先生


また気分が悪くなりました。昨日です。


朝は調子がよかったのに、昼の薬を飲んでからしばらくして、急にお腹が重くなりました。吐きはしませんでしたが、食欲がなくなって、夕食は残しました。


今日はもう平気です。


前に先生が「全部書いて」と言ってくれたので、思い出せることを書きます。


昼に食べたもの。パンと豆の煮込みとチーズ。いつもと同じです。

薬はヴェルナー先生が調合したものを、侍医のハインツが持ってきてくれました。いつもと同じ味でした。


違ったことは——思い当たりません。強いて言えば、ハインツが薬を渡す時に少し手間取っていたような気がします。でも気のせいかもしれません。


先生の手紙、届いたら返事をください。


レナート』



(まだ私の質問状が届く前だ。でも、自分で書こうとしてくれている)


読み返した。


『いつもと同じ味でした』


(……味が同じ。薬は変わっていない。食事もいつもと同じ。なのに症状が出る日と出ない日がある)


『ハインツが薬を渡す時に少し手間取っていた』


引っかかった。何にかは分からない。ただ、目が止まった。


(情報が足りない。次の手紙——私の質問への返事が来れば、もう少し見えるはず)


手紙を畳んで、記録帳に挟んだ。レナートの手紙用の頁を作った。日付。症状。食事。薬を渡した人間。


記録で追う。見えなくても。


「エリカさん。レナートさんって、どういう患者さんなんですか」


「宮廷にいた時に診ていた子。まだ二十にもなってない」


「手紙で診察してるんですか?」


「そう。手紙しか手段がないから」


リーナが首を傾げた。


「エリカさんって、患者さん放っておけない人ですよね。近くにいても、遠くにいても」


「医者だから」


「それだけですか?」


「それだけ」


リーナはそれ以上聞かなかった。代わりに茶を淹れてくれた。


窓の外が暗くなっている。


今日は三つの壁にぶつかった。役所の壁。甘草の謎。レナートの不調。


どれも、今日のうちには解決しない。


(焦るな、と言われた。この街は動きが遅い。だが動かないわけじゃない)


ベッカーの言葉を思い出した。あの人は二十年前に引いた。引いたことを、後悔している声だった。


(引かない。正面が駄目なら横から。横も駄目なら——)


まだ分からない。でも、分からないまま考え続けることはできる。


茶を飲んだ。薄い。いつもの。

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