13話:全部書いて
朝。ベッカーの記録帳、三冊目。
五年前の秋。南の裏通り。腹痛が七件。長屋街の東側に四件。
四年前の秋。同じ場所。腹痛が九件。
三年前。十一件。
(毎年増えてる。人口が増えたか、井戸が悪くなったか。——両方だろうな)
住所を書き写した。ベッカーの字は几帳面だが、年を追うごとに小さくなっている。
「エリカさん! 朝ごはん!」
リーナの声が壁の向こうから届いた。ベッカーの家まで聞こえるという話は本当だった。
記録帳を閉じた。
***
午前。患者が三人。
一人目。腕を切った漁師。リーナが包帯を巻いた。手際が前より良くなっている。巻き終わりの処理がまだ甘いが、ほどけるほどではない。
二人目。咳の老婆。先週も来た。蒸気を吸わせて落ち着いた。帰り際、老婆が言った。
「先生。うちの娘が布を織るんだけど。端切れが溜まっててねえ」
「包帯に使えそうですか」
「使えると思うよ。持ってくるわ」
三人目。子供。鼻水。
母親が差し出したのは卵が四つ。
「お薬代、これでいいですか」
リーナが受け取った。
「ありがとうございます! ちょうど卵切らしてたんです!」
切らしてはいなかった。昨日買った。でもリーナの顔には一切出ていない。
(この子は、こういう嘘だけ上手い)
患者を送り出して、棚を片付けた。端切れの話を記録帳に書き留めておく。誰が何を出せるか。ベッカーが教えてくれたことだ。
***
昼過ぎ。
扉が叩かれた。
開けると、旅装の男が立っていた。見覚えがない。
「エリカ先生宛のお手紙です。王都より」
封書を受け取った。蝋の封印。紋章はない。裏を返した。
差出人の名。レナート。
(本当に書いてきた、この子)
リーナが横から覗き込もうとした。
「覗かない」
「気になるじゃないですか! 誰からですか!」
「前の患者」
奥の椅子に座って、封を切った。
『エリカ先生
お元気ですか。僕は元気です。
先生の指示書のおかげで、黄疸は出ていません。ヴェルナー先生は指示書の通りにしてくれています。量も、煎じ方も、全部そのままだそうです。
食事も少しずつ増えました。先週は鶏の煮込みを全部食べました。侍女に驚かれました。自分でも驚きました。
ただ、時々気分が悪くなることがあります。いつもではありません。調子のいい日が続いた後に、急に来ます。薬を飲んだ後のような気もするのですが、よく分かりません。すぐ治まるので、大丈夫だとは思います。
腹の痛みは先生が薬を変えてくださってから、だいぶ楽になりました。
ブライテンは遠いですか。手紙が届くまで何日かかるんだろう。届いたら、返事をください。
レナート』
手紙を膝に置いた。
(概ね順調。黄疸は出ていない。食事も増えた。ヴェルナーは指示通りにしている)
もう一度読んだ。同じ箇所で目が止まった。
『いつもではない。調子のいい日が続いた後に、急に。薬を飲んだ後のような気もする』
(薬は毎日同じものを飲んでいるはずだ。指示書通りなら、量も頻度も変わらない)
毎日同じ薬を飲んでいるのに、「時々」だけ気分が悪くなる。
(それは薬のせいじゃない。薬が原因なら毎日悪くなる)
では何だ。食事か。環境か。それとも——。
(情報が足りない。この手紙だけじゃ判断できない)
便箋を出した。
『レナートへ
手紙ありがとう。鶏の煮込みを全部食べたのは偉い。
気分が悪くなる日について、教えてほしいことがある。
一、気分が悪くなった日に何を食べたか。朝、昼、夜、間食も含めて全部。
二、その日の薬を誰の手から受け取ったか。名前を書いて。
三、飲んでからどのくらいで気分が悪くなったか。
四、調子のいい日と悪い日で、何か違うことがあったら何でも書いて。些細なことでいい。
面倒だと思うけど、全部書いて。一つも省かないで。
ブライテンは遠い。でも手紙は届く。
エリカ』
封をした。
「リーナ。これ、明日の便で王都に」
「はい! ……ラブレターですか?」
「問診票」
「ええーっ」
***
午後。ベッカーの家を訪ねた。
記録帳を返しに行くのと、もうひとつ。
「先生。起き上がれますか」
「……何をする気だ」
「腰です。前に言った、動かし方を変える話」
ベッカーが渋い顔をした。天井を見ている。
「痛いことはしません。今日は動きを見るだけ」
「……好きにしろ」
三度目の「好きにしろ」だ。この人の許可の出し方はいつもこれだ。
寝台の端に手をかけて、ベッカーがゆっくり身体を起こした。途中で左の腰が引きつるのが見えた。かばっている。左足に体重をかけられない。
「そこで止めて。——左足、痺れてますよね」
「……前から」
「いつからですか」
「一年か。もう少し前か」
「歩けなくなったのは」
「半年前。急に力が入らなくなった」
(一年かけて進行して、半年前に動けなくなった。急にじゃない。積み重ねだ)
横向きに寝てもらった。左の腰を触る。筋肉が固まっている。四番と五番の間。ベッカー自身が言った場所。
「ここを押すと——」
「痛い」
触れただけで声が出た。相当だ。
「毎日少しずつ、この辺りの筋肉をほぐします。それと、寝たまま足を動かす運動を教えます」
「動かして治るのか」
「骨は治りません。でも周りの筋肉が支えになる。支えができれば、立てるようになる」
「立ったところで何をする。もう医者はできん」
「庭に出られます。あの薬草畑、手入れしたいでしょう」
ベッカーの目が動いた。窓の方を見た。庭の方角だ。
何も言わなかった。否定もしなかった。
「明日も来ます。帰りがけに寄るだけなので」
「……勝手にしろ」
記録帳の四冊目を借りて、家を出た。
***
クラウスの屋敷に向かった。甘草の分を届ける。日課だ。
裏通りへの分かれ道を通った。
足が止まった。
排水溝の工事が広がっていた。前は分かれ道の手前だけだった。今は裏通りの入口まで溝が伸びている。石を組んで底を固めている。前よりしっかりした造りだ。
作業している男が二人いた。
「すみません。この工事、どなたの指示で——」
「親方に言われただけだよ。俺らは知らねえ」
親方の名前を聞いた。知らない名前だった。
(市の工事なら看板が出る。個人の発注にしては規模が大きい。——まあ、排水が整備されるなら誰がやっても構わないか)
歩き出した。
***
屋敷。居間。クラウスが窓際に立っていた。本を持って。
(立って読んでる。立てる時間が伸びてきた)
「こんにちは」
「ああ」
脈を取った。安定。もう確認する必要がないくらい安定しているが、やめない。
甘草の水を渡した。飲んだ。いつもの顔。
「まだ慣れんな」
「個人差です」
フリッツが入ってきた。歩き方にまだ少し硬さがある。腹の傷は塞がっているが、深い動きをすると引きつるのだろう。
「先生。お話ししたいことがございます」
椅子を勧められた。三人、居間に座った。
「北の交易路を使う商人に、甘草を扱う者が見つかりました」
手が止まった。
「ただし、値が張ります」
金額を言った。
(——リーナの診療所の半年分くらいか)
「禁忌とされている品を国境を越えて持ち込むため、商人もリスクを負う。その分だと」
「入手はできるんですね」
「確実に。次の交易で届けさせることもできます。ただ、この額を毎月となると——」
「当面は俺が持つ」
クラウスが遮った。
「金の問題ではあるが、今すぐどうこうなる話じゃない」
「でも——」
「あんたが遠慮する場面じゃない。俺の身体の話だ」
(……この人にこう言われると、返す言葉がない)
「もうひとつ」
フリッツが続けた。
「その商人に確認いたしました。甘草は隣国では薬草として普通に流通しているそうです。毒草扱いをしているのは、この国だけだと」
部屋が静かになった。
「この国だけ」
「はい。商人も首を傾げておりました」
(同じ植物が、国境を越えたら毒になるわけがない。量の問題なら用法を定めればいい。流通そのものを止める理由が他にある)
「フリッツさん。その商人にもう少し聞けますか。いつからこの国で禁じられたか。きっかけが何だったか」
「お調べいたします」
クラウスがこちらを見た。
「疑ってるな」
「疑ってます」
「同感だ」
それだけ言って、窓の外に目を戻した。
何を考えているかは分からない。だがこの人の目が遠くを見る時は、私の考える範囲とは明らかに違うのだろう。
立ち上がった。
「明日も来ます」
「ああ」
***
診療所に戻った。
机に座った。記録帳を開いた。ベッカーの四冊目。
読みながら、レナートの手紙を思い出した。
『調子のいい日が続いた後に、急に』
(次の手紙が来るまで一週間。もっとかかるかもしれない。目の前にいれば脈を取って、顔を見て、注視すれば分かる。でも今あの子は王都にいて、私はここにいる)
前世でも、遠隔地の患者に電話で問診したことはある。見えないからこそ、聞く順番と聞く内容が全てになる。
(全部書いてと言った。書いてくれれば、見えなくても追える)
記録帳に目を落とした。ベッカーの三十年分。場所と時期と症状。見えないものを、記録で見えるようにした人の仕事だ。
(同じだ。やることは同じ。見えないなら、記録で追う)
ペンを置いた。窓の外が暗くなり始めている。
「エリカさん、ごはんですよ! 今日は卵があるので贅沢に!」
「さっきもらった卵でしょ。切らしてなかったのに」
「…………バレてました?」
「最初から」
リーナが舌を出した。
(まあ、四つもあるし。贅沢に使っていいか)
椅子から立った。台所に向かった。卵の焼ける匂いがした。
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