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【読切版/完結】追放された宮廷女医師は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito


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13/21

13話:全部書いて

朝。ベッカーの記録帳、三冊目。


五年前の秋。南の裏通り。腹痛が七件。長屋街の東側に四件。

四年前の秋。同じ場所。腹痛が九件。

三年前。十一件。


(毎年増えてる。人口が増えたか、井戸が悪くなったか。——両方だろうな)


住所を書き写した。ベッカーの字は几帳面だが、年を追うごとに小さくなっている。


「エリカさん! 朝ごはん!」


リーナの声が壁の向こうから届いた。ベッカーの家まで聞こえるという話は本当だった。


記録帳を閉じた。


***


午前。患者が三人。


一人目。腕を切った漁師。リーナが包帯を巻いた。手際が前より良くなっている。巻き終わりの処理がまだ甘いが、ほどけるほどではない。


二人目。咳の老婆。先週も来た。蒸気を吸わせて落ち着いた。帰り際、老婆が言った。


「先生。うちの娘が布を織るんだけど。端切れが溜まっててねえ」


「包帯に使えそうですか」


「使えると思うよ。持ってくるわ」


三人目。子供。鼻水。


母親が差し出したのは卵が四つ。


「お薬代、これでいいですか」


リーナが受け取った。


「ありがとうございます! ちょうど卵切らしてたんです!」


切らしてはいなかった。昨日買った。でもリーナの顔には一切出ていない。


(この子は、こういう嘘だけ上手い)


患者を送り出して、棚を片付けた。端切れの話を記録帳に書き留めておく。誰が何を出せるか。ベッカーが教えてくれたことだ。


***


昼過ぎ。


扉が叩かれた。


開けると、旅装の男が立っていた。見覚えがない。


「エリカ先生宛のお手紙です。王都より」


封書を受け取った。蝋の封印。紋章はない。裏を返した。


差出人の名。レナート。


(本当に書いてきた、この子)


リーナが横から覗き込もうとした。


「覗かない」


「気になるじゃないですか! 誰からですか!」


「前の患者」


奥の椅子に座って、封を切った。



『エリカ先生


お元気ですか。僕は元気です。


先生の指示書のおかげで、黄疸は出ていません。ヴェルナー先生は指示書の通りにしてくれています。量も、煎じ方も、全部そのままだそうです。


食事も少しずつ増えました。先週は鶏の煮込みを全部食べました。侍女に驚かれました。自分でも驚きました。


ただ、時々気分が悪くなることがあります。いつもではありません。調子のいい日が続いた後に、急に来ます。薬を飲んだ後のような気もするのですが、よく分かりません。すぐ治まるので、大丈夫だとは思います。


腹の痛みは先生が薬を変えてくださってから、だいぶ楽になりました。


ブライテンは遠いですか。手紙が届くまで何日かかるんだろう。届いたら、返事をください。


レナート』



手紙を膝に置いた。


(概ね順調。黄疸は出ていない。食事も増えた。ヴェルナーは指示通りにしている)


もう一度読んだ。同じ箇所で目が止まった。


『いつもではない。調子のいい日が続いた後に、急に。薬を飲んだ後のような気もする』


(薬は毎日同じものを飲んでいるはずだ。指示書通りなら、量も頻度も変わらない)


毎日同じ薬を飲んでいるのに、「時々」だけ気分が悪くなる。


(それは薬のせいじゃない。薬が原因なら毎日悪くなる)


では何だ。食事か。環境か。それとも——。


(情報が足りない。この手紙だけじゃ判断できない)


便箋を出した。



『レナートへ


手紙ありがとう。鶏の煮込みを全部食べたのは偉い。


気分が悪くなる日について、教えてほしいことがある。


一、気分が悪くなった日に何を食べたか。朝、昼、夜、間食も含めて全部。

二、その日の薬を誰の手から受け取ったか。名前を書いて。

三、飲んでからどのくらいで気分が悪くなったか。

四、調子のいい日と悪い日で、何か違うことがあったら何でも書いて。些細なことでいい。


面倒だと思うけど、全部書いて。一つも省かないで。


ブライテンは遠い。でも手紙は届く。


エリカ』



封をした。


「リーナ。これ、明日の便で王都に」


「はい! ……ラブレターですか?」


「問診票」


「ええーっ」


***


午後。ベッカーの家を訪ねた。


記録帳を返しに行くのと、もうひとつ。


「先生。起き上がれますか」


「……何をする気だ」


「腰です。前に言った、動かし方を変える話」


ベッカーが渋い顔をした。天井を見ている。


「痛いことはしません。今日は動きを見るだけ」


「……好きにしろ」


三度目の「好きにしろ」だ。この人の許可の出し方はいつもこれだ。


寝台の端に手をかけて、ベッカーがゆっくり身体を起こした。途中で左の腰が引きつるのが見えた。かばっている。左足に体重をかけられない。


「そこで止めて。——左足、痺れてますよね」


「……前から」


「いつからですか」


「一年か。もう少し前か」


「歩けなくなったのは」


「半年前。急に力が入らなくなった」


(一年かけて進行して、半年前に動けなくなった。急にじゃない。積み重ねだ)


横向きに寝てもらった。左の腰を触る。筋肉が固まっている。四番と五番の間。ベッカー自身が言った場所。


「ここを押すと——」


「痛い」


触れただけで声が出た。相当だ。


「毎日少しずつ、この辺りの筋肉をほぐします。それと、寝たまま足を動かす運動を教えます」


「動かして治るのか」


「骨は治りません。でも周りの筋肉が支えになる。支えができれば、立てるようになる」


「立ったところで何をする。もう医者はできん」


「庭に出られます。あの薬草畑、手入れしたいでしょう」


ベッカーの目が動いた。窓の方を見た。庭の方角だ。


何も言わなかった。否定もしなかった。


「明日も来ます。帰りがけに寄るだけなので」


「……勝手にしろ」


記録帳の四冊目を借りて、家を出た。


***


クラウスの屋敷に向かった。甘草の分を届ける。日課だ。


裏通りへの分かれ道を通った。


足が止まった。


排水溝の工事が広がっていた。前は分かれ道の手前だけだった。今は裏通りの入口まで溝が伸びている。石を組んで底を固めている。前よりしっかりした造りだ。


作業している男が二人いた。


「すみません。この工事、どなたの指示で——」


「親方に言われただけだよ。俺らは知らねえ」


親方の名前を聞いた。知らない名前だった。


(市の工事なら看板が出る。個人の発注にしては規模が大きい。——まあ、排水が整備されるなら誰がやっても構わないか)


歩き出した。


***


屋敷。居間。クラウスが窓際に立っていた。本を持って。


(立って読んでる。立てる時間が伸びてきた)


「こんにちは」


「ああ」


脈を取った。安定。もう確認する必要がないくらい安定しているが、やめない。


甘草の水を渡した。飲んだ。いつもの顔。


「まだ慣れんな」


「個人差です」


フリッツが入ってきた。歩き方にまだ少し硬さがある。腹の傷は塞がっているが、深い動きをすると引きつるのだろう。


「先生。お話ししたいことがございます」


椅子を勧められた。三人、居間に座った。


「北の交易路を使う商人に、甘草を扱う者が見つかりました」


手が止まった。


「ただし、値が張ります」


金額を言った。


(——リーナの診療所の半年分くらいか)


「禁忌とされている品を国境を越えて持ち込むため、商人もリスクを負う。その分だと」


「入手はできるんですね」


「確実に。次の交易で届けさせることもできます。ただ、この額を毎月となると——」


「当面は俺が持つ」


クラウスが遮った。


「金の問題ではあるが、今すぐどうこうなる話じゃない」


「でも——」


「あんたが遠慮する場面じゃない。俺の身体の話だ」


(……この人にこう言われると、返す言葉がない)


「もうひとつ」


フリッツが続けた。


「その商人に確認いたしました。甘草は隣国では薬草として普通に流通しているそうです。毒草扱いをしているのは、この国だけだと」


部屋が静かになった。


「この国だけ」


「はい。商人も首を傾げておりました」


(同じ植物が、国境を越えたら毒になるわけがない。量の問題なら用法を定めればいい。流通そのものを止める理由が他にある)


「フリッツさん。その商人にもう少し聞けますか。いつからこの国で禁じられたか。きっかけが何だったか」


「お調べいたします」


クラウスがこちらを見た。


「疑ってるな」


「疑ってます」


「同感だ」


それだけ言って、窓の外に目を戻した。


何を考えているかは分からない。だがこの人の目が遠くを見る時は、私の考える範囲とは明らかに違うのだろう。


立ち上がった。


「明日も来ます」


「ああ」


***


診療所に戻った。


机に座った。記録帳を開いた。ベッカーの四冊目。


読みながら、レナートの手紙を思い出した。


『調子のいい日が続いた後に、急に』


(次の手紙が来るまで一週間。もっとかかるかもしれない。目の前にいれば脈を取って、顔を見て、注視すれば分かる。でも今あの子は王都にいて、私はここにいる)


前世でも、遠隔地の患者に電話で問診したことはある。見えないからこそ、聞く順番と聞く内容が全てになる。


(全部書いてと言った。書いてくれれば、見えなくても追える)


記録帳に目を落とした。ベッカーの三十年分。場所と時期と症状。見えないものを、記録で見えるようにした人の仕事だ。


(同じだ。やることは同じ。見えないなら、記録で追う)


ペンを置いた。窓の外が暗くなり始めている。


「エリカさん、ごはんですよ! 今日は卵があるので贅沢に!」


「さっきもらった卵でしょ。切らしてなかったのに」


「…………バレてました?」


「最初から」


リーナが舌を出した。


(まあ、四つもあるし。贅沢に使っていいか)


椅子から立った。台所に向かった。卵の焼ける匂いがした。

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