20話:身体は嘘をつかない
馬車で三日。同じ道を戻った。
行きは書類の山を読んでいた。帰りは何も持っていない。窓の外を見ていた。畑が流れていく。森が流れていく。街道沿いの宿場町が小さくなって、消えた。
三日目の午後。城壁が見えた。
ブライテンの城壁。灰色の石。低い。王都の城壁の半分もない。門番が欠伸をしている。
胸の奥で何かが緩んだ。筋肉が一つほどけたような感覚。
(帰ってきた)
***
「エリカさーーーん!!」
診療所の扉を開けた瞬間、リーナが飛んできた。抱きつかれた。
「おかえりなさい! おかえりなさい! おかえりなさい!」
「三回言わなくていい。——ただいま」
棚を見た。整頓されている。ジャムの瓶が並んでいる。記録帳が所定の位置にある。
「……きれいにしてるじゃない」
「当たり前です!」
記録帳を開いた。リーナの字で患者の記録が書かれている。字が前より丁寧になっていた。判断に迷った患者は翌日に回したと書いてある。正しい。
「よくやったね」
リーナの顔がぱっと明るくなった。
***
午後。ベッカーの家に向かった。
玄関の前まで来て、足が止まった。
庭にいた。ベッカーが。
杖をついて。片手で壁を触りながら、カモミールの間に立っている。もう片方の手で雑草を抜いていた。
(庭に出てる)
近づいた。ベッカーが顔を上げた。
「……帰ったか」
「ただいま帰りました」
「リーナのリハビリは雑だった。力加減を知らん」
「少し痛いくらいがちょうどいいんです」
「あの子も同じことを言っていた」
口元がかすかに動いた。
甘草の禁忌が解除される見込みだと伝えた。ベッカーは黙って聞いていた。
「三十年か」
「はい」
「甘草が使えていたら、助けられた患者がいたかもしれんな」
「……かもしれません」
ベッカーが庭の隅を指した。ハーゲブッテの茂み。実はほとんど摘み取られている。だが新しい芽が出ていた。
「来年の分だ。また採りに来い」
「はい」
***
クラウスの屋敷に向かった。
裏通りの入口を通った。排水溝が完成していた。石組みが綺麗に連なって、水が流れている。淀みがない。子供が溝の縁を歩いて遊んでいた。
歩きながら、ポケットの中の書類に触れた。復帰令。署名済み。
(これを見せたら、この人は何と言うだろう)
屋敷の前に着いた。扉を叩いた。フリッツが出た。
「先生。お帰りなさいませ」
「ただいま」
自然に出た。ここに「ただいま」と言うのは初めてだった。
フリッツが一瞬だけ目を細めた。何も言わずに通してくれた。
***
居間。
クラウスが窓際に立っていた。本を持っている。いつもの場所。
振り返った。
「帰ったか」
「帰りました」
甘草の水を渡した。クラウスが飲んだ。顔をしかめなかった。
「もう慣れたんですか」
「舌が完全に降伏した」
脈を取った。安定。いつも通り。
甘草の件を話した。禁忌の理由。薬務局の不正。解除の見込み。
クラウスは静かに聞いていた。
「解除されれば正規の流通に戻ります。あの値段を払わなくて済む」
「そうか」
「もうひとつ」
復帰令を取り出した。テーブルに置いた。
クラウスが手に取った。目を通した。
「……戻れるようになったか」
「はい」
「宮廷医師。あんたの元の居場所だ」
「ええ」
クラウスが書類をテーブルに戻した。窓の外を見た。
「戻るべきだろう」
声が違った。
飄々としていない。皮肉がない。軽口がない。壁がない。
「あんたほどの医者が、こんな辺境の診療所にいる理由はない。宮廷に戻れば設備もある。薬もある。あんたの能力を——」
「クラウスさん」
「何だ」
甘草の水を渡した。二杯目。
「もう飲んだが」
「いいから」
クラウスが受け取った。椀に手をかけた。
その手が震えていた。
微かに。椀の水面がかすかに揺れる程度。気づかない人間は気づかない。
医者は気づく。
「……飲んで」
クラウスが飲んだ。椀をテーブルに戻した。手を膝に下ろした。隠すように。
見えた。
首筋。いつもスカーフか高い襟で隠している場所。今日は襟が少し緩んでいた。——色素沈着ではない。鎖骨の上、首の側面。脈が打っている。
速い。
目で分かるほど、速い。
この人の安静時の脈拍は、甘草の治療が安定してから六十台の前半を維持していた。今、首筋で刻んでいるリズムは——明らかにそれより速い。
「……あんたの能力を活かせる場所は、ここじゃない」
まだ言っている。声は平坦だ。表情も変わらない。いつもの顔。飄々とした、何でもない顔。
でも首筋が嘘をついていない。
「クラウスさん」
「何だ」
「首の脈、速いですよ」
クラウスの手が一瞬、首元に動いた。止めた。途中で止めて、膝に戻した。
「甘草のせいだろう」
「甘草は心拍を上げません」
「気温だ」
「秋です」
「…………」
「さっき脈を取った時は安定してました。復帰令の話を始めてから変わった」
クラウスが窓の外を見た。横顔。首筋の脈が、まだ打っている。
この人が言葉に詰まるところを、初めて見た。
飄々とした壁。皮肉で距離を取る壁。軽口で本心を隠す壁。王宮で身につけた処世術。声を荒げず、権力を振りかざさず、論理で場を収める人。
その人の首筋が、こんなに正直に打っている。
——ああ。
レナートの顔が浮かんだ。「先生が来ると胸のここがぎゅってなるんです」と言った、あの顔。
同じだ。身体の反応が同じだ。レナートの心拍と、この人の心拍。原因が同じだ。
レナートの時は分からなかった。見えていたのに読めなかった。身体は嘘をつかないのに、読む側が分からなかった。
今は分かる。分かってしまった。
——身体は嘘をつけない。どんなに言葉で隠しても。この人が「戻れ」と言っている間も、首筋がずっと「行くな」と言っている。
「クラウスさん。あなたの身体は、口と反対のことを言ってますよ」
「…………」
「『戻れ』と言いながら、脈が上がるのは矛盾です」
「……医者の言い方をするな。感じが悪い」
「医者ですから」
クラウスが天井を見た。長く。
それから口を開いた。
「……あんたに嘘が通じないのは、最初から分かっていた」
低い声だった。壁の欠片みたいな声。
「甘草を初めて飲まされた日から。あんたの前では身体が全部喋る。隠す場所がない」
また窓の外を見た。
「あの排水溝もそうだ。黙ってやれると思った。フリッツに口止めした。あんたに気づかれたくなかった」
「なんで」
「気づかれたら理由を聞かれる。理由を言えば、こうなる」
「こうって——」
「こうだ。全部見透かされて、首筋まで読まれて、逃げ場がなくなる」
沈黙。
クラウスの手が膝の上で握られた。開いた。また握られた。
——身体は嘘をつけない。この人の手も、首も、全部正直だ。言葉だけが嘘をつこうとして、身体が片端から裏切っている。
「……分かりましたよ」
声に出した。
クラウスがこちらを向いた。
「そこまで身体に言われたら、残るしかないじゃないですか」
クラウスの目が見開かれた。一瞬。
「……誰もそんなことは言っていない」
言った。声は低い。いつもの調子に戻そうとしている。
でも首筋の脈が——跳ねた。さっきより速い。明らかに速い。
口が「言っていない」と言っている。身体が「嬉しい」と叫んでいる。
(——ほら。やっぱり嘘をつけない)
「言ってますよ。口は言ってないけど、全身で言ってる」
「黙れ。医者の癖に感じが悪い」
「二回目です、それ」
クラウスが口を閉じた。開こうとした。閉じた。喉が動いた。
言葉を探している。いつもなら三秒で皮肉が出てくるこの人が、何も出てこない。
それが答えだった。
廊下の奥で、微かに足音が止まった。フリッツだろう。入ってこない。入ってこないが、気配がある。ずっとそこにいたのかもしれない。
「フリッツ」
クラウスが廊下に向かって声を上げた。
「……聞いていたな」
間があった。
「お言葉ですが——聞こえてしまいました」
「……感想は」
「お茶をお持ちいたします」
足音が遠ざかった。静かに。穏やかに。
クラウスが天井を見た。
「……あの男は、こういう時に余計なことを言わん」
「余計なことを言わない人は、あなたの周りに多いですね」
「あんたは余計なことしか言わない」
「余計じゃないです。全部診断です」
「診断と言えば何でも許されると思うな」
「許されてますよ。今、嬉しそうなので」
「嬉しそうに見えるのか。この顔が」
見えない。表情は変わっていない。いつもの飄々とした顔だ。
でも首筋の脈は落ち着き始めていた。さっきの速さが嘘のように、穏やかなリズムに戻っている。
安心した人の脈だ。
「顔は見えません。脈で分かります」
「…………」
「身体は嘘をつけませんね。お互い」
お互い、と言った。
言ってから気づいた。自分の鼓動も、さっきからずっとうるさい。手首を取られているわけでもないのに、自分の脈が聞こえている。城壁が見えた時から。診療所の扉を開けた時から。この部屋に入った時から。
ずっと、速かった。
自分の身体の声を、自分だけが聞いていなかった。
フリッツが茶を持って入ってきた。二人分。盆を置いて、一礼して、出ていった。出ていく時に、ほんの少しだけ——口の端が動いたのを、見逃さなかった。
***
屋敷を出た。
日が傾いていた。秋の空が広がっている。
歩いた。裏通りを抜けて、市場の脇を通って。カイルが手を振って、薬草屋の店主が「おい、甘草の話は本当か」と叫んで、子供が溝の縁を走っていた。
診療所の灯りが見えた。
扉を開けた。
「おかえりなさい! ——あれ、さっきもおかえりなさいって言いましたっけ」
「言った」
「じゃあ二回目の!」
「ただいま」
卵の焼ける匂いがした。リーナの鼻歌が聞こえる。音程が怪しい。
椅子に座った。硬い椅子。宮廷の椅子より硬い。でも座り慣れている。
ポケットの中の復帰令に触れた。
(仕舞っておこう。捨てはしない。でも使わない)
目を閉じた。明日の患者は三人。一人目は誰だろう。どんな症状だろう。
考えながら、少しだけ笑った。
自分が笑っていることに、気づいた。
お読みいただきありがとうございました。
本作の【完全版】を公開しました。
序盤はほぼそのままです。変わっていても数行です。ただ、その数行に仕込んだものがあります。
クラウスが王子であること。鉛を仕込んだのが誰で、なぜだったのか。甘草がこの国で禁忌になっている理由。あの病が本当に「生まれつき」だったのか。
全部、書きます。
エリカは王宮に行きます。
以下完全版リンク
https://ncode.syosetu.com/n6238md/
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