第7話 共鳴——ラベル・ソナーレ、覚醒
幕間 翌朝のこと
ザザントを出た翌朝。
ラベルは誰よりも早く起きていた。
野営地の端、岩の上に座って、深緑のノエルを膝の上に置いていた。
夜明けの光が海を照らし始めていた。波が規則的に打ち寄せ、潮の匂いが風に乗ってくる。鳥の声が遠くから聞こえる。
ラベルはノエルを見た。
昨夜あれだけのことが起きたのに、楽器は今朝も穏やかだった。弦の光が、朝日を受けてゆっくりと脈打っている。昨日と同じだ。まるで——最初からそこにあったかのように。
(ずっとここにいたんだな、ノエル)
(百年間——俺を待ってた)
ラベルは回転盤に手を当てた。
昨日は覚醒の力で弾けた。しかし今朝は——その力はない。ただの自分の手だ。技術もない。経験もない。
でも——弾いてみた。
*ギィイン——*
不格好な音が出た。音程が定まらない。回転盤の速度が揺れて、音がかすれる。
しかし。
精霊の気配が——揺れた。
(来ようとしてる)
(まだまだ下手なのに——来ようとしてる)
「下手だな」
後ろからドノヴァンの声がした。
「起きてたの?」
「お前が起きたから目が覚めた」ドノヴァンは隣の岩に腰を下ろした。「音楽の経験は?」
「ない。楽器を触ったことがなかった」
「そうだな」ドノヴァンは肘をついた。「じゃあ当然だ。スペリングネイルと一緒で——才能は入口で、そこから先は修練だ」
「覚醒した時は弾けてたのに」
「覚醒の時は精霊がサポートしてたんだろう。今は自分だけだ」ドノヴァンは言った。「自分の足で立てるようになってから、精霊の力を借りるのが正しい順序だ」
「……厳しいな」
「甘いことを言っても仕方ない」
「でも——精霊が来ようとしてた。今も」ラベルはノエルを見た。「下手くそなのに」
「そうだな」ドノヴァンは少し考えた。「精霊はな、技術より——意図を読む。お前がノエルを通じて何を言いたいかを、感じ取ろうとしている。技術が足りなくても、意図が本物なら来る」
「意図が本物……」
「お前の昨日の覚醒を見て、俺もそう思った」ドノヴァンは立ち上がった。「続けろ。朝飯の準備ができたら呼ぶ」
「ありがとう、ドノヴァンさん」
「礼はいらない。うまくなったら聴かせてくれ」
ドノヴァンは歩き去った。
ラベルはもう一度、ノエルの弦を鳴らした。
今度は少しだけ——さっきより整った音が出た気がした。
一 次の道へ
朝食の後、ウィークが全員に向けて言った。
「今日から——パレスノアへの帰路につく。その後、次の目的地に向かう」
「次はどこだ」ドノヴァンが問う。
「ラメント王国を経由して、隣の国——ラメント王国管轄のダンジョンがある」ウィークは書物を開いた。「書が示している。海岸ダンジョン「ザザント」の次は——」
「もう次があるの?」ラベルが言った。
「攻略は続く。書の達成度を上げなければならない」
「今はいくつ?」
「八十五パーセント。初級コンプリートまで、あと十五パーセントだ」
「何が必要?」
「次のダンジョンで得られる素材と精霊のカタログ化が、残りを埋める」ウィークは言った。
「ただし——その前に、コメット辺境伯への報告と、ラメント王国での用件がある」
「ラメント王国での用件——ヴェルナさんへの密書はもう届けたけど」
「別の用件だ」ウィークは静かに言った。「お前に、音楽師を紹介したい」
ラベルは目を丸くした。
「音楽師?」
「ノエルを弾けるようになるためには、基礎が必要だ。私には教えられない」
「師匠が教えられないことがあるの?」
「音楽に関しては——私は専門家ではない」ウィークは答えた。
「適切な者に学ぶべきだ」
「どんな人?」
「一筋縄ではいかない人物だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
ラベルは少し不安になりながら、カイを見た。
「カイは——来てくれる? 今日から」
「言っただろう。ついていくと」
「昨夜言ったこと、今朝も本気?」
「俺は言ったことを変えない」
「よかった」ラベルは言った。「一緒に行こう」
二 道中の修練
パレスノアへ向かう道。
ラベルは荷馬車の荷台でノエルを弾き続けた。
馬車が揺れる。道が凸凹になる。そのたびに音が外れる。
しかしラベルは止めなかった。
「揺れでも弾くのか」カイが荷台の端から言った。
「揺れに慣れれば、戦闘中でも弾けるかもしれない」ラベルは弾きながら答えた。
「師匠もそう言ってた」
「それは一理ある」
「うまくなったら、カイに聴かせるよ」
「聴かなくていい」
「そんなこと言うな」
「下手な音楽を聴く趣味はない」
「じゃあうまくなるしかないな」
カイは何も言わなかった。しかし——目を閉じていた。耳を澄ませているような顔で。
(聴いてるじゃないか)
ラベルは少し笑いながら、弾き続けた。
夕方の休憩時間。
ラベルが弾いていると、精霊の気配が来た。
ドノヴァンが気づいて言った。
「来てるな」
「うん。下手なのに」
「さっきの話の続きだが」ドノヴァンは腕を組んだ。「精霊が来る理由が、もう一つある」
「なに?」
「ノエルだ」ドノヴァンは楽器を見た。
「あの楽器は——百年間、ソナーレの音楽を待ってた。やっと来た、と思ってる。多少下手でも、関係ない。主が来たんだから」
「ノエルが俺を主と認めてる、ということ?」
「そういうことだ」ドノヴァンは言った。
「しかし——甘えるな。ノエルが認めているのは、お前の血だ。お前の技術は、これから作るものだ」
「厳しいな、ドノヴァンさんは」
「師匠の知り合いに、厳しくない人間はいない」
「そうかもしれない」
ウィークが御者台から言った。
「揺れでも弾けるようになってきたな」
「師匠が褒めてる」ラベルは少し驚いた。
「事実を言っているだけだ」
「さっきも同じこと言ってた」
「事実が変わらないのだから、言葉も変わらない」
ラベルは笑いながら、また弦を鳴らした。
三 パレスノアへの帰還
四日後、一行はパレスノアに戻った。
コメット辺境伯が自ら出迎えていた。
「無事で何よりだ」コメットは全員を見回し、カイで視線を止めた。「こちらは——新しい仲間か」
「カイといいます」カイは短く答えた。
「いい目をしている」コメットは言った。「ラベルの言葉を思い出す目だ」
「俺と同じ目?」ラベルが聞いた。
「生きた目だ」コメットは微笑んだ。「中に入れ。話がある」
応接室。
ウィークがブランガとザザントの攻略報告、そして帝国偵察部隊との遭遇を簡潔に伝えた。
コメットは全て聞いた後、静かに言った。
「ラベルが覚醒したか」
「はい」
「そうか」コメットはラベルを見た。「顔が変わった」
「変わった?」ラベルは少し驚いた。
「前回会った時より——芯がある」コメットは言った。「何かを掴んだ顔だ」
「……掴んだかどうかは、まだわからないんですが」
「掴んでいる者は、たいていそう言う」コメットは笑った。
「掴んでいないと思っている者の方が、実は掴んでいることが多い」
(掴んでいる——)
(ノエルのこと、ソナーレのこと、母さんのこと——色々わかったことはある。でも、まだ全部じゃない)
「ウィーク殿」コメットが話を続けた。「次の行き先は決まっているのか」
「はい。ラメント王国を経由して——次のダンジョンへ」
「音楽師の紹介もするのだったな」
「ご存知でしたか」
「テレーズのことなら、パレスノアにいる人物だ」コメットは少し複雑な顔をした。
「……一筋縄ではいかないぞ」
「わかっています」
「どんな人なんだろう……」ラベルは不安そうに言った。
「お前を気に入るとは思う」コメットは言った。「ただし——最初は怒鳴られる可能性が高い」
「怒鳴られる!?」
「それがあの人の挨拶代わりだ。気にするな」
四 テレーズ
翌日の午後。
ウィークがラベルを連れて向かったのは、パレスノアの城壁の内側——街の東端、市場から少し外れた路地の奥だった。
石造りの建物が密集した一角。
洗濯物が路地を横切って干されていて、猫が石畳の上で丸くなっている。
「こんなところに音楽師が?」
「住んでいるというより——居ついている」ウィークは路地の奥へ歩きながら言った。
「違いがわからない」
「会えばわかる」
行き止まりのような場所に、古い木の扉があった。
ウィークが扉をノックした。
返事がない。
もう一度。
返事がない。
三度目。
「うるさいッ!」
中から怒鳴り声がした。女の声だ。低くはないが、かなりの迫力がある。
「朝から何事ですか! 人が寝てるというのに!」
「テレーズ」ウィークが扉に向かって言った。「私だ」
沈黙。
それから——ガタンと派手な音がして、何かが倒れた気配がした。足音。扉が勢いよく開いた。
そこにいたのは——ラベルの想像とは全く違う人物だった。
年齢は——五十前後だろうか。しかし立ち姿に年齢を感じさせない張りがある。
背は高くはないが、肩幅があり、全体的に「太い」という印象だ。白と黒が混じった髪を後ろで乱雑に束ね、寝衣の上に羽織をひっかけただけという格好。
右手に持った大きな杯に、何かの液体が入っていた。
朝だというのに。
「ウィーク!」女は扉を押さえたまま叫んだ。「何年ぶりだと思ってる!
いきなり来て、いきなりノックして、いきなり私の名前を呼ぶのか!」
「三年ぶりだ。すまなかった」
「すまなかった、だけか!」
「二年と八ヶ月ぶりだ。すまなかった」
「細かくするな!」
女は怒鳴りながら、ウィークの腕を掴んで引き込んだ。ラベルは慌てて後に続いた。
五 テレーズの部屋
部屋の中は——混沌としていた。
楽器が、至るところにある。弦楽器、管楽器、打楽器
——ラベルが名前を知らないものも含めて、壁に立てかけられ、棚に積まれ、床に転がっていた。
その隙間に、楽譜が山積みになっている。机の上、椅子の上、床の上——どこにでも。
そして部屋の中央に、巨大な楽器が鎮座していた。鍵盤のある大型の弦楽器——見たことのない形だが、その存在感は圧倒的だった。
「座れ。どこかに椅子があるはずだ」
テレーズは楽譜の山を床に払い落として椅子を空け、どかりと自分の椅子に座った。杯を一口飲んで、ラベルを見た。
「こっちの小僧は誰だ」
「弟子だ。ラベルという」
「弟子」テレーズはラベルを頭のてっぺんから爪先まで見た。「覚醒したてか?」
「昨日——じゃなくて、二日前に」ラベルは思わず正直に答えた。
「ほう」テレーズの目が、ラベルの抱えるノエルに向いた。「それを持ってるのか」
「はい」
「見せろ」
ラベルはノエルを手渡した。
テレーズはノエルを受け取った瞬間——動きが変わった。
さっきまでの荒々しさが、すっと消えた。両手で丁寧に持ち、弦を一本一本確認し、回転盤の状態を確かめ、木製の胴体の紋様を指でなぞった。その目が、深くなった。
「……本物だな」テレーズは低い声で言った。「深緑のノエル——話には聞いていたが、実物は初めて見る」
「知ってるんですか?」
「ソナーレ王家の楽器だ。音系創造魔法の媒体——知らない音楽師の方が珍しい」テレーズはノエルをラベルに返した。「ただ、実在するとは思っていなかった。百年前の話だからな」
「実在しました」
「見ればわかる」テレーズは椅子に深く座り直した。
「で、ウィーク。お前が私に何を頼みに来たか——言わなくてもわかるぞ」
「わかるなら話が早い」
「この子にノエルを教えろということだろう」テレーズは杯をぐるりと回した。
「しかし——私はハーディ・ガーディの専門家ではない。ノエルは特殊な楽器だ。普通の教え方が通用するかどうか」
「通用しなくてもいい」ウィークは言った。
「音楽の基礎だけでいい。旋律の作り方、声との組み合わせ方——それだけ教えてくれれば、後はラベルとノエルが自分たちで発展させる」
「なるほど」テレーズはラベルを見た。「弾いてみろ」
「え、今ですか?」
「今だ。上手い下手は関係ない。どんな状態か見る」
ラベルはノエルを構えた。
回転盤を回す。弦を押さえる。昨日から練習していた、まだぎこちない旋律——
テレーズが、途中で手を上げた。
「止めろ」
ラベルは止めた。
「歌は」
「歌いながら弾けますけど」
「やれ」
今度は歌いながら弾いた。母から受け継いだ旋律に、ノエルの音を重ねる。昨日より少しだけ形になっている。精霊の気配が、部屋の隅で揺れた。
テレーズが、また手を上げた。
「止めろ」
ラベルは止めた。
テレーズはしばらく、何も言わなかった。
「……ウィーク」
「なんだ」
「この子——楽器の経験が全くないのに、声が音楽を知っている」
「そうだ」
「生まれつきか?」
「正確には——十年以上、胸の中で温め続けてきた旋律がある」
テレーズは杯を置いた。
「事情は後で聞く」テレーズはラベルを見た。「私が教えられることを教えよう。ただし——」
「ただし?」ラベルが問う。
「私のやり方に口を出すな。泣いても怒鳴り返す。逃げても追いかける。帰りたくなっても帰らせない」
「……どのくらいの期間ですか?」
「何日ある?」ウィークに向く。
「出発まで二日だ」
「二日」テレーズは顔をしかめた。
「話にならん。しかし——やるしかないなら、やる。二日で基礎の基礎だけ叩き込む」
「よろしくお願いします」ラベルは頭を下げた。
「礼儀は悪くないな」テレーズは立ち上がった。
「では今すぐ始める。ウィーク、お前は邪魔だ。出て行け」
「承知した」ウィークはあっさりと立ち上がり、扉に向かった。
「夕方迎えに来る」
「来なくていい」テレーズが言った。「終わったら自分で帰らせる」
「わかった」
扉が閉まった。部屋の中に、ラベルとテレーズだけが残った。
テレーズはラベルを見た。
「座れ。まず聞く——お前は、音楽が好きか?」
「好きだと思います。でも——長い間、怖かった」
「怖い? 音楽が?」テレーズが眉を上げた。
「聴くと、思い出したくないことを思い出しそうで」
「それは今も?」
「今は——少し違う」ラベルはノエルを見た。
「ノエルと共鳴してから、音楽が——怖くなくなった気がする。まだちゃんと弾けないけど、怖くはない」
テレーズは少し黙っていた。
「そうか」やがて、静かに言った。
「では——今日から、音楽はお前の怖いものじゃなくなる。私が保証しよう」
その言葉が——妙に、頼もしかった。
六 嵐のような二日間
テレーズの教え方は、確かに一筋縄ではなかった。
最初の一時間は、弾かせなかった。
「まず聴け」
テレーズが中央の大型楽器に向かった。その巨大な鍵盤楽器から、音が流れ出した。
それは圧倒的だった。一人の人間が奏でているとは思えない音の厚みと深さ。
旋律が層を重ね、和音が空気を震わせ、ラベルの胸の中に直接流れ込んでくるような感覚。
ラベルは動けなかった。
音楽を怖いと思っていたはずが——聴いている間中、ただ音の中にいた。
テレーズが弾くのを止めた。
「今何を感じた」
「……大きかった」ラベルは答えた。
「波みたいだった。音が、波みたいに来て——体の中を通って行った」
「それが音楽だ」テレーズは言った。「技術じゃない。まずそれがわかればいい」
次の一時間は、音を出させた。ノエルの弦、一本ずつ。テレーズが音を確認し、押さえる位置を修正し、回転盤の速度を調整した。楽器の扱いの基本を、丁寧に——しかし容赦なく、繰り返させた。
「違う。もう一度」
「そこじゃない。指を一ミリ右にずらせ」
「回転が速すぎる。もう少し落とせ」
テレーズの指摘は的確で、容赦がなかった。同じ箇所を十回繰り返させることも珍しくなかった。
ラベルは黙って従った。
文句は言わなかった。言う暇がなかった、というのが正確かもしれない。
昼に一度休憩が入った。テレーズが路地の屋台から食べ物を買ってきて、乱雑に机に置いた。
「食え。食わないと動かない体になるぞ」
「テレーズさんは——音楽師として、どのくらいやってるんですか?」
「四十年だ」
「四十年」ラベルは素直に驚いた。「いつから?」
「十歳から弾き始めた。師匠に死ぬほどしごかれた。二十歳で師匠を超えた。三十歳で帝国の宮廷に招かれた。三十五歳で宮廷を出た」
「宮廷を出たの?」
「出た」テレーズは食べ物を口に押し込んだ。「帝国の宮廷で演奏するのが嫌になった。権力者の娯楽のために弾くのは、私の音楽じゃない」
「それでパレスノアに?」
「流れ流れてここに居ついた。コメットが放っておいてくれるから、都合がいい」テレーズは杯を持ち上げた。「辺境伯は音楽の素養がないが——音楽家を邪魔しないことは知っている。それだけでいい」
「帝国の宮廷にいたんですね」ラベルは少し考えて言った。
「じゃあ——ソナーレのことも、知ってるんですか?」
テレーズの手が、一瞬止まった。
「少しはな」
「帝国がソナーレを消したことも?」
「知っている」テレーズは杯を置いた。「宮廷にいた頃——古い記録を見たことがある。帝国が意図的に消去した歴史の欠片を。ソナーレという名前も、そこで知った」
「それが——帝国を出た理由の一つですか?」
テレーズはラベルをしばらく見た。
「鋭いな、お前は」
「違いますか?」
「違わない」テレーズは静かに言った。
「帝国が何をしたかを知って——その帝国のために弾くのが、嫌になった。それだけだ」
「だから——俺に教えてくれるんですか?」
「お前が来る前から、答えは決まっていた」テレーズは言った。
「深緑のノエルが戻ってきたなら——私が持っているものを、渡す義務がある。そう思ったんだ」
「義務?」
「音楽師としての義務だ」テレーズは立ち上がった。「さあ、続けるぞ。休憩は終わりだ」
七 誠実な音楽
午後の稽古は、さらに激しかった。
テレーズは今度は声に集中した。
「歌いながら弾け」
「やってみます」
「違う。歌と楽器が別々だ。どちらかを聴きながら、もう一方を合わせろ——そうじゃない。両方が同じ場所から来なければならない」
「同じ場所から——?」
「胸の中心だ。そこから声も音も出せ。技術は後からついてくる。まず源を一つにしろ」
ラベルは何度も試した。
声が楽器に引っ張られる。楽器が声についていけない。どちらかが崩れる。崩れると焦る。焦るとさらに崩れる。
「落ち着け」テレーズが言った。「崩れたことを気にするな。次の音から立て直せ。音楽は——一度崩れたら終わりじゃない」
「崩れても続けていいんですか?」
「崩れながら進むのが音楽だ」テレーズは断言した。「完璧な音楽などない。あるのは——誠実な音楽と、不誠実な音楽だけだ」
「誠実な音楽?」
「誤魔化すな、ということだ」テレーズは続けた。「上手くできなくても、隠そうとするな。そのまま出せ。聴いている者には、誤魔化しの方がよほど不快だ」
その言葉が——ラベルの中で、何かを解いた。
上手くなければいけないと、どこかで思っていた。覚醒したばかりで、ノエルと共鳴できたのに、技術が追いついていなければいけないと。
でも——そうじゃない。(今の俺の音を、そのまま出せばいい)
もう一度、弾き始めた。
歌いながら。声と楽器を、胸の中心から。
崩れた。直した。また崩れた。また直した。
しかし——今度は、焦らなかった。
テレーズが、黙って聴いていた。
部屋の隅で——精霊の気配が、ゆっくりと集まってきた。完璧な旋律ではない。ぎこちなくて、時々音が外れて——でも精霊は来た。
「……そうだ」テレーズが静かに言った。
「それだ」
八 二日目
二日目は、夜まで続いた。
テレーズはラベルに様々な旋律を聴かせ、真似させ、変形させ、自分なりに作らせた。
「この旋律を聴いて——お前が感じたことを音にしろ」
「感じたことを?」
「言葉にするな。音にしろ」
それが一番難しかった。感情を音に変換する。言語を介さずに、直接。
ラベルは何度も失敗した。
しかし——何度目かの挑戦で、ふとできた瞬間があった。
テレーズが聴かせた旋律が悲しいと感じて、その悲しさをそのまま弦に乗せた。声に乗せた。うまくはない。でも——確かに、悲しみが音になった気がした。
精霊が——その音に反応した。
部屋の空気が、一瞬だけ変わった。
「今のを感じたか」テレーズが言った。
「感じました」
「精霊が応えた。お前の音の感情に」テレーズは言った。
「これがソナーレの力の本質だ。技術は道具だ。感情が、魔力の源だ」
「感情が魔力?」
「お前の音系創造魔法は——感情と精霊がシンクロすることで発動する」テレーズは続けた。
「強い感情が、より強い精霊を引き寄せる。だからソナーレの王たちは——悲しみも、喜びも、怒りも、全てを音楽に変えることができた」
「全部が、力になる」
「全部がだ」テレーズはラベルを見た。「お前が背負っているものを——全部音にしろ。母親への想い、失われた記憶、覚醒の喜び、帝国への怒り——全部だ。それがお前の武器になる」
(全部が、武器になる)
それはウィークが言った言葉と——重なっていた。
傷も、力になる。
九 別れ際
二日目の夜が更けた頃、テレーズが「今日はここまでだ」と言った。
ラベルはへとへとだった。体より——頭が疲れていた。これほど集中して何かに取り組んだことが、今まであったかと思うほどに。
「テレーズさん」ラベルはノエルを片付けながら言った。
「ありがとうございました」
「礼はいい」テレーズは大型楽器の前に座ったまま言った。
「二日で何かが劇的に変わるとは思うな。ただ——方向は示した。後は自分で歩け」
「はい」
「一つだけ覚えておけ」テレーズは鍵盤を一つ、指で押さえた。
「音楽に終わりはない。上手くなったと思った瞬間に、まだ先があることがわかる。それが音楽だ。嫌になるな」
「なりません」ラベルは言った。「だって——まだ始まったばかりだから」
テレーズが、初めて——笑った。
豪快な、しかしどこか温かい笑い方だった。
「気に入った、お前は」テレーズは言った。「ウィークが連れてくる弟子にしては、まともだ」
「師匠の弟子は他にいたんですか?」
「昔一人いた。ひどい性格だった」
「ドノヴァンさんですか?」
「お前も知ってるのか」テレーズは眉を上げた。
「そうだ。あいつも私のところに来たことがある。楽器を教えてほしいと言うから教えてやったら——三日で出て行った」
「三日で?」
「向いていないと悟ったらしい。判断は早かった」テレーズは肩を竦めた。
「あいつは指先の才能は別のところにあるからな」
「師匠はドノヴァンさんのことも知ってるんですね」
「ウィークの周りに集まる人間は、大抵どこかで繋がっている」テレーズは言った。
「あいつはそういう人間を引き寄せる」
「師匠が?」
「お前も気づいているだろう」テレーズはラベルを見た。「ウィークの周りには——何かを探している人間が集まる。失ったものを、あるいは自分の答えを。そしてウィークはそれを——直接与えるんじゃなく、自分で見つけさせる」
「……そうかもしれない」ラベルは静かに言った。
「俺も——師匠に教わったのに、自分で見つけた気がする、色々」
「それがあいつの流儀だ」テレーズは続けた。「だからあいつの弟子になるのは、楽じゃない。答えをくれないからな。ただ——正しい方向だけは、示す」
「師匠のことが、好きなんですか?」
テレーズは少し間を置いた。
「嫌いじゃない」
「それって——」
「それだけだ」テレーズは立ち上がった。「帰れ。明日は出発だろう」
「はい」ラベルは立ち上がり、扉に向かった。
「ラベル」
振り返ると、テレーズがノエルを見ていた。
「その楽器は——お前に合っている。大切にしろ。そしてたくさん弾け。ノエルは、弾かれれば弾かれるほど、お前と深くなる」
「深くなる?」
「楽器は——使い手を覚える。長く共に在れば在るほど、お前の声を知り、お前の感情を知り、お前が何を音にしたいかを先に理解するようになる」
「ノエルが、俺を覚える」
「そういうことだ」テレーズは視線をラベルに向けた。
「百年間待っていた楽器だ。覚えることが——山ほどあるだろう」
ラベルはノエルをしっかりと抱えた。
「行ってきます」
「行ってこい」テレーズは素っ気なく言った。「——無事で戻れ」
扉を出た路地は、夜の空気に満ちていた。
遠くで波の音がする。
ラベルは空を見上げた。
星が多かった。
ノエルの弦が——夜風を受けて、微かに鳴った。
十 出発の朝
翌朝。
パレスノアの城門前に、キャラバンの準備が整っていた。
コメット辺境伯が自ら見送りに来た。
「道中、気をつけてくれ」コメットはウィークに言った。
「はい」
「テレーズのことは——彼女なりに、真剣に教えてくれただろう」
「そうだと思います」
「あの女が二日も付き合ったのか」コメットは苦く笑った。「珍しいな」
「何か理由があったようです」
「ソナーレの音楽が戻ったことが——あの女にとって、どれほどの意味を持つか」コメットは遠くを見た。「私にはわからないが、音楽師にはわかるのだろう」
ラベルはノエルを抱え直した。
「行ってきます」
「うむ」コメットは頷いた。「——音楽は、生きている間中続けられる。剣と違って、年を取っても衰えない」コメットは少し笑った。「羨ましいことだ」
馬車が動き始めた。
城門をくぐる。パレスノアの街が、背後に遠ざかっていく。
ラベルは荷台からその城壁を見ていた。
ノエルを取り出した。
馬車の揺れの中で、そっと回転盤を回す。
まだぎこちない。でも——昨日よりは、音が繋がる気がした。
「練習するのか」ドノヴァンが言った。
「道中でできることをやっておきたい」
「揺れるぞ、馬車は」
「揺れても弾けるようになれば——戦闘中でも弾けるかもしれないし」
「……なるほど」ドノヴァンは少し考えた。
「確かにそうだな」
ウィークが御者台から言った。
「揺れに慣れることは、悪い練習ではない」
「師匠も賛成ですか」
「ただし——あまりにひどい音が続くようなら、止めてもらう」
「それは——厳しい条件ですね」
「蒸し返すな」
ラベルは少し笑いながら、弦を押さえた。
十一 カイとの会話
道中、カイがラベルの隣に座ってきた。珍しいことだった。いつもは荷台の端に一人でいる。
「弾いてもいいか、聴きながら」
「もちろん」ラベルは少し驚きながら言った。
「下手でも気にしない」カイは言った。
「さっきは下手な音楽を聴く趣味はないって言ってた」
「気が変わった」
ラベルは笑って、弦を鳴らした。
揺れる馬車の中で、旋律が流れた。まだ拙い。でも——誠実に弾いた。テレーズが教えてくれた言葉通りに。
「……父さんの旋律に、少し似ている」カイが静かに言った。
「そうなの?」
「ソナーレの血から来ているものが、同じだからかもしれない」カイは空を見た。「父さんは音楽の才能はなかった。でも——鼻歌を歌っていた。稽古の時、気づいたら歌っていた」
「剣と音楽が、一緒にあったんだ」
「そうだな」
少しの間、二人とも黙っていた。
馬車が揺れ、旋律が続いた。
「カイ」ラベルは弾きながら言った。
「なんだ」
「一緒に来てくれて——ありがとう」
カイはしばらく答えなかった。
「礼を言うな」やがて言った。「俺が来たかったから来た」
「それでも」
「……そうか」カイは短く言った。
その声が——少しだけ、柔らかくなっていた気がした。
十二 次の地へ
その夜の野営地。
ウィークが書物を確認した。
新しいページが開いていた。
ラベル・ソナーレ——音系創造魔法・初期段階。成長を確認。
次段階への条件:継続的な精霊との接続と、魔力楽器「ノエル」との深化。
推奨:演奏の継続と、精霊との対話。
次の攻略目標——
ウィークはページを読んだ。
A級ダンジョン「ドラン」——アルメア王国管轄。第一の試練への序章。
まず向かうべき場所:カルセラ——そこで待つ者がいる。
「待つ者……」ウィークは静かに呟いた。
ラベルが焚き火を前に、ノエルを弾いていた。
まだぎこちない。でも——一週間前の、廃村にいた少年とは全く違う姿だった。
(お前は——確かに、進んでいる)
ウィークは書物を閉じた。
夜風が、キャラバンの天幕を揺らした。
精霊たちが——ラベルの旋律に応えて、光の粒となって舞い始めた。
カイが遠くから、その光景を見ていた。
ドノヴァンが腕を組んで空を見ていた。
(ここから——本当の旅が始まる)
(覚醒した少年が、音楽王になるまでの道が)
ラベルは弾き続けた。
夜が、静かに更けていった。
第7話 了
次話予告
第8話「帰路と密書、そして新たな影——アルダ・フォン・ソナーレからの接触」
カルセラへ戻る道中、一行に届いた一通の手紙。
差出人は——帝国の内部にいるソナーレの末裔、アルダ・フォン・ソナーレ。
「音が戻ったなら、扉を開く時が来た」
帝国の内側から、接触を求めてきた者は何を知っているのか。
そしてコメット辺境伯の元に届く、新たな密書——
帝国枢密院が、いよいよ動き始めた。




