第4話 辺境伯の密書と、覚醒の予兆——エルシナの吟遊詩人
幕間 帰路の馬車
ブランガを出て、パレスノアへ戻る道。
夕暮れが赤土の道を橙に染めていた。
荷馬車の荷台で、ラベルは足を投げ出して空を見ていた。体のあちこちが痛い。素材の詰まった袋を何度も運んだせいで、腕が重だるい。しかし——悪くない疲れだった。
「なあ、ドノヴァンさん」
「なんだ」
「師匠って、いつもああいう戦い方をするの?」
「ああいう戦い方、って?」
「殺さない。無力化する。でも——完璧に止める」
「そうだな」ドノヴァンは少し考えた。
「師匠は必要以上のことをしない。必要以上に傷つけない。でも——必要なことは、絶対にやる。昔からそうだった」
「昔から、か」ラベルは空を見たまま言った。
「ドノヴァンさんは、師匠とどのくらい前から知り合いなの?」
「俺が召喚された最初の時から」ドノヴァンは答えた。
「何年前か、正確には言えない。俺にとっては召喚のたびに瞬間が繋がるだけだからな」
「ギフト召喚って、不思議だよね。ドノヴァンさんは召喚されない時、どこにいるの?」
「俺にもわからん」ドノヴァンは肩を竦めた。
「気づいたら召喚されて、終わったら消える。その間の記憶はない。不思議といえば不思議だが——慣れた」
「慣れるものなのか」
「慣れなければ、やってられない」ドノヴァンは笑った。
「師匠も同じようなことを言ったな、昔」
「師匠が?」
「慣れることが、続けられる唯一の理由だ——ってな」
(慣れること——)
(師匠にも、慣れなければならないことがあるのか)
ラベルはそれ以上は聞かなかった。
夕陽が、遠くの山の向こうに沈んでいった。
一 パレスノアへの報告
翌日の昼過ぎ、一行はパレスノアに戻った。
コメット辺境伯が応接室で待っていた。前回より表情が少し明るい。しかし——その奥に、何か考えていることがあるような目だった。
「無事で何よりだ。攻略は成功したか」
「はい」ウィークが簡潔に答えた。
「ブランガの精霊カタログ化、素材の採取、そして帝国偵察部隊十二人の無力化——全て完了しました」
「十二人か」コメットは頷いた。
「前回の七人より増えていたか」
「帝国の本腰の入れ方が変わっています。ブランガへの関心が高まっている」
「それは——予想していた」コメットは机の上に手を組んだ。
「実は、お前たちの帰りを待っていた理由が、もう一つある」
「密書が届いたのですか?」ウィークが先に言った。
コメットの眉が、僅かに上がった。
「……情報が早いな。いつ知った?」
「今、判断しました。辺境伯の表情から」
「——機工士のセンサーか」
「いえ、長年の経験です」
コメットは苦く笑った。
「まったく、読めない男だ」コメットは封書を取り出した。
「ラメント王国から届いた。ラメント王国の北部沿岸——港湾都市カルセラに関する情報だ」
「カルセラ」ウィークは静かに繰り返した。
「帝国がカルセラへの影響力を強めている。商業を通じた経済浸透——表向きは友好的な取引だが、実態は支配だ。カルセラが帝国の手に落ちれば、ラメント王国全体が帝国の経済圏に取り込まれる」
「つまり——ラメント王国を通じて、シーラ王国にも影響が及ぶ」
「そうだ。私の隣国が侵食されるのは、黙って見ていられない」
コメットは封書をウィークに渡した。
「私の旧友がカルセラにいる。ヴェルナという男だ。
彼への密書を届けてほしい。ヴェルナはカルセラで一定の影響力を持つ。彼が動けば——状況が変わるかもしれない」
「引き受けます」ウィークは即座に答えた。
「それから——カルセラへ向かう途中、ラメント王国の王都エルシナを経由してくれ」コメットは続けた。
「エルシナでも動きがある。直接確認した方がいい」
「わかりました」
ラベルは黙って聞いていた。
(パレスノアから、また旅が始まる)
(師匠は——どんどん先へ進んでいく)
「ラベル」
コメットがラベルを見た。
「はい」
「前回と同じことを言うようだが——お前は大事なものを持っている」コメットは穏やかに言った。
「今日の顔は、前回より少し違う。何かが変わったな」
「……少し、変わったかもしれません」ラベルは言った。
「ブランガで——気づくことが行動だと、師匠に教わりました」
「なるほど」コメットは頷いた。
「それは——良い師匠だ」
「そうだと思います」
二 パレスノアの夜
その夜。
一行はパレスノアの宿に泊まった。
ドノヴァンは翌朝の出発前に召喚を一度解くと告げた。
「飯を食わせろ」というのが理由で、ウィークは「承知した」と答えた。
ラベルは宿の窓から、パレスノアの夜の街を見ていた。
見張り台に灯りがついている。城壁の上を、兵士が歩いている。
普通の街の夜景とは少し違う、緊張感のある夜だった。
ウィークがノックして入ってきた。
「眠れるか?」
「眠れると思う」ラベルは窓から振り返った。
「師匠は?」
「私は眠らなくてもいい」
「そうか——機械だもんな」
「今は、そういうことだ」ウィークは椅子に腰を下ろした。
「一つ聞いていいか」
「なんでも」
「今日——ブランガで、背後の気配を感じた時。声が出なかったと言っていたな」
「うん。叫べばよかったのに——なぜか声が出なかった」
「怖かったのか?」
「怖かった。でも」ラベルは少し考えた。
「怖さより先に——なんか、燃えてた。逃げたくないって気持ちが」
「その気持ちは、どこから来ると思う?」
「わからない。でも——師匠とドノヴァンさんが後ろにいるって、わかってた。だから燃えられたのかも」
「仲間がいるから、踏ん張れた、ということか」
「そう……なのかな」ラベルは窓の外を見た。
「師匠は一人でいた時期があるの?」
「ある」
「その時はどうだった?」
ウィークは少し間を置いた。
「今よりも、合理的だったと思う」ウィークは静かに言った。
「しかし——正しかったかどうかは、わからない」
「どういう意味?」
「一人でいる時、間違いに気づく者がいない」ウィークは言った。
「お前が今日、背後の気配に気づいたように——私一人では気づけないことが、きっとある。
それに気づいたのは——ドノヴァンと旅をするようになってからだ」
「師匠にも——気づけないことがあるのか」
「当然だ」
「それって——どんなこと?」
「一つだけ言う」ウィークは静かに言った。
「感情だ」
「感情?」
「私は感情の処理が得意ではない。論理と計算には慣れている。しかし——お前が今日、壁の前で燃えていた時の感情。あれを、私は自分一人では理解できなかっただろう」
(師匠が、自分の弱さを言った)
(珍しいことだ——と、ラベルは思った)
「俺が師匠に、感情を教えられるのか?」
「すでに教えてもらっている」ウィークは立ち上がった。
「眠れ。明日は早い」
「うん。おやすみ、師匠」
「おやすみ」
扉が閉まった。
ラベルは窓の外を見た。見張り台の灯りが揺れていた。
(師匠は——俺から何かを学んでいる)
(それが何かは、まだよくわからないけど)
(俺も師匠から学んでいる。だから——これが、旅なのかもしれない)
三 ラメント王国へ
翌朝、キャラバンはラメント王国へ向けて出発した。
ドノヴァンは一度召喚を解かれ、エルシナに近づいた頃に再度召喚される手筈になっていた。
「飯食ってる時は勘弁してくれ」という彼の言葉通りに。
ウィークとラベルの二人旅だ。
キャラバンの護衛が数名いるが、会話の相手というわけでもない。荷馬車の御者台に並んで座り、道が続く。南国の緑が、徐々に落ち着いた色合いへと変わっていく。
「ラメント王国は——どんな国なの?」
「文化と商業の国だ」ウィークは答えた。
「音楽、絵画、詩——そういうものが盛んな国で、帝国との直接的な軍事衝突を避け、文化的影響力で独立を保ってきた」
「文化で独立を守るのか」ラベルは少し考えた。
「剣や魔法じゃなくて?」
「剣や魔法が全てではない」ウィークは言った。
「文化は——人の心に根を下ろす。根を下ろしたものは、簡単には消えない」
「帝国は文化を消せないのか?」
「消そうとしてきた。ソナーレという王国が——百年前に、そのせいで滅ぼされた」
ラベルは聞いたことのない名前に、少し引っかかりを覚えた。
「ソナーレ?」
「今は、それだけ知っておけばいい」ウィークは前を向いたまま言った。
「いずれわかる」
(また、いずれ。師匠はいつもそう言う)
(でも——いずれ、ちゃんと教えてくれる。それはわかっている)
「音楽が盛んな国か」ラベルは呟いた。
「そうだ。エルシナの街では、朝から夜まで誰かが音楽を奏でているという」
「楽しそうだな」
「そうかもしれない」
四 エルシナの喧騒
三日後の午後、一行はエルシナに入った。
城門をくぐった瞬間、喧騒が一気に押し寄せてくる。
石畳の大通りに屋台が並び、色とりどりの布が風に揺れ、あらゆる言語が混ざり合って空気を満たしている。
しかしそれだけではなかった。
音楽が——あった。
街のあちこちから。窓から、路地から、広場から——それぞれが別の音楽を奏でていて、それが混ざり合って、街全体が大きな音楽になっているような。
「すごい人だ……」
荷台から乗り出したラベルが、目を輝かせた。
「馬車を預けて歩く。ヴェルナへの使いは夕方に済ませる」ウィークが言った。
「それまでは自由にしていい」
「え、いいの?」
「見知らぬ街を歩くことも、経験だ」
「じゃあ、少し見てくる!」
「迷うなよ」
「迷わない!」
威勢よく走り出したラベルの背中を、ウィークは静かに見送った。
五 広場の音楽
大通りを一本外れた、石畳の広場。
ラベルがそこに迷い込んだのは、半ば偶然だった。屋台の揚げ物の匂いに引き寄せられて路地を曲がり、気づいたらそこにいた。
円形の小さな広場。噴水を中心に、人が輪を作っている。
その中心に——吟遊詩人たちがいた。
三人組。一人が弦楽器を抱え、一人が管楽器を構え、一人が歌っている。歌い手は若い女性で、目を閉じて、何かに語りかけるような表情で声を紡いでいた。
旋律が、広場に流れ出す。
ラベルは足を止めた。
それは、不思議な感覚だった。
音楽が耳に入った瞬間——胸の奥の何かが、急に、動いた。
(この、曲——)
知っている。
いや、知っているというより——この旋律は、ラベルの内側の何かに直接触れてくるような感じがした。まるで鍵が鍵穴に差し込まれるように。まるで長い間閉じていた扉が、音もなく開こうとするように。
胸が、温かくなる。
同時に——痛かった。
なぜ痛いのか、ラベル自身にもわからなかった。
(なんで。なんでこんな——)
気づくと、拳を握っていた。
人波の端に立って、その音楽を聴いている。聴きたいのに——聴いていると、呼吸が浅くなる。目の奥が、熱くなる。
(音楽が——怖い?)
(違う。怖いんじゃない。でも——)
「おい、大丈夫か?」
声をかけられて、ラベルははっとした。
隣に、屋台の店主らしき初老の男が立っていた。心配そうな顔をしている。
「顔色が悪いぞ、坊主」
「……大丈夫です」
「本当か? ずっと立ったままだったが」
「少し——懐かしい気がして」
男は不思議そうな顔をした。
「この曲を知ってるのか?」
「知らないと思います。でも……なんか」
言葉が続かなかった。
広場の演奏が、続いていた。
六 夜の宿
夕方、ヴェルナへの使いを済ませた後、ウィークとラベルは宿に入った。
密書の受け渡しは滞りなく終わった。ヴェルナは白髪の穏やかな老人で、封書を受け取った後に
「コメットの頼みとあれば」と短く言い、カルセラへの情報協力を約束した。
夕食を済ませ、部屋に戻った後。
ラベルは窓辺に座って、外を見ていた。
エルシナの夜は明るい。通りの燭台が灯り、どこかで音楽が鳴っている。
昼間とは違う、静かな弦の音。
それを聴いていると——また、胸が痛くなった。
「ラベル」
振り返ると、ウィークが椅子に座ってこちらを見ていた。
「昼間、広場で何があった」
問いではなく、確認するような口調だった。
「……なんで知ってるの」
「見ていた」
「ずっと?」
「少しだけ」
ラベルは窓の外に視線を戻した。
「音楽を聴いてたら、変な気持ちになった。それだけだよ」
「変な気持ち」
「胸が——なんか、痛くなる。でも嫌いじゃない。嫌いじゃないのに、聴いてると苦しくなる」
ーーーー沈黙。
「音楽は嫌いか?」ウィークが聞いた。
「嫌いじゃない」ラベルはすぐに答えた。
「好きだと思う。たぶん。でも……」
そこで止まった。
ウィークは続きを促さなかった。ただ、静かに待っていた。
「……昔」
ラベルが、ゆっくりと口を開いた。
「俺が小さい頃、いつも歌ってくれる人がいた」
「誰だ」
「母さん」
短い言葉だった。
それだけで、ウィークには大体のことがわかった。
「毎晩、寝る前に歌ってくれてた。同じ曲をいつも。知らない言葉の歌だったけど、なんか好きで——今日、広場で聴いた曲と、少し似てた」
「似ていた、か」
「俺の記憶の中の曲と、全部が同じじゃないけど……旋律の感じが。なんか同じ場所から来てる気がした」
ラベルは膝を抱えた。
「母さんは——もういない」
それだけだった。
それ以上の説明を、ラベルはしなかった。いつ、どこで、どのように——そういう言葉は、一つも出てこなかった。ただ「もういない」という事実だけが、部屋の空気に溶けた。
七 師匠の言葉
「ラベル」ウィークは静かに言った。
「その歌を、今でも覚えているか?」
「……覚えてる。でも」ラベルの声が、少し低くなった。
「歌えない」
「なぜ」
「歌ったら——終わりになる気がして」
「終わりになる、というのは」
「母さんとの記憶の中にある歌だから」ラベルは窓ガラスに額を当てた。
「自分が歌ったら、それが上書きされる気がする。俺の声で塗りつぶされたら、母さんの声が聞こえなくなる気がして——」
声が、止まった。
喉の奥で、何かが詰まっている。
泣いているわけではなかった。ただ——言葉が、そこで尽きていた。
ウィークは立ち上がり、ラベルの隣の窓枠に腕をついた。二人で並んで、エルシナの夜を見下ろす。
「ラベル」
「……なに」
「記憶は、上書きされない」
静かな言葉だった。
「お前がその歌を歌ったとして——お前の母親の声が消えるわけではない。人の記憶はそういう構造をしていない」
「でも——」
「怖いんだろう」ウィークは続けた。
「その歌に触れることで、その頃の記憶全部が動き出すのが。抑えておいた何かが、溢れてくるのが」
ラベルは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「急がなくていい」ウィークは言った。
「歌いたい時に歌えばいい。歌えない間は、ただ聴いていればいい」
「……師匠は」ラベルがぽつりと言った。
「師匠の大事な人って、いるの?」
今度はウィークが、少し沈黙した。
「いた」
「いた、か」
「今はいない」
「……死んだの?」
「そうではない。ただ——私がこの形になった時、多くのものを置いてきた」ウィークは静かに言った。
「その中に、大事な人も、いた」
(この形、というのが——アーティファクトボディのことなのか)
(それとも、もっと別の何かのことなのか)
ラベルには、わからなかった。
しかし、聞き返さなかった。
師匠もまた——何かを抱えているのだということが、なんとなくわかったから。
「ねえ師匠」
「なんだ」
「俺って、覚醒したら——何かが変わるのかな」
「変わる」
「何が?」
「今お前の中にある全てが、形を持つ」ウィークは言った。
「力だけじゃない。感情も、記憶も、傷も——全部が、お前の一部として機能し始める」
「傷も?」
「傷も、力になる」
ラベルはその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
(傷が、力に——)
窓の外の音楽が、また少し変わった。
より静かな、夜に似合う旋律。
ラベルの胸の奥で——何かが、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
八 翌朝の広場
翌朝、出発の準備をしていた時。
ウィークが馬の確認をしている間に、ラベルは昨日の広場へ向かった。
朝の広場は静かだった。昨日の賑わいが嘘のように、噴水だけが音を立てている。
吟遊詩人たちはいなかった。
ラベルは噴水の縁に腰かけて、水面を見た。
誰もいない。
ラベルはしばらく、じっとしていた。
それから——小さく、口を開いた。
音にならない程度の、かすかな動き。ただ、唇が動いた。
かつて毎晩聞かされた旋律。ラベルの中に、何年もずっと眠り続けていた歌。
声には出さなかった。
でも——初めて、その歌に向き合った。
目の奥が、また熱くなった。
今度は——そのままにしておいた。
「ラベル」
背後からウィークの声がした。
「準備ができた」
「……うん」
ラベルは立ち上がった。目を一度、強くこすった。
「行こう」
ウィークは何も聞かなかった。
ただ、隣を歩いた。
二人の足音が、朝の石畳に重なった。
九 カルセラへ
エルシナの城門を出た時、潮の匂いがより強くなっていた。
東へ向かう道。海岸線に続く街道。荷馬車の上でラベルは前を向き、風を顔に受けた。
「師匠」
「なんだ」
「カルセラって、どんな場所?」
「港湾都市だ」ウィークは答えた。
「帝国の商人が多い。表向きはラメント王国の領土だが、実態は帝国の経済的影響下にある」
「危ない場所なの?」
「注意が必要な場所だ」ウィークは言った。
「しかし——見ておかなければならない場所でもある」
「ヴェルナさんが情報を持っているから?」
「それもある。しかし——書が、その先を示している」
「書が、カルセラの先を?」
「そうだ」ウィークは書物を取り出した。ページが微かに光っている。
「カルセラを経由した先に——ダンジョンがある。
B級ダンジョン「ザザント」。そこが次の攻略先だ」
「ザザントって、どんなダンジョン?」
「海洋系のB級ダンジョンだ。水と風の精霊が主だが——深部に行くほど性質が変わる」
「どう変わる?」
「ブランガとは違い、ザザントの精霊は古い。眠りが深い」ウィークは続けた。
「そして封印がある」
「何が封じられてるの?」
「わからない」ウィークは珍しく、そう答えた。
「書にも、まだ記されていない」
「記されてない、ってことは——書も知らないの?」
「知らないのではなく、まだ開示されていない、ということだ。達成度が上がれば——見えてくるかもしれない」
ラベルはそれを聞いて、少し考えた。
「師匠が知らないことって、あるんだ」
「たくさんある」
「意外」
「私は全知ではない」ウィークが言った。
「ただ、知らないことを知っている——それだけだ」
「じゃあ俺と同じだ」ラベルは言った。
「何が同じだ」
「俺も、知らないことは知ってる。でも知ってることはほとんどない」
ウィークはしばらく黙ってから、静かに言った。
「それは——違う」
「どこが?」
「お前は、知らないことを知っている上に——知ろうとしている。それが違う」
(知ろうとしている——)
(師匠は、そんなことを見ていたのか)
荷馬車が揺れた。
道の先に、海岸線が見えてきた。光る水面。白い波頭。
その手前——馬車の揺れに合わせてウィークの胸元で、聖ラジエルの書が微かに光った。
新しいページが、また一枚、開こうとしていた。
ラベルの胸の中でも——何かが。
確かに、開こうとしていた。
幕末 覚醒の予兆
その夜の野営地。
焚き火の前で、ラベルは一人でいた。
ウィークは書物に向かっていた。護衛たちは天幕に入っていた。
遠くで、波の音がした。
ラベルは空を見上げた。
星が多かった。
(母さんが歌ってくれた曲は——なぜ、俺の胸に痛みをくれるのか)
(怖いからじゃない。嫌いだからじゃない)
(たぶん——大切だからだ)
(大切なものを失うことが怖くて、だから触れられなかった)
(でも——触れないままでいたら、それは本当に消えてしまう)
ウィークが言っていた。
傷も、力になる。
記憶は、上書きされない。
歌いたい時に、歌えばいい。
ラベルは口を開いた。
声は出なかった。
でも——唇が、動いた。
(いつか——声に出して歌えるようになる気がする)
(その時が来たら——師匠に、聴いてもらいたい)
焚き火が、静かに燃えていた。
波の音が、遠くから届いていた。
旅は続く。
ラベルの中で、何かが——少しずつ、動き始めていた。
第4話 了
次話予告
第5話「波音のダンジョンと、失われた紋章——カイとの出会い」
カルセラの街で密書を届けた一行は、
次の目的地——海岸ダンジョン「ザザント」へ向かう。
しかしその入口で、一人の少年剣士と出会った。
名をカイ——流れ者の少年剣士。
その腰の剣には、見覚えのない紋章が刻まれていた。
それはラベルの、失われた過去と繋がっている——
覚醒の炎は、いよいよ目前に。




