第20話 虚氷の台地
創音王国の北端を越えると——地形が変わった。
草が消えた。岩が多くなった。空気が冷たくなった。
「虚氷の台地だ」ウィークは言った。
「先人がほとんど踏み込んでいない地域だ」
「なぜ誰も来ないの?」エラが周囲を見ながら言った。
「精霊が濃すぎる」ウィークは答えた。
「普通の人間には——この精霊密度に耐えられない。感応しすぎて、方向感覚を失う」
「俺は大丈夫か?」ラベルが聞いた。
「お前は精霊と共鳴することで——むしろ安定する。問題ない」
「師匠は?」
「アーティファクトボディが精霊の影響を自動調整している。問題ない」
「じゃあドノヴァンさんは?」
「俺の精霊たちが——俺を守ってる」ドノヴァンは指先を動かした。
シルファが光を放った。「慣れたもんだ」
「カイは?」
「感じるが——耐えられる範囲だ」カイは静かに言った。
「水流剣の鍛錬で、様々な環境に身を置いてきた」
「カルテットは——」ラベルがセシルたちを見ると、
「声が——広がる感じがします」セシルは言った。
「精霊が声を受け取ってくれているようで、むしろ歌いやすい」
「ここの精霊たちは——音楽が好きなのかもしれない」エラが言った。
「誰も来ない場所だから——音楽を聴いたことがなかった精霊たちかもしれない」ルーナが静かに言っ
た。
「そうだな」
台地を一時間進んだ頃——声が聞こえた気がした。
声、というより——気配。何かがいる。
「ウィーク」ラベルが言った。
「なんかいる。精霊じゃない——もっと別の」
「感知している」ウィークは義眼で前方を見た。
「レゾナントだ」
「レゾナント?」
「声で存在する種族だ」ウィークは説明した。
「この虚氷の台地に住んでいる。肉体を持たず——声の集合体として存在する。普通の言語では会話で
きないが——音楽なら届く可能性がある」
「音楽で話せる?」
「試みる価値がある。ただし——警戒されないように、静かに近づくことだ」
一行は足を緩めた。
気配が——近くなってきた。
(なんだろう、この感覚)
(声のような。でも言葉ではない。旋律のような。でも楽器ではない——)
「……来てる気がする」ラベルは言った。
「俺に向かって」
「感知できるか」ウィークは言った。
「お前の精霊感応性が反応しているんだろう。レゾナントは——精霊に近い存在だから」
「どうすれば——話せる?」
「お前の音楽を出せ」ウィークは言った。
「相手が応えてくれれば、それが対話の始まりだ」
ラベルはノエルを構えた。
旋律を——出した。
技術的に複雑な旋律ではない。この虚氷の台地の冷たさと、空気の広さと、誰も来ない孤独さを
——そのまま音にした旋律。
気配が——揺れた。
(それは応えだった)
「来た」ウィークは静かに言った。
「レゾナントが——応えている」
「どんな応えだ?」ドノヴァンが言った。
「好奇心だ」ウィークは全言語習得で感知した。
「長い間、ここに音楽が来なかった。だから驚いて——近づいてきている」
「怖くないのか?」エラが聞いた。
「怖がっているのは——向こうかもしれない」ルーナは穏やかに言った。
「初めて音楽を聴いた存在の、最初の反応は怖れではなく好奇心だから」
ラベルは弾き続けた。
旋律が変わった。押しつけではなく——問いかけるような旋律に。
(お前たちのことを聴かせてくれ。ここでどんなふうに生きているか)
声の気配が——重なった。
一つではなく、複数。
(音楽が来た。初めて音楽が来た)
(誰だ。なぜここに来た)
「師匠——聞こえてるか?」ラベルは弾きながら聞いた。
「全言語習得で受け取っている」ウィークは静かに言った。
「彼らは——ここに誰も来なかったことを、不思議に思っていた。精霊はいるのに、音楽師は来ない。
なぜかと、長い間疑問だったという」
「精霊はいる——でも音楽師は来ない」ラベルは弾きながら言った。
「虚氷の台地だから——人間が来られなかった」
「そうだ。しかし彼らは——音楽を感じることができる。ミミールの霧精霊が運んでくる音楽の断片
を、ずっと聴いていたという」
「式典の音楽も——届いたのか?」
「届いていたと言っている」
(あの旋律が——お前のものか)
「そうです」ラベルは声に出した。レゾナントに届くかどうかわからないが——音楽に乗せた。
(なぜここに来た)
「守護龍の結界を張るために。この三角形の中を——守るために」
(守る? 誰から)
「帝国から。精霊を傷つけようとするものから」
沈黙。
それから——レゾナントたちの声が、重なり合った。複数の声が、複雑に絡み合う。言語ではない。
音楽に近い——しかし音楽でもない。
「今のは?」カイが言った。
「議論している」ウィークは言った。
「信じるかどうか、受け入れるかどうかを——彼ら同士で話し合っている」
「俺に何かできることは?」ラベルが聞いた。
「弾き続けることだ」ウィークは言った。「待つことだ」
ラベルは弾き続けた。
しばらく後——レゾナントの声が、静かになった。
(……わかった。守護龍の結界が張られるなら——この場所の精霊も喜ぶ。我々は……邪魔しない)
「邪魔しない——か」ラベルは言った。
「十分だ」ウィークは静かに言った。
「邪魔しない、という言葉は——受け入れた、ということだ。彼らの言葉では、それが最大の承認だ」
「そうか」ラベルは旋律を締めくくった。「ありがとう、と伝えてくれるか?」
「伝える」ウィークは言った。
そして龍の言語でもなく、精霊語でもなく——全言語習得が即座に変換した、レゾナントの信号を送っ
た。
(音楽師が感謝している、と)
(……音楽は……いいものだ。また来てほしい)
「また来ます」ラベルは言った。




