第十八話
薬品の匂い漂う白い廊下。窓の外には午前のなごやかな風。点滴を引きずるおじいさんが物珍しそうにこちらを見ている前を、肩に掛けた鞄を揺らしながら、急ぎぎみにとたとたと通り過ぎる。壁に並ぶ扉の横の札に目をやり、"四〇八号室"の文字を探す。そうしていると、凛々しい顔をした看護師さんが前から歩いて来た。じろりと睨まれたので、ほとんど駆け足になっていた小走りをゆるめて、すれ違うときには、悪ガキに特有の、反省しているようには見えない謝罪の笑みを浮かべておいた。
シロは、生真面目な大人にまだ背中を睨まれているのを感じながら、ようやっと四〇八号室の札を見つけた。
滑りのスムーズな引き戸をゆっくりと開けて中に入る。ベッド同士を仕切るカーテンはすべて閉じられていた。みんな寝ているのか、物音ひとつしない。いちばん奥のカーテンの前まで行き、明るく声をかけた。
「もしもし!私だよ、シロだよ。お見舞いに来たよ!」
すると、静まり返っていたカーテンの奥から、にわかに慌てたようなガサゴソという音が聞こえた。シロは構わずカーテンを開けた。
「おはよう!」
「おい!まだ、どうぞと言ってねえぞ!」
ベッドの上に半身を起こしながら、そう怒鳴ったのは、社長だった。明らかに寝起きらしく、頭のてっぺんの毛が重力を無視した方向にぴょんと立っている。
悪ガキは、社長のツッコミには答えずに、ただけらけらと笑った。
社長は呆れた顔で相手を睨むと、包帯を巻いていないほうの手で、無精髭の伸びたあごをぼりぼりと掻いた。
「ったく、おまえは相も変わらず……来るなら前もって言ってくれりゃあいいのに」
シロは、ベッドの横まで行くと、近くにあった丸椅子を引き寄せ、鞄を膝の上に載せて腰かけた。
「まあまあ、そう怒らないで。はやく会いたくてさ、言っておくの忘れちゃったの」
「来るってわかってたらちゃんと髭も剃ったのによ」
「別にいいじゃん、髭くらい。普段もだらしないんだし、あんまり変わらないよ」
シロがにやにや笑いながらそう言うと、社長はことさら不満げに口を尖らせた。だが確かにこの男は、たいていの入院患者はいつもよりみすぼらしく見えるという原則を無視し、普段とそう変わらないのであった。頭は相変わらずぼさぼさだし目つきは悪いし、病院からの借り物のパジャマはむしろ、普段の服よりもしっかりアイロンが当てられている。顔にはすっかり血の気が戻り、部屋の戸口に倒れていたときの瀕死の姿がまるきり幻だったかのように、健康そうな色をしていた。
シロは、しばらくからかいのにやつきを浮かべていたが、ふいに笑いを引っ込めた。色を取り戻した社長の顔をしみじみと眺め、静かに漏らす。
「……でも、本当によかった。元気そうで」
その言葉には、心から安堵したような、そんな響きがこもっていた。
それを聞くと社長も、口を尖らすのをやめた。やれやれというふうに微笑む。
「……ありがとよ」
照れくさそうにそうつぶやいた。
窓の外に、優しい風が吹いて、常緑高木の頂のわずかに覗いているのが、さらさらと揺れた。
シロは尋ねた。
「もう痛くないの?」
「ああ、無茶しなけりゃ大丈夫さ」
包帯を巻いた左腕を、軽く持ち上げて見せる。
「なかなかお見舞いに来れなくてごめんね」
「気にすんな。そっちも忙しかったんだろう。警察には、いろいろ訊かれたんじゃないのか?」
シロは頷いた。
「うん。でも、安心して。ガラクタたちのことは一切言わなかったよ!私がひとりで強盗を退治したってことで、貫き通した」
そう言って、得意げに胸を張る。
だが、社長は半ば笑いながらも、疑うように眉をひそめた。
「おいおい、警察はそんな話を信じたのかよ?」
「うーん、最初は疑われたけどね。でも、質問されてるあいだずっと、何かパワーを秘めた不思議な子どもみたいな、超人的なオーラを出しておいたら、信じてくれたよ」
「それ、面倒くせえから適当に話を合わせてくれただけなんじゃないのか……」
「ほんとだって。私の武勇伝、もう町のみんなにも伝わっちゃったんだよ。知り合いに会うと、絶対びっくりした顔で見られるの。もし私が"まとも"だったら、そんな話誰も信じないだろうけど、みんなは、私のこと"まとも"じゃないって思ってるから、信じちゃうの。おかげで、誰も私のこといじめなくなったよ。みんな私にびびってるの!」
滔々と語るシロは、ご機嫌この上ないようであった。
社長は以前から薄々、シロがその変人ぶりのためにいじめられているんじゃないかと疑っていたらしい。元気な子どもを、心配そうに見つめた。
「おい、おまえ……それは大丈夫なのか?」
しかし変人は、心底嬉しそうな顔をして聞き返した。
「どうして?みんながびびってくれたら、私は楽だよ。ガラクタたちさえ居れば、私にはあんな人たち要らないもの」
彼女には、相手の心配の意味が、本当にわからないようだった。
社長は肩をすくめた。
そのときふいに、シロの膝の上に置いていた鞄がもぞもぞと動き出した。
「ねえ、シロぉ、まだ外に出ちゃ駄目なの?オイラ、息が詰まっちゃうよぉ」
突然鞄から聞こえてきた声に、社長は口をあんぐりと開けた。
「あ、ごめんごめん、忘れてた」
シロは鞄のファスナーを摘まんだ。
鞄の口がまだ開き切らないうちから隙間にレンズを捻じ込んで、無理やりに顔を出したのは、あのお気軽なポラロイドカメラであった。
「ぷはーっ!あ、社長だ。久しぶりぃ」
社長は愕然として、シロと、病室の照明を黒い胴体に反射させているミスター・パパラッチとを、交互に見やった。
「おい!何連れ出して来てんだよ!」
信じられないと言わんばかりにツッコむ。
しかしシロは、そんなお叱りなど平気の平左といった様子で、パパラッチの頭を撫でてやった。
「いや、社長が元気なところを写真に撮って来いって、みんなに言われたからさあ」
「こんなとこに連れて来て、誰かに見られたらどうするんだ?」
「まあまあ。ミカさんはもう捕まったんだし、そんなに警戒しなくても大丈夫だって」
「でも……」
慌てたように辺りを見回し、ベッドを囲むカーテンに隙間が空いていないのを確認する社長とは対照的に、ミスター・パパラッチはいつもの呑気っぷりを発揮していた。シロに撫でられるのに身を任せながら、気持ちよさそうにレンズをぴかぴか瞬かせる。そして、なにげなくつぶやいた。
「ねえ社長、ニコラもテトラも、社長が居なくて寂しがってるよ。早く帰って来てよ」
その言葉を聞いて、用心深く辺りを覗っていた社長の頭はぴたりと止まった。ゆっくりと振り向く。
「あいつらは……もう元気なのか?」
シロは力強く頷いた。
「うん。すっかりもと通り」
社長は自信に満ちた相手の顔をまじまじと見つめた。そして、目をそらし、安堵したようにひとつため息をついた。
「……そうか。なら、よかった」
「自分たちの過去を知って、始めはショックだったみたいだけどね。でも、ま、別に自分の意思でやったわけじゃないしって、結構けろっとしてたよ」
「なんだそれ?こっちはこれまで散々気を遣ってきたのに!」
社長は拍子抜けしたように言った。
その様子を見て、シロはくすくすと笑った。
「あはは。あの子たちは、社長が思ってるよりも強いんだよ」
すると、不満げに顔をしかめていた社長も、ふっと息を漏らし、笑った。
それから、社長とシロとミスター・パパラッチは、窓の外の太陽がだんだんと頂き近くまで昇り、白んだ冬の空になんとなく暖かみのある色を与えるのを横に、ひとしきり談笑した。シロは、ガラクタたちがみなすっかり元気になって仲よくやっていることや、警察署に行って事情を説明したときの体験談などを、始終ふざけながら、おもしろ可笑しく報告した。社長は、今までの頑固な怒りっぽさがすべて嘘だったみたいに、パパラッチを連れ出して来たことを早々と許してしまった。ずっと張っていた気が解れたように時折声を出して笑い、久しぶりに交わす会話を楽しんでいるようだった。
歓談をしながらふと、シロはあることを思い出した。
「そうだ、社長に訊きたいことがあったんだった」
「なんだ?」
社長は、楽しい会話の流れで、リラックスした表情で聞き返した。
「ウチーチェルのことなんだけど。あのおじいさん、身体が崩れかけてて、自分じゃ動けないでしょう?あんな寒いところにずっとひとりで居るんじゃちょっとかわいそうだし、舞台のところまで運び出してあげようと思って、昨日秘密の部屋に行ったの。だけど、どこにも見当たらなくて。ガラクタたちに訊いても、みんな知らないって言うし。社長は、ウチーチェルがどこに行ったか知らない?」
すると、今まで和やかにほころんでいた社長の顔からつと笑みが消えた。
無邪気な子どもは、突如様子の変わった大人の顔を、口角を上げてポジティブな表情を維持しながらも、戸惑いぎみに眺めた。呑気なパパラッチのほうは、もうすっかり集中力が途切れてしまったらしく、異変にはつゆ気づかず、ぼうっとシロの腕に寄りかかっている。シロは、黙って相手の答えを待った。
やがて社長は、おもむろにぽつりとつぶやいた。
「……ウチーチェルなら、燃やしたよ」
「えっ?」
シロは、思わず間の抜けた声を漏らした。パパラッチも、シロの膝の上でぴくりと身を震わせた。
「……も、燃やした?」
聞き間違えたのかと思い、問い返す。
だが社長は、しっかりと頷いてもう一度言った。
「ああ、俺が燃やした」
今度は、はっきりとした口調だった。
「で、ででででも、どうして?いつ?」
つかえぎみにそう問いながら、シロは、相手の冷静な顔をまじまじと見つめた。社長が意味無くそんなことをするはずは無い。きっと事情を説明してくれるだろうと思って、困惑しながらも口をつぐんだまま相手の言葉を待った。だが、空気の読めないパパラッチは、ベッドにがばと身を乗り出して急かした。
「ねえ、ねえ、どうして本のおじいさんを燃やしちゃったの!」
社長はため息をひとつつくと、語り始めた。
「ウチーチェルが俺に、燃やせと言ったのさ……十数年ぶりに会った俺に」
瞳とレンズを興味深げに丸くして、耳を傾けるふたり。
「シロ、以前俺と井戸の前で喧嘩したの、覚えてるか?」
「うん。社長が井戸に蓋しちゃったから、それで……」
「そのときおまえは、俺があいつらの本当の親でないだのと言って、宿らせの灰のことを口走ったな?俺は、どうしておまえがあの灰のことを知ってるのか、心底気になったよ。だからあの後、地下に下りて、マカを脅して、事情を聞き出したんだ。マカは俺をあの秘密の部屋まで案内してくれたよ。俺は驚いた。まさかじいさんが洞窟の奥にあんな部屋を作っていたとはね!そして、そんなところにウチーチェルがずっと居たとは……」
懐かしむように目を細める。
「……ウチーチェルには、俺のじいさんが命を宿らせたんだ。俺が生まれたときにゃもう家に居たから、なんでそんなことしたのかは知らねえが、まあ、気まぐれだろう。じいさんはああいう人だからな、孫の世話をあろうことか、手も足もねえあの本に押し付けちまった。それでもウチーチェルは、ガラクタなりに、本当の親みてえに、俺の面倒を見てくれたさ。ああ見えても、昔はひどくお喋りだったんだぜ。わからないことはなんでもウチーチェルに尋ねたし、ウチーチェルも毎回それに答えてくれた。親であり、先生でもあったんだ。だが、じいさんが死ぬ少し前くらいに、忽然と消えちまってね。てっきり、じいさんが宿らせの灰と一緒に売っちまったのかと思ってたよ。きっととっくの昔に新しい持ち主に燃やされて、もう会えやしないと、ずっと諦めてた」
「でも……本当はずっと傍に居たんだね」
シロは、社長の瞳が遠い昔を映すのをじっと見つめながらつぶやいた。
社長はその言葉にそっと頷いた。
「そうだ……ずっと近くに居たんだ」
窓の外で、スズメが楽しげにさえずる。
「十数年ぶりに会ったウチーチェルは、ほとんど何も覚えてなかったよ。俺のことも、じいさんのことも。そして、あの部屋で俺は、シロ、おまえの写真を拾った」
「写真?」
急に自分のことが引き合いに出されたシロは、なんのことだかわからず、問い返した。
「ガラクタたちに宛てて手紙を書いただろ?写真の裏に」
「ああ、あの写真!」
合点がいったように、手を叩く。確かに、井戸に蓋がされているのを発見した日、ガラクタたちに手紙を書こうとしたが、丁度よい紙が無かったので、劇場から逃走しているときにパパラッチが撮った写真の裏を使ったのだった。
「でも、なんでそれが秘密の部屋に……」
すると、膝の上でじっと話を聞いていたパパラッチが言った。
「オイラがあそこに隠しておいたの!社長に見つかったら取り上げられちゃうかもしれないから隠しておけって、ニコラとテトラに言われたから!」
そう語るポラロイドカメラのレンズは爛々と輝き、いかにも得意げだった。そうやって隠した手紙が、いの一番に当の社長に発見されたわけだが。
シロは尋ねた。
「その写真が、どうしたの?」
「あの写真には、おまえの後ろに、美華が映り込んでたんだ」
「ミカさんが?」
シロは目を丸くした。
手紙を書いたときにはまだ美華の顔を知らなかったので、つゆ気づかなかった。けれど、シロたちが劇場で騒ぎを起こして逃走した夜、美華もあの付近に居たので、映り込んでいたとしても不思議は無い。
社長は続けた。
「あの写真のおかげで、おまえがガラクタたちを連れ出した日に、美華も同じ場所に居たことがわかった。あの夜、おまえらが街に出てどんなヘマをやらかしたのか、詳しくは知らねえ。だが、近くに居たなら、美華がおまえと双子との関係に気づいちまった可能性は大いにある。そして、気づいちまったからにはいずれ必ず、双子を取り戻すために、シロに接触しようとするはずだ。あの美華のことだからな」
シロは黙って相槌を打った。社長の言う通りまさしく、美華は学生証を頼りに、執念深く、シロの居場所を探し当てたのだ。
「美華をおまえや双子に近づけちゃまずい。俺はなんとかしないとと思った。だが、美華とおまえが出会わないよう四六時中見張ってるわけにはいかねえし、そもそも見張ろうにも、そのときにはもう、おまえとは喧嘩別れしちまってた。よく考えりゃ、住所も学校も、本名すら知らねえ。俺は途方に暮れた……それでふと、どうすればいいのか、ウチーチェルに尋ねようと思ったんだ。子どもの頃、困ったときにはいつもそうしたみたいに」
そう言って、遠くに目をやる。
「ウチーチェルは、何もかも忘れちまってたし、多少ボケてもいたけど、状況を説明して助言を仰いだら、昔と同じように、ちゃんと答えてくれたよ」
「ウチーチェルは、なんて答えたの?」
「ウチーチェルは……自分を燃やした灰で、新しいガラクタに命を宿し、そいつにシロを見張らせるようにと言った」
ミスター・パパラッチが思わずひっと漏らした声が、静かな病室内に響いた。シロは、幼いガラクタにそっと手を添えながら、社長の、感情を抑えたような、影のかかった横顔をじっと見つめた。
「……それは、半分は俺に対する救済だったが……もう半分は、自分自身のための願いだった。ウチーチェルは……修理するにはもう、手遅れな状態だった。身体がほとんど朽ち果てて、何も覚えていないし、動くこともできない。生きていても、少しずつすり減っていくのを感じながら永遠にこの場所に眠っているだけだから、せめて誰かのために役立ててほしい……あいつは俺にそう頼んだんだ」
「……それで……ウチーチェルを……」
シロは、胸がぎゅっと痛むのを感じながら、ささやいた。
社長は瞳を閉じ、ゆっくりと頷いた。
「俺は、ウチーチェルを燃やした。そして手に入れた灰を風船にかけて、新しく命を宿らせ、俺の代わりに町を見張ってもらった。宿らせの灰のルール上、親は俺だからな。俺の命令をしっかり守って、そつなくやってくれたよ。その風船が、美華がシロと一緒に居るところを見つけて報告してくれたおかげで、俺はなんとか危ない瞬間に駆け付けられたんだ」
シロは、洋館の部屋で美華とともに井戸の鍵を探しているときに社長が現れた場面を、頭の中に思い起こした。もし社長が現れずに、あのまま、美華に騙されたまま、一緒に地下室に降りていたら、自分はそこで殺されていたのだ。あんな場所で殺されたら、きっと長いあいだ発見されることはなかっただろう。仲間たちが連れ去られ、誰も居なくなった冷たい洞窟で、ひとりぽつんと残された亡骸は、徐々に腐っていったことだろう……うち捨てられたガラクタが朽ちてゆくように……
病室はしんみりとした空気に包まれた。悲しい事実を突如知らされたシロはすっかりしおれていたし、パパラッチも、自分と同じガラクタの死を生々しく想像して怯えていた。社長もまた、自分の親とも言える存在に自ら命の終わりを与えた瞬間を思い出しているのか、口をつぐんだまま中空を見つめていた。
やがてシロは、重い空気を、か細いけれど希望の滲んだ声で打ち破った。
「……ウチーチェルは、ウチーチェルは社長のこと忘れてなかったよ。私に会ったとき、龍一、おまえに会えて嬉しいって、そう言ったもの。龍一って、社長のことでしょ?」
社長は沈んだ顔を、シロのほうに向けた。
「でも、あいつは俺の顔を見ても誰だかわからなかったぜ?」
純朴な中学生は、相手のごもっともな指摘に少し怯んだが、すぐに立ち直って力強く言った。
「顔は……忘れちゃったのかもしれないけど。でも、龍一っていう人が、会えたら嬉しい人なんだっていうことは忘れてなかった。記憶を失くしても、会いたい気持ちだけは、最後まで覚えてたんだ。そういうのって、理屈じゃないもの……」
龍一は、シロの顔をじっと見つめた。必死に訴えかけるようにこちらを見つめている子どもの瞳は、若々しくきらきらと輝き、澄み切っていた。彼女は、自分の述べたことが真実であると、心の底から信じていた。
しばらくの沈黙ののち、社長はふと笑みをこぼした。
「確かに、そうだな」
社長の顔に笑顔が戻ったのを見て、シロも嬉しそうに微笑んだ。
社長は、しんみりとしたムードを振り払うように、ぽんと膝をひとつ叩いた。
「なに、長く生き続けることだけが幸せじゃないさ。ウチーチェルは、自分自身を捧げて、シロと……俺とを助けてくれたんだ」
そして、手を伸ばし、シロの頭の上に置く。
「ウチーチェルに繋いでもらった命、大事にしろよ……おまえはほんと、不法侵入だの誘拐だの、無茶なことばっかりするからなあ!」
冗談めかしてそう言う。
大きな手のひらの暖かさを脳天に感じながら、シロは、社長の笑顔を上目遣いに見つめた。そのガラの悪い目の奥には、初めて出会った頃には気づかなかった、大人の優しさが閃いていた。はにかみながら、頷く。
「……うん。もう、木登りするのはやめる」
社長は上下の歯を見せながら、最後に、犬を撫でるみたいにシロの髪をぐしゃぐしゃと撫でてから、手を離した。
「ねえ!その手、ちゃんと洗ったの?」
「うるせえ、洗ってるよ」
シロのからかいに対して、社長はまんざら怒っているわけでもないような調子で、ツッコんだ。いたずらっぽく笑うシロ。やれやれと笑う社長。ミスター・パパラッチも、愉快げにフラッシュを焚いて、元気なふたりの姿を写真に収めた。
「ねえ社長、いつ帰って来るの?」
場の空気がすっかりもと通りになると、パパラッチが身を乗り出して、布団に半分うずまりながら、待ち遠しそうに尋ねた。
「一週間もすれば退院できるとよ」
「イッシュウカン?イッシュウカンって、すぐ?」
「ああ、あっという間さ」
腕を持ち上げ、包帯に目をやる。
「まったく、切りつけられたときには死ぬと思ったが、案外重傷じゃないみたいだ」
それを聞いて、シロはすかさず口を挟んだ。
「きっと、ハマサキさんのおかげだね!ハマサキさんが止血してくれたからだ」
「おう、そうかもしれんな」
社長は、利他的な変人のステルスマーケティングにはまったく気づかない様子で、素直に同意した。そして、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、ハマサキの服はどうなった?ワンピースの裾、破っちまっただろ?」
「ああ、それなら今も着てるよ。膝が見えてて、寒そうだけど、ま、ガラクタたちに気温は関係無いからなあ」
「そうか。じゃあ、また新しいやつ買ってやらないといけないな」
独り言のようにそうつぶやく。
シロは、椅子の上で少し尻をずらしてベッドに近寄り、にやにやしながら、含みのある調子で言った。
「ね、あのワンピース、とっても素敵だね。センスいいと思うよ。社長、ぼさっとして見えるけど、なかなかやるねえ」
すると社長は、急に猫撫で声になった子どもを怪訝そうに見やった。
「あれは、センスいいのか?そりゃよかった。よくわかんなくて適当に買ったから」
「へっ」
相手のあまりに気の無い言葉に、シロは思わず間の抜けた声をこぼした。
「テ、テキトー?テキトーに選んだの?とっておきのプレゼントなんじゃないの?」
ガサツな発言を撤回してくれと言わんばかりに、責めるように問いかける。しかし、社長はきょとんとした顔で、悩むように首を捻った。
「とっておき……?とっておきというか、まあ、やむにやまれずあげたって感じだな。だってそうでもしねえと、ハマサキのやつ……裸でうろつき回るんだから」
そう言って、少し恥ずかしそうに唇を曲げる。
「動かねえマネキンだったら服を着てなくたって、なんとも思わねえけど。よく考えずに灰をかけちまって、いざうろうろ歩き出したら、本物の人間みたいでさ。なんだか罪悪感が湧いて来たんだよ。急いで服を買いに行ったんだけど、ファッションなんてまるきりわかんねえから、とりあえず並んでた中でいちばん地味なやつを買ったんだ」
社長のあっけらかんと語るのを聞きながら、シロは口をあんぐりと開けていた。
「でも、でも……」
何か言いたげにパクパクする。"でも、綺麗だって褒めたんでしょ"とツッコもうとしたのだ。
社長は伸びた髭をいじりながら、昔を思い出すように斜を見て、喋り続けた。
「まったく、買って帰ったら買って帰ったで、大変だったぜ。向こうにとっちゃ、最初は何も着てないのが普通だったからさ。かえって着てるのを恥ずかしがって、着とけっつっても脱ごうとするんだよ。似合ってるだの綺麗だの、散々おだてて、やっと言うこと聞いてくれたけど」
シロは、愕然とした。心の中で何かががらがらと崩れ落ちる音がした。社長からハマサキに関する話はあまり聞いたことが無かったけれど、あんな素敵なプレゼントをするくらいだから、まあ少しくらい気はあるのだろうと、勝手に思い込んでいたのである。思い込んでいたからこそ、自信満々にハマサキを応援して来たのである。それが、これほどまでになんとも思っていなかったとは。思いを伝えればきっと答えは返って来ると、純朴なマネキンに何度も請け合ったことが、急に申し訳なく思えて来た。
それまでずっと黙って社長の話を聞いていたミスター・パパラッチが、ふいに、もう我慢できないというふうに文句を言った。
「社長、さっきから酷いことばかり言って、ハマサキさんがかわいそうだよ」
状況をまったく理解できていない社長は、顔をしかめた。
「酷い?何が酷いんだよ」
その言葉を聞いて、ポラロイドカメラは余計に怒ったように、ぷりぷりと身体を揺らした。
「わからないの?だって、ハマサキさんは社長のことが……」
シロは咄嗟に、最重要事項を告げようとしたカメラの写真口を押さえた。パパラッチはシロの手の下で、もごもごと声にならない声をあげた。
社長が訝しげな表情でふたりの不自然な所作を見ているので、シロはなんとか話題を変えようと、慌てて考えを巡らせた。
「ええっと、あの、社長はさ、社長は恋人欲しくないの?」
憤怒するカメラを押さえ付けながら、唐突にそう尋ねる。
「はあ?なんだ、急に?」
社長は、眉をひそめた。
「いや、その、あんな大きなおうちにひとりぼっちで住んでるから、寂しくないのかなと思って」
「寂しいわけあるかよ、あんなやかましい連中が近くに居るのに」
「それはそうだけど、でもさ、ミカさんに社長の昔の写真見せてもらったの。社長って、ちゃんと身なりに気をつけたら、意外とかっこいいじゃん。頑張ればすぐにいい人できると思うよ」
動揺したシロが口の動くまま粗雑に喋るのを聞きながら、社長は不潔な話を耳に入れられたみたいに、顔をしかめた。
「ったく、余計なお世話だよ。俺はもう、そういうのはたくさんなんだ。美華に好かれるためにどれだけ苦労したか……今まで生きて来た中で、あのときほどつらい時期は無かったね」
ため息をついて、やれやれと首を振る。
「まあ、シロ、おまえも大人になりゃわかるさ。男女の恋愛なんて、ドラマじゃ美しく描かれるけど、実際はそれほど崇高でもねえ。一方で一生懸命綺麗な仮面を被って、一方で馬鹿みたいに綺麗な仮面に夢中になる、そんなもんさ。あんな虚しい思いをするくらいなら、俺は一生独り身で結構だ」
大人の男の冷めきった態度に、シロはしゅんと肩を落とした。
社長はベッドわきの置時計にちらと目をやった。
「そろそろ昼飯の時間だな。シロ、看護師が入って来るからパパラッチを隠せ」
自分が先刻投下した爆弾のために、シロの中のさる期待がうち崩されたことにはつゆ気づいていない様子で、そう声をかける。
シロは、大切な同朋にとって好ましくない真実を知って、ショックを受けていたが、気を取り直さねばと、背筋を伸ばした。落ち込んでいる自分を振り払うように、頭をぶるぶると振る。発言の機会を奪われて些かご機嫌斜めなパパラッチを無理やり鞄に押し込み、ファスナーを締め、立ち上がった。
「写真も撮れたことだし、もう帰るよ」
比較的元気な調子でそう言う。
「おう、そうか。気をつけろよ。悪いけど、俺が留守のあいだ、ガラクタたちの面倒見てやってくれ」
シロは頷いて、胸をどんと叩いた。
「もちろん。万事任せて」
そして身を翻し、出口に向かう。
だがカーテンを開けようとひだを掴んだところで、何かを思い出したように動きを止め、ぱっと振り返った。
「ねえ社長!」
布団の具合を直していた社長は顔を上げた。
「なんだ?」
「退院したら、まっすぐ地下室まで来てね。いい?寄り道しないで、まっすぐだよ!」
子どもに言い聞かせるように、念を押す。
社長は、シロの元気さに呆れたように少し笑って、言った。
「わかったよ」




