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第十九話

「おい、そんなに走るなって!こっちは怪我人だぞ!」

 自分の腕を掴んでずんずん先を走って行く中学生の背中に向かって、大人の男は息を切らしながら叫んだ。

 だが元気な子どもは、ごつごつした地面を軽快に蹴り続け、振り返りもせずに、こう答える。

「またまた!もうほとんど治ってるでしょ?みんなが待ってるんだから、急がないと!」

「……まったく、おまえは……」

 見渡す限りガラクタの山、ガラクタの山、ガラクタの山。小さな日用品から、大きな家具家電まで、ほとんどゴミにしか見えないくすんだガラクタが、十歩ごとにうず高く積まれ、それを、程遠い天井から白い明かりが照らす。ときどき寿命の尽きかけた照明が、ちかちか点滅しているけれど、それでも洞窟の中は真昼みたいに明るい。ガラクタ山のあいだに残された土色の通路は、人の手による改造を免れ、ごつごつしていて、走るにはあまり条件がよいとは言えない。しかし、運命を司る自然に、冒険心と無鉄砲さとを与えられた変人にとって、それがなんの問題になりうるだろうか?

 シロは、つい先ほど退院したばかりの社長の腕を引きながら、地下室のガラクタ山のあいだを小走りに駆けていた。楽しくてたまらないような、いたずらっぽい笑みが、顔いっぱいに広がっている。引っ張られている社長のほうはというと、変人中学生の元気さにやれやれと呆れてはいるけれど、井戸の梯子を自分で降りられるくらいには確かに回復していて、ときどき地面の窪みに躓いてよろけながらも、しっかりとシロに着いて行くのだった。そしてその呆れた顔にもやはり、照れくさくて隠してはいるが、これから待ち受けているであろうものに対する、嬉しい期待がほんのりと浮かんでいるのだ。

 ふたりがガラクタ山のあいだを走っていると、ふいに、ひとつの山の裏手から赤色の風船がぽんと飛び出して来た。

「おや、シロ、はやいね!もう帰って来たのかい?」

 艶のある表面に照明を反射しながら、よく通る若々しい声でそう呼びかける。

 シロは、ぷかぷか浮かぶ風船のほうを見上げた。片手をメガホンのように口元に添え、叫ぶ。

「ノーヴィ!社長がそろそろ来るよって、みんなに教えてあげて!」

「ほいきた、任せて!」

 気さくにそう答えると、ノーヴィは、曲芸師のようにくるりと一回転して、空中に円を描いて見せた。かと思うと、結び目を緩めて、強烈に空気を吹き出し、ぶるるるという音を立てながら、ロケットみたいに勢いよく洞窟の奥に向かって飛んで行った。

 シロと社長は、瞬く間に見えなくなったノーヴィの後を追って、走り続けた。

 やがて、黒色の艶やかな、例の立派なグランドピアノが据えられた舞台が前方に見えて来ると、ふたりは速度を緩めた。舞台の周辺は静まり返って、命の気配は無い。ガラクタたちの溜まり場の寂しい様子を見て取ると、先ほどまで嬉しそうにしていた社長は、少し不安げに眉をひそめた。

 だが、眠っているかのように思われたクリストーナは、社長の姿を目にするやいなや、屋根をぱかんと開け、高いラとミのトレモロをこれでもかというほど派手に打ち鳴らした。

「みなさん!みなさん!お待ちかねの人が帰って来ましたわよ!」

 すると、いったいどこに隠れていたというのだろう!大切な人の帰りを今か今かと待っていたガラクタたちが、ばらまかれたビー玉のようにてんでばらばらに、でも同じひとつの歓喜を持って、飛び出して来た!

「おかえりなさああい!」

 どこからともなくマカとミスター・パパラッチが現れたかと思うと、勢いよく社長の胸に飛び込んだ。

「わっ!」

あんまり急に飛び出して来たので、社長は何が起こったのか認識する間も無く、抱きつかれるままにふたりを抱えた。勢い余って、後ろにのけぞる。

「社長であります!本物の社長であります!」

「やあっと帰って来たね!」

 マカとパパラッチは、犬のように社長の胸にじゃれついた。

「おいおい、おまえら、俺は怪我人なんだから……」

 幼いガラクタたちのテンションの高さに、呆れぎみにそうつぶやいたが、しかし口元は、隠し切れない慢心にほころんでいた。自分の胸にすがりつく冷たい身体を優しく撫でてやる。

「はっはっはっ、素敵な光景だね」

 大人なアドルフが、舞台の上で金ぴかボディをきらめかせながら、いつもの鷹揚な調子で述べた。

「とっても元気そうで、安心したわ」

 隣のクリストーナも、機嫌がよいときのまろやかな音色でそうささやく。

 もの静かなブロンドのマネキンは、いつのまにか舞台の裏からそっと現れていた。破れたワンピースの丈は、お転婆娘が好んで履きそうなくらいの短さになっていたが、それでも、肌の白い彼女の、今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気は変わらない。遠慮がちに距離を空けて、遠くから、幼いガラクタたちと抱き合う社長をじっと眺めていた。彼女はぐっと押し黙っていたけれど、その全身は、あのとき青ざめた顔で床に倒れていた愛しい人が、ちゃんと両手両脚のついた状態で帰って来たことに対する途方も無い感動のために、小刻みにうち震えていた。

 先ほど飛んで行ったノーヴィは、今は舞台の上をぷかぷかと舞いながら、歓喜の再会の場面を俯瞰していた。

「あの人って、愛されてるねえ!」

 よくよく物事がわかっているみたいに、そうつぶやく。

 この新入りの風船は、新入りのくせに、もうすっかり古参みたいにガラクタたちの輪に馴染んでしまったのだった!

 墓場のように静かだった状態から、一気に華々しい感情のぶつかり合う闘技場のようになった地下室で、社長は、甘えん坊のポスターとカメラを、心ゆくまで撫でてやった。だがしばらくして、少し不安そうにあたりを見回した。

「おい、双子はどこだ?」

 こういうときにいちばん大騒ぎしそうな、肝心のニコラとテトラの姿が見当たらないのである。こんなにやかましくしているのに、一向に現れる気配も無い。居並ぶガラクタたちの中にあの向こう見ずなふたりが居ないと、彼らが物理的に占める空間以上に、ぽっかりとあいだが空いているように見えた。

「やっぱり、まだ立ち直ってないんじゃ……」

人間の男は心配そうに、そうつぶやいた。

 そのときふいに、アドルフとクリストーナが息を合わせて、弾むような軽快な曲を演奏し始めた。マカとパパラッチがするりと社長の腕のあいだを抜け、地面に降りる。

 社長は、突然鳴り始めた音楽に反応して、舞台のほうを振り向いた。すると、そこには、社長がマカとパパラッチにかかりきりになっているうちに彼の傍を離れていたシロによって、一本のスタンドマイクが用意されていた。灰色のひょうきんな球体が、舞台の中央で堂々と構えている。

 目を見張る社長。そして……

「はいどーもー!」

「ニコラと!」

「テトラ!」

「でーす!」

 聞き慣れた声が洞窟じゅうを揺るがすくらい派手に響いたかと思うと、楽しい音楽と、仲間たちの割れんばかりの歓声に迎えられて元気よく舞台に飛び出して来たのは、間違いない、黄緑色のスーツを着たあの人形の双子であった!

「俺たちニコラとテトラっつって、双子の人形で漫才やらせてもらってます!」

「名前だけでも覚えて帰ってやってください!」

 ふたりはマイクの前までやって来ると、おかえりの挨拶も無く、そうするのが当たり前のことだとでもいうように、ごく自然に漫才を始めた。彼らの顔にはやんちゃで不敵なにやにや笑いが輝いて、もしかしたら憂鬱や悲しみに沈んでいるかもしれないだなんて、馬鹿にするなと言わんばかりに、ご機嫌だった!

 社長は口をぽかんと開けて、突如現れ漫才を始めた双子を見つめた。棒立ちになっているその足に、ミスター・パパラッチがどんと体当たりをする。舞台のほうに気を取られていた社長は、ふらりとよろけて、そこにいつのまにか用意されていた木箱と毛布の特等席の上に、どさりとしりもちをついた。シロは、客の視界を邪魔しないよう腰をかがめて素早く舞台から離れ、わくわくとした様子で、特等席の隣に座を占めた。

「綿の詰まっているほうがニコラで、鉛の詰まっているほうがテトラです」

「いや、俺も綿だよ。鉛だったら、おまえ、俺のツッコミで死ぬぞ!」

「死なねえよ、人形なんだから」

「おい、その反論、ぐうの音も出ねえわ。ボケなんだからまともなこと言うなよ!」

 双子の喋りは、以前社長の誕生日パーティーで見せたときと同じように、まるで今まで何度も舞台に立って来たかのように滑らかだった。俺たちが今ここで漫才を披露するのは、宇宙と原子が決めたことだ、だから誰にも文句は言わせないという、堂々たる佇まいが、そこに見事に蘇っていた!ただひとつ違うのは、今では彼らのスーツを覆っていた不格好なツギハギが無くなって、あの若々しい弾丸ブリッツのふたりとより一層そっくりになっていたことだ。

「テトラ、俺、おまえに聞いてほしい話があってさ」

「なんだい?聞いてやるよ」

「俺が知ってる、ある男の話なんだけど」

「ほうほう」

「その男がほんと、馬鹿な奴なんだよ」

「馬鹿?馬鹿ってどんなふうに?」

「そいつ、大の大人のくせに、お人形遊びに夢中になってやがるのさ」

「ええっ、大の大人が?」

 テトラのわざとらしい言い方に、笑い転げるマカとミスター・パパラッチ。はははと優雅に身体を揺するアドルフとクリストーナ。ぶるると飛び回るノーヴィ。

 そのとき、シロの隣で、予想外のことが発生したためにずっと呆気に取られていた社長が、ぷっと吹き出す音が聞こえた。シロは、大好きな双子の漫才を心から楽しむつもりでわくわくしてはいたけれど、果たして偏屈な男がこのパフォーマンスを素直に受け入れてくれるのかと、内心不安にも思っていたので、横目にわずかに見える隣の客の様子にもしっかりと注意を払っていた。だから、真面目な人間のたがが外れたことを示すその小さな音を、聞き逃さなかった。続いて社長は、抑えようとするけれど抑え切れないような調子で、喉の奥でくっくっくっと笑い始めた。シロは、思わず自分の顔がほころぶのを感じた。社長が双子の漫才で笑ってくれた。彼は、やっと、ニコラとテトラの生きる目的を認めてくれたのだ。ああ、今度こそ計画は成功した!純粋な中学生の胸は心配から解き放たれ、みるみるうちに幸福に満ちていった。

「ほんと馬鹿な奴でさ。お人形さんを置いとくために、でっかい地下室を持ってるんだぜ」

「人形のために?信じられねえ!」

「でも、自分の部屋はすっげえちっこくて、足の踏み場もねえんだ」

「なんだそりゃ、底無しの間抜けだな!」

 社長はもはや我慢せずに、がははと笑い声を上げた。不安の消えたシロも、心ゆくまま愉快げに肩を揺らす。

 脇目も振らず弾丸のように喋りながらも、目当ての客がちゃんと笑っているのを肌に感じて、ニコラとテトラは勢いづいた。

「自分の靴下はろくに洗わねえくせに、お人形さんのことはしょっちゅう洗濯機にぶち込むんだよ!」

「おいおい、自分のを先に洗えよ!」

 そこからはもう、彼らの漫才は、漫才という皮を被った、"ある男"に関する悪口大会であった。口を開けば、しとやかなお嬢ちゃんお坊ちゃん方が青ざめてしまいそうな罵詈雑言!彼らの師匠であり、乱暴非礼で名の通った弾丸ブリッツも敵わぬ、腹立たしい顔つき!しかし、当の"ある男"は、悪口を言われるたびに、見えないくつわが溶けていくように、わははわははと笑い声を高めていくのだった。もはや、驚きも心配も、跡形も無く消え去った。気づけば、笑うだけでは消化しきれない、おもしろさのエネルギーを、手を叩き、足をどんどんと床に打ちつけ、なんとか発散しようとしている。だが、滑稽さから来るこの腹の痛さはどうにもならない。今この瞬間この場所の、音、空気、感情、すべてが双子の漫才に支配されていた!

 しかし、仲間たちの遠慮無い笑いに包まれて喋り続けるうちに、舞台に立つふたりの様子にだんだんと異変が現れ始めた。最初、ニコラとテトラは、余裕たっぷりに漫才を楽しんでいた。あくまでも舞台に立つプロらしく、ひとりよがりでない、他人と喜びを分かち合うための笑顔をしていた。だが、"ある男"の悪口ばかり言い続け、中盤を過ぎると、声が、制御し切れていないような、過度の熱を帯び始めた。客席の空気を感じる余裕が無くなったみたいに、相方だけに向かう視線。口調があまりに真に迫っているせいで、台本なのか、それとも思いつくままに喋っているのか、見分けがつかない。どんどんとテンポが速くなり、溢れ出る気持ちに口の動きが追い着かないかのように、言葉が切れ切れになる。

「ほんっと、馬鹿な男でさあ!そのお人形さんを守るために、わざわざ服を破って、記憶を消したんだ」

「服を破って?雑なやり方だな!」

「自分で新しい布まで縫い付けてさ!」

「うわぁ、下手くそなくせに頑張っちゃって!」

 ふたりは、台詞を言い続けながらも、喉の奥から押し寄せる感情の波に飲まれたように、喘いでいた。漫才の調子は、いつのまにか、ある男を滑稽にからかうというよりも、どこに向けているのかもわからない、心からの悲痛な叫びのようになって来た。ともすると、今にも泣き出しそうにさえ見えた。大声をあげて笑っていた観客は、ふたりの異変に気づいて、徐々に口をつぐみ始めた。

「あれ、あんな台詞ありましたっけ?」

 シロの隣に居たマカが、ひそひそと問いかける。

 客席がきょとんとしていても、双子は構わず喋り続けた。

「ほんとに、ほんとに馬鹿な奴だ!それで、極めつきに馬鹿なのはさ、そのお人形さんに嘘をついたことだよ!」

「嘘?どんな嘘だ?」

「自分がおまえたちの親だって、そう言ったのさ!」

「ええ!馬鹿だなあ!」

 そのときにはもう、観客はすっかり笑うのをやめていた。舞台の上で心のままに暴れるふたりを、じっと見守る。

 もはや客席のほうには少しも注意を払わないで、双子はしゃにむに叫んだ。

「な、馬鹿だろ!だって、本当の親じゃないからって、そのお人形さんがそんなこと構うと思うか?」

「いやいや、そんなのどうでもいいに決まってんだろ!」

「そうだよな!どうでもいいよな!」

「うんうん、そのお人形さんがつらかったのはきっと、本当の親がどうとかなんてことじゃなくて、隠しごとをされたことだよ!」

「そうだそうだ!本当のことを言ったら嫌われるだなんて、そんなふうに思われたのがつらかったんだ!」

「本当の親じゃなけりゃ好きになれないような奴だと思われたのが、つらかったんだ!」

「そんなヤワな奴じゃないって、信じてもらえなかったのがつらかったんだ!」

「本当の親かどうかなんてどうでもいいのにな!」

「ああ、どうでもいい!」

「本当の親じゃなくたって、大好きになれる!」

「そうだ!大好きになれる!」

「まったく、しょうがねえ馬鹿野郎だ!」

「馬鹿だ!馬鹿だ!」

「どうしようもねえ、馬鹿だ!」

「救いようのねえ、馬鹿だ!ほんと、ほんと、大馬鹿だ……!」

 そこで突然、一秒の休みも無く走り続けてきた漫才がぴたりと止まった。

 ふたりは、お互いの顔を見つめながら、すべてのエネルギーを出し切ったように、はあはあと肩を揺らしていた。静まり返った洞窟内に、最後の叫びの残響だけが、馬鹿だ、馬鹿だ……と繰り返す。客たちは、息を飲んで、舞台上で見つめ合うふたりに視線を釘付けにしていた。

 やがてニコラが、今までのやかましいほどの大声からは一転して、耳を澄まさなければ聞こえないくらい弱々しくつぶやいた。

「……でも、テトラ……本当に馬鹿だったのは、俺たちのほうかもしれねえな」

 テトラも、相手の顔をじっと見ながら、答える。

「ああ、その通りだニコラ……俺たちってほんと、大馬鹿者だった」

 残響が消え、洞窟内には完全な無音が訪れた。

「……自分たちがどれだけ愛されてるか、ちっともわかっていなかったんだもの……」

 ふたりは客席のほうを向き、黙って、崩れるように頭を下げた。

 その瞬間、地球をひっくり返さんばかりのけたたましい喝采が地下室いっぱいに轟いた。クリストーナは高音を激しく打ち鳴らし、アドルフは伸びやかに遠吠えし、マカは飛び上がってべこべこと身体を鳴らし、ミスター・パパラッチはバシャリバシャリと次々に写真を吐き上げた。客席の上を舞いながら、ヒュウヒュウと口笛のような音を立てるノーヴィ。シロは、立ち上がって、力の限り両手を打ち合わせた。

 ただひとり、社長だけが、静かに席に着いたまま、こちらに向けられた双子の頭を身じろぎひとつせず見つめていた。

 しばらくすると、地響きのようにけたたましく鳴っていた喝采も、自然に収まっていった。もとの、冷たい静寂が地下室に満ちる。

 すると社長は、真剣な表情のまま、すっと立ち上がった。まっすぐ舞台へ近づいてゆく。シロとガラクタたちは、その背中を、じっと見守った。

 低い舞台の段差を上がると、社長は、頭を下げたままの双子を見下ろした。

「……ニコラ、テトラ、俺が悪かったよ」

 社長の低く小さな声が、静寂の中に響く。

 ニコラとテトラはゆっくりと頭を上げ、もはや非礼でも不敵でもなくなった、幼い子どものようなあどけない顔で、上目遣いに相手を見た。

「……俺は、おまえたちのことを信じてやらなかった。おまえたちに、苦しい過去も受け入れられる強さがあることを、信じてやらなかった。だから、必死になって、あったことを無理やり、無かったことにしようとした。嘘をついて、おまえたちから楽しみを奪って、小さな世界に閉じ込めようとした。……でも、俺が余計な世話を焼かなくたって蘇られるくらい、おまえたちの心は、もとから強くて、潔白だったんだな」

 洞窟に反響する社長の声は、厳かだが、なぜか透き通っているようにも聞こえた。それには、彼の、少しも欠けるところの無い誠の気持ちがこもっていたからかもしれない。

「……初めてこの舞台でおまえたちの漫才を見たときは、ゾッとしたよ。美華の家でおまえたちが、漫才の真似ごとをして暇を潰しているのを見たことがあったから……また、あの頃のニコラとテトラに戻ってしまったように思えて、怖かった。記憶が戻るはずもないのに、自分が臆病なせいで、そう思ったんだ。そして、自分の臆病なのを、怒りに隠して、おまえたちから漫才を奪ってしまった。だけど、最後におまえたちを守ったのは、漫才だった。おまえたちを本来の心に引き戻してくれたのは、漫才だった。俺が……間違ってたんだ」

 そうつぶやくと、双子の肩に手を置く。

「ごめん、ニコラ、テトラ」

 そして、双子の身体を自分のほうに引き寄せ、抱きしめた。ニコラとテトラは、されるままに身を任せた。

 客席に居るシロとガラクタたちからは、社長の肩越しに、かろうじて双子の表情を覗うことができた。人形である彼らの瞳から涙がこぼれることは無いけれど、その両目は確かに、赤ん坊がぐずっているみたいな形に見えた。

 双子は、社長の肩に顔を押し付けながら、嗚咽のあいだから絞り出すように言った。

「あ、あ、謝るなよ、社長」

「そうだよ。俺たちのほうこそごめん」

 社長は何も言わずに、ただなぐさめるように双子の背中を優しく叩いた。

 シロはその光景を、感慨と言うべきなのか、感傷と言うべきなのか、なんなのかわからないが、とにかくじーんとした気持ちで眺めていた。この、社長の退院祝いの計画を練っていた頃のニコラとテトラは、生き生きとしていて、もはやつらい過去も洋館での事件も乗り越え、完全に立ち直ったかに見えた。けれど本当は、ずっと社長に謝りたかったのかもしれない。やんちゃな悪ガキのひねくれが、彼らの心の繊細な部分を覆い隠していたのかもしれない。

 社長は、双子を強く抱きしめていた腕を緩めた。

 ニコラは、社長の顔をまともに見ながら言った。

「これからも俺たちの親で居てくれよ」

 テトラも頻りに頷いた。

「本物かどうかとか、どうでもいいからさ」

 社長は力強く答えた。

「……もちろんさ!」

 シロたちには、背中しか見えなかったけれど、そのときの社長はきっと笑っていたと思う。

 ニコラとテトラは顔を見合わせた。瞳の形はまだぐずっているような感じだったが、口元は、あらゆる緊張から解放された安堵に緩んでいた。

 ずっと大人の悠然さで双子と社長のやり取りを見守っていたクリストーナが、突然ポロンとひとつ明るい調べを奏でた。皆一斉にそちらを振り向く。

「ねえ、ニコラ、テトラ!よろしければ、歌を歌ってくださらない?わたくし、あなたたちの漫才は大好きだけれど、あなたたちのお歌も大好きなのよ」

 湿っぽいムードを振り払うような、軽快な調子だった。

 隣のアドルフも、高く滑らかに同調した。

「そうだね、ぜひ歌ってほしいよ。きみたちに、そんな真面目な顔は似合わない。いつもみたいに、とびきり元気な声を聴かせてくれたまえ」

 ニコラとテトラは、優しい楽器たちをじっと見つめた。そしてふいに、ぐずっていたのからは一転、以前に何度も見せたのと同じいたずらっこの顔でにやりと笑った。

「ああ、いいともよ!」

 自信たっぷりに胸を叩く。

 舞台の下で佇んでいたシロも、楽しいことが始まりそうな雰囲気に、ぴょんと飛び上がった。

「みんなで歌うの?じゃあ私、指揮者やる!」

 先を争う相手も居ないのに、ハイハイハイと手を上げてせわしなくそう叫ぶ。

 ガラクタたちは、シロの申し出に許可を与えるように、いいぞいいぞと声をあげた。

 シロは、上げた手を下ろす勢いそのままにさっそく指揮を取ろうとした。だが、社長が口を挟んだ。

「おいおい、待てよ。それなら俺も……」

 そう言って、急いで舞台を下り、大型の楽器がたくさん寄せ集められている一角に近づいて行く。皆が見守る中、くすんだ楽器群の中に倒れていたコントラバスをよっこらせと持ち上げた。さっきは自分は怪我人だと言っていたくせに、それはもう忘れてしまったようだ。機嫌よさげな顔をして、ピアノの近くまで運んで来る。

「それ、ちゃんと音出るの?」

 シロは、最後に使ったのはいったい何年前かと訊きたくなるような、薄汚れた弦楽器を、目を丸くして見つめた。

 だが社長は、はははと笑った。

「まあ、まともに弾けなくたっていいじゃねえか。それっぽくやっときゃ、それっぽくなるさ」

 客席に居たミスター・パパラッチが、待ちかねたように跳ね上がって叫んだ。

「ねえねえ、早く歌おうよぉ!」

 この世の中に憂鬱があることなど一切知らないようなその無邪気な声に、シロも小さなことなどどうでもよくなってしまった。

「わかった、いくよ!」

 そう言って、手を振り上げる。

 特に音楽の経験など無いシロの指揮は、見よう見まねでめちゃくちゃで、しかもふい打ちみたいにいきなり始めたのだが、指先が底に着いた瞬間、ピアノとサックスとコントラバスは、見事に頭を揃えて、強烈な第一音を地下室じゅうに響かせた!

 続いて、社長が低い音でアップテンポなリズムを刻むのに乗せて、アドルフとクリストーナが息ぴったりのユニゾンで、クールなメロディを奏でる。マカとミスター・パパラッチは舞台に飛び乗り、好き勝手に踊り始めた。ニコラとテトラも、イントロに耳を傾けながら、気分を高めるようにノリノリで腰を振る。そして、アドルフのパスに合わせて、漫才のマイクをぐいと引き寄せ、声を揃えて歌い出した。


 気づいたときからずっと

 地下室暮らしじゃ

 大切なものさえ

 何かわからない


 ただ大好きな人が笑う

 喜び胸に満ちてゆく

 その瞬間はきっと嘘じゃない

 これって愛かな?


 空よ、きみは 大馬鹿者だ

 こんなに愉快な俺たちを

 知らず 今日も つまらない顔と

 にらめっこをしている


 生まれたときからずっと

 ウレタン頭じゃ

 優しさの意味さえ

 まるでわからない


 記憶が少しずつ消える

 身体もやがて朽ちてゆく

 会いたい気持ちだけが変わらない

 これって愛かな?


 空よ、きみは 大馬鹿者だ

 こんなに愉快な俺たちを

 知らず 今日も つまらない顔と

 にらめっこをしている


 そうさ、俺は 大馬鹿者だ

 文字も計算も常識も

 知らず 今日も 笑わせることに

 夢中になっている


 空よ、見たか 俺たちこそが

 地下室のパフォーマーズ


 一同は最後の音を、ビブラートをたっぷり利かせて目一杯まで伸ばした。

 そして音が止むと、誰が合図したわけでもないのに、皆一斉に自画自賛の拍手や口笛、奇声、すなわち思いつく限りの賑やかしをした。勝手にコーラスで参加していたノーヴィが、あべこべオーケストラの上を、機嫌よく空気を吐きながら、びゅんびゅん飛び回る。

 ニコラとテトラは両手を広げ、開放感に満ちた顔で叫んだ。

「ああ、最高だ!」

「これが幸せってやつだ!」

 クリストーナが、他の者に聞こえないくらいの小声でアドルフに向かってささやいた。

「ああ、ダーリン、あなたの音色って本当に紳士的ね。……わたくし、いつでも上品なあなたが大好きよ」

 グランドピアノの甘いささやきに、アドルフは身を悶えさせた。

 互いを褒め合う声が飛び交う中、ミスター・パパラッチが、皆のあいだをくるくると巡りながらせがんだ。

「もう一曲!もう一曲!」

 これ以上望めないほどの幸福に満ち満ちた空間で、その提案に異議を唱える者は誰も居なかった。

 それから地下室のパフォーマーズは、一曲と言わず、時間が経つのも忘れて歌い続けた。飽きることを知らないシロとガラクタたちは、入れ替わり立ち替わり、歌い、踊り、または腕を振り回すだけの名ばかりの指揮を取り、ときには社長まで、コントラバスを弾きながら、機嫌よくテノールを響かせた。顔も身なりも変わっていないはずなのに、その表情は快活で、出会った頃の、怒ること以外何も知らないような不機嫌な男とはまったく別人みたいだった。双子は、さっきまでの真面目な表情なんてあっという間にかなぐり捨てて、筋金入りの悪童らしく、ウケ狙いのふざけた動きも織り交ぜて、夢中になって音楽に興じた。他のガラクタたちも、社長とニコラとテトラがノッていくのにつられて、どんどん気分を上げて行く。混じりけの無い楽しい宴は、いつまでもいつまでも、続いた。

 太陽の見えない地下で、あまりにも長い時間を過ごしたことに、シロがようやっと気づいたのは、音楽の止んだわずかな隙間に、彼女の腹の虫がぐうとひとつ鳴き声をあげたときだった。

 近くに居た社長は、耳ざとくその音を聞きつけた。はははと笑って言う。

「もうそんなに経ったか。シロ、おまえはそろそろ帰ったほうがいいな」

 シロは、自分の腹を忌々しそうに見下ろした。まだまだ気分は最高だ。せっかく盛り上がっているのに、こんなに楽しいパーティーを終わらせてしまいたくはない。

「私はまだ大丈夫だよ」

 そう言い張る。

 しかし、マカが身体の端をひらひらとなびかせながら陽気になだめた。

「まあまあ、シロさん、無理しないでください。なに、また明日来たらいいじゃありませんか。我々はいつだってシロさんを歓迎しますよ!」

 他のガラクタたちも、そうだそうだと頻りに頷く。

 社長は笑いながら子どもの肩をぽんと叩いた。

「安心しろ。俺ももう二度と、来ちゃいけないなんて言わねえから。今日はこのへんにしとけ」

 シロは不満げに口を尖らせた。だがそのあいだにも、育ち盛りの中学生の胃の中では、元気な腹の虫が一生懸命食べ物をねだっていた。

「……わかった」

 しぶしぶそうつぶやく。

 社長はコントラバスをもとの場所に返すと、すっきりしたような顔で、ガラクタたちに向かって言った。

「じゃ、俺も上に戻るよ。家の片付けもしなきゃなんねえし」

 すると、まだ宴会気分の抜けないテトラが、気分よく腕を振って呼びかけた。

「おい、みんな!社長のお帰りだ!出口まで送ってやろうぜ!」

 皆、おーっと言って賛同した。子どもたちの大仰さに社長は苦笑したが、拒みはしなかった。

 ガラクタたちはわらわらと舞台を下り、社長を送り届けようと集まり始めた。そのときシロはふと、皆から少し離れたところに佇んでいるブロンドのマネキンの姿に目を留めた。どこか寂しげな顔で、社長とガラクタたちのほうを見つめている。シロは夢中になって歌い踊っていたので気づかなかったのだが、混じりけない幸福に満ち満ちたパーティーのあいだじゅう、実はハマサキだけはずっと、音楽を楽しみながらも、かすかな憂鬱の色を隠し切れずその血の気の無い顔に滲ませていたのだった。

 彼女は頼りなく肩を落とし、何かを握っているのか、両手を身体の後ろに組んで、今日の感想を楽しげに言い合う皆の背中をじっと眺めていた。

 社長がガラクタたちを連れて出口の方向に歩き出そうとしたとき、その集団の中からふいにニコラが抜け出して、佇んでいるハマサキのほうにふらふらと近づいて来た。

「おい、ハマサキ、何持ってんだ?」

 にんまりと笑って尋ねる。

「べべべ、別に、何も……」

 ハマサキはおどおどとそういうと、自分に向けられた意地悪い笑みから目をそらした。後ろ手に持ったものを隠すように後ずさる。

 だが悪童は、身軽な動きで素早くマネキンの後ろに回ると、その手に握られていた何やら白っぽい塊をばっと奪い取った。

「ニ、ニコラさん!返してください!」

 ハマサキは必死に手を伸ばした。だが、ニコラはその手が届かないところまで塊を持ち上げると、指でぱちんと弾き飛ばした。白っぽい物体が宙に弧を描き、茶色い地面の上にぽとりと着地する。

「ニコラ、おまえ何してんだ?」

 騒ぎに気づいた社長が、顔をしかめながら、揉めているふたりのほうに引き返して来た。

 ニコラは、自分は関係無いと言わんばかりに、両手を頭の後ろに添えて、口笛を吹く素振りをして見せた。

「ったく、またハマサキをいじめてたのか?よせって言ってるだろ」

 ぶつくさとそう言って、足もとに落ちている、どうやらくしゃくしゃになった紙らしいそれを拾い上げる。

 白い紙が社長の手に渡ったのを見て、ハマサキは、雷に打たれたように、ぎくりと肩を震わせた。慌てて一歩踏み出す。だが、遅かった。

 社長は、拾い上げた紙に視線を落とした。


 "すきです"


 痛ましい亀裂の上に、セロハンテープがべたべたと貼られたその紙には、歪んだ文字でたったそれだけが書かれていた。

 社長は目を丸くした。そして、顔を上げ、その怪訝な表情のままハマサキのほうを見た。

「ハマサキ、なんだこりゃ?」

「あ、あの、えっと、それは……」

 絶望に青ざめた顔(実際にはもとの樹脂の色のままだが)をして、言葉を詰まらせる。

 ニコラが、にやにやと笑いながら、動揺のあまりその場に立ちすくんでいるマネキンの背中をどんと小突いた。ハマサキは前のめりにふらつき、数歩進んだ。そして、顔を上げたときには、すぐ目の前に社長が居た。

 不思議そうな表情で自分を見つめる愛しい人の顔を間近に見て、気弱なマネキンはパニックになったように口をパクパクとさせた。短くなったワンピースの裾が、膝の上で小刻みに震える。ブロンドの毛先がぶるぶると揺れる。楽しげにお喋りをしていたガラクタたちは、いつのまにか静かになって、こちらの様子を興味津々に覗っていた。今や、皆の注目が自分に集まっている。そして何よりも、これまでずっと遠くから憧れ眺め続けてきた人が、経験したことがないほど近い距離で、しかも自分の書いたラブレターをその手に握り、こちらを見つめている。混乱の頂点に達したハマサキは、突然、まともに相手の目を見て叫んだ。

「わわわ私……あなたのことが好きなんです!」

 震えているし細いけれど、しかし、今までの彼女からは発せられたことのないほどのはっきりとした声だった!

 周りの者たちは、物音ひとつ立てなかったが、全身が纏う空気はにわかに沸き立った。興奮ぎみに目配せをし合う。

「……えっ?」

 まったく予想もしていなかったことをいきなり言われ、思わず漏らした社長の声が、静かな空間に響いた。

「す、すまん。今なんて……」

 マネキンの意を決して発した言葉が、目の前に居る社長に届かなかったはずはないが、しかし、自分の耳を疑い、そう問い返す。

 するとハマサキは、絶命してしまいそうなくらい震え、喘ぎながら、それでも相手の目をまっすぐに見据えたまま、しゃにむにまた声を張り上げた。

「私、社長のことが好きです、あなたの、瞳が好きなんです」

「瞳、だって?」

 驚いたように眉をひそめて、再び聞き返した。

 無理も無い!思いも寄らない相手に突然告白されたうえに、よりによって、自分の身体のパーツの中でも最も忌み嫌っている瞳を、好きだと言われたのだ。それのせいで悪人面と言われてき来たガラの悪い目を、好きだと言われたのだ。

「いや、何言ってんだよ、俺の瞳なんかの、どこが……」

 首を横に振り、独り言のように、つぶやく。

 ハマサキは、両脚がぶるぶる震えて、もはや倒れかけていたが、社長の漏らした言葉を聞くと、最後の力を振り絞って叫んだ。

「い、いえ、社長の瞳は素晴らしいです。あなたの瞳の奥には、あ、あなたの心が見えます」

 どんどん声がかすれてゆく。

「わ、私はあなたの、瞳の奥にある……美しい心を……愛しています……」

 そして、力尽きたようにふっと目をそらし、斜めに頭を垂れた。

 社長は、ブロンドの髪の揺れる向こうで、すべてを出し切って、緊張の糸が切れたように浅く息をつく相手の真っ白い顔を、茫然と眺めた。生まれつき睨むような形をしたまぶたの下で、丸い黒目が照明を反射しきらめく。彼は、静まり返った中で、口をわずかに開けたまま、ただ黙って突っ立っていた。時が止まったように、じっとその場に立ち尽くしていた。

 一向に動く気配の無い社長の態度にやきもきしたのか、ミスター・パパラッチが観衆の輪から飛び出して何やら文句を言おうとした。だが、隣に居たシロが素早くストラップを掴んで引き留めた。首を絞められたみたいに小さな悲鳴をあげて、もとの場所に収まる。

 やがて、時が止まった中で、ハマサキのブロンドの頭が、わずかにゆらりと動いた。肩を縮こませ、うつむき加減で相手の目を見ないようにして、おどおどと言う。

「すすすすみません……こんなこと言われても困りますよね……私は……人間じゃないんだから……」

 その声は、もとのか弱いマネキンに戻っていた。

「ごめんなさい……」

 そうささやき、逃げるように、後ずさりに去ろうとする。

 だが、その腕を社長ががしりと掴んだ。

「待ってくれ!」

 ハマサキは思わず顔を上げた。再びふたりの視線がかち合う。

 社長は、驚いたように大きく見開かれている、黒目の無い空虚な瞳を、光の宿った目でまっすぐに見ながら言った。

「ハマサキ、今きみは、俺の心を愛してると言ったな?どうして同じことが、きみにできて、俺にはできないと思うんだ?」

 そして矢庭にマネキンの両肩を掴んで引き寄せると、自分の柔らかい唇を、相手の硬い唇の上に重ねた。

 観衆はあっと声をあげた。

 感心のため息をつくアドルフとクリストーナ。身体を丸めながらも端を持ち上げてちらちら盗み見をするマカ。鼻水を垂らすみたいに白い写真をばらばらと落とすパパラッチ。はたと互いの腰を掴んだ双子の後ろに隠れて、そっと覗くノーヴィ。そして変人シロは、堂々たる仁王立ちで、ドラマや映画以外では初めて見る口づけというものを、ほおーっと唸りながらじろじろ観察した。

 ハマサキの表情は社長の頭に隠れて見えなかったが、その両腕は、力が抜けたようにだらりと身体の横に垂れていた。

 その甘い時間はどれだけ続いたことだろう!実際にはそれほど長くはなかったのだが、しかしここに居る全員が、その素晴らしい瞬間を途方も無く長い旅のように感じたのだ。

 やがて社長は口を離し、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。肩に手を置いたまま、真剣な眼差しで相手の顔を見つめる。その眼差しには、彼がこの短いあいだに、しかし確かな覚悟を持って決意した、ある種の永遠の約束が宿っていた。ハマサキは、唇を薄く開けたまま、魂が抜けたみたいに、白い瞳でぼうっと見つめ返した。本物のマネキンみたいに、身動きひとつせず突っ立って、自分にまっすぐ向けられた、真剣な眼差しを見つめ返した。

 張り詰めた空気。社長の行動に対してハマサキがいったいどんな答えを返すのか、野次馬たちがどきどきしながら見守る中、ようやっと、その細く白い唇がかすかに動いた。

「えっと……こ、これはなんですか?」

 眉を垂らし、戸惑いぎみにそう尋ねる。

「へっ」

 社長は、真剣な顔のまま、思わず間の抜けた声を漏らした。観衆も口をぽかんと開けた。

 ハマサキは困ったようにあごを引いて、おろおろと言った。

「あ、あの、この、口と口をくっつけるのは、人間の、何か、特別な挨拶の仕方なんでしょうか」

 どうやら純朴なマネキンはキスの意味を知らなかったようである。

 自分の中で最大限かっこつけたつもりだったのに、その真意がまったく相手に伝わっていなかったことがわかると、男の顔はみるみるうちに真っ赤になった。肩に置いていた手を慌てて引っ込める。

「こ、これは、えーと……」

 どう説明したものか。いや、説明するのさえ恥ずかしい。ハマサキ以上におろおろして、何を言うでもなく無意味に手を動かした。

 真剣でロマンチックだったムードが、一気にどこか喜劇じみたものになってしまったので、ふたりの成り行きを真面目に見守っていたガラクタたちの集中も、ぷつんと途切れてしまった。「なあんだ、なんかカッコわるい」「拍子抜けした」などとひそひそ話を交わし始める。悪ガキニコラとテトラに至っては、社長のいつにない慌てっぷりを指差して、ぷぷぷと肩を揺らしていた。

 しかし、おろおろする社長の前で、ハマサキがふっと、天使に息を吹きかけられたみたいに、柔らかく微笑んだ。

「でも」

 ざわざわとした中でもはっきりと響いたその優しい声に、野次馬はお喋りをやめて、再びすんと静まり返った。社長も、ばたばたするのをやめた。

「わからないですけど……きっと、とても素敵なことなんでしょうね。だって、今の私、なんだかすごくすごく幸せな気分なんです……」

 そう言って、幸福そうに目を細める。

 社長は、その美しい微笑みを目を丸くして見つめた。ガラクタたちも、いつも自信なさげで不安な顔をしているハマサキの、初めて見せたと言ってもよい、完全な幸せに満ちた表情を、物珍しげに眺めた。

 社長は最初驚いていたが、徐々に、はは、ははと自分も笑い出した。そしてしまいには、子どもみたいに無邪気な輝きがその顔を飾った。

「……そうだ……はっはっはっ、そうだよ!すごくすごく素敵なことさ!」

 大笑いしながらそう叫ぶと、ハマサキをがばと抱きしめる。ハマサキは驚いて目を見開いたが、すぐにまた、愛しい人の腕の中で、感動に包まれ微笑んだ。

 すると、野次馬たちも、どっと歓声をあげた。

「ヒュウヒュウ!お似合いだぁ!」

 口笛の真似ごとをして、ふたりを祝福する。 楽器たちは祝いの音色を奏で、ポラロイドカメラは跳ね回って、記念撮影に興じた。シロも喜びに満面の笑みを浮かべ、空腹のことをすっかり忘れて、抱き合うふたりに駆け寄って行った。どうやらパーティーは、まだまだ終わりそうにない。

「ほんっと今日は、最高なことばっかりだ!」

 祝福の宴の中でそう叫んだニコラの声は、地下室じゅうに、いつまでもぼわんぼわんと響き続けた…………

 もしもこのとき、誰か地上の洋館の傍を通り過ぎる者があったとしたら、井戸の中から聞こえて来る歓声に、またぞろこの家は幽霊屋敷なのだと思ったことだろう。だが同時に、この歓声があまりに暖かく優しく幸せに満ちているために、この屋敷に住む幽霊は陽気で、ちっとも害は無いのだとも思ったことだろう。

 彼らには、血も無ければ肉も無い。悲哀に涙を流さず、憤怒に顔色を変えない。ぬくもりも痛みも感じぬ表面が、ただ冷たく空気に晒されるばかり。だが彼らには、心がある。素晴らしい発想に富み、誰かを愛することを知る心がある。大好きな人に笑ってほしいという願いがある。そして、できれば自分こそが、その大好きな人を笑わせたいと思う。果たして、血と肉を持つ者の中でどれだけの者が、これほどまでに潔白な心を持ちうるだろうか?

 彼らの生活はこれからも続くが、この物語はここで終わる。

 どうか彼らの前途に、当然恵まれるべき幸福が恵まれんことを!

                                〈完〉

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