第十七話
「えっ?」
その瞬間、その空間で、驚いていない者は誰も居なかった。シロも社長も目をまん丸にしていたし、美華も長い髪のあいだから虚を突かれたような顔を覗かせていたし、戸口に現れたニコラとテトラもまた、思いもかけない場面に出くわしたとでも言うように、口をぽかんと開けていた。
「ニ、ニコラ、テトラ、どうしてここに?」
ずっと会いたかったふたりに会えたはずなのに、その出会いがあまりにも予想外のタイミングで起こったので、シロは他に言葉が見つからないで、ただ戸惑いぎみにそう尋ねた。
すると、ニコラとテトラもうろたえたように手を振り、どもりがちに答えた。
「いや、その、俺たち、シロの手紙を読んでさ。どうしても、シロに会いたくて」
「どうにか外に出る方法が無いか、ずっと探してたんだ」
「そしたら、あの、秘密の部屋の暖炉の中に、抜け道があるのを見つけて……」
早口でそう説明しながら、部屋の奥の異様な状況にちらと目をやる。びっくりした顔でこちらを見つめている社長。その隣では、見知らぬ人間が椅子に縛り付けられている。まったく理解しがたい光景だ。
そのときふと、テトラが、足元に黄緑色の布切れが散らばっているのに気づいた。
「お、おい、これって……」
ニコラもはっとする。
「もしかして、俺たちの!」
そして、布切れを拾おうと、腰をかがめる。
驚きで固まっていた社長は、たちまち我に返り、血相を変えて叫んだ。
「やめろ!それに触るな!」
しかし、遅かった。
双子の指先が、布切れに触れた。
その瞬間、双子の身体は電気が走ったみたいにはたと凍りつき、まるで地球がどくんとひとつ鼓動を打ったかのように、空間が斜めに揺らいだ。その一瞬のその部屋のすべてが微細に至るまでモノクロ写真に収められたかのように、世界が色を失った。いや、それらは実際にはただの幻想なのだが、つまり、そう思えるくらい決定的なことが今まさに起こったことが、誰の目にも明らかにわかったのだ!
ふたりは、指先を布切れに触れたまま、矢庭に震え出した。スーツに当てられた不揃いのツギハギがおもむろに、びりびりりと音を立て、反発するように剥がれ落ち始めた。代わりに、床に散らばった布切れが、故郷に帰る鳥の群れのように、ぶるぶる揺れて、ふたりのもとへと引き寄せられてゆく。彼らの切り取られた記憶が、もとあった場所へ、本来あるべき場所へ、綿の詰まった身体の中へと帰ってゆく!
「な、なん……だ……これは……」
「俺たちは……何を……した……?」
双子は、頭を抱え、よろめいた。がくりと膝を突き、首を絞められているみたいに、喘ぐ。突如押し寄せた大量の情報が、濁流のように彼らの中へ流れ込み、彼らを圧倒しているのだ。彼らが生まれてから記憶を失うまでに見た景色、聞いた音、抱いた思い、すべてが濃縮された結晶が、人生に比べればほんの一瞬に過ぎないこの一分間に、彼らの当たり前の一部に戻ろうとしているのだ!
「俺たちは……人間を……殺した……」
社長もシロも、驚愕で棒立ちになり、その場を動けなかった。青ざめた顔で、寄り集まってゆく布切れの中心で苦しそうに悶える双子をただ見つめるしかなかった。自らが犯した罪の記憶と再会した彼らの悲痛な喘ぎを、何もできずに、ただただ聞いているしかなかった。
ニコラとテトラはしばらく床の上で、処理し切れない記憶の濁流に、がくがくと震えていた。だがやがて、周りの布切れの動きが鈍り始め、それにつれて、彼らの震えも収まって行く。とうとう、震えが完全に止まると、苦しい喘ぎ声も止み、部屋の中はふいにしんと静まり返った。
社長とシロが息をするのも忘れて見守る中、双子は、うつむいたまま、おぼつかなげにふらふらと立ち上がった。立ち上がった彼らのスーツには、もはやまだら模様のツギハギは無かった。彼らが作られたときの、本来の、濃淡の均一な黄緑色の表面がそこに広がっていた。
双子はゆっくりと顔を上げ、そして、まっすぐ、部屋の奥に居る美華を見た。
「……お母さん」
そのつぶやきは、ただの吐息と聞きまがうほどにかすかだったけれど、しかし、はっきりとそう発音されたのだった。
すると、今までじっと惨めたらしく座っていた美華の顔に、にわかに、口が裂けそうなほどの笑みが浮かんだ。
「そうよ!そうよ!私があなたたちのお母さんよ!」
甲高い叫びが沈黙を切り裂いた。彼女の瞳は、勝ち誇ったようにぎらぎらと輝いていた。
「ニコラ、テトラ!私を助けて!」
双子の人形は、目にも留まらぬ速さで、"親の命令"に従った。テトラは、美華の傍で棒立ちになっていた社長に猛然と飛びかかった。ふいを突かれた社長は、構える間も無く、綿の塊とは思えないほどの怪力でなぎ倒され、本棚に頭を打ちつけた。ニコラは、床に落ちていたナイフを素早く拾うとカバーを剥ぎ、ひらりと椅子の近くまで跳んで、母親を縛り付けていた電気コードをばっさりと切り落とした。
自由になった美華は、悠然と立ち上がると、両手を広げて狂ったように笑い声をあげた。
「あはははははははははははは!よくやった、よくやったわ!さすが私の子どもたちね!」
美華の悪魔のような高笑いは、シロの脳をぐわんぐわんと揺らした。あまりにも短いあいだに起きたあらゆることに、彼女の思考は追い着くことができなかった。気づけば、社長は半分気を失ったような顔で本棚に寄りかかっていたし、一分前まで打ちしおれていた美華は豪然と復活していたし、ニコラとテトラは、主人に仕える従僕のように、その美華の両脇に行儀よく立っていた。そこに居るニコラとテトラは、確かにニコラとテトラなのだが、しかし、シロの知っているニコラとテトラではなかった。感情を失ったような能面でこちらを見つめる彼らは、シロのことも、社長のことも、他のガラクタたちのことも忘れてしまったみたいだった。ただただ親の命令だけに、その全存在を支配されているのだった。
美華は、戸口で立ち尽くしているシロに向かって、嘲るような笑みを投げかけた。
「お嬢ちゃん、これがこの子たちの本当の姿よ。私を愛し、私のために、私にとって邪魔な人間を消してくれるの」
そして、両脇に居る子どもたちに呼びかけた。
「ニコラ、テトラ、あの小娘を殺して」
ニコラとテトラは無表情のまま頷いた。
「わかった、お母さん」
殺して――殺して――殺して――……
美華の冷たく低い声がシロの頭の中にぼわんぼわんと響いた。彼女は、混乱している中でも、その命令の意味がはっきりと理解できた。しかし、驚きのせいなのか恐怖のせいなのかわからないが、叫ぶことも、逃げ出すこともできなかった。表情を失ったニコラとテトラが、じりじりとこちらに向かって来る。ニコラの右手にあるナイフの刃が、照明を反射して美しくきらめいている。すべてが、はっきりと見える。それなのに、下半身だけまるごと宇宙に飛んで行ってしまったみたいに、まったく足が言うことを聞かないのだった。
やがてニコラとテトラは、シロからもう半歩しか離れていないところまでやって来た。ニコラは、ナイフを持った腕を振り上げた。立ち尽くしたままのシロの脳裏に、次に起こることの予想の景色が、まざまざと閃いた――
そのとき、横合いから大きな背中が飛び込んで来て、シロの視界を覆った。シロは思わず目をつむった。何かがどっと床に打ちつける音が響く。
次に目を開けたときには、シロと双子のあいだを遮るように、社長が大の字になって戸口に倒れていた。シャツの左袖の、二の腕の辺りに、みるみるうちに赤い染みが広がって行くのが、目に入った。
「しゃ、社長」
シロは、恐ろしさで心臓が一気に冷たくなるのを感じながら、激痛に呻く社長の顔と、白い袖に広がっていく赤色とを、見下ろした。視界の上端に、倒れた社長の身体の向こうに佇むニコラとテトラの足と、ニコラの腰の横にぶら下がったナイフの先からぼたぼたと滴り落ちる血のしずくが見える。
部屋の奥から美華の声が呼びかけた。
「待って、ニコラ、テトラ。龍一はまだ殺さないで。彼とはまだ話したいの。……あなたに捨てられて、私がどれだけつらかったか……死ぬ前にちゃんとわかってもらわなくちゃ」
そう語る彼女の声は、残酷な艶やかさを帯びていた。
「小娘を殺しなさい」
もう一度、命令を下す。
シロはまだ、動くことができなかった。ニコラがナイフの血を払って、もう一度命令の実行に取り掛かろうとするのがわかったけれど、足の裏が床に張り付いて動かない。
そのとき、足元に倒れていた社長が、横目でシロを睨み、怒鳴った。
「何やってる!はやく逃げろ!」
ほとんど気を絶しかけているというのに、その剣幕は、今まで見たことないほどに恐ろしかった。地下にDVDを持ち込んだことに怒ったときよりも、ガラクタたちを外に連れ出したことに怒ったときよりも、何倍も、いや、比較にならないほど恐ろしかった。こちらを殴り殺さんばかりの怒号で、全生命をその怒りのほとばしりに掛けたかのようだった。
シロは恐ろしさに思わず飛び上がると、身を翻し、廊下を駆け出した。
「追いかけて!」
背後に美華の声が響く。
シロは、埃の溜まった広い廊下を、無我夢中で走った。痛みに歪む社長の顔、広がる血の跡、冷たい瞳でこちらを見つめる双子の姿……いろんな像が頭の中を目まぐるしく巡っていたけれど、しかし何ひとつ明確な思考は働いていなかった。乱暴に踏みつけられた古いフローリングが軋み、ぎいぎいと悲鳴をあげる。振り返る余裕など無い。双子は追いかけて来ているのか?どこまで来ているのか?もしかしたら、もうすぐ傍まで迫って来ているのかもしれない。何も、考えられない。ただただ、前につんのめりそうになりながら、全力で駆けて行く。
だが、そうやって走りながら、目の前に洋館の正面玄関ではなく、突き当りの部屋の扉が見えたとき、絶望が津波のように、かわいそうな子どもの胸に押し寄せて来た。やってしまった。パニックのあまり、曲がるべき角を曲がらなかったのだ。この屋敷にひとつしかない、出口へ繋がる道を、見逃したのだ。
さっき入ったとき、突き当たりの部屋に窓はあったか?――あったことを祈りながら、シロは扉に体当たりして室内に飛び込んだ。だが、さらなる絶望が彼女を襲った。部屋の奥には、ソファーとテレビ台に挟まれて、窓があったが、それは採光用の小さな窓で、シロの背丈の一・五倍ほどの高さのところにあったのだ。
シロは、テーブルに足をぶつけてDVDの山を崩しながら、ふらふらと部屋の奥に進んだ。全力で走って来たのと、精神が完全に追い詰められたために、乱れた呼吸を繰り返す。頭上の窓を見上げながら、震える手を壁に当てて、まさぐる。しかし、壁紙の禿げた無機質な壁面にはなんの取っ掛かりも無く、しかもこんなパニックになった状態で、いくら運動神経のいい彼女とて、窓のあるところまで登るのは不可能だった。それでも、頭の中が真っ白になり、もはや何も考えられなくなった子どもは、まるで撫でていれば秘密の扉が現れるとでも思っているかのように、荒く息を吐きながら、ただただ壁に触れ続けた。
ふいに、背後で物音がした。シロはばっと振り返った。
狭い部屋の入り口を塞ぐように、双子の人形が立っていた。シロと過ごした楽しい日々をすべて忘れ去り、ただ親の命令を完遂することだけが至上の目的となった双子の、虚ろな瞳がひたとこちらに据えられていた。
ニコラとテトラはナイフを構えて、静かに、標的のほうへ一歩踏み出した。切先についたまだ色鮮やかな血が、高窓から差す光を反射して、怪しく輝く。
気圧された子どもは、後ろが無いことを忘れて、後ずさろうとした。だがすぐに、残酷な硬い壁が背中を押し返す。恐怖に見開いた目を、近づいて来る双子の虚無の瞳に釘付けにしながら、ぶるぶると首を横に振った。
「やめて……ニコラ……テトラ……」
激しい呼吸のあいまに、絞り出すようにつぶやく。
「あなたたちは……そんなことのために生まれたんじゃない……」
しかし、その声はニコラとテトラにはまったく聞こえていないようだった。ふたりは、もはや逃げ場を失っている獲物を、さらに確実に仕留めようとでもするように、ナイフを構えたまま、じりじりと、ゆっくりと、シロに近づいてゆく。
双子が戸口に現れてから、シロはずっと、身体全体が心臓になったみたいに激しく打つ鼓動を感じていたけれど、彼らがもう、手を伸ばせば届きそうな距離まで迫って来たとき、ふいに、張り詰めていた緊張の糸がぱちんと途切れた。解放された脳がぐらぐらと揺れ、視界が曇る。目の前のふたりの輪郭が、背景に滲む。それは、今まで積み上げて来た生活が、あっけなく手を離れ、川に落ち、そして溶けて消えるように。
――ああ、もう駄目だ。今度こそ、死ぬんだ。せっかく社長が助けてくれたのに。命を賭けて助けてくれたのに。逃げられなくて、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――……
黄緑色の靄が揺れる中に、赤い切っ先の振り上がるのが見えた。
そのとき、思わず後ろに引いた足のかかとが、何か硬いものを踏みつけた。かと思うと、機械の起動するブーンという音がどこからともなく聞こえーー
「どおぉーもぉー!弾丸ブリッツでえええぇーす!」
突如、愉快な爆音が部屋じゅうに鳴り響いた。
シロはびっくりして、溶け落ちてゆく世界から引き戻された。ばっと顔をテレビのほうに向ける。大きな四角い画面には、あのやんちゃな若い漫才師の姿が映っていた。
「ハイ!弾・丸・バキューン!」
この場には不釣り合いな、お馴染みの楽しい掛け声をあげる。
驚きながらちらと足元に目をやると、かかとのすぐ後ろに、テレビのリモコンが転がっていた。どうやらこれを踏んでしまったらしい。そして、顔を上げて、はっとした。
目の前に居るニコラとテトラが、ナイフを振り上げた格好のまま、固まっていたのである。テレビから流れ出る音を、身体の側面に受けながら、それに聞き入るかのように、じっとしているのである。
「俺たち、ふたりとも十六歳なんすよ、絶賛反抗期です!」
「そうです、反抗期っす。反抗期なんで今日も、親のやりかけの数独に線足してタータンチェックに変えてやりました」
「いや、どんな反抗の仕方だよ、親の脳トレに冬の装いさせるなよ」
「じゃ、おまえはどんな反抗してんのか見せてみろ」
「いいぜ。じゃあおまえ、俺の母親やってくれ」
すると、ニコラとテトラの身体がふいに、小刻みに震え出した。何もかも忘れて虚ろになったはずの瞳の奥に、内なる思いが、かすかに閃く。抑圧された感情の下に、ただ他人を笑わせることに無上の喜びを感じていた頃のふたりの姿が閃く。彼らは、抵抗していたのだ。何十回何百回と見返した憧れの漫才師の漫才に耳を傾けながら、意志の力で、必死に、運命に抗おうとしていたのだ!
爆音の漫才が流れる中、ニコラとテトラが意志と洗脳の狭間に揺れていると、背後に美華が姿を現した。ふたりがまだ決定的な行為に至っていないのを見て取ると、美華は腹立たしげに叫んだ。
「何をぐずぐずしているの?早くそいつを殺して!」
しかし、それをかき消すように、テレビの中の弾丸ブリッツが叫び返す。
「黙ればばあ、てめーの命令なんか聞かねえよ!」
親の命令に、ニコラとテトラは一度びくりと反応したが、それでもやはり踏みとどまった。もはや彼らは、明らかにわなわなと震えていた。苦しげに歪めた口から、言葉が漏れる。
「……違う……」
「……俺たちは……」
美華はイライラと地団駄を踏み、再び命令を下した。
「殺してって言ってるでしょ!」
弾丸ブリッツも負けじと言い返す。
「おいおい、子どもになんちゅーことさせようとしてんだ!」
「……こんなために……」
「……生まれたんじゃ……」
「親の命令よ、殺しなさい!」
「ふん、俺は親の言う通りになんか生きてやらねえぞ!」
「……俺たちは……」
「……俺たちは……」
「こ・ろ・せ!」
「漫才師になるんだよ!」
「……漫才をするために生まれたんだ!」
声を揃えてそう叫んだ瞬間、ニコラの手からナイフが滑り落ち、床に当たってがらんと音を立てた。双子は、ふたりを操っていた見えない糸が切れたかのように、どっと床に膝を突いた。
美華はヒステリックな叫び声をあげた。
「この、役立たず!もう、いいわ!私がやるわ!」
そして、部屋の中にずいと足を踏み入れ、倒れて道を塞いでいる双子を蹴飛ばす。
シロは、咄嗟にまずい、と思って、落ちているナイフを拾おうと飛び出したが、美華のほうが速かった。美華はナイフの柄をむんずと握ると、掴み損ねてからっぽの手を宙に浮かせているシロを、愉快げに見下ろした。
「あはははははははは!助かったと思った?」
背景に愉快な漫才が流れる中、悪魔の高笑いを響かせる。
「死ね、鵜代麦子!」
そう叫んでナイフを振り上げた瞬間、しかし、彼女の憎しみに歪んだ顔を突如、"交通安全強化月間"の文字が覆った。
「ぎゃあっ」
いきなり視界を奪われた美華は、悲鳴をあげ、思わず手を止めた。
さらに、一台のポラロイドカメラがどこからともなく足元に躍り出たかと思うと、足首にストラップを巻き付け、絞め上げる。美華はよろめき、握られていたナイフは手から滑り落ちた。
「マカ!パパラッチ!」
シロは、大好きな仲間たちが素晴らしいタイミングで現れたのを見て、目を輝かせた。
「シロさんをいじめる奴は、許さないであります!」
視界を取り戻そうと暴れる美華の顔に張り付きながら、犬の眉を怒りの角度に傾けて、マカが叫ぶ。
「悪霊退散!悪霊退散!」
ミスター・パパラッチも、レンズに憤懣の色を表して、不届き者の足首をぐいぐいと引っ張った。
「くそ……こざかしい!」
そう叫ぶと、美華は、身体の周りにちょろまかとへばりつくガラクタを、乱暴に押しのけた。もはや怒りに気の狂った彼女の力に際限は無い。蹴飛ばされたパパラッチは派手に吹き飛んで、床をごろごろと転がり、必死に張り付いていたマカも、宙に舞い上がった。
形勢逆転した美華は、勝ち誇ったように笑った。
「あんたたちの親は、私よ!所詮、親の命令には逆らえないのよ!さあ、おとなしく……」
そう命令を下そうとしたとき、それをかき消すような、獣みを帯びた雄叫びが背後に響いた。
「どぅおりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
続いて、鈍器で何かを殴ったような鈍い音ががんと響いたかと思うと、美華の両目はにわかに見開かれ、顔面蒼白になり、そしてそのまま前のめりに傾いた。
髪を舞い上げ、スローモーションで倒れ落ちてゆく美華。その頭の後ろから昇って来る、金色の輝き。
他でもない、アルトサックスのアドルフだった。華麗なジャンプキックが決まって、たいそうご満悦なのか、気障な木管楽器は、哀れな犠牲者の幕が落ちる向こうで、背筋を伸ばし、紳士然としたポーズを決めていた。
シロはチャンスを逃さなかった。床に転がっていたリモコンを素早く掴み、ぶっ倒れた美華の背中の上に飛び乗る。そして、殴られたときにたがが外れて開いた口の中に、リモコンを突っ込んだ。
美華は、痛みに顔を歪めながら、シロの股の下から逃げ出そうともがいた。
「はんはあい、はふへえ!」
口をもごもごと動かし、命令らしきものを下す。
しかし、そんな不明瞭な命令は、どの子どもにも届かなかった。マカもアドルフもミスター・パパラッチも、白けた様子で、暴れる美華を見下ろしている。代わりに、口に突っ込まれたリモコンの音量ボタンが押され、部屋を揺らす漫才の声がどんどん大きくなっていった。
「いや、もういいよ!」
「ありがとうございました!」
弾丸ブリッツが耳をつんざくような大音量でそう叫んだとき、しつこくもがき続けていた美華も、とうとう力尽き、がくりと頭を床に落とした。
テレビの中で、天才漫才師の漫才を称賛する拍手がやかましく炸裂するのに負けじと、シロも声を張り上げた。
「ニコラ、テトラ!コード!コード!コード取って!」
その声で、双子ははっと顔を上げた。彼らはずっと部屋の隅に転がって茫然としていたのだった。ふたりの瞳はもはや虚ろではなく、子どもっぽく、せわしなくきょろきょろと動いていた。そこに居る彼らは確かに、シロの大好きな、優しい悪ガキのニコラとテトラであった。
ニコラとテトラは慌てて立ち上がると、テレビとコンセントを繋いでいた電気コードを引っこ抜いた。ようやっと、鼓膜をぶち破りそうなけたたましいBGMが収まる。双子はあわあわと、美華の上に馬乗りになっているシロに駆け寄り、コードを手渡した。
ガラクタたちのリーダーとしてすっかり冷静さを取り戻したシロは、そつない動きで素早く美華の手足を縛り上げた。ガラクタたちに滅多打ちにされて伸び切った美華に、もはや抵抗する様子は無い。縛り終えると、周りに集まった仲間たちの顔を見回し、はきはきと指示した。
「みんな、この人を見張っておいて。絶対に、喋らせちゃ駄目だよ」
ガラクタたちは一斉に頷いた。
「アイアイサ!」
シロは、美華をガラクタたちに任せると、立ち上がり、部屋を飛び出した。
洋館の反対側を目指し、急いで廊下を駆けてゆく。逃げて来たときとは違って、思考はしっかりと働いていた。残して来た人の顔の、苦しげに歪む画が脳裏に浮かぶ。やがて、廊下の奥に、突き当りの部屋の戸口から、倒れた社長の頭がはみ出しているのが見えた。
息を切らして部屋を覗き込むと、見慣れたブロンドのマネキンが、大の字になった社長の横に膝を突いて座っていた。
シロが入って来たことに気づくと、ハマサキは顔を上げ、今にも涙が流れ出しそうに歪んだ真っ白な瞳をそちらに向けた。
「シシシシロさん!しゃ、しゃ、社長は、どうなってしまうんですか?」
悲壮感溢れる口調で、すがりつくように問いかける。
シロはしゃがんで、社長の顔を覗き込んだ。社長はもはや痛みに呻いてはおらず、両の目は静かに閉じられている。顔面からはすっかり血の気が失せて、別人みたいに蒼白になっていた。袖には大きな血の染みがついていたが、最後に見たときからはさほど広がっていない。よく見ると、ハマサキの白いワンピースの裾がたくし上がって、社長の腕にきつく巻き付けられていた。
シロは、まるで眠っているかのような社長の傍らで、不吉な予想に胸が冷たくなるのを感じた。
「社長、ごめん、社長……」
度を失ったように、そう繰り返す。
だがそのとき、社長の閉じられたまぶたがぴくりと動いた。
シロとハマサキは思わず身を乗り出した。息を殺してじっと見つめていると、社長は薄く目を開けて、こちらを見上げた。
「シロ……」
消え入りそうな声でそうつぶやく。黒目がじりじりと動いた。
「ハマ……サキ……」
「社長!大丈夫?」
シロは、現世にちらと戻って来た男を引き留めて絶対に帰すまいとするかのように、前のめりに呼びかけた。
社長はしばらく、薄目を開けたままじっと黙っていた。だがやがて、わずかに開いた唇のあいだから、息を漏らすように答えた。
「おう……なんとか……」
その口調は、目覚めたときの第一声よりは、心持ちはっきりとしているように思われた。
命に別状は無さそうなのを見て取ると、シロは少しばかり安堵して、ため息をついた。ハマサキはまだ心配でたまらない様子で、愛しい人の色の失せた顔をじっと見つめている。
社長は、動かない身体の中で黒目だけをシロのほうに向けた。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……シロ、ガラクタを地下に逃がせ……」
苦しそうに息を継ぐ。
「それと……救急車呼んでくれ」
その頼みを聞かない理由は無かった。
「わかった!」
シロは力強くそう答えると、さっと立ち上がり、部屋を出た。
それ以降の彼女の行動は、冒険心の豊かな変人らしく、ちゃきちゃきと素早かった。まずは、廊下にあった電話で救急車を呼んだ。それから、ガラクタたちの待っている部屋へと急いで戻る。戻って来たとき美華は、使命感を帯びてものものしい態度で見張っているガラクタたちに囲まれ、もはや諦め切ったように床の上に伸びたままでいた。シロは、美華がもう完全に逃げられないのを確認してから、ガラクタたちを地下に繋がる出口へと誘導した。どうやら、地下の最奥の部屋の暖炉と、洋館の廊下にある暖炉とが、秘密の道で繋がっていたらしい。ガラクタたちは埃と煤にまみれながら、暖炉の奥へと消えて行った。アドルフは、秘密の道の入り口に張り付いていた蜘蛛の巣に触るのを嫌がったので、体当たりして無理やり押し込んだ。ガラクタたちを逃がすと、最後に、社長の部屋へとハマサキを迎えに戻った。ハマサキは、大切な人の傍に張り付いて、なかなか離れようとしなかったが、町のほうから救急車のサイレンの音が徐々に近づいて来る中、シロが「大丈夫だから、助けが来るから」と頻りに説得すると、しぶしぶながらようやっと立ち上がってくれた。スカートの裾は、破り取って社長の怪我をした腕に巻き付けたままにしておいた。救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら停車する音が表から聞こえたのは、ちょうど、短くなったスカートのまばゆい白さが暖炉の奥の闇に溶けて消えた瞬間だった。




