表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/20

第十六話

「ばったり龍一に会ってしまわないかしら?」

 倒れた通用門をまたぎながら、美華が不安げにつぶやく。

「私があの子たちを連れ戻しに来たなんて知ったら、あの人何するかわからないわ……」

 そんな美華の先に立って、シロは、枯れ芝を踏んでずんずんと庭の奥に進んで行く。振り返りもせずに、戸惑う大人の懸念を、気軽な口調で否定した。

「大丈夫ですよ。社長はいつも、六時にならないと帰って来ないから」

 以前は毎日のように通っていた古びた洋館は、相変わらず陰気で寂しく、赤い壁が、黒い蔦の這う下で、むっつりと眠っていた。ひとつ変わったことと言えば、一ヶ月前はまだわずかに葉を残していた庭の樹々が、今ではすっかり丸裸になってしまっていることくらいだ。何もかもが、うち捨てられた廃墟のように、時が止まったように、じっとその場にうずくまっている。そして、井戸の口を頑強に塞ぐ蓋と鎖もやはり、以前と同じように、厳然たる態度で門番を続けていた。

「荒れ放題で、幽霊屋敷みたいね。言われなければ、人が住んでるなんて気づかないわ」

 街の舗装された道を歩く用に作られた靴で、荒れ果てた庭をおぼつかなげに進んで来た美華が、やっとシロに追い付いた。そして、すぐさま、見るからに異様な雰囲気を放っている井戸の存在に気づいた。

「……この中に、ニコラとテトラが居るのね」

 その顔には、以前シロが初めてこの蓋と鎖を見たときと同じような、絶望が浮かんでいた。侵入者を拒む社長の頑なさがここまでのものとは、予想していなかったのだろう。

 地面に膝を突き、そっと鎖に触れる。

「力ずくで開けるのは無理そうだわ」

 大人の思考を持った美華は、一ヶ月前ここで蓋を開けようと小一時間無駄な足掻きをしたシロとは違って、すんなりと結論付けた。

 シロも美華の隣にしゃがんで、頷く。

「前に来たとき、なんとか開けられないか、押したり引いたりしてみたんですけど、びくともしませんでした」

 美華は広い蓋の上を見回し、中央で鎖を束ねている南京錠に目を留めた。悲しげにうなだれてつぶやく。

「この、ほんの小さな南京錠のせいであの子たちに会えないんだわ。この南京錠の鍵さえあれば、すべて解決するのに」

「鍵……」

 シロは、美華の言葉を独り言のように繰り返した。チェーンソーで蓋をぶっ壊そうとか、そういう野蛮な方法ばかりに思考が囚われていたので、普通に鍵を使って開けるという発想は無かった。顔を上げて、辺りを見回す。井戸のすぐ傍の、カーテンの閉まった窓が目についた。

「あそこ、社長がいつも使ってる部屋なんです。あの部屋に鍵が置いてあるかも」

 そう言って立ち上がり、外側から社長の部屋に近づいた。砂埃のついた桟に指を掛け、引っ張ってみる。しかし、そう都合よく鍵を掛け忘れているはずも無く、古い窓ガラスが軋んだだけで、希望の扉を開いてはくれなかった。

 シロは残念そうに眉を垂らして、井戸の傍まで戻って来た。美華は後ろからシロの行動の一部始終を見守っていたが、さして期待はしていなかったらしく、何事も無かったかのように、またうなだれた。

 双子の母親は、何をするでもなく、しばらくのあいだその場に座り込んで、井戸を塞ぐ無情な蓋をじっと見つめ続けていた。一ヶ月前、自分も同じように絶望したシロには、たとえ何もできなくても双子に繋がる道から離れてしまいたくないという美華の気持ちがよく理解できたので、野暮に声をかけることはしなかった。その代わり、庭の中をぐるぐると歩き回りながら、なんとか蓋を開ける方法は無いかと頭を巡らせた。一ヶ月考えて思いつかなかったのだから、そう簡単に思いつくはずは無い。だが、井戸の前で魂を抜かれたように青い顔をしている美華を見ると、胸が痛んだし、自分から熱意を燃やして連れて来た手前、なんとしてもニコラとテトラに会わせてやりたかった。

 そのとき、冬の将軍がどうと息を吹いて、シロの髪を豪快に宙に躍らせた。裸の樹々の枝が揺れて、乾いた音を立てる。シロは思わず目を細めたが、ふと、視界の上のほうで何かが翻ったのがちらと見えた。

 風が止むと、井戸のわきでずっと黙り込んでいた美華が立ち上がって、シロのほうに寄って来た。

「鵜代さん、大丈夫?こんなに寒いのに、付き合わせてごめんね……」

 しかし、シロは美華の声など聞こえなかったかのように、乱れて顔にかかった髪のあいだから、一心に上を見つめている。

「どうしたの、鵜代さん」

 美華は、憑りつかれたように何かを見上げているシロを見て、不思議そうに尋ねた。

 すると、シロは洋館の側壁の上のほうを指差して言った。

「あそこの窓、開いてる。さっきカーテンがはためいてるのが見えました」

 美華は、シロが示した方向に視線を向けた。

 目を凝らすと、確かに、洋館の壁の、屋根に近いところの小さな窓がわずかに開いているようだった。カーテンの端が中からはみ出して、ちらちらと揺れている。

「ほんとだ、開いてるわね」

 上を向いたままそうつぶやいた後、怪訝そうな顔をシロに向けた。

「でも、あの窓、三階よ」

 彼女の眉は、「それを見つけたからって、なんだと言うの?」とでも言いたげにひそめられていた。

 しかし、シロは夢中になって窓を見上げ、目を離さない。片目をつぶって、何かを測るように、空中に親指と人差し指を添える。やがて、隣でじりじりしていた美華に、自信ありげな若い顔を振り向けた。

「あの壁の横、木があるでしょ。あそこから飛び移れば中に入れそうです」

 そう言って、洋館の隣で裸の枝を広げている背の高い木を指し示す。

「と、飛び移る?」

 美華はびっくりして、整った目鼻立ちに思わず間の抜けた表情を浮かべた。

「三階よ?」

 信じられないというふうにそう漏らす。

 だが、シロは万事任せろとでも言うように自分の胸を叩いて、言った。

「大丈夫大丈夫。私、こういうの得意なんです」

 そして、美華が呆気に取られて立ち尽くしているのをよそに、当の木の幹まで駆け寄って行った。

 近づいて真下から見上げると、目指す窓は余計に高く遠くに見えた。だが、変人シロは怖がらない。自分の胴の倍くらいの太さの幹を、丈夫さを確かめるようにぽんぽんと叩いてから、手を掛け、足を掛け、軽快に登り始める。

 元気な変人は、天賦の運動神経と遊び心を活かし、すべての枝と幹の凹凸を上手に使って、みるみるうちに、自分の背丈の何倍もの高さまで登って行った。寒気に晒されて乾燥した手のひらでとげとげしい木の肌を掴むのは、さすがに少し痛かったけれど、双子の母親とガラクタたちのためと思えば、たいした問題ではない。どこか細い枝か芽かに服が引っかかって、びりりと怪しい音を立てるのにも、一向構わなかった。

 あっという間に、三階の窓にいちばん近い幹と枝の分かれ目まで辿り着くと、シロはそこにいったん腰を落ち着けて庭を見下ろした。枯れた芝と剥き出しの土とが判別できないくらい遠くに地面が見える。落ちれば死ぬ高さだ。美華は、庭の真ん中でまだ口をぽかんと開けたままこちらを見上げていた。

 シロは洋館の窓のほうに向き直って、目視で距離を測った。枝を掴みながら、目一杯片足を伸ばせば、爪先が開いたガラス戸に届きそうだ。幹と枝の股の上で、慎重に身体をずらして行きながら、片足を持ち上げる。まずは、爪先を開いた戸の隙間に入れて横ざまに桟を蹴った。扉がぎぎぎと嫌な音を立てて開き、わずかしかなかった隙間が、シロの胴体が十分通れるくらいに広がった。

「う、鵜代さん、気をつけてね」

 下で茫然としていた美華が、ようやっと我に返って呼びかけた。

 地上からの応援に対し、シロは心配ご無用というように黙って強くひとつ頷いてみせた。彼女の顔は決して失敗しないという自信で満ち満ちている。遠く離れた地上に居る相手に、その表情がちゃんと判別できたのかどうかは定かでないが。

 シロは幹を掴みながら、枝の上にそろそろと立ち上がった。ぽっかり口を開けた窓のほうを向いて、身体を揺すり、勢いをつける。そしてとうとう、幹を蹴って、宙に飛び上がった。

 視界が上下に回転したかと思うと、硬い面が背中を打ちつけて、鋭い痛みが走った。

 シロはしばらく仰向けに寝そべっていたが、やがて痛む背中をさすりながら身を起こした。頭を捻ると、窓から差す明かりで、薄暗い中に、古臭い家具の並んでいるのが見える。どうやら無事家の中に入れたようだ。飛び込んだ勢いででんぐり返ってしまったらしい。もうずっと誰にも踏まれていなかったであろう床の、積年の埃が一時に舞い上がって、もうもうと部屋じゅうに立ちこめていた。

 思わず鼻をむずむずさせながら、窓に近づき、外に頭を突き出した。すると、美華は依然として心配そうに、こちらを見上げていた。

「鵜代さん、大丈夫?」

「大丈夫です。中から鍵を開けるので、ミカさんは正面玄関のほうで待っててください」

 シロは身を乗り出して叫び返した。

「わかったわ」

 美華は今見たことに度肝を抜かれつつも、こくりと頷いた。

 不法侵入者シロは、窓から離れると、鼻を手で覆って埃の嵐を防ぎながら、さっさと小さな部屋を出た。

 幅の広い廊下は、窓が少なく、真っ昼間だというのに薄暗くて陰気だった。ひとり暮らしの社長には三階など上がって来る機会すら無いと見えて、以前訪れたときに見た一階の廊下よりもさらに掃除が行き届いていないようだった。加えて、壁も天井も似たようなひび割れ模様が続くばかりで、飾りといえば、誰にも邪魔をされることなくひたすら増築されてきたであろう蜘蛛の巣ぐらいしかなく、まったく方向感覚を失わせる無機質な造りである。

 ぎいぎい鳴るフローリングを渡りながら、とにかく一階へ下りようと、階段を探した。他人様の家に勝手に上がり込んでいるという緊張感からか、誰も居ないのがわかっているにもかかわらず、自然と歩みは速く、それでいて忍びやかになった。

 階段はほどなく見つかった。古いなりに立派な手すりに挟まれて、絨毯も何も敷いていない、剥き出しの木の段が階下へと続いている。シロは、冷え切った段の上を、駆けるようにして下りていった。小刻みに出会う踊り場を急いでぐるぐるとカーブして行くと、なんだか目が回りそうだった。

 最後の段を下りると、立ち止って左右を見回した。一階の廊下は以前通ったことがあるはずだが、やはり単調な景色が続くばかりで、蜘蛛の巣が道案内になってくれるわけもなく、階段をぐるぐると下りて来たせいで、社長の部屋がどちらの方角にあるのかさえわからなくなってしまった。迷子の変人は、とりあえず玄関を探そうと、適当な方向を指して歩き出した。

 そうやってしばらく歩いてみたものの、一向に玄関は見当たらず、代わりに、廊下の奥に木製の扉が半開きになっているのが見えた。突き当たりにあるということは、もしかしたら井戸の隣の部屋の入り口かもしれない。シロは、半開きになった扉に近づき、そっと押し開けた。

 しかし、そこにあった景色は、彼女の想像していたものとはまったく違った。代わりに目に入った光景に、シロははっとした。

 そこは、井戸の傍の部屋と同じようにこじんまりした部屋で、奥にある小さな高窓から差すささやかな光が、中央に置かれたくすんだテーブルとソファーとを照らしていた。向かいには、古臭い部屋に似つかわしくない、わりと新しい機種のテレビが配置されている。どうも、この部屋も現役で使われているようである。しかし、シロを驚かせたのは他でもない、テーブルの上に積まれていた、大量のDVDケースであった。

 泥棒は足音を忍ばせて、そろそろと部屋の中に入った。乱雑に置かれたケースの表紙を覗き込む。それは、一目見たときに予想した通り、シロが地下室に持ち込んだお笑いのDVDであった。社長に没収された後、こんなところに保管してあったのだ。ひょうきんで楽しげなデザインが、一様にシロを見つめ返す。シロは懐かしい気持ちに駆られて、ケースの一枚一枚を順繰りに眺めた。そして、観察半ばで、一枚だけ表面が剥げてぼろぼろになっているケースを見つけた。それは、忘れるはずもない、"若手芸人列伝2"のケースだった。久しぶりの出会いに嬉しくなったシロは、ケースを手に取り、そっと蓋を開いた。

 しかし、中はからっぽだった。

「社長ってば、私たちから取り上げておいて、自分ではしっかり楽しんでるんじゃない!」

 シロは思わず、不満げに独り言ちた。

 そのときふいに、屋敷のどこかで、時刻を知らせる時計の音がぼーんと響いた。泥棒はびくりと肩を震わせ、今は懐古に浸っている場合ではないことを思い出した。外では美華が、迎えはまだかと待っているはずだ。ケースをもとの場所に戻し、急いで部屋を出る。

 さっき通った廊下を逆方向にまっすぐ行くと、玄関はいとも簡単に見つかった。中から鍵を捻り、扉を押し開ける。扉の前では、美華が不安げな顔をして立っていた。

「なかなか出て来ないから、何かあったんじゃないかと心配したわ!」

「遅れてすみません。ちょっと道に迷っちゃって」

 シロはへへへと笑ってごまかした。

「南京錠の鍵を探しに行きましょう」

 扉をさらに開いて、道を作る。美華は、不気味な屋内の様子をちらと覗いてから、崩れかけの吊り橋を渡るかのように、そっと洋館の中に足を踏み入れた。

 シロは美華の先に立って、ずんずんと廊下を歩いた。社長がいつも使っている部屋は、テレビがある部屋と逆の突き当りにあるので、進むべき方向はもうわかっている。後ろには、シロに遅れまいと急ぐ美華の、とたとたと軽い足音が着いて来る。姿は見えないけれど、きっと彼女は急ぎながらも、元恋人の家の内装を興味深げに観察しているんじゃないだろうか、シロにはなんとなくそんな気がした。

 しばらく行くと、廊下の壁際に、レンガ造りの大きな暖炉があるのが目に入って、シロは、以前社長に案内されて来たときもこの暖炉を見かけたことを思い出した。とすると、やはり方向は間違っていないようだ。まもなく、突き当りに扉が現れた。立ち止まり、軋むノブを回して、扉を開ける。

 見覚えのある景色が視界に飛び込んで来た。放り出された衣服、机の上に転がっている文具類、床に落ちたぺちゃんこの座布団……細かい配置は変わっているけれど、冷たい廊下と違ってここだけ生活感が、生きた人間の匂いが漂っているのは、夏に訪れたときと同じだ。シロの肩越しに、美華も部屋の中を覗き込んだ。彼女もやはり、他の場所とは違う空気をこの部屋に感じたらしい。思わず鼻をひくりと動かす。

「ここが、社長がいつも使っている部屋です。鍵が無いか、ふたりで手分けして探しましょう」

「ええ」

 シロの呼びかけに、美華は頷いた。

 ふたりは、鍵の捜索に取り掛かった。

 箪笥の引き出しを開けてみたり、床に転がったシャツを持ち上げてみたり、とにかく、ものぐさな社長がぽいと鍵を放り出しておきそうな場所を、逐一確認していく。しかし、本来家の中にほどよい間隔で配置されるべき生活必需品がごみごみと詰め込まれた部屋には、小さな物が滑り込んでしまいそうな隙間は数え切れないほどあった。おまけに、目当ての鍵がどんな形をしているのかもわからないし、この部屋に絶対あるとも限らない。ガラクタの大海に沈んだ小さな真珠を探し出すのは、なかなか骨の折れる作業であった。

 シロは、椅子の上に布のようなものが置いてあったので、下を確認しようと摘まみ上げた。だが、それが使用済みらしい靴下だったので、思わず嫌な顔をして放り捨てた。まったく、ニコラとテトラを洗濯機にかけるよりもまず、自分の服を先に洗ってほしいものだ。

 年頃の娘は、汚そうなところを掘り返すのはやめにして、机の引き出しを順繰りに調べ始めた。古い机の引き出しを引っ張ると、側面がこすれてがたがた音を立て、中からは老齢の木材の香ばしい匂いが漂い出た。この中とてやはり綺麗ではなく、文房具類が乱雑に、非常に空間効率の悪い配置で放り込まれていて、角には黒鉛の粉が溜まっている。小物のあいだに鍵が埋もれているかもしれないので、シロは、見逃さないよう、ひとつひとつの引き出しの中身を、除けてはまた戻しと、丹念に調べていった。

「鵜代さん、そっちはどう?」

 美華が、本棚の中を捜索しながら、シロの背中に尋ねた。

「こっちは全然駄目だわ。それっぽいものすら見当たらない」

 そのときシロは、机の三つ目の引き出しを調べ終えて、次の引き出しを開けようとしていたところだった。

「私のほうも、全然。もしかしたらこの部屋には無いのかも……」

 だが、そう言いかけて、はたと言葉を切った。

 引き出しを開いた途端、どぎつい配色の文字がたくさん並んだ雑誌の表紙が目に飛び込んで来たのだ。いわゆる写真週刊誌というやつだが、世間を煽ることを主目的として真偽不明のスキャンダルをたくさん載せているような、そういうタイプの雑誌であることは、表紙の俗っぽい雰囲気を見てすぐにわかった。

 社長は、こういう悪趣味な雑誌はむしろ好きではなさそうだけれど。どうしてこんなものを持っているのだろう。表紙の写真が女性の水着姿だったので、シロは些か不愉快になって、乱暴に雑誌を奥にどかした。そして、思いがけずその下に現れたのが、細くシンプルな形をした金属製の鍵だった。

 シロは嬉しさにあっと声を漏らして、その鍵を掴んだ。

「ミカさん!ありましたよ!」

 美華は振り向いた。

 少女は、満面の笑みを浮かべながら、鍵を掲げて見せた。

「きっと、これです。外にあった南京錠も、こんな色でした。きっとこれに違いありません」

 シロの手に握られた小さな真珠を見ると、美華は目を丸くし、そしてぱっと顔を輝かせた。

「そうだわ、きっとそれだわ。錆の具合もそっくりよ!」

 そうつぶやくやいなや、双子の母親の顔は、ようやっともたらされた恵みのために、にわかに湿っぽい感動に崩れた。今にも涙を流さんばかりに、目を細める。とうとう子どもたちに会えるのだという喜びが、その表情から溢れ出ていた。

 そんな美華の姿を見ると、シロも、胸の奥に誇らしい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。彼女をここまで案内するべきか、最初は迷ったけれど、自分の選択は間違っていなかった。彼女と、ニコラとテトラとは、やはり再び結ばれるべきなのだ。自分は、そんな大事な再会の手助けをすることができたのだ。これほど誇りに思える役目など、なかなか無い。

「ああ、鵜代さん、本当にありがとう。あなた、私の恩人よ。あなたのおかげで、私、またあの子たちに会えるのだわ。本当に、本当に、ありがとう」

 美華は細い指でまなじりを拭いながら、力を込めて言った。そして、優しい微笑みを浮かべ、片手を差し出す。

「さあ、鍵をこちらにちょうだい」

 シロは、背筋を伸ばし、よき君主に仕える忠実な臣下然とした凛々しい表情で、鍵を握った手を美華のほうに差し出した。

 しかし、鍵のきらめく先端が美華の手のひらに触れようとした、まさにそのとき。

「来ると思ってたぞ、美華」

 ふたりは一斉に振り向いた。

 戸口に立って、憎々しげにこちらを睨んでいる男。よれたシャツに、ぼさぼさの頭に、鋭い目つき。それはまぎれもなく、美華の元恋人だった。髪を梳いてもいなければ、流行の服も着ていない、現在の社長だった。

 館の主の突然の登場に驚愕の表情になった泥棒ふたりが、次の反応をする間もなく、社長は獣のように猛然と美華に飛び掛かった。相手の華奢な手首を掴む。美華は振り解こうと腕をよじったが、無駄だった。社長は捕虜の両腕を、後ろにねじり上げた。

「痛い!」

 美華は思わず甲高い悲鳴をあげた。

 シロは、衝撃のあまりその場に立ちすくんでいたが、その悲鳴ではっと我に返った。

「ちょっと、社長!何するの!」

 そう叫ぶと、鍵を放り出して、美華を助けに駆け寄る。

「危ねえ、近づくな!」

 だが社長は、美華の両腕を掴んだまま、近づいて来たシロを乱暴に蹴飛ばした。

 怪力中学生も、さすがに大人の男の力には勝てない。シロは後ろに吹っ飛んで、部屋の隅の棚に派手にぶつかった。はずみで、棚の上に置かれていた写真立てと青銅の箱が滑り落ちる。箱の蓋が開いて中の布切れがぶちまけられ、床はまたたくまに黄緑色の海と化した。

 シロは痛みに少し怯んだが、生来の人助けの心から、すぐさま立ち上がった。

「社長!酷いよ、いくら別れた恋人だからって、そんなふうに乱暴するなんて!」

 泣き出さんばかりに叫ぶと、揉み合うふたりのあいだに割って入ろうと、もう一度足を踏み出す。

 しかしそのとき、元恋人の手から逃れようと必死にもがいていた美華の上着の下から何かが滑り落ち、床に当たってごとんと鈍い音を立てた。飛び出しかけていたシロは、思わず音がしたほうに目をやった。そして、そこに落ちていた黒っぽい塊を見て、はと立ち止まった。

 カバーが掛かっていたけれど、すぐにそれとわかった。それは、刃渡り十五センチほどのサバイバルナイフだった。

 ナイフが落ちた瞬間、美華が暴れるのをやめたので、狭い室内はにわかに静かになった。シロは呆気に取られたように口を開けて、まじまじと、床に転がる凶器を見つめた。革のカバーに付いた銀色の鋲が、照明の光を受けてぎらりと輝く。ひょっとして見間違いではないかと自分の目を疑ったけれど、その形状は、他のものを包むにしてはあまりにもいびつだった。ゆっくりと顔を上げ、社長に上半身を押さえ付けられて、前のめりになって佇んでいる双子の母親のほうに視線を移す。

「どうして……どうしてこんなもの持ってるんですか、ミカさん」

 静けさの中、震える声で尋ねる。

 しかし、美華は何も答えなかった。黙って、じっと佇んでいる。長い髪がカーテンのように顔の前に垂れ、表情はまったく見えない。

 シロは、謎の答えを求めるように、青ざめた顔を社長のほうに向けた。社長もまた、唇を引き結び、静かに美華の背中を睨んでいた。顔つきは冷静だが、相手の腕を掴む手の甲には青筋が浮かんでいる。たとえもがくのをやめても決して油断はしないとでもいうふうだった。

 しばらくのあいだ、自分の消化器官の活動音が聞こえそうなくらい、静かな、止まった時間が続いた。

 だがふいに、その沈黙の割れ目から、そっと顔を出すように、低く静かな声が響いた。

「……龍一、どうして私のこと捨てたの?」

 シロには一瞬、その声がどこから聞こえたのかわからなかった。しかし、それは確かに、美華の髪に隠れた顔の辺りから漏れたのだった。先刻シロや、幼い女の子と話していたときの、これぞ子どもに接する大人だというような優しい声とは打って変わって、低く冷たい、恨みを抱いた女の声だったので、同じ人物の出した声とは思えなかったのだ。

「私、あなたのこと、本当に愛してたのよ」

 美華の顔を覆う長い髪が、彼女の漏らす息で、かすかに揺れた。

 社長は、美華の腕をしっかりと掴んだまま、感情を抑えたような抑揚の無い声で、静かに答えた。

「申し訳ないが、俺がきみのことを愛したことは一度も無い。最初から、宿らせの灰を取り戻すことが目的だった」

 奇妙な、重苦しい沈黙が間を埋める。

「……じゃあ、全部知ってるの?」

「ああ、全部知ってる」

 社長は、表情をほとんど変えずに、そうつぶやいた。

「きみが昔、あの男の下で働いていたことも、……ニコラとテトラを使ってあの男を殺したことも」

「えっ?」

 社長の口から出た予想外の言葉に、シロは思わず場違いな声を漏らした。

 自分の耳を疑った。聞き違いだと思った。ニコラとテトラを使って?殺した?……どうか聞き違いだと言ってくれとでもいうように、うろたえた顔を社長に向ける。

 しかし社長は、美華の背中を睨んだまま口を真一文字に結んでいる。

 そのとき、石像のようにじっと佇んでいた美華の肩が、ぶるぶると震え出した。かと思うと突然、長い髪を振り上げて、爆弾が破裂したように、狂ったように笑い出した。

「はは、はは……あははははははははははは!そうなの、知ってたの、全部、知ってたのね!馬鹿々々しい!一度も、一度も愛されなかった!あんなに愛してたのに!」

 耳をつんざくような彼女の笑い声は、屋敷全体を揺らさんばかりに、甲高く響いた。

 その瞬間シロは、ずっとどこかで聞いたことがあるような気がしていた彼女の声を、いったいどこで聞いたのか思い出した。シロの脳裏に閃光のごとく浮かんだのは、双子の姿だった。しかし、双子といってもそれは、シロにおもしろ可笑しい漫才を見せてくれたかわいい双子ではない。真理恵に見せられたアニメの中で、罪の無い女性の首にナイフを突き立てて笑っていた、あの残酷な殺し屋の双子だった。

「ミ、ミカさん……」

 シロは、衝撃を受けて乾いた喉の奥から、やっとのことでそれだけ絞り出した。

 すると、狂ったように笑っていた美華は、噛みつかんばかりにきっとシロを睨んだ。

「クソッ!もう少しだったのに!もう少しで灰を取り戻せたのに!六時まで帰って来ないだなんて、でたらめ言いやがって!」

 あまりの勢いに、シロは思わず後ずさった。目を見開いて、豹変した大人の顔を見つめる。その顔は薄く清らかだったはずなのに、今や憎しみの濃い影に染まり、恐ろしく歪んでいた。

 美華は唾を飛ばして叫び続けた。

「この面倒臭い小娘が、あんたみたいな馬鹿に付き合うの、ほんとうんざりした!家を教えるのも渋りやがって!あんたなんか、灰を取り戻したら、すぐに殺してやるつもりだったわ!何が、漫才をやるために生まれて来た、よ?勝手なこと言ってんじゃないわよ、あの子たちは、あの子たちはね、私の邪魔をする人間を消すために生まれたの、それだけのために生まれたのよ!」

 そして、もう今にもシロに飛び掛からんばかりだったので、社長は腕に力を込めて、捕虜の身体を引き戻した。勢いをそがれた美華は、その場によろめいた。声を張り上げたせいで、はあはあと激しく息をつく。

 社長は美華の身体を用心深く自分の傍に引き寄せながら、シロに呼びかけた。

「シロ、箪笥のいちばん下の引き出しに延長コードが入ってるから、取ってくれ」

 シロは、あまりにもいろいろなことが一度に押し寄せて来たので、頭の中がぐちゃぐちゃになって、社長に言われたことがしばらく理解できなかった。だが、ふいに我に返ったように頭をぶるっとひと振りして、急いで社長の言葉に従った。震える手で引き出しの中を探り、電気コードを取り出す。それから社長に指示されるまま、美華の細い両手首をコードで縛った。社長はさらにもう一本コードを持って来させると、美華の身体を古い木の椅子の上に縛り付けた。一連の作業のあいだ、さっきまで怒り叫んでいた美華は、やつれた顔をして、匙を投げたようにおとなしくしていた。

 美華の自由を奪ってしまうと、社長は張り詰めていた緊張の糸を少し緩めるように、ふうと息をついた。力を込め続けていた手を振って、強張りをほぐす。

 指示されたことを終えてやることが無くなったシロは、そんな社長の動きを、魂を抜かれたようにぼうっと観察していた。黄緑色の布が散らばった部屋の中ほどで、ただただ両腕を垂らして突っ立っている。この数分間のうちに、数え切れないほどの衝撃に襲われた。数え切れないほどの疑問が生まれた。けれど、尋ねるのは怖かった。社長の言ったことが、何かの間違いであってほしかった。

 社長はひと息つき終えると、机に近寄り、引き出しを開けた。シロが先ほど嫌悪感を感じて乱暴にどかした雑誌を取り出す。それを机の上に開いて置くと、突っ立っていたシロを手招いた。

「今まで隠してて悪かったな」

 感情の窺い知れない低い声でそう言って、雑誌をシロのほうに少し押し出す。シロは、促されるまま、雑誌の開いたページを覗き込んだ。


 "人気アニメ脚本家・入水自殺の真相!

 知る人ぞ知る人気アニメ監督兼脚本家・飯田茂氏が突然水死体で発見されたという衝撃のニュースは、耳に新しい。当局は本件を飯田氏の自殺であると判断し、捜査を打ち切ったが、自身が監督・脚本を務めるアニメが放送され始め、万事が順風満帆であった同氏がなぜ自殺をするに至ったのか、ファンのあいだでは兼ねてから疑問視されていた。そこで編集部では独自の調査を行った結果、極めて興味深い証言を得ることができた。編集部は、飯田氏は自ら川に飛び込んだのではなく、川に突き落とされる瞬間を目撃したというA氏に接触することができた。そして、ここからが驚きなのだが、A氏によると、飯田氏を川に突き落としたのは、同氏が監督し、まさに当時放送中であったアニメ"殺し屋ニッティ・アンド・テリー"に登場する同名のキャラクターにそっくりな二体の人形であったという。編集部はこの証言をにわかに信じられず、事件当夜酒でも飲んでいたのではないかとA氏に繰り返し確認したが、A氏は頑としてこれを否定した。さらに、犯行を終えて立ち去ろうとするふたりとすれ違った際に、その織目のある顔の上に、人間ではありえない毛玉が浮いていることもしっかりと目撃したとまで証言している。読者諸君はこの証言を信じられるだろうか?飯田氏の作品と言えば、殺害シーンをグロテスクかつ大胆に描写することで有名で、当のニッティ・アンド・テリーにも、アニメの中で非道な殺人を繰り返させていた。このアニメの最終話では、探偵に捕まった同キャラクターが自らもやはりグロテスクな死を遂げる予定だったというから、もしかすると、彼らはその死を阻止するためにアニメの中から飛び出し、生みの親である飯田氏を手に掛けたのかもしれない。なんとも皮肉な話である。"


 記事を読み終わると、シロは蒼白になった顔を上げて、社長を見た。

「……もう、隠してても仕方ねえ。最初から全部話してやるよ」

 うつむいて、記事のほうに目をやったままそう言う。

 シロは、ごくりと唾を飲み込んだ。社長は、静かに語り始めた。

「宿らせの灰はもともと、俺のじいさんの持ち物だった。俺はこう見えていいとこの坊ちゃんなんだって話は、前にもしたはずだ。あの灰は、俺の家系で代々受け継がれてきた、秘密の家宝だったんだ」

「……社長の、おじいさんの……でも、あれは、ミカさんが自分のお父さんから……」

 口の中でもごもごと、つぶやく。

「だが、もともとはうちにあったんだ。じゃなきゃ、おかしいだろう。宿らせの灰がずっと美華の家にあったのなら、誰がウチーチェルに灰をかけた?あれは、俺がまだ生まれてもいねえ頃に、俺のじいさんが命を宿らせたんだ」

 シロは、秘密の部屋で出会ったあの老本の姿を、頭の中に思い起こした。ページが抜け落ちて薄くなり、もうほとんど朽ちかけていたあの本。確かに、あの年季の入りようは、ここ数年のものではなかった。

「ところが、じいさんはその家宝を売っちまったのさ。俺が知らないうちに。散財のせいで、死ぬ間際には借金まで拵えてたから、懐が苦しくなって手放しちまったんだろう。宿らせの灰がうちから無くなったことに気づいたのは、じいさんが旅立った後だった。もっとも俺も、もうこんな灰に用は無かったし、行方を探して取り戻そうなんてちっとも思わなかったが……この事件の噂を耳にするまでは」

 そう言って、開いた雑誌のページに手を添える。人形が飯田氏を突き落とすイメージ図を描いた、ふざけた挿絵が隅に載っている。

「そりゃ、世間から見れば、こんなのはただのウケ狙いのオカルト記事さ。でも、俺にはありえないことには思えなかった。幼い頃からずっと、口達者な本が傍に居て、物が喋って動くことが当たり前だった俺には」

 シロは、ゆっくりと言葉を紡ぐ社長のくたびれたような横顔を、じっと見つめていた。

「それで……それで、社長はどうしたの?」

「どうしてもこの噂のことが頭を離れなくなった俺は、事件の詳細をいろいろと調べた。そうするうちに、これまでにも、同じような馬鹿みたいな噂付きの死亡事故が何度も起こっていたことに、気づいた。俺にとっちゃ、ちっとも馬鹿げてはなかったがな。誰かがどこかで宿らせの灰を悪用している、俺はそう確信した。放っておけば、また同じことが起こるかもしれない。かと言って、人形が動いて人を殺しましただなんて警察に言ったところで、取り合ってもらえるはずもない。だから、自分で宿らせの灰を探して取り戻すことに決めたんだ。もとはと言えば、すべての不幸が起こったのは、俺のじいさんが秘密の家宝を不用意に売っちまったせいだ。だから、孫の俺が始末をつけなきゃ仕方あるまい。じいさんの生前の交友関係を辿れば、灰が売られた先を突き止めるのは、それほど難しくはなかった」

「それで、ミカさんのお父さんに……」

 シロは、椅子の上でうなだれている美華に、ちらと目をやった。

「そうだ」

 社長は頷いた。

「美華が昔声優として、あの死んだ脚本家と一緒に働いていたと知って、宿らせの灰は彼女が持っていると踏んだ。俺は、惚れたふりをして美華に近づいた。そしたら、上手く勘違いしてくれたよ。そして、彼女の家にあの人形が居るのを見たとき、俺の読みは間違っていなかったんだと思った。ガラクタは、親の命令には絶対に従わなけりゃいけない。美華は、ニコラとテトラを使ってあの男を水に沈めたんだ……自分の手は、一切汚さずに」

 怒りで、知らず知らずのうちに、語尾に力がこもる。

 すると、ずっと椅子の上でうつむいていた美華がふいに、火を点けられたようにばっと顔を上げた。

「そうよ!殺してやったのよ!それが何か、悪いって言うの?」

 金切り声で叫び、どんどんと地団駄を踏む。シロは、美華が突然声を張り上げたので、恐ろしさに、思わず社長の袖を掴んだ。

「あんな奴はね、死んで当然なのよ!あんな浮気男、殺したってなんの問題も無いわ!ねえ、いい演出でしょう!自分が作ったアニメのキャラクターに殺されるの!最高だわ、本当にいい気味だと思ったわ!」

 憎しみに燃え上がる美華を、社長は対照的に、冷静な、悲しげな目で見つめた。彼女の業火から守るように、シロの前に腕を添える。

「……初めて灰を手に入れたときから、ああいうふうに、自分にとって都合の悪い人間が現れるたび始末してきたんだ。燃やしては、宿し、また燃やしては、宿して……」

 美華は息を切らしながら、まだ叫び足りないというふうに元恋人の冷たい顔を睨んでいたが、社長は無視するようにふいと目を逸らした。彼女が発する憎しみの矢など目に入らないという顔をして、話を続ける。

「そうやって美華に近づいた俺は、折りを見て、なんとか双子と、残っていた宿らせの灰を、彼女の家から持ち出すことができた。こんなろくでもないことに使われるなら、宿らせの灰なんて無いほうがいい。美華に近づく前、この計画を練っていた頃は、持ち出したガラクタはすぐに燃やして、残りの灰もろとも捨ててしまうつもりだった。だが……」

 ここで少し、言い淀む。

「だが、美華の傍を離れたあいつらは、まるでただの子どもみたいだった。もう母親に会えねえとわかると、赤ん坊みてえにぎゃあぎゃあ騒ぐ。大人の男ひとりを殺した殺人鬼とは到底思えねえ。そんなあいつらのことを見ていると……俺には……本当に燃やすべきなのか、わからなくなった。美華に育てられたあいつらは、本当の愛情も、善悪の判断も知らない。ただただ親の命令を聞いて、然るべき人間を殺すことが、自分たちの使命だと思っていた。それが正しいことだと信じて疑わなかったんだ。そんなあいつらを生かしておいても、危険でしかない。……それでも、俺には……できなかった。すべてを消してゼロに戻せば、もう一度やり直せるんじゃないか、そういう希望が、俺の心を捉えて放さなかった。だから、俺はあいつらの記憶を消したのさ」

 そう言って、足元に散らばった大量の布切れに目をやる。

「記憶をすべて消して、もう一度ゼロから、あいつらが正しい善悪の判断を知るように、育てようと思ったんだ。幸い俺には、じいさんの残した馬鹿でかい地下室がある。住まわせる場所に悩むことはない。それから、あいつらが本当の愛情を知るためには、俺が世話するだけじゃ駄目だと思った。だから、取り戻した残りの灰を使って、あいつらに新しい仲間を作ったんだ」

 シロはずっと、社長の話に熱心に耳を傾けていたが、そこでふと疑問に思って、おずおずと尋ねた。

「で、でもマカも、ミスター・パパラッチも、社長の命令なんて全然聞かないよ。社長があの子たちの親なら、どうして……」

 社長は首を横に振った。

「ガラクタたちが聞かなけりゃいけないのは、灰をかけた人間じゃなく、宿らせの灰の親の命令だ。宿らせの灰の親は、宿らせの灰を生み出した人間、つまりもとのガラクタを燃やした人間だ」

 その説明を聞いて、シロはほうと唸った。それはなんとも、小さな違いのように見えて、大きな違いだ。それなら、ガラクタたちの親は美華ということになる。彼らが社長の言いつけをまったく聞かずに、自由奔放にいたずらばかりしていたことも、納得がいく。

 すると、再び美華が横から口を挟んだ。

「へえ、そんなルールになってたのね、知らなかったわ」

 さきほど憎しみで燃え上がったのからは一転、今度は冷めた、吐き捨てるような口調になっていた。椅子の背もたれにどしりと寄りかかり、ふと、嘲るように笑いを漏らす。

「結局、龍一は誰の親でもないってことね」

 この状況をどう打開することもできないという屈辱や、怒りや、憎しみ、すべてをその皮肉にこめたのだった。

 社長はしばらくのあいだ、美華の嘲笑をじっと見つめていた。そして、ぽつりとつぶやく。

「……そうだな。俺は、宿らせの灰のルールで言えば、誰の親でもない。それでも、あいつらの本当の親同然になろうと、頑張って来たつもりだ。……うまくは、いかなかったが」

 そうつぶやいた社長の、影のかかった横顔を見ると、ひどく寂しげで、シロは胸が締め付けられるような思いがした。これまで散々文句を投げつけて来たけれど、社長がひとりでどんな真実を抱えていたのかを知った今、足元に身を投げ出してすべてを謝りたい気持ちに駆られた。彼はただ単に双子を手元に置いておきたいばかりに本当の親を隠していたのではなくて、ニコラとテトラが、抗えぬ力のために犯さざるをえなかった罪を、隠していたのだ。親の命令通りに人を殺す以外にも、生きる目的があることを知った今の彼らにとっては、重荷になるであろう過去を、必死で隠していたのだ……。

 しかし、シロが身を投げ出して謝罪するよりも先に、社長は、重苦しいムードを変えるように自分の腰をぽんと叩いた。

「まあ、なんだかんだあったが、これで一件落着だ。シロもガラクタたちも無事だし、美華も捕まえられた。この家が美華に見つかったらどうしようかとずっとびくびくしてたが、もうこれからはその心配は無いんだ」

 すべてが終わって、すっきりしたような、比較的明るい口調だ。椅子に縛り付けられた美華のほうを振り返り、呼びかけた。

「おい、美華、きみには警察に行ってもらうぞ。不法侵入と……」

 床に落ちたままのナイフにちらと目をやる。

「殺人未遂でな」

 美華は、乱れた髪のあいだから覗く瞳で、心底悔しそうに相手を睨んだ。パーツのひとつひとつは上品で好ましい形をしているはずなのに、その顔には、目をそらしたくなるような醜い恐ろしさが滲み出ていた。幼い子どもを無欲に救済する優しいミカさんは、もはや影も形も無い。

 社長はシロに向かって言った。

「シロ、俺は美華を見張っておくから、警察を呼んでくれ。電話は廊下にある」

 シロの頭の中には、この短いあいだに起こったことや知らされた事実に対する様々な思いがぐるぐると渦巻いていたが、社長に声をかけられて、そういった思考はぱちんと弾けて消えた。とりあえず今は、今やるべきことをやらねばならない。

「わわわ、わかった」

 慌ててそう返事をすると、椅子の傍で用心深く美華を見下ろしている社長に背を向け、部屋の出口に向かう。

 しかし、勢いよく外に飛び出そうとしたときに、戸口に突然現れた何かに思いっきりぶつかってしまった。

「ひゃっ」

 思わず高い声をあげる。そして、ぶつけた鼻をさすりながら、眉をひそめて戸口に現れたものに目をやった。

 そこに立っていたのは、まぎれもなく、あの双子の人形ニコラとテトラであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ