表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/20

第十五話

 十五分後、ふたりは、街中の小さな喫茶店の隅のテーブルに、向かい合って座っていた。人のまばらな店内にはBGMも無く、静かなゆったりとした時間が流れていたが、時折店の前の道を車が通り過ぎて、座席横の大きな窓ガラスをビリビリと震わせる。"ニコラとテトラの母親"を名乗る女性に対して、尋ねたいことは山ほどあったが、当の女性が、いったんどこかに落ち着いてから話しましょうと言うので、ともすると溢れ出しそうな質問をなんとか飲み込み、黙ってここまで着いて来たのだった。

「ごめんなさい、申し遅れたわね。私、沖野美華というの。気軽にミカとでも呼んでちょうだい」

 店員に注文を言い終えてから、女性はシロのほうに向き直って言った。その声はやっぱりどこかで聞いたことがあるような気がした。

「ミカ、さん」

 シロは、独り言のように相手の名前を繰り返した。その瞳には、名前なんてどうでもいいからとにかくはやく、あらゆる謎の答え合わせをしてほしいという気持ちが表れている。

 そんなシロの催促をよそに、美華は悠長に自分の鞄の中を探り始めた。そして、四角いカードのような物を取り出すと、テーブルの上に置いた。

「これ、鵜代さんのよね」

「あっ、これ……」

 シロは思わず声を漏らした。

 それは、学生証だった。見慣れた校章が印刷された隣に、背景の青い胸像写真が貼られている。明らかに、楽しい時間を切り取る以外の目的で撮られたのだというような、ぎこちない表情でカメラの向こうを睨んでいるその人は、間違いなく、今より〇・五歳くらい若い自分であった。学生証なんて普段は使うことがないので、失くしたことにすら気づいていなかった。

 シロは、問いかけるように、テーブルから相手の顔に視線を移した。

「覚えてるかしら。一ヶ月くらい前に、平和島百貨店の前の交差点で大混乱が起きて、車が渋滞したの」

「お、覚えてます」

 覚えているも何も、自分が引き起こしたことだ。

「あの夜、あの交差点の近くであなた、私にぶつかったのよ。あなたはなんだか慌てていたみたいで、すぐに走り去っちゃったけど。そのとき、これを拾ったの」

 そう言って学生証を指し示す。

 シロはしばらくじっと考え込んでから、思い出してはっと背筋を伸ばした。確かにあの夜、路地裏でトランクにガラクタたちを詰め終えた後、慌てて飛び出して通行人にぶつかってしまったのだった。犯行現場から逃げる殺人犯のようなうしろめたさのために、相手の顔も見ずに去ってしまったけど、あれが美華だったのだ。

「確かに、確かにあのとき誰かにぶつかっちゃいました。学生証を落としたことには、全然気づいてなかったけど」

「ごめんなさいね。交番に届けずに、勝手に預かっていて。どうしても、あなたに会いたかったものだから」

 美華の意味深な言葉に対して、シロは無言のまま続きを待った。

 するとふいに、今まで柔らかくほころんでいた彼女の表情が少し固く引き締まった。

「私にぶつかったとき、あなたはトランクを持ってたでしょう」

「はい」

「……私すぐに気づいたの。暗かったし、一瞬だったけど、それでも見間違うことはないわ。あんなふうにたくさんステッカーが貼ってあるもの。……あれは、私と龍一のトランクなのよ」

 シロは目を丸くした。

「龍一?」

 どこかで聞いたことのあるような名前だ。

 シロの反応が、いまいちピンときていないふうなので、真剣な顔をしていた美華も困惑したように眉を垂らした。

「あら、龍一のことは知らないの?」

 中学生は、問いに対して肯定するようにぱちぱちと瞬いた。

 美華は少し考えた後、鞄から携帯情報端末を取り出して操作し、画面をシロのほうに向けた。

「ほら、これが龍一よ。会ったことない?」

 シロは画面を覗き込んで、思わずあっと声を漏らした。

「社長だ!知ってる、知ってる、知ってますよ」

 興奮したように繰り返す。

 シロがおかしな肩書きを口にしたので、美華は不思議そうに顔を傾けた。

 シロはテーブルに乗り出して、画面に表示された写真をもう一度じっくりと眺めた。

 小さな長方形の枠の中から、こちらに笑顔を向けているのは、確かに美華と社長だ。仲よさそうに、お互いの肩をくっつけ合っている。美華の顔つきは、今目の前に居るのとさほど変わりなく、やはり薄口で上品に整っていた。だが、社長のほうはというと、今とはまったく違う印象を与えた。というのも、目つきはやはり鋭いものの、髪を綺麗に整えた上に服装も気取り過ぎないくらいに流行りを追っていて、だらしなさは皆目無く、むしろ恋愛対象として結構需要がありそうなほど、爽やかな容貌だったのだ。この男はきっと人生で恋人を絶やしたことが無いだろうと言っても、決して言い過ぎではない。人間、装い次第でこれほど変われるものなのか。それくらい、この写真の社長が抱かせる印象は違っていた。しかしながら、不思議なことに、シロはつくづくあの男の身なりに対する無頓着さを不愉快な点と思っていたのに、いざこうやって完璧に整えた姿を見ると、かえってこちらのほうが気色悪く感じた。なんだか他人の恋情を買いたくてたまらないような、そういう必死さが綺麗な外見の下に透けて見えたのだ。

 よくよく目を凝らすと、爽やかな男の首元に、何やら銀色のものが光っているのに気づいた。社長が怒ってゴミ箱に投げ捨てた、あのペンダントだった。

 シロは顔を上げて、遠慮がちに尋ねた。

「ミカさんは社長と……えっと、恋人同士だったんですか?」

 美華は、感情を抑えるように目を閉じて、頷いた。

「ええ、そうよ」

「ニコラとテトラに宿らせの灰をかけた、本当の親は……社長じゃなくて、ミカさんなんですか」

 美華はもう一度頷いた。

「そう、私よ。私があの双子に灰をかけたの」

 シロはまじまじと相手の顔を見つめた。ずっと謎だった、ニコラとテトラの本当の親が、今目の前に居るのだ。

 双子の母親は、落ち着いた調子で昔話を語り始めた。

「……初めは私も、深い目的を持ってふたりに灰をかけたのではないわ。宿らせの灰は、子どもの頃に父親からプレゼントされたものなの。忙しくてなかなか構ってやれないから、これで話し相手でも作りなさいって……ただそのときは、物が命を持って動き出すなんて、父の冗談だと思っていてね。使わないままずっとしまっておいたわ。その後、独り立ちして実家を出て行くときになって、ふとこの灰のことを思い出したの。人生で初めてのひとり暮らしだったから、寂しさを感じていたのもあって……新しい家で、動き出したらおもしろいな、くらいの軽い気持ちで人形に灰をかけてみたのよ。そしたら、本当に動き出して、お喋りまで始めたからびっくり!最初は戸惑ったし、怖くもあったわ。でも、一緒に暮らしているうちにだんだんと、純粋で優しいあの子たちが、とても愛しく思えて来てね……疲れて家に帰って来ると、毎日あの子たちが癒してくれたわ。あの子たち、本当の母親に甘えるみたいに私に甘えるのよ。そしていつしか気付いたら、私も、あの子たちを自分の本当の子どものように思うようになっていた。私にとって無くてはならない存在になっていたの!」

 双子の母親が語るニコラとテトラの生誕秘話に、シロは興味津々に耳を傾けた。瞳をぎらぎら光らせ、時折、ふんふんと相槌を打つ。

 美華は、懐かしむように胸に手を当てて、話し続けた。

「それから私は、龍一と付き合い始めてね。龍一と一緒に暮らし始めてからも、私はニコラとテトラを手放さなかったわ。だって、大切な子どもたちだもの、自分の恋のためにあの子たちを捨てるなんてできない。最初に龍一にニコラとテトラを紹介したときは不安だったけれど……彼もあの子たちのことを受け入れて、かわいがってくれたわ。私と同じように、自分の子をかわいがるようにかわいがってくれたのよ。ああ、あの頃の私たちは、本当に家族みたいだったわ!」

 ところがふいに、苦しそうに口をつぐむ。続きを話すのがたいそうつらいようだった。

「それなのに……それなのに……あの人は突然出て行ってしまったの……何も言わずに、ニコラとテトラを連れて……」

 涙を堪えるように顔を歪ませる美華の姿を見ると、シロも胸がきりりと痛むのを感じた。

「そんな、どうして突然?」

 美華は伏し目がちになりながら首を振った。

「わからない……きっと、私の何かがあの人の気に入らなかったのね……」

 そのとき、店員が注文した品を持って来たので、ふたりの会話は中断された。

 コーヒーのカップを淡々とテーブルに並べる店員の腕越しに、シロは、つらい記憶に触れて小刻みに震える美華の線の細い顔を見つめた。社長はいったい、この清楚で優しい女性のどこが気に入らなかったと言うのだろう?愛情のこもったプレゼントをゴミ箱の中に叩きつけるほどに憎むべき性質は、彼女の美しい姿からは見出せない。それとも、大人のあいだには、未熟な中学生には理解できないような複雑な何かがあるのだろうか?

 店員が去ると、美華は再び話し始めた。しばしの中断のおかげか、その口調は気丈さを取り戻していた。

「当時は、恋人も子どもたちも一度に失ってしまって、本当にショックだったわ。龍一が私のことを嫌いになったのだとしても、それはきっと私のせいだから、仕方がないわ。でも、せめてニコラとテトラのことは残して行ってほしかった。私、本当にあの子たちを愛していたんだもの。龍一も、あの子たちのことをとてもかわいがっていたから、手放したくなかったんだろうけれど……」

 シロは、どう励ましたものかわからず、ただ神妙な面持ちで、相手の顔を見つめた。

「それ以来ずっと、私はニコラとテトラのことを思い続けて来たの。今頃元気に暮らしてるのかな、龍一はちゃんと面倒を見てあげてるのかなって、ずっと心配だった……そんなときに、あなたに出会ったの。あのトランクを持ったあなたに」

「あの、トランク」

「あれは、私と龍一がふたりで旅行に行くために買ったのよ。ふたりだけのトランクにしようって言って、たくさんステッカーを貼ったの。龍一が出て行った日、トランクも無くなっていたから、きっとあれにニコラとテトラを入れて持ち去ったのね」

 シロは、コーヒーカップを手に取って、やけどしないよう慎重にずずとすすった。あのトランクにそんな意味があったとは。そして、そんな大事な想い出の品に子どもを入れて連れ去るとは、社長とはなんとも情の無い男である。

「私、あなたがいったいどういう経緯であのトランクを持っていたのかはわからない……でも少なくとも、あれを持っているということは、龍一やニコラやテトラと、何かしらの係わりはあるはずだわ。それで、あなたに訊けばあの子たちが今どうしているのかわかるかもしれないと思って、藁にもすがる思いで、この学生証を頼りに、ずっとあなたのことを探していたの」

 そう言って、テーブルの上に置きっ放しにしていた学生証にもう一度手を添える。

 シロは、美華の話に納得したように頷いた。

「それで、あの公園で私のことを見つけたんですね。ちょうど、あんなタイミングで……さっきは助けてくれて、本当にありがとうございました」

 コーヒーの湯気の上に頭を下げた。

 美華は手を振ってシロの礼を制止した。

「いえ、いえ、いいのよ。言ったじゃない、大人として当たり前のことをしただけだって」

 そう言って、大人らしい余裕の微笑を見せる。そして、テーブルに身を乗り出して、シロのほうに少し頭を近づけた。

「そんなことより、私、あなたに教えてもらいたいことがたくさんあるの。それで、まずひとつ確認なんだけど……」

「確認?」

 美華の表情に、わずかにためらいの色が差したので、シロは不思議に思って聞き返した。

「いえ、一ヶ月前あなたに出会ったときから、ちょっと気になっててね……あなたはまさか、その、龍一の子ではないわよね?」

「え!」

 予想外の問いを投げかけられて、シロは思わず咳込んでしまった。全力で否定するように、慌ててぶんぶんと首を振る。

「いや、そんなわけありません!子どもだったら、親の名前を知らないなんておかしいし」

「そうね、そうよね」

 美華は、自分の質問を可笑しがるようにくすりと笑った。

「ごめんなさい。龍一がどうしてあなたみたいな中学生と知り合いになったのか、ずっと疑問だったものだから……」

「ええっと、それにはいろいろあって……」

 シロは、あの男の隠し子と思われては心外なので、どういう次第で社長やガラクタたちと出会ったのかを、事細かに美華に説明した。それから、ガラクタたちと楽しい日々を過ごしたこと、けれど、ガラクタたちにDVDを見せたり、外に連れ出したりしたせいで社長のお叱りを買ってしまって、今は会えないということも話した。美華はシロの話を、相槌を打ちながら熱心に聞いていたが、双子は記憶を失ってしまって、自分たちの母親のことはまったく覚えていないということを聞かされると、再び苦しそうに顔を歪めた。

 説明をしながらシロは、ふとある疑問が思い浮かんで、尋ねた。

「マカやミスター・パパラッチに宿らせの灰をかけたのもミカさんなんですか?」

 美華は首を横に振った。

「いいえ、私はその子たちのことは知らないわ」

「じゃあ、いったい誰が彼らの親なんだろう」

 あごに手を当て、ううんと唸る。

「龍一じゃないかしら……家を出て行くときに、私が持っていた宿らせの灰の残りも持ち去ってしまったから、それをかけたのかもしれないわ」

「でも、社長があの子たちの親のはずはないんです。親だったら命令を聞かなくちゃいけないでしょ。マカもミスター・パパラッチも、社長の言いつけなんて全然守らないし……」

 美華は、困ったように首を傾げた。

「ごめんなさい、私にはわからないわ。宿らせの灰って奥が深くて……私にもまだわからないことがたくさんあるのよ」

「そっか……」

 窓の外を大型トラックが通り過ぎて、天井から下がっている小洒落たランプがぷるぷると揺れた。沖野はコーヒーを一口すすると、静かに皿の上に戻した。

「……あの子たちが私のことを忘れてしまったのは残念だけれど、龍一はちゃんと世話をしてくれているのね。その点は安心したわ」

「ううん……地下に閉じ込めることがちゃんとしたお世話って言えるのか、私にはわからないですけど」

 シロは納得いかないふうにそうつぶやいた。だが、その声は美華までは届かなかったようだ。美華はコーヒーカップの持ち手を摘まんだまま、さざ波を立てる液面に向かってふいに微笑を漏らした。

「あの子たちは今もお笑いが好きなのね」

「今も?」

 シロは思わず聞き返した。

 美華は顔を上げた。

「私の家で一緒に暮らしていた頃……ほら、あの子たちってあんまり頻繁に外に連れて行くわけにいかないでしょう。退屈しちゃかわいそうだと思って、いつもテレビを点けておいたの。そしたらあの子たち、釘付けになって、朝から晩までお笑い番組ばかり見ていたわ」

「へえ!」

「ときどき、漫才の真似っこをすることまであったのよ。わけのわからないことをお互い喋り合うばかりで、めちゃくちゃだったけど、それがあの子たちにはおもしろかったみたい」

 それを聞いてシロは、憂鬱で満たされていた心に一筋光が差すのを感じた。やっぱりニコラとテトラは漫才をするために生まれて来たんだ!記憶を失ってさえ漫才に対する情熱が変わらないだなんて、まさにそういうことだろう。彼らは、切っても切れない縁で、漫才と繋がっているのだ。変人の顔は自然と、嬉しさでほころんだ。

 シロの表情が急に柔和になったのを見て取り、美華は尋ねた。

「あら、どうしたの?」

「いや、その、嬉しくて……」

 シロは遠慮がちに口角を上げて見せた。

「以前、ニコラとテトラと話したことがあったんです。ふたりはきっと、漫才をするために生まれて来たんだ、って。今のミカさんの話を聞いたら、本当にそうなんだろうなって思えて、嬉しくて、ちょっと笑っちゃいました」

 すると、美華も優しく微笑んだ。

「あの子たち、そんなことを言っていたの?……そうね、あんなに大好きなんだから、本当に漫才をするために生まれたのかもしれないわね」

 双子の母親のお墨付きを貰えたので、シロはさらに嬉しくなった。

 美華はしばらく、シロがまだ子どもらしい丸い頬の奥で喜びを噛み締めているのを、静かに見守っていた。だが、店員がテーブルへ寄って来て、飲み終わったコーヒーカップを運び去ると、それを合図にしたかのように、表情をつと真剣に戻した。綺麗な形をした瞳で、正面からシロを見据える。

「あの、鵜代さん。鵜代さんにお願いがあるのだけど」

 シロの顔も、あどけない笑みが引っ込み、真面目な様子に切り替わった。

「何ですか?」

 美華は、少しのあいだ迷うように自分の指を触っていたが、やがておずおずと言った。

「私、あの子たち……ニコラと、テトラに、会いたいの。あなたが話してくれたおかげで、今もちゃんと元気に生きてるってことはわかったけれど、やっぱりそれだけじゃ満足できない。さっき、あの子たちは龍一の家の地下に住んでいると言ったわね?私を……その、龍一の家まで案内してくれないかしら?」

 母親の願いを聞いて、シロは、申し訳なさそうに肩を落とした。

「ううん、でも、今は井戸が塞がれちゃってるし……行っても、会うことはできないと思います」

 会えるものなら、自分だってとっくの昔に会いに行っている。ニコラとテトラに会いたいのは、美華だけではないのだ。

 しかし、必死な母親は食い下がった。

「せめて、傍まで行ってみたいの。もしかしたら、なんとかして井戸の中に入る方法があるかもしれない」

「……もし会えたら、ミカさんはニコラとテトラを連れて行っちゃうんですか?」

 シロは、ふと疑問に思って、なにげなく尋ねた。すると、美華は気まずそうに口をつぐんだ。

「……連れて行っちゃ、駄目かしら?」

 ささやくように問い返す。

 シロは、テーブルの脇の紙ナプキンのほうに視線をやって、悩むように喉の奥で唸った。自分では散々、チェーンソーで井戸の蓋を破壊してガラクタたちを連れ去ってしまおうなどと夢想していたものの、いざ第三の立場に立って、美華が双子を自分のもとに取り戻すという現実的な可能性について考えてみると、果たしてそれは本当に正しいことなのかという気がしてきたのた。確かに、双子に命を与えたという意味では美華が彼らの本当の親であるし、彼女のニコラとテトラに対する愛情は強い。けれども、双子を自分の傍に置いておきたいのは社長も同じだ。地下に閉じ込めたり、記憶を消したり、そういう愛情表現が適切かどうかは別として、必死に彼らの目から母親の存在を隠そうとするのは、それだけ双子を手放したくないということなのだろう。そんな必死な男の手から、無下に双子を奪ってもよいのだろうか?例のペンダントを目にしたときの、社長の恐ろしい剣幕を思い起こすと、ふたりがよりを戻して仲良く一緒に子どもの面倒を見るなんてことは考えられなかったし、かと言って、社長と美華と、いったいどちらがニコラとテトラの親であるべきなのか、まだ人生経験の浅いシロにはひとつに決めることなんてできなかった。

 美華はずっと不安な顔をして問いに対する答えを待っていたが、シロがあんまり長いこと黙り込んでいるので、とうとう耐えかねて口を開いた。

「お願い、鵜代さん。龍一の家まで案内してちょうだい……案内してくれるだけでいいの。その後のことは自分で考えるわ」

 それはもう、嘆願するというような調子であった。テーブルの上に置かれていたシロの手を引き寄せ、両手で包む。

「私、あの子たちに会いたいの……お願いよ……」

 大人の手のひらの柔らかさと温かさを自分の手の甲に感じながら、シロは、どう答えたものかと、困惑ぎみに相手を見つめ返した。口をもごつかせて、ためらいがちに言葉を紡ぐ。

「……でも……連れて行っちゃうのはさすがに社長がかわいそうだし……」

 しかしそのとき、かまびすしい中年女性の一団が、隣の席に案内されてやって来たので、シロの低い言葉は彼女らの高いお喋りの声にかき消された。静かな文学的空気が漂っていた店内は、俗世間を代表する人々の登場で、にわかに活気を帯び始めた。

 美華は、よく聞こえなかったという顔つきをして、シロにもう一度言うように促した。しかし、ためらいがちに述べたことを、隣の女性たちの鳴き声に勝るくらいの音量で再度述べるというのは、容易なことではない。

 店内が真剣な話をするような雰囲気でなくなってしまったので、美華はやきもきしたように辺りを見回した。気づけば時は正午を過ぎて、知らぬ間に、客のまばらだった席が埋まりつつある。

「飲み終わったのに長居していたら、迷惑ね。いったん出ましょうか」

 仕方ないという気持ちを瞳の奥にちらつかせながら、笑顔を作ってシロに呼びかける。シロはその呼びかけに従った。

 レジで会計を済ませる美華を背に、シロは先に外に出ようと、気の進まない思いで入り口のノブに手を掛けた。古い喫茶店の少し重い扉を押し開けながら、彼女が不安げに考えていたのは、店を出た後もう一度あのお願いをされたら――必ずされることになるだろうが――そのときにはどう答えを返すべきか、ということだった。

 ところが、外に出た途端、シロの思考は子どもの甲高い泣き声に断ち切られた。見ると、歩道の端で小学校低学年くらいであろう、小さな女の子がわんわんとべそをかいている。あんまりひどく泣いているので、シロはどうしたものかわからず、その場に立ちすくんだ。

 背後で喫茶店の入り口の鈴がカランコロンと鳴って、美華が店から出て来た。美華は泣いている女の子に気づくなり、ぼうっと突っ立っていたシロの脇を駆け抜けて、その子に近づいた。

「あら、どうしたの、お嬢ちゃん?何かあったの?」

 女の子に背丈を合わせ、シロを助けたときよりも一層、これこそが子どもに接する大人の態度だという優しい口調で、問いかける。

 小さな女の子は、美華が人畜無害な保護者のオーラを存分に発していたおかげか、知らない大人にもかかわらず、警戒心を抱かずに、すんなりと問いかけに答えた。

「わたしの、わたしの……飛んでっちゃった」

 しゃくりあげるあいまを縫ってなんとかそう言葉を発すると、短い指で空を指し示す。

 シロと美華は空を仰いだ。すると、雲の無い、白みを帯びた青色の世界の中にぽつんと、赤く丸い点が浮かんでいる。風船が上空へ上空へと飛んで行くのだった。

「まあ、手を放しちゃったのね」

 美華は同情の声を漏らすと、女の子のほうに向き直って、その頭を優しく撫でた。

「かわいそうにね……泣かないで……」

 そうやって女の子を柔らかく愛撫する美華の姿は、まるで一瞬のうちに、その子の本当の母親になってしまったようだった。眉根に細くしわを寄せて心からの同情を示しながらも、自分の無力を晒して相手に不安を与えることがないよう、決して口角は下げない。ただ根気よく、いつまでも寄り添う気持ちを見せる。今、彼女のすべては、幼く傷つきやすい感情に安寧をもたらすことに捧げられているのであった。

 女の子のほうも不思議と、撫でられているうちにしゃっくりが収まってきて、とうとう、赤くなったくりくりとした瞳で親切な大人の顔を見返すだけになった。

 美華は鞄から財布を取り出すと、女の子の小さな手に百円玉を握らせた。

「泣き止んで、えらいね。これで新しい風船を買うといいわ」

 そう言って、にっこりと微笑む。

 女の子もつられて、はにかむように小さく笑った。

「……ありがと……」

 子どもらしい聞き心地のよい声でそうささやくと、身を翻し、とたとたと歩道を走り去って行った。

 美華は立ち上がった。去って行く小さな背中を見つめる彼女の表情は、爽やかで満足げだった。

 一部始終を傍に突っ立って眺めていたシロは、なんだか、今の一瞬の出来事の中に理想の親の姿を見たような、そんな衝撃を覚えた!女の子が泣いているのに気づいたとき、すぐさま迷いなく救済に動いたあの善良さ。自分のことをすべて忘れて、ただ、目の前の幼い魂を助けることだけに全感情を注ぐ。傷ついた心を、何も見返りを求めることなく、慈悲心だけを糧に、どこまでも労わる。今日初めて出会った子どもに対してさえそうなのだ。それが、ずっと一緒に暮らしてきたニコラとテトラということになれば、愛情が何倍に増すかなんて、言うまでもないだろう。こんなに優しい母親を、子どもと引き離し続けていてよいものか。その瞬間、シロの心は決した。

「ミカさん!」

 まだ女の子が消えて行った角のほうを向いて佇んでいる美華の背中に声をかける。

 シロが急に大声で呼びかけたので、美華は不思議そうな顔をして振り向いた。

 シロは、両の瞳を熱意に輝かせ、自分の胸を叩いた。

「ミカさん、社長の家に行きましょう!一緒に、ニコラとテトラに会う方法を、考えましょう!」

 それを聞くと美華は、嬉しそうに微笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ