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第十二話

「なんだ、今の閃光?大変だ、逃げてくださいお客さん。時空の裂け目に吸い込まれますよ!」

「何言ってんだ。ただのカメラのフラッシュだよ!」

 突如閃いたフラッシュに、一瞬会場の空気が凍りついたものの、弾丸ブリッツの気の利いたアドリブのおかげで、客たちはわははと暖かい笑い声を上げた。

「ちょ、ちょっと、パパラッチ!落ち着いて!」

 シロは慌てて、ミスター・パパラッチの動きを抑えるように、両腕で抱きかかえた。

 だが、弾丸ブリッツのボケがパパラッチをさらに興奮させてしまったらしい。ポラロイドカメラはシロの腕の中でもうたまらないというふうに暴れながら、叫んだ。

「ぶははは!大変だあ、逃げなきゃ!ぶはははははは!」

 バシャリ!

 シロはカメラの発光部を手で覆ったが、鋭いシャッター音が、もとに戻りかけた会場の空気を再び引き裂いた。現像された写真が勢いよく飛び出して客席の上を舞う。客たちは笑うのをやめ、怪訝そうにちらちらと後ろを振り返った。弾丸ブリッツの登場を待っていたときの愉快なざわめきとはまったく別の種類の、嫌なざわめきが起こり始めた。

 弾丸ブリッツのふたりは、先ほどのひょうきんさを引っ込めて、トーンを少し落としてもう一度言った。

「ちょっと、お客さん?公演中の撮影はやめてくださいねー」

「他の方が楽しめなくなっちゃうんで」

 しかし、興奮したポラロイドカメラには、もはやそれがボケなのか真剣なのかなんて見分けはつかない。

「ぶははははははははは!やめてくださいだってぇ。おもしろい。ぶはははははははははは!」

 バシャリ、バシャリ、バシャリ!

 次々と写真が飛び出し、客席の上を舞って、こちらを振り返る客たちの顔や頭の上に落ちた。何やら白いものに突如視界を奪われた客が、きゃあと叫び声をあげる。

 瞬く間に、会場内はカオスに陥った。シロは必死でミスター・パパラッチをなだめようとしたが、もはやこのカメラは、自分だけの最高に楽しい世界に入り込んでしまったようだ。興奮は一向に収まらなかった。シロの指のあいだを漏れ出たフラッシュが、暗い劇場を雷のように、〇・五秒ごとにカッカッと照らす。怪訝な声の混じり合ってできたざわめきを、鋭利なシャッター音が切り裂く。紙の焼夷弾に打たれた客が悲鳴をあげる。さすがの弾丸ブリッツも、今やまともに漫才を続けることはできなかった。注目の的から外れてしまった黄金の舞台上から、客席の混沌を眺め、困ったように顔をしかめている。そのあいだもやはり、ミスター・パパラッチはぶはははぶはははとシャッターを切り続ける。

「シ、シロさん!あっち!」

 マカが恐ろしげに叫んだ。

 見ると、劇場の支配人が、客席のあいだの通路を、こちらに向かってずんずんと歩いて来る。その顔は、満席の興行を台無しにされた怒りで真っ赤になっていた。

「そこの子ども!営業妨害だぞ!」

 シロは咄嗟に、まずい、と思った。近くまで来られたら、山賊の正体がバレてしまうかもしれない。マカとパパラッチを抱えて立ち上がると、両脇の双子に向かってささやいた。

「逃げよう!」

 ニコラとテトラは、促されるまでもなく、もう腰を上げていた。この状況のまずさは、世間知らずな彼らでも十分理解できたのだ。おやじの目玉は相変わらず不気味にぎょろぎょろしていたが、その被り物の下は、シロ同様、これはやばいという焦りの表情が浮かんでいたことだろう。

「ぶははは、逃げなきゃ!ぶははは」

 ミスター・パパラッチだけが、シロの腕の中で、依然として陽気に笑い続けていた。

 シロは座席の背をまたいで通路に出ると、トランクを掴んで、出口に向かって駆け出した。ニコラとテトラも後に続く。

「あっ、こらっ、待て!」

 逃げてゆく三人の背中を見ると、支配人は怒り狂って叫んだ。そして、不届き者を逃がすまいと、自分も走り出す。

 シロたちは、騒然としている会場を後に残してロビーに出ると、受付に座って退屈そうにマニキュアの具合を見ている機械的なもぎりのお姉さんの前を突っ切り、劇場の外へ飛び出した。その後を追って、恰幅のいい支配人もロビーに姿を現した。

「おいっ、何やってる!追いかけろ!」

 受付を駆け抜けざまにそう叫び、寒空の下へ飛び出してゆく。だが、お姉さんは少し顔を上げただけで、またマニキュアの研究に戻った。

 シロとニコラとテトラは、劇場の前の通りを、行き交う歩行者を避けながら全速力で走った。視界の左右を高速で流れてゆくのは、蔦の絡まった丸いビル、窓に書かれた"高価買取"の文字、紫とピンクの中間のネオン、唐突なパチンコ屋、密着しすぎて歩きにくそうなカップル、延々と電柱に話しかけるおじさん。あらゆるものが、ガラクタたちにとっては初めて見るものだったが、立ち止まって感慨に浸っている暇は無い。どこに向かうともわからず、悪ガキ連中は、有象無象のあいだをとにかく全力で疾駆した。ミスター・パパラッチはいまだに笑いが止まらないようで、笑うたびに写真を吐き出した。夜の街に点々と紙の道標ができてゆく。都会の通行人は、その道標を一瞬怪訝そうに見ては、自分の生活には関係無いと結論づけ、さっさと去って行った。

 シロは持ち前の運動神経を十分発揮してはいたのだが、巨大なトランクとポスターとカメラを抱えていては、さすがに走りにくく、身軽なニコラとテトラに遅れ始めた。後ろをちらと振り返る。通行人のあいだに、怒り心頭の支配人のしつこく追いかけて来る姿が目に入った。劇場を出たときよりもこちらに迫って来ている気がする。シロは再度地面を蹴る足に力を込めた。前方に、来るときに目印にした、百貨店の平和的な看板が目に入った。何かを抱きしめるように両手を交差した地球が、優しくこちらを見下ろしている。手前には、三車線の道が交わる巨大な交差点。ニコラとテトラがその交差点の横断歩道の入り口まで辿り着いたときには、歩行者信号の青色はちかちかと点滅し、最後の横断者群が吸い込まれるように、小走りで向こう側の歩道に収まっていくところだった。そして、信号が赤に変わると、停止線の手前にずらりと並ぶ自動車たちが、待ってましたとばかりに一斉にエンジンをふかし……

 だが、信号なんてもの生まれてこのかた見たことのない双子は、自動車が走り出したのと同じタイミングで、躊躇なく車道に飛び出した。先頭車のドライバーたちは皆一様に、目の前に飛び出して来た禿げおやじふたりにびっくり仰天して、急ブレーキを踏み、あるいはハンドルを切った。

 そのとき、まだ歩道を走っていたシロの背中に、秋の気まぐれの夜風が強く吹きつけた。黄色いポスターが、指のあいだをするりと滑り、交差点の上にぽっかりと開いた黒い空に舞い上がる。

「マカ!」

「シロさぁぁぁぁあん!」

 哀れなポスターの叫びが、夜の街に響いた。

 マカは風に煽られて、瞬く間に反対車線まで飛んで行くと、すでに走り出していた車のフロントガラスにべちゃりと張り付いた。

「ぎゃああああああああああああっ」

 "交通安全強化月間"の文字に突如視界を遮られたドライバーは、悲鳴をあげた。

「ぎゃああああああああああああっ」

 マカも、ドライバーの驚愕した顔に驚愕し、悲鳴をあげる。

 禿げおやじふたりとポスターの乱入で、交差点は大パニックに陥った。車の群れは次々に急ブレーキをかけたりカーブを切ったりして、お互いを避け合い、コインゲームみたいに交差点の中央に溜まって行った。後から来た車が、そのコインのプールの手前で停止し、ブーッブーッと怒りのクラクションを鳴らす。近くに居た通行人たちは、恐怖の叫び声をあげたり、あるいは事故現場に興味津々の目を向けたりした。

 この大騒乱の中に居ながら、奇跡的にかすり傷ひとつ負わずにいたニコラとテトラは、自分たちが引き起こしたパニックになどまったく気づいていないらしく、ただただ道路の向こう側を目指して、止まった車のあいだをするすると駆け抜けて行った。あんまり激しく走ってきたので、被り物が回転し、今やぎょろ目があらぬ方向を睨んでいる。首の折れたゾンビが走っているみたいだ。シロも車道に出て、悲鳴とざわめきとクラクションが恐怖の狂想曲を奏でる中、双子の後を追った。途中で、マカが着地した車に近づくと、フロントガラスから素早くポスターを引っぺがし、回収した。窓の向こうに現れたドライバーは、驚愕の表情のまま、時が止まったみたいに、ポスターがあった場所を睨み続けていた。

 道路を渡り切ると、歩道は、事故の様子を見ようと立ち止まった通行人たちで混雑していた。振り返り、後ろを確認する。目に入るのは交差点に溜まった車ばかりで、追って来る支配人の姿は見えなかった。おそらく相手も、もうシロたちのことは見失ってしまったであろう。そうでなかったとしても、わざわざ危険な事故現場を横切ってまで捕まえに来ることもあるまい。シロは辺りを見回し、野次馬たちのあいだで立ち往生している山賊ふたりを見つけると、駆け寄ってトレンチコートの裾を引っ張った。

「ニコラ、テトラ、もう大丈夫だから、とにかく人目のつかないところへ移動しよう」

 そう小声で呼びかける。

 そして、そのままふたりの身体を押すようにして、事故を見に集まって来る野次馬の流れに逆らい、騒乱の現場から離れていった。

 人通りの無い、細く暗い路地裏に入ると、シロはトランクを地面に下ろした。こめかみに汗を垂らし、荒く息をつきながら、急いで留め金を外し蓋を開ける。秋の夜だというのに、全力で走ったせいで身体はひどく火照っている。恐怖体験をしたマカは、シロの手から離れると、傍にあった室外機にへなへなと寄りかかった。ミスター・パパラッチは、その頃にはやっと、いかれた連写をやめていたが、まだ楽しい時間の余韻が抜けないらしく、地面に転がって呑気にくくくと笑っていた。

「なんだあ?いったい何をあんなに騒いでるんだ?」

 大通りから流れ込んでくる騒ぎ声を聞きながら、ニコラが、何も無い壁に向かって言った(被り物の下の顔は、おそらくシロのほうを向いている)。

 だが、その疑問に答えてやっている暇は無かった。悠長にしていたら、誰かが、大迷惑なトレンチコートのふたり組を捕まえにやって来るかもしれない。

「みんな、はやくトランクの中に入って。隠れないと、まずい……」

 そう言うと、シロは突っ立っているガラクタたちを乱暴に引き寄せて、トランクに詰め始めた。焦るあまり、うまい詰め方を考える余裕などは無く、行きのときよりも一層非人道的に押し込んでゆく。ガラクタたちは小さな悲鳴をあげたり文句を言ったりしたが、そんなのはお構いなしだ。その結果、危機的状況に与えられた驚くべき俊敏さと馬鹿力のために、空間効率は低いながらも、行きの半分の時間で詰め終えることができた。まだ心臓がバクバクしている。シロはトランクの蓋を閉め、取っ手を掴み、駅へ向かおうと立ち上がった。

 あんまり慌てていたので、路地裏から出たところで、歩いていた通行人に正面からぶつかってしまった。

「ごごごごめんなさい」

 殺人現場から離れる人殺しよろしく、うつむいたまま、びくびくとした小声でそれだけ言い残すと、シロは逃げるように走り去った。背後にはまだまだ騒がしい狂想曲が響き続け、その上空で、何かを抱きしめているようなあの平和的な地球のロゴマークは、今ではもう、この状況に呆れて両手でバツ印を作っているようにしか見えないのだった…………

 帰りの電車は鈍行に乗った。人のまばらな車内で、トランクを床に置いて、ひとりぽつんと座席に座る。市の中心部から離れて窓の外の建物が低くなって行くにつれ、シロの心拍数も徐々に落ち着いて来たが、そうなると反対に、静かな車内で、先ほど起こった出来事をじっくり思い返して落ち込む余裕が生まれた。今頃、弾丸ブリッツはどうしているだろうか?単独ライブを再開できただろうか?せっかくの再結成記念ライブを邪魔してしまって、シロの胸は弾丸ブリッツのふたりに対する申し訳なさでいっぱいだった。また、外の世界を見せてやると自信たっぷりに宣言したのに、ガラクタたちを危険に晒してしまったことも、悔やむべき事項だった。

 電車を降り、住宅地を抜け、電灯の無い真っ暗な道を社長の家に向かってとぼとぼと歩いていると、そのシロの落ち込みを察したのか、トランクの中からニコラがそっと話しかけた。

「シロ、大丈夫かい?」

 蓋の隙間から漏れ出す声に気づいたシロは、顔を近づけて答えた。

「うん……大丈夫だよ。ありがとう」

 大丈夫ではなさそうな声のか細さだ。

 少女がトランクに向かって独り言をささやくさまは滑稽だったが、この夜の田舎道では誰も見る者は居なかった。周りはしんと静まり返り、見渡す限り草ばかりだ。

「なあシロ、落ち込むことないぜ。ちょっと危なかったけど、うまく逃げ切れたわけだし」

「ううん、そうだね。でも、みんなに最後までライブを見せてあげられなかった……」

 すると、テトラが割って入った。

「何言ってんだ。俺は、少しでも弾丸ブリッツが見られて、めちゃくちゃ嬉しかったぜ。今まで生きて来て、間違いなく今日がいちばんいい日だった」

「そうだよ。今日は本当に楽しかった。シロはなんにも悪くないよ」

 ミスター・パパラッチも加勢する。

「みんな……」

 シロは、トランクの持ち手を掴む手にぎゅっと力を込めた。

「俺たち、生まれて初めて外の世界を見られて、本当に幸せだった。弾丸ブリッツの漫才は最高だったし、あんなにたくさん人間が居るところを歩くのも、すっげえ興奮した。最後の追いかけっこだって、スリルがあってちょっと楽しかったしな。こんな幸福な気分になれたのは、それもこれもシロのおかげだよ。シロが俺たちを励まして、憂鬱の底から引き揚げてくれたおかげだ」

 顔は見えないが、そう語るニコラの声には、嘘偽りの無い、純粋な、シロへの感謝の念が込められていた。

 テトラが言葉を引き継ぐ。

「そうだよ。シロが居なけりゃ、俺たちはきっと、永遠に外の世界を知らないままだった。身体が朽ちて動けなくなるまでずっと、あの狭い洞窟で同じような毎日を過ごすだけだった。シロが俺たちに、新しい世界を、幸せになれる可能性を教えてくれたんだ。ありがとう、シロ」

「ありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう!」

 シロは、胸がじんと熱くなるのを感じた。真理恵や、他の人間の友人からは感じたことのない、本当に相手を思いやり愛する気持ちを、ガラクタたちの中に感じたのだ。

「みんな、ありがとう……。完璧ってわけではなかったけど、計画してよかったよ。みんなが喜んでくれて、私も嬉しい」

 優しく微笑みながら、トランクの中の暖かい魂たちに向かってそうつぶやいた。

 そうこうしているうちに、月の下におどろおどろしい赤レンガの館が見えてきた。どの窓にも明かりの無い館はほとんど、背景の黒い空と黒い樹々とに溶け込んでいた。おあつらえ向きに、ふくろうがほうほうと鳴いている。夜が深まり、ただでさえ指先の感覚が無くなるような寒さなのに、その景色を見るとさらに背筋が冷たくなるような気がした。

 シロは洋館の裏口まで迂回した。塀の陰から、息を潜めて中の様子を覗う。庭の向こうに見える社長の部屋の窓は真っ黒だった。

「どうだい、シロ。いけそうかい?」

 トランクの中からニコラが尋ねた。

「うん。社長、もう寝たみたい。部屋の明かりが消えてる」

 そして、庭に足を踏み入れると、音を立てないように、そろりそろりと数歩進む。

 だがそのとき、後ろから聞き覚えのある声が呼びかけた。

「誰がもう寝たって?」

 シロの心臓は飛び上がった。ばっと振り返る。と同時に、驚きのあまり、トランクの持ち手を放してしまった。トランクは宙を舞い、地面に当たってバウンドすると、口をがばと開けて、ぎゅうぎゅうに詰まっていたガラクタたちを勢いよく芝生の上にぶちまけた。

「お、おいシロ、何すんだ。急に放り投げるなよ」

 仰向けに放り出されたニコラが、地面に手を突き不満げに漏らす。しかし、頭をさすりながら身を起こし、シロの前に立っている人物の顔を見ると、はたと凍りついた。

「しゃ、社長」

 シロの前に立っていたのは、まさしくあの、目つきの悪い中年男であった。

 シロとガラクタたちは皆一様に、目を見開いて、暗い庭に銅像のように立っている社長の顔を見上げた。その顔は、以前失敗パーティーで見せたような、いや、それ以上の激しい怒りでぎらぎらと燃えていた。

「しゃ、社長、どうして……」

 テトラがしりもちをついたまま、震える声でささやいた。

 しかし、社長はそれには耳を貸さずに、ずいと一歩シロに近づくと、真上から、その青ざめた顔を睨んだ。

「……シロ、おまえは俺とした約束を忘れたのか」

 その声は、決して大きいわけではないのに、地響きのように低く鳴り、静かな脅迫を含んでいた。

 シロは、支配人と追いかけっこをしていたときよりも一層バクバクと心臓が打つのを感じながら、上目遣いで相手の影のかかった顔を見た。頭が真っ白になって、相手の問いに対する答えが浮かばない。だがやがて、口を引き結んだまま、ゆっくりと首を横に振った。

「……そうだな。約束したな。こいつらにもう、余計なことは教えるなって。それなのにおまえは、地上のものを持ち込むだけじゃ飽き足らず、こいつらを外に連れ出すことまでやってのけたってわけだ」

 夜風が樹々の葉を揺らし、不穏なざわめきをたてる。嫌な空気を気取って去ってしまったのか、いつのまにかふくろうの鳴き声は聞こえなくなっている。

 追い詰められた変人に、自分を弁護できる言葉は無かった。渇いた喉の奥から絞り出すようにつぶやく。

「……ごめんなさい」

 それだけ言うのがやっとだった。

 社長は、暗闇の中でもわかるほど蒼白になった子どもの顔を睨みながら続けた。

「約束を覚えていたなら、なぜ守らなかった?おまえは、自分のやったことが、こいつらにとってどれだけ危険なことだったかわかってるのか?一歩間違えば、こいつらは地上の連中に捕まっていたかもしれない。命を失ってたかもしれない。くだらん計画を実行する前に、そういうことに思い至らなかったのか?」

 口調にだんだんと、明らかな怒りの語勢を加えていく。

「それとも、こいつらが捕まって燃やされようがどうしようが、おまえにはどうでもよかったのか?……"地下暮らしはかわいそう"だなんて、おまえの、勝手な、憐憫を、満たすためなら」

 冷たい氷が肺の上にずどんと落ちたような、そんな感覚がシロを襲った。社長の最後の言葉が、頭の中に重苦しく響いた。何も言わずに、顔をうつむけ、唇を噛む。

 その姿は、あんまり惨めで、傍から見ると背丈が半分になってしまったかのようだった。ガラクタたちはずっと地面に転がったまま、茫然とシロと社長とのやり取りを眺めていたが、その哀れな仲間の背中を見てはっと我に返った。黙っていられないとばかりに、皆慌てて立ち上がる。

 重苦しい空気を変えようと、 ニコラがわざと明るい調子で言った。

「まあ、そんな言い方するなよ、社長!こうやって無事帰って来たんだしさ。そう怒ることないんじゃねえの」

「そうだよ、社長。俺たち、うまくやったぜ。俺たちが人形だってことは、誰にもバレなかった」

 テトラも自信満々に胸を叩く。

「社長、シロさんは我々のことを思ってやってくれたんであります」

「そうだ、シロの計画は完璧だった。なんにも危ないことはなかったよ」

「うんうん。シロは俺たちのためにうまくやってくれた!シロは悪くない」

 ガラクタたちは口々にシロを擁護した。最後に、ミスター・パパラッチが念を押す。

「社長、シロを許してあげて。シロはただ、ニコラとテトラにまた漫才を見せてあげたかっただけなんだよ。……だってほら、社長がオイラたちのDVDを取っちゃったからさ!」

 だが、社長はすべての援護を彼方に吹き飛ばすような剣幕で一喝した。

「うるせえ!おまえらは黙ってろ!」

 ガラクタたちは一斉に口をつぐんだ。肩を寄せ合い、しゅんと身を縮こませる。

 社長はシロのほうに向き直ると、抑えきれないいらだちを眉間に表しながら、言った。

「シロ、こいつらを下まで連れてってやれ。それからすぐ戻って来て、おまえも家に帰るんだ。おまえだって、こんな時間に外をうろついてていい歳じゃないんだから」

「……わかった」

 シロは、消え入りそうな声でそう答えた。

 芝生の上で大口を開けているトランクの傍に膝を突き、力ない動作でガラクタたちを招き寄せる。気勢をそがれたガラクタたちは黙って従い、箱の中に詰められ始めた。

 社長は腕を組んで、その作業の様子を後ろから見張っていた。イライラと指を動かしながら、小声で文句をこぼす。

「……ったく。トランクに入れて運ぼうだなんて、馬鹿なこと考えつきやがって」

 背後から漏れ聞こえるその悪態は、シロの胸をチクリと刺した。ミスター・パパラッチのストラップを箱の隅に折り込みながら、ぎゅっと歯を食いしばる。

 社長の不満は止まらなかった。

「……約束すると言うからこの前は大目に見てやったのに、信用したらこのザマだ……俺の言ったことは、結局なんにも理解しちゃいなかったってことだ……漫才を見せてあげたかった、だって?……そんなもののために、無茶な計画立てやがって……」

 ガラクタたちはしょんぼりした顔でおとなしくトランクに詰められていたが、そのときふいに、ニコラの表情が変わった。そして、もうほとんど詰め終わりそうだったのに、胸の上に乗っていたマカを押しのけてがばと起き上がった。

「おい!そんなもの、だと?」

 先ほどまでの怯えた様子からは打って変わって、隠すつもりの微塵も無い剥き出しの怒りが、その顔に表れていた。

 シロと他のガラクタたちは目を丸くして、急に身を起こしたニコラを見つめた。社長も、腕を組んだまま、眉をひそめてそちらに目をやった。

 ニコラは、社長の顔を真正面から睨んで、溢れる憎しみをありったけ投げつけるかのように、叫んだ。

「漫才を、"そんなもの"、だと!」

 そして、トランクから飛び出そうとしたので、シロが慌ててその両肩を抑えた。

 身体を抑えられながらも、人形は社長に殴りかからんばかりの勢いで腕を振り回し、叫び続けた。

「漫才は俺たちの命だ!俺たちの生きる目的だ!"そんなもの"呼ばわりするんじゃねえ!いったいおまえに漫才の何がわかる?弾丸ブリッツの、何がわかる?俺たちは、漫才をするために生まれたんだぞ!」

 あんまり大声で怒鳴るので、シロは相手を抑えながら思わず顔を背けた。

「さっきから、黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって……おまえは……おまえは……嘘つきのクソ野郎だ!俺たちの親だあ?馬鹿言うな!俺は全部知ってるんだぞ!俺たちを騙して、俺たちから漫才を奪って……おまえがやったことは何もかも、自分勝手な親ごっこだ!何もかも、俺たちの幸せを破壊することだ!このぺてん野郎!ろくでなし!」

 ニコラの抗議はとめどなかった。爆弾が炸裂するように、次々と攻撃の言葉が湧き出て、弾ける。

 しかし、社長は顔をしかめ、静止画のように黙って睨み返すだけだった。哀れな人形の叫びは、冷たい空気を虚しく震わせただけで、闇のあいだに消えた。

 激情に駆られたニコラを、シロは優しく抱きしめた。

「ニコラ、落ち着いて。今はとにかく、地下室に戻ろう」

 ぽんぽんと背中を叩く。周りのガラクタたちも、なだめるように、興奮で震える仲間の両脇に寄り添った。

 ニコラはまだ思いを吐き出し足らない様子で憎い相手を睨んでいたが、シロが頭を押すと、しぶしぶトランクの枠の中に収まった。

 シロはトランクの蓋を閉めた。社長に見張られる中、行きと同じようにロープを括りつけて、慎重に下まで下ろしてゆく。腕にかかる重みが消え、井戸の底に辿り着いたことがわかると、ロープを放し、トランクを開けるため、自分も梯子で下に下りて行った。社長の、相手を刺し殺さんばかりの不機嫌な眼光による監視からようやっと逃れることができて、少しほっとした。

 梯子を下り切ると、先に到着していたトランクのロープをほどき、留め金を外した。ガラクタたちもやはり、社長の傍を離れることができて少し安心したのか、外に出ると、先ほどよりは緊張の解けた様子をしていた。伸びをして、狭い箱の中での揉み合いでずれたパーツを元に戻す。ただ、ニコラだけはまだ怒りで心の整理がつかないようで、皆に背を向けて、ひとりイライラと身体を揺すっていた。

 地下室へ繋がる階段を連れ立って下りながら、テトラが言った。

「しっかし、どうして社長は俺たちが抜け出したことに気づいたんだろう?計画は完璧だったはずだぜ」

 シロは首を横に振った。

「わからない……六時の点検の後、もう一度下りて来たのかな?」

「まさか。これまで一度も、そんなことは無かったであります」

 大部屋へ出ると、まぶしい照明が一同の目を刺した。雑多に積まれたガラクタの山、山、山。数時間離れただけだが、懐かしい我が家に帰って来た。

「ぎゃっ」

 ふいに、ミスター・パパラッチが頓狂な声をあげた。

「なんだよ?」

「何かぐにゃぐにゃしたもの踏んじゃった」

 皆はポラロイドカメラの周りに集まった。

 シロはかがんで、パパラッチが踏んだものを拾い上げた。それは、しぼんだ風船で、持ち上げると結んであった長い糸が下に垂れた。表面には、セロハンテープで小さな紙切れが貼り付けられていて、何やら書いてある。

 シロは、紙切れのしわを伸ばし、そこに書かれていた文字を読んだ。


 "しゃちょう

 たすけて

 みんな そとへ いった"


 利き手と逆の手で書いたかのようなそのいびつな筆跡は、間違いなくブロンドのマネキンのものであった。他の文字の何倍も練習した"す"の文字だけが少しばかりまともな形をしていることが、それを裏付けていた。シロは垂れた糸に目をやった。風船に不器用に結びつけられた糸は、余って地面の上でだまになっている。伸ばせばきっと、井戸の底から地上まで届くほどの長さになることだろう。

 シロが自分の発見したことに気を取られていると、後ろからニコラが、肩越しに紙切れを覗き込んだ。目を細めて歪んだ文字をゆっくりと辿る。そして、学の無い人形でもなんとかその意味するところは理解できたらしい。はっとして、叫んだ。

「ハマサキだ!ハマサキが社長に告げ口したんだ!」

 その声は、裏切りに対する激しい怒りで震えていた。

 そのとき、折悪しくと言うべきか、当のハマサキが洞窟の奥からこちらへとことことやって来た。心優しいマネキンは、シロたちの姿を見つけると、ぱっと安堵の表情を浮かべた。

「ああ、みなさん!無事だったんですね。よかった……」

 そう言って、大事な仲間たちのもとへと小走りで近づいていく。

「外の世界に行くだなんて……帰って来られないんじゃないかと、本当に心配していたんですよ。お怪我はありませんか?」

 だが、すぐに口をつぐんだ。振り向いたシロとガラクタたちの顔が、一様に気まずく、憂鬱で、とても仲間との再会を喜ぶような調子ではないことに気づいたのだ。

 自分のやったことが脱獄犯たちにとって致命的な行為だったなどとはつゆ考えていないハマサキは、こちらに目線を合わせようとしない仲間たちの憂鬱な顔を、困惑したように眉を垂らして見つめた。そして、仲間たちの中でも、例外なくいつも親切に接してくれるシロのほうに、何があったのか、問いかけるような視線を投げかけた。

 だが、シロはその問いかけに何と言葉を返せばよいのかわからなかった。仲間たちのためを思って行動したハマサキのことを責めたくはなかったし、かといって、あからさまに庇うようなことを言えばニコラの機嫌を損ねかねない。後ろに立っている人形の表情はシロには見えなかったが、いらだちを消化できずに、今やっとのことで限界点前にとどまっているであろうことは、背中から伝わる嫌な圧力で十分わかった。

 沈黙に耐えかねたハマサキは、おずおずと問いかけた。

「あの、みなさん、どうかされたんでしょうか……」

 そして、不安そうに胸の上に両手を添える。その手には、まだあのラブレターが握られていた。

 しかし、その小さな紙片を目にすると、ニコラがもう我慢ならないというふうに叫んだ。

「おい!いい加減にしろよ!いつまでそれを持ってるんだ!」

どうやら、ぎりぎりのところでニコラの怒りを堰き止めていた堤防を、彼の宿命の敵に宛てられたその恋文の存在が決壊させてしまったらしい。彼は、自分の器以上に肥大化した憤怒の発作に操られるように、叫んだ勢いのまま皆を押しのけ、前に踏み出した。あまりの剣幕に、誰も彼を止めることはできなかった。

「ニ、ニコラさん?」

 鬼の形相をした悪童がずんずんと近づいて来るのを見て、臆病なマネキンは思わず一歩後ろに下がった。

 ニコラは、身を縮こませるハマサキに向かって、相手を吹き飛ばさんばかりの大声で怒鳴った。

「おまえはいったい、あんな嘘つき野郎のどこがいいっていうんだよ!いつまでもずるずると引きずりやがって、いい加減、馬鹿な恋をするのはやめろ!あいつは人間なんだ、人間は人間にしか恋しないんだ!あいつはおまえのことなんか好きになりっこない。おまえが愛されることなんか、絶対に無いんだよ!」

 そして、相手の震える手から乱暴にラブレターを奪い取ると……

「こんなもの!」

 ビリビリに破いて、力任せに地面に叩きつけた。

「ちょっと、ニコラ!何するの!」

 後ろからシロが、青ざめた顔で叫ぶ。

 すると突然、怒りで燃えたぎっていたニコラの目が、今にも涙がこぼれそうな形に歪んだ。かと思うと、「くそっ!」とひとつ悪態をつき、身を翻して、洞窟の奥に向かって駆け出した。

「おい、どこ行くんだ!待てよ!」

 テトラもそれを追って走り出す。

 シロも着いて行こうと一歩踏み出したが、すぐに、ハマサキを置いて行くわけにはいかないと、思いとどまった。双子の追いかけっこの足音は地下室の彼方に消えていった。

 残されたシロとマカとミスター・パパラッチは、ハマサキのほうを振り返った。

 静けさの中、哀れなマネキンは、放心したような顔で、茶色い地面の上に散らばった彼女の最高傑作の残骸を見つめていた。今何が起こったのかもわかっていないような様子だった。だがやがて、崩れるようにがくりと膝を突くと、白く細い唇をわなわなと震わせた。

「私の……ラブレター……」

 それはなんと惨めな姿であったことだろう!もとから白いはずの合成樹脂の肌は、どうしてか今や一層蒼白になったみたいで、まるで死体のようだった。シロは、胸がねじり上げられるような思いでそれを見た。急いで駆け寄り、抱きしめるように、華奢な肩に手を回す。

 ハマサキは、無残に散ったラブレターの破片にじっと目線を据えたまま、喉の奥から息を漏らすように、ささやいた。

「人間は……人間にしか恋をしない……」

 今しがたニコラにぶつけられた残酷な言葉をなぞる。

「私が社長に愛されることなんて……絶対に無い……」

 シロは、硬く冷たいマネキンの背中を、柔らかく暖かい人間の手で必死に撫でた。

「そんなことないよ、ハマサキさん。絶対だなんて誰にもわかりっこない。人間が人間以外に恋することだって、あるかもしれない。ニコラは……ニコラもつらいことがあったから、ついあんなふうに言っちゃっただけだよ」

 そして、白いワンピースの肩を優しく叩く。

「ほら、このワンピース、社長がくれたんでしょ。綺麗だって言ってくれたんでしょ。なんの気も無かったら、こんな素敵なプレゼントできないよ……」

 だが、ハマサキは何も答えなかった。苦痛に顔を歪ませ、黒目の無い瞳で地面に散らばった紙屑を見つめ続けている。

 横から、マカがそっとシロに話しかけた。

「あの、シロさん、大丈夫ですか?そろそろ行かないと……また社長を怒らせてしまうかもしれないでありますよ」

 紙面にしわを寄せて、心配そうに犬の眉を垂らしている。

「でも……」

 シロは渋った。ハマサキをこんな状態で残して行きたくはなかったし、ニコラのことも心配だった。

 しかし、ポスターは背筋を伸ばして気丈に言った。

「ハマサキさんのことは、自分とパパラッチが見ておきますから。後は我々に任せて、どうぞ行ってください」

 ミスター・パパラッチも、頷く。

「うんうん、オイラたちに任せて。ニコラだって、気分屋だからさ、明日になったらきっと元気になるよ」

 シロは、幼い連中がいつになく真剣な様子で並んでいるのを、じっと見つめ返した。少し迷った挙句、頼りなく微笑む。

「……わかった、ふたりに任せるよ。明日、学校が終わったらすぐこっちに来るから、それまでなるべくハマサキさんの傍に居てあげて」

 マカとミスター・パパラッチは力強く頷いた。

 シロはもう一度ハマサキの背中を優しく撫でてから、立ち上がると、後ろ髪の引かれるのを感じながら、小走りで地下室の出口へと駆けて行った。

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