第十一話
秋が深まり、地上では絶えず何かにくるまっていたくなるような肌寒さが人々を襲い始めた。だが、地下室に季節の移り変わりは無いし、そこに暮らす者たちに、温度を感じる肉の肌は無い。
いつもは洞窟の奥のほうでひとりもの思いにふけっていることが多いハマサキだが、その日は、なんとはなしにガラクタの山のあいだをとぼとぼとうろついていた。あの事件が起きてからというもの、もともと乏しかった彼女の生気はさらに希薄になり、欠けたハートを重苦しい憂鬱が埋めていた。三六五日変わらない景色の中を歩きながら、ときどき白い手に握った小さな紙切れに目をやる。目をやるたび、胸が痛んだ。
あても無く歩いているうちに、楽器たちの居る舞台に行き着いた。見ると、いつもの悪ガキグループ、つまりシロとニコラとテトラとマカとミスター・パパラッチも、舞台の周りに集まって座っている。だが、悪ガキにお似合いの、楽しそうな甲高い喋り声は聞こえなかった。皆一様に、神妙な面持ちをして黙りこくっている。彼らも自分と同様、あの事件以来憂鬱の底に沈んでいるのだということを、ハマサキはよくわかっていたので、その寂しい静けさにさして疑問は抱かなかった。舞台の傍の、大型の楽器が集められている場所に近づくと、倒れたコントラバスの隣にあった椅子に腰を下ろし、また紙切れに目を落として、悲しい未練を撫で始めた。足元には、失敗パーティーで使った風船が散らばっていて、それがその景色を一層惨めっぽくしていた。
時刻は六時になろうとしていた。ガラクタたちは舞台の縁に腰かけたり、地面に寝っ転がったり、思い思いの体勢で時の過ぎるのを感じていた。シロは、例の、ステッカーを貼った派手なトランクの上に座って、虚ろな目をして虚空を眺めている。静けさの中で耳に入る音と言えば、アドルフとクリストーナがいつも通り愛をささやき合うかすかな音色だけだ。
やがて、地下室の入り口の方向から、革靴が地面を叩くこんこんという音が聞こえてきた。ハマサキが、手に持っていた紙切れを慌てて後ろに隠す。うず高いガラクタ山のあいだから、社長が姿を現した。相変わらず不機嫌な顔をしていた。それも、からかいがいのある愉快な不機嫌さではなく、触れてはいけない危険物のような不機嫌さだった。
不機嫌な中年男は、ガラクタたちが皆舞台の周りに集まっているのを目にすると、黙ったまま、少し満足そうに片方の眉を吊り上げた。社長は毎日この地下室まで下りて来て、ガラクタたちがちゃんと揃っているかを確認するのだが、全員をこの広い洞窟内で探し回るのはなかなか骨の折れる作業だ。こうやって皆が揃ってわかりやすい場所に居てくれると、かなり手間が省けるというわけである。
社長はトランクに腰かけているシロに近づいて、言った。
「おい、シロ。だいぶ日が短くなってきたから、あんまり遅くまでは残るんじゃないぞ」
シロは上目遣いで相手を見やった。
「はぁい」
素直にそう答える。
気まずい、ふさいだ空気の中、行われた会話はそれだけだった。社長はシロの返事に納得したようにひとつ鼻を鳴らすと、くるりと背を向けた。来た道を、またこんこんと戻ってゆく。その背中を見て、ハマサキはまたぞろ暗い気持ちになった。この息苦しい空気、心の接触の途絶えた悲しい時間、いつまでこれが続くのか。しんみりと静かな洞窟に響く社長の足音は、やがて遠くへ消えて行った。
だが、社長の気配が完全にその場から消え去った途端、悪ガキ連中は息を合わせたように一斉に立ち上がった。そして、先ほどまでの死んだような気分から一転して、皆一様にその顔に生き生きとした熱意を湛え、何やら慌ただしく動き出した!
目の前の死んだ景色が急に活気を取り戻したのを見て、ハマサキは呆気に取られた。
双子の人形は、以前のいたずらっ子の、意地悪いが同時に思いっきり撫でてやりたくなるような、かわいい笑みを浮かべながら、舞台の後ろに駆けて行った。ガラクタの山をあくせくとかき分け、芋掘りするみたいに、太く長いロープを引っ張り出す。マカとミスター・パパラッチも別の方向へ走ってゆき、洋箪笥に突進して、その上に掛けてあったブランケットを揺り落とした。ガラクタたちは、それぞれの荷物を抱えて、地面の上にトランクを広げて待っていたシロのもとまで駆け戻った。
そして次の瞬間、驚くべきことに、シロはガラクタたちの身体を引っ掴んで、トランクの中に詰め始めた!
「おい、シロ、もっと丁寧にできねえのか?」
「首のところは曲げないでくれよ」
「ひゃあ、そこを折ったら、破れてしまうであります!」
「ごめんごめん、でも急がなきゃいけないから」
ガラクタたちが口々に文句を言うのもお構いなしに、シロは四角いトランクの枠の中にぎゅうぎゅうと彼らを押し込む。
ハマサキは、びっくり仰天して、悲壮な顔で叫んだ。
「シ、シロさん!いったい何をしていらっしゃるんですか」
すると、トランクの中からニコラが頭を上げて、嬉しそうに瞳を輝かせながら答えた。
「へへへ、俺たち、弾丸ブリッツを見に行くんだ!」
「えっ?」
人形の丸い頭は、人間だったら骨折どころでは済まされないようなありえない角度でトランクから飛び出していた。シロはその脳天を思いっきり押さえつけて、他のガラクタのあいだにねじ込んだ。
ハマサキは、ニコラの答えの意味を理解できなかったようだ。
「だ、弾丸ブリッツ?あの人間の漫才師の方々ですか?そ、それはいったい……」
シロはテトラの足を一八〇度に折り曲げながら、顔を上げて、ハマサキのほうを振り返った。
「私たち、今から、弾丸ブリッツの単独ライブを見に行くんだよ!地上の劇場にね!」
そう宣言するシロの顔は、上下の歯が全部見えるくらい、自信たっぷりな笑みに溢れていた。
シロの言葉を聞いても、マネキンはしばらく意味がわからす、野蛮な荷詰め作業を茫然と眺めていた。だが、ようやっと状況を呑み込めたらしい。ふいに驚きで目を見開き、おろおろと言った。
「ちちち、地上の?そ、そんなことをしては駄目です。外の世界は危険です!社長が心配しますよ……」
だが、陽気なガラクタたちはトランクの中から口々に言い返した。
「大丈夫だって!ちゃんとバレないようにやるからよ」
「そうだよ、弾丸ブリッツを見たら帰って来るから、心配しないで」
「俺たち、こんなところに黙って閉じ込められたまま終わったりなんかしないんだ!」
やる気満々のガラクタたちの勢いに押され、気弱なハマサキは口をつぐんだ。だが、その眉はやはり不安そうに垂れていた。
まもなく、ガラクタたちはなんとか、いびつなパズルのように長方形の枠の中に収まった。シロはトランクの蓋を下ろし、人形の柔らかい綿が中から反発するのを無理やり押さえつけて、留め金を掛けた。それを包むようにブランケットを被せ、上から素早くロープを巻き付ける。
作戦の下準備が済むと、シロはトランクを立てながら、一部始終を舞台の上から優雅に見物していた楽器たちのほうを振り向いた。
「クリス、アドルフ、ごめんね。連れて行ってあげられなくて」
だが、アドルフは金色の身体をきらめかせ、余裕たっぷりののびやかな声で答えた。
「ははは、構わないよ。どこにも行けなくたって、クリストーナさえ居れば僕は十分だからね」
隣のクリストーナも同調する。
「ええ。わたくしも、ダーリンが居ればそれでいいわ」
そして、ふたりで声を合わせて言った。
「いってらっしゃい、外の世界を楽しんで来てね!」
シロは嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。
「ふたりとも、ありがとう。いってきます!」
そして、重装備をしたトランクをよっこらせと持ち上げると、小走りで地下室の出口に向かって駆けて行った。その背中を、ハマサキは心配そうな表情で見送るほか無かった。
シロは、階段を上がり、地上へ繋がる梯子の下までやって来ると、トランクをその場に置いた。ぐるぐる巻きにしたロープの一端を掴む。トランクを地下に残したまま、片手にロープを握って、梯子を上り始めた。急いで、猿みたいに、するすると上ってゆく。一段上がるたび、シロと井戸の底のトランクとを結び付けるへその緒の弛みが伸びてゆく。やがて頭上に、丸く切り取られた黒い空と、砂糖のような細かい星々が見えた。シロは、井戸から頭の上半分だけを出して、辺りを覗った。
井戸からすぐ傍の洋館の窓からは煌々と明かりが漏れていて、レースのカーテン越しに、机に向かっているらしい社長の姿が見えた。シロは、片手に握っていたロープの端を外に出し、傍にあった大きめの石の下敷きにして固定すると、井戸をまたぎ出た。そして堂々と、背筋を伸ばして、さあ今日はもう家に帰るんだという態度で、庭の出口へ向かって歩いて行く。だが、社長の部屋の窓からは見えないであろう距離まで来たところで、立ち止まり、さっと太い木の幹の陰に隠れた。
幹からわずかだけ顔を出し、息を潜めて、明かりの点いた部屋の様子を覗う。窓の中に浮かぶ社長のシルエットは、ときどき凝りをほぐすように伸びをするが、しばらくその場を離れそうな気配は無い。現代の雑音とは無縁の、町はずれの寂れた屋敷の庭で、冷たい風の揺らす秋の葉のざわめきだけが遠慮がちに響いた。
だがまもなく、遠く正門のほうから、普段はほとんど使われていないであろう呼び鈴の音がきいんと鳴るのが聞こえた。部屋の中の社長のシルエットが立ち上がる。そして、こんな辺境の家にいったいなんの用だとでも言うように頭の後ろを掻きながら、ごみごみした室内を徐行し、明かりを点けたまま、窓枠の外側へと消えて行った。
社長が部屋を出て行ったのをしっかり確認すると、シロは木の陰から飛び出し、石の下に挟んでいたロープを掴んだ。両手で引っ張り手繰り寄せる。ぎりぎり井戸の底まで届く長さのロープは、手繰り始めるとすぐにぴんと張って、シロの腕の筋肉には、片側に繋がれたトランクの重みが伝わった。
シロは、大急ぎで長いロープを手繰った。トランクの中には綿の塊とカメラと紙ぺら一枚しか入っていないとはいえ、地上と地下の大洞窟の高低差による莫大な位置エネルギーを、中学生の発達途中の筋力で補うのはなかなかの重労働だ。秋の夜の空気の爽やかさにもかかわらず、シロの首筋を汗の粒がぼたぼたと垂れ落ちた。
休まず手繰り続けてやっと、ブランケットの毛並みが、井戸の水平線の上に覗いた。井戸の内壁にこすりつけられたブランケットは、もとから汚れていたものの、一層泥にまみれて真っ黒になっていた。シロはトランクを抱え上げると、庭の端まで運び、ロープとブランケットを解いて、茂みの中に隠した。代わりに、そこに用意しておいたリュックサックを背負う。裸になったトランクを掴み、壊れた裏口から外へ飛び出した。
洋館の前の道を、泥棒のように急ぎ足で駆け下りながら、背後からはかすかに、社長が玄関で誰かと揉めている声が聞こえてきた。
「ピザだあ?そんなもの頼んでませんよ」
「いえ、お客様。六時過ぎにこちらに届けてほしいと、確かにご注文いただいたはずなんですが……」
「住所を間違ってるんじゃないですか。うちは頼んでません。どうぞお帰りください」
食べもしないピザを注文したことを申し訳なく思いながらも、シロの心の中は、無事に大脱獄を成功させた興奮と喜びでいっぱいだった!
シロとガラクタたちはもうずっと前から、この日のために、入念に計画を練っていたのだった。
秘密の部屋でガラクタたちに外の世界を見せてやると宣言したシロは、彼らに、皆で地下から出て弾丸ブリッツの再結成記念単独ライブを見に行こうと提案した。外の世界にあるあらゆるものの中で、まさしくそれがシロのいちばん見せたいものだったし、おそらくニコラとテトラがいちばん見たいであろうものだったからだ。DVDを奪われただでさえ漫才に飢えていた双子が、憧れの漫才師の生の舞台を見に行くというこの提案に、喰いつかないはずはない。提案はすぐさま受け入れられた。また、陰鬱な日々に飽き飽きしていたマカとミスター・パパラッチも、躊躇なくこの企みに乗った。すっかり憂鬱のどん底に沈んていたガラクタたちは、シロの提案に希望を見出した。計画を練り始めてから、彼らは以前のいたずらっ子の活発さを取り戻し、見違えるように元気になったのだ!ライブを見に行くには、いくつか解決しなければならない問題があった。まず第一に、この謀略は社長には一切バレないようにしなければならなかった。社長は毎日夕方六時頃に地下に下りて来て、ガラクタたちの様子を確認するので、そのときにはちゃんと行儀よく全員が揃っているところを見せなければならない。確認を終えると、社長は地上に戻って、就寝時間まで屋敷の角の自分の部屋にこもる。あの部屋の窓からは、庭にある井戸とその周辺がよくよく見渡せる。この監視をいかにかいくぐるかが課題だった。六時前に地下を出るわけにはいかないし、社長が監視部屋を離れて寝室に行くまで待っていては、単独ライブに間に合わない。そこで、悪気の無いピザ屋に協力してもらうことにしたのだ。ピザ屋には前もって、六時過ぎにこの洋館に商品を届けに来るよう注文をしておいた。あの部屋から表玄関までは距離があるので、呼び鈴を鳴らしてもらえるだけでも、いい時間稼ぎになる。そして、ライブをたっぷり楽しんで帰って来たら、庭の茂みにでも隠れておいて、社長が寝た後に井戸の中に戻ればいい。次の日の六時頃、社長が再び確認にやって来たときには、何事も無かったかのように全員がちゃんと揃っているところを見せる。これで完全犯罪は成立というわけだ。もうひとつ解決しなければいけないのは、ガラクタたちが堂々と街中を歩けば、たちまち周りの人々にパニックを引き起こしてしまうという問題だったが、これはトランクを移動手段に使うことでなんとかなるだろうという結論に達した。
シロは、大脱獄に成功してまだドキドキしている心臓を落ち着かせようとしながら、トランクの取っ手をしっかり握り締め、通りを急ぎ足で歩いた。田舎道を抜け、住宅地を抜け、馴染みの駅の改札を通り、プラットホームに立つ。弾丸ブリッツが今夜単独ライブを行う白雲三糖劇場は、シロの住む町から特急で三駅離れた、市の中心部にあった。
この時間の中心部行きの電車内はすいていたので、巨大なトランクを提げていてもさして迷惑にはならなかった。ただ、これでもかというほどステッカーをべたべた貼った派手なトランクは、変人の趣味である原色の装いとあいまって、少々異様な光景を作り出し、周囲の客の目を引いたが。派手な脱獄犯の速い鼓動に合わせるかのように、車両は猛スピードで進んで、目的の駅まではあっという間だった。
改札を出るとそこには、シロの住む平凡な住宅地とは真反対の、都会の景色が広がっていた。星の無い真っ黒な空の下には、丸いビルや四角いビルがにょきにょきと立ち並び、その手前には三車線のまっすぐな道路が左右に伸びて、ヘッドライトを点けた自動車の大群が、獰猛にいななきながらすれちがう。一方、人間たちは、ベルトコンベヤーに載せられたハムのように、むっつりと静かに歩道を行き交う。彼らは、ひとりで立っていれば主人公になれたはずだが、ここではほとんど背景でしかなかった。鈍い色で構成されるその背景のところどころに、ピンク、黄、赤、青といった、色とりどりのネオンがちりばめられて、似非の星空をコンクリートの上に描いていた。この街は、人間の発展の力をもって天地逆転を目論んでいるのだと思わずにはいられない。
劇場までの地図は、シロの頭にしっかりインプットされていた。駅前の人通りの多い歩道を、馬鹿でかいトランクを提げながらも、器用にぬるぬると駆け抜ける。しばらく進むと、目印として覚えておいた、百貨店の看板が前方に見えた。地球を模したキャラクターが何かを抱きしめるように両手を交差させている、その店の平和的なロゴマークが、実に印象的で覚えやすいのだった。百貨店を角にして、三車線の道路が交わる巨大な交差点があった。シロは、車がびゅんびゅん行き交うその交差点の前でいったん立ち止まった。そわそわ身体を揺らしながら、道路の向こうの歩行者信号を見つめる。信号が青に変わるやいなや、幅の広い横断歩道を、両脇から睨みを利かせるせっかちな車のエンジン音に脅されながら、せかせかと渡った。そして、細い道に入ってしばらく進んだところで、それはふいに目の前に現れた!
壁の白い、ずんぐりむっくりの二階建てビル丸々一件が、白雲三糖劇場だった。
その劇場は、なぜだか唐突に現れたような印象を抱かせた。周りに無機質な灰色のビルが多い中に、歓迎の幕だとかのぼりだとかの、明らかにここは娯楽の場所であるという装いをしてぽつんと建っているからかもしれない。シロは、エントランス前の、本日の催し物の立て看板に目をやった。そこにははっきりと書いてあった、"本日の公演・弾丸ブリッツ奇跡の再結成記念単独ライブ"と!それを見て、心臓が高鳴るのと同時に、今日は間違いなく弾丸ブリッツの単独ライブが行われるんだなと、安堵した。だって、あんまり楽しみな予定が控えていると、誤って日付を一日ずらしちゃったんじゃないかとか、実はすべて自分の妄想だったんじゃないかとか、そんなありえない不安に駆られてしまうものだろう?
劇場の中に足を踏み入れると、広いロビーはもうまもなくの開場を待つ人でごった返していた。お喋りの声ががやがやとぶつかり合って作る雑音は、もはや中身を聞き取れるものではなかったが、皆一様に、これから目にする奇跡への期待のために、自然な笑顔をこぼしていることから、とにかくその空間が陽の気分で満たされていることだけはわかった。ここに居る人たちは皆弾丸ブリッツを見に来たのだ、私たちの仲間なのだ、そう思うとシロは嬉しくなったが、悠長にしている暇は無い。人々の隙を縫うように、ロビーの端の御手洗いまで通り抜け、男用と女用のあいだにある、身体障碍者用の個室の中にぬるりと滑り込んだ。
シロは、扉に鍵を掛けると、洋式便器の上にトランクを置いた。ぱちんぱちんと素早く留め金を上げる。
「ぷはあっ!」
蓋が弾かれたように開いて、中から、焼き上がったパウンドケーキみたいに、ガラクタたちが勢いよく飛び出した。
「窮屈過ぎて死ぬかと思ったぜ」
「なんだかくらくらするであります」
「ねえ、オイラのレンズ割れてないよね?」
長い監禁からようやっと解放された荷物たちは、外に出た途端、口々にそう感想を述べた。気のせいか、皆少し痩せたみたいだ。
「おい、なんだか騒がしいぜ」
テトラが、脛に溜まった綿を膝のほうに押し戻しながら、外から流れ込んでくる客たちのお喋りの雑音を耳にして言った。その顔は、興奮できらめいていた。たくさんの声が衝突し合って意味を成さなくなるなんて現象は、静かな地下暮らしの彼にとっては初めてのことだったからだ。他のガラクタたちも、「ほんとだ」「ほんとだ」とつぶやいて、普通の感覚なら騒がしいだけの雑音に、聴き惚れた。
ガラクタたちが感慨にふけるのをよそに、シロはちゃきちゃきと次の作業に取り掛かっていた。リュックサックを下ろし、中から手際よく二着のトレンチコートを引っ張り出す。さらに、底から肌色のぶよぶよした塊をふたつ取り出した。
「ニコラ、テトラ。さあ、これを被って!」
双子は言われるままに、押し付けられた肌色の塊を頭からすっぽり被った。すると、一瞬のうちに、都会の真ん中の先進的なトイレに、ふたりの禿げた野蛮な山賊が現れた!目玉のぎょろぎょろしたふたつの同じ顔を見て、ミスター・パパラッチが、思わずくくくと笑いを漏らす。だが当の山賊たちは、自分たちがいったいどんな顔をしているのかも知らずに、目玉をぎょろぎょろさせながら、続いて渡されたトレンチコートに腕を通し始めた。忍ぶように、ボタンをすべて留め、襟を高く立てる。
やぶれかぶれな感じがしなくもないが、一応変装が完了した。シロは、ポラロイドカメラのストラップに頭を通して首から提げ、丸めたポスターとトランクを脇に抱えた。そっと扉の鍵を外し、細く隙間を空けて、外の様子を覗う。もう開場時間を迎えたらしい。ロビーいっぱいの人の波が、一定の方向にゆっくりと進んでいた。
「マカ、パパラッチ、じっとしててね。ニコラ、テトラ、あなたたちは、私の後ろにぴったり着いて来て」
作戦隊長はするりと個室の外に出た。山賊になったニコラとテトラも、よたよたとその後に続く。
大荷物を抱えた女子中学生と、顔も服装もそっくりな禿げおやじふたりがトイレの個室から列を成して出て来るさまは、異様という次元を超えていた。だが幸い、目前に迫った楽しい時間に対する期待で頭がいっぱいの客たちは皆、その異様な光景には気づかなかったようだ。じりじりと進む列の中で、チケットを握り締め、もぎりのところまで辿り着くのを、今か今かと待っている。
「す、すげえ、ににに人間だらけだ」
「右を見ても左を見ても、人間だ」
興奮した双子のささやく声が、前を歩くシロの耳に入った。
「しーっ。変なこと言っちゃ駄目。あなたたちは今、綿の塊じゃなくて、肉の塊なんだから」
シロは、小声でいさめた。双子は静かになった。だがそれでも、感動を抑えきれていないことは、背後から伝わるそわそわとした気配でよくわかった。マカとミスター・パパラッチもまた、押し黙ってただのガラクタのふりをしながら、今まで一度も見たことのなかった景色を目にして、小刻みに震えていた。
荷物の多い中学生とふたりの山賊は、列の最後尾に並んだ。会場の扉の前まで行き着くと、シロはもぎりのお姉さんにチケットを手渡した。無表情のお姉さんは、相手の顔を見もせずに、機械的な動作でチケットをちぎり半券を返す。後ろに続く異様なおやじふたりも、シロを真似てチケットを差し出した。お姉さんは、異様なおやじふたりにも、機械的に半券を返した。まったく怪しまれることなく、異様なおやじふたりは会場の中に足を踏み入れることができた。
ニコラとシロとテトラは、最後列の座席に並んで座った。そこからは、急坂になった客席全体が一望できた。もうまもなく開演という中、三百近くあるであろう客席はほとんど満杯で、赤いマス目の上を黒い球体が所狭しと、待ち遠しさに揺れている。球体たちの甲高いお喋りは、うっすらと流れる軽快なBGMと混じり合って、天井の高い会場内にざわざわと響いていた。
シロは、トランクを座席の後ろに置き、カメラとポスターを膝の上に隠しながら、警戒するように辺りを見回した。すると、壁際の通路で、おそらくこの劇場の支配人であろう、スーツを着た恰幅のいい男性が、成金が付けそうなごつい時計をはめた腕を組んで、立っているのが目に入った。自分の劇場の客席が満杯になっているのを眺め、満足げに頷いている。シロもなんだか嬉しくなって、思わず男性に答えるように頷いた後、自分はいったい何をしているんだろうとひとり笑ってしまった。こちらを見ている人は誰も居ないようなので、安心して、マカとミスター・パパラッチの身体をそっと抱え上げ、舞台が見えるようにしてやった。
「わあぁ!人間がいっぱい……弾丸ブリッツの漫才を観たい人が、こんなにたくさん居るのでありますね」
マカが感激したようにつぶやく。
「ねえ、ねえ、シロ、弾丸ブリッツはいつ出て来るの?」
ミスター・パパラッチも息を弾ませて尋ねた。
シロは、自分自身胸の高鳴るのを感じながら、幼いふたりを優しく抱き寄せてささやいた。
「もうすぐ始まるよ。あの幕が上がったら……」
両脇のニコラとテトラは、待ち受けるもののあまりに偉大なために、興奮を通り越して、緊張していた。座席の上でぴんと背筋を伸ばし、固まっている。
「……なあ、テトラ、信じられるか?俺たち、今から本物の弾丸ブリッツを見られるんだ。今、俺の胸の中には、むかついたり、悲しかったり、そういう嫌なのが微塵も無いよ。ただただ、幸せで真っ白いような気持ちなんだ」
「ああ、ニコラ、俺もまったく同じ気持ちだ。馬鹿みたいな感激屋で居ることが、今ならちっとも恥ずかしくないぜ。だって、感激するのは、世の中にそれだけ素晴らしい瞬間があるせいだもの。なあ、うまく言えないけど、俺、生きるってこういう瞬間のためにあるんだと思う」
「まったくその通りだ。ああ、生きててよかったなあ!」
マスクの下から漏れ出る小声で、そんな会話を交わした。
ふいに、会場内が暗くなり、うっすら流れていたBGMがボリュームを増した。テンポの速い音楽が、客席のざわめきを飲み込む。
「……来た!」
シロが、ささやいた。
舞台を隠していた幕が、ゆっくりと上がり始めた。房飾りのついた裾の下から、マイクスタンドの細い足が覗く。まばゆい光が、漏れ出してゆく。やがて、舞台の全貌が明らかになった。
その景色の、実に壮観なこと!暗い会場内で黄金に輝く舞台。そのだだっ広い舞台の真ん中にぽつんと立つ、センターマイク。その特徴的な四角い形は、まさに漫才師のためのものであった。今から行われることは、コンサートとも、演劇とも違う。ぽっかり空いた舞台の真ん中で、今からたったふたりと一本で、新しい世界をゼロからそこに作り出すのだ!そういう予感が、この簡素な景色に凝縮されていた。
そして、ついに……
「はい!」
「どー!」
「もー!」
「弾丸!ブリッツ!でえええええええええす!」
割れんばかりの拍手と歓声で、客席が爆発した。黄金の舞台の真ん中に、こちらまで飛んで来そうなくらいの勢いで、弾丸みたいに、かつての天才漫才師が躍り出たのだ!
「弾・丸・バキューン!」
彼らの容貌は、十代の頃の若々しい姿からはもちろんすっかり変わっていた。三十年前細い身体にダボつかせて着ていた黄緑色のスーツは、五十絡みの男の肉付きのために苦しそうに張っていたし、ふさふさだった頭は、ずいぶん涼しげになっていた。だが、不思議なことに、その乱暴なまでの勢いと、子どもみたいなやんちゃで不敵な笑みは、シロたちがテレビ画面を通して見た弾丸ブリッツと、ほとんど違いなく重なった。
「どーもー、俺たち、弾丸ブリッツっつう物騒な名前でやらしてもらってます」
「三十年ぶりに漫才やります!」
「いやー不安でしたよ。三十年ぶりじゃあ誰もお客さん来ないんじゃないかって」
「でも、満員ですね。まさか、三十年ずっと応援してくれてたんすか?」
「えっ?三十年も、他にハマれること無かったの?悲しい人生だなー!」
そして、淀みない喋りもまた、健在だった。
客席はどっと笑った。他の客たちも、シロたち同様、今目の前で喋っている漫才師とかつての弾丸ブリッツとの重なりを感じたようだった。漫才そのものに対する愉快さと、奇跡的な復活というこの状況に対する感動とが混じり合い、ドラマチックな笑いとなって会場を揺らした。
シロは、予想されていた未来の中に居ながら、まったく意外なことが起こったかのように呆気に取られて、笑っているみたいに口が開いていたけれども、声を出すことはできなかった。舞台上で動くふたりに釘付けになり、心の喜びが、身体に追い付かずに、まだ行くあてがわからないで、内側で弾けていたのだ。両脇のニコラとテトラもまた、口をぽかんと開けて、静かに座っていた。しかし、彼らもこの状況に確かに感動し、感動のあまり、それをどう表現してよいのかわからないのだった。とにかく、非常に肯定的な感情が彼らを捉えていることだけは、確実だった。
「俺たち、三十年前に解散しちゃいましてねー」
「めちゃくちゃ惜しまれつつ解散したんですよ」
「おいおい、自分で言うなよ」
「当時の俺たち、めちゃくちゃ尖ってたんです。だから、大御所芸人の悪口言いまくったんです!舞台でもテレビでも。あいつら、歳取っておもしろくなくなったって!」
「そうそう。そしたら、ぜんっぜん仕事来なくなったんですよ。仕事無さすぎて、解散しちゃいました」
「でも、三十年経って戻って来ました。なんでって、その頃の大御所芸人、今じゃほとんど死んだんで!」
そう言って、弾丸ブリッツは自分たちで、悪童のような笑い声をあげた。客たちも呼応するようにあははと笑う。
客席は、復活に対する感動のモードが徐々に収まり、代わりに、純粋に漫才を楽しむお笑い好きのモードに移行しつつあった。シロもまた、だんだん脊髄と顔面の筋肉との交信を取り戻して、はは、ははと笑い出した。腕の中で、マカとミスター・パパラッチがくくくと震える。両脇でふっふっふっと揺れている双子の肩が、視界の端に映った。
「解散しちゃいましたけど、俺たちは全然後悔してません」
「大好きだった世界から追い出されちゃったけど、後悔してません」
「だって、他人の顔色を覗って、やりたい漫才をやれないんなら、芸人なんてやってたって楽しくねえ!」
「あいつらは芸人のくせして、いじられたからって、裏でこそこそ圧力かけて、まだぺーぺーの若手の仕事を奪う奴らなんです。そんな奴らの悪口を言って、何が悪いんですか?」
「そうだそうだ。あいつらはぬるま湯に浸かって、舞台の上で正々堂々戦うことを忘れたんです。だから俺たちは、あいつらに、本当の芸人に戻ってもらうために熱湯をかけたんです」
「俺たちは、自分たちのやったことが間違いだったとは思ってません。この三十年、一度も後悔なんてしなかった!」
「そうだ!後悔なんてしなかった!この三十年、毎日当時の賞レースの優勝トロフィーを抱えて寝ながら、元気に生きてました」
「いや、未練たらたらじゃねえか。どこか後悔してません、だよ!」
周囲の目を引いてはいけないと、笑いを抑えぎみにしていた双子も、とうとうぶっと吹き出した。苦しそうに、身体をよじる。
客席の盛り上がりに合わせるように、弾丸ブリッツのふたりも勢いを増していった。
「俺たちは、これでいいんです。だって、俺たちはイカレポンチなんです。芸人はそうじゃなきゃいけないんです」
「そうだ!芸人は"まとも"になんかなっちゃいけねえ。"まとも"な奴ほどつまらない奴は居ませんからね!」
「見てください、世間のまともな連中を。あいつらは、絶望的に笑いのセンスが無いんです。自分じゃあ、まったくおもしろいことを生み出せないんです。だから、金で買える物を金で買って満足するような、そんなありきたりのことにしか楽しみを見出せないんです!だけど、俺たち芸人が他人と同じことをやっちゃあ、おしまいだ!」
「おしまいだ、おしまいだ!あいつらは、芸人のくせに、歳を取って〝まとも〟になっちまったんだ。偉そうな連中とつるんで、自分が偉くなったみたいに勘違いして、人を見下して、それで気持ち良くなってやがるんだ。そういうつまらない奴らを笑ってやるのが、俺たちの仕事だっていうのに!」
客席から大きな拍手が巻き起こった。
「大御所だろうが、どっかの国王だろうが、俺たちにとっちゃ同じだ!ネタの材料だ!仮面をひっぺがして、おまえらがどっぷり浸かってるつまんねえ風呂とは違って、この世の中は、本当はもっとおもしろいんだってことを思い出させてやる!だって、俺たちは"まとも"じゃねえんだから!」
シロは笑っていた。だが、弾丸ブリッツの熱い言葉を聞くうちに、幸福で細められた目の端からぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
自分が傷つき、悩んでいたことがいかに馬鹿らしいことだったかに気づかされたからである。
どうして、自分が"まとも"でなけりゃいけないなんて思っていたんだろう!おまえは"まとも"でないと言われたからって、何を気にする必要があったのだろう!真理恵たちのような連中が"まとも"の見本であるというならば、まともだなんてたいそうつまらないではないか。彼女らには笑いのセンスが無い。だから、劣等者を見下して悦に入るような、古典的快楽しかすがるものが無いのだ。彼女たちは、自分で生み出す新しいおもしろさというものを知らないのだ。弾丸ブリッツは、弱っていた魂に、本当に素晴らしいものは何なのかを気づかせてくれた!
シロは泣きながら笑っていた。
弾丸ブリッツは、とめどなく喋り続けた。過去の話から、今の話、そして未来の話へ、際限なく。そのすべてが、劇的な歴史と、変人を勇気づける真実とを秘めながらも、軽々しく馬鹿々々しいボケとツッコミと結び付いて、決して説教じみたダサい真面目さを感じさせることはないのだった。
双子は今や手を叩いて笑っていたし、マカとミスター・パパラッチも、もうこの愉快さのエネルギーを発散し切れないというように身をよじっていた。周囲の人間に気づかれる心配は無かった。なぜって、皆の目は舞台上で小刻みに動く弾丸ブリッツのふたりに釘付けだったし、シロたちがいくら大声をあげて笑ったところで、会場全体を揺らすような爆笑の渦にすぐ埋もれてしまうからだった。
だが、弾丸ブリッツが休む間もなく喋り続け、客がそれに呼応して笑いを返し、長尺漫才が絶頂に差し掛かった頃、シロは、ミスター・パパラッチの様子がおかしいのに気づいた。腕の中で、壊れる寸前の機械みたいにガチガチと震えている。
「パパラッチ、どうしたの?大丈夫?」
シロは、前かがみになってカメラの背面に顔を近づけ、小声で呼びかけた。
しかし、パパラッチは舞台のほうを向いたまま、振り返ろうとしなかった。プラスチックの継ぎ目から漏れるように、言葉がこぼれ出る。
「おおお、オイラ、ももも、もう駄目だ。可笑しくて、可笑しくてたまらない」
「え?何が駄目って?」
聴覚を奪う笑い声の爆発が四方八方で起こる中、さらに顔を寄せて問い返す。
「おもしろすぎるよ。もう我慢できない、ぶ、ぶ、ぶは、ぶは……」
そして次の瞬間、ポラロイドカメラは弾かれたように飛び上がった。
「ぶはははははははははははははは!!」
バシャリ!
まばゆいフラッシュが、会場内に閃いた。




