第十話
秘密の扉の向こうには、木目の壁と床に囲まれた幅一メートルほどの廊下が続いていた。電灯は無かったが、後ろの大部屋から差し込む光でわずかにその様子がわかったのだ。だが、しんがりのテトラが戸口をくぐり、背後で扉がばたんと閉まると、完全な暗闇になった。
「ままま、真っ暗だよ。なんにも見えない」
ミスター・パパラッチの怯えた声が、闇の中に響いた。
「落ち着いて、道が狭いから手探りで進めるよ」
シロがなだめる。そして、壁に手を当てて慎重に歩き出した。
「みんな、躓かないように気をつけてね……ひゃっ!」
「ど、どうしたシロ?大丈夫か?」
シロの甲高い悲鳴を聞いて、どこかに居るニコラが慌てたように声をかけた。
「……いや、大丈夫。頭の上に水が落ちて来ただけ。こんなところまで雨漏りしてるみたい……」
自分に似つかわしくない可憐な悲鳴をあげてしまったことに照れ笑いしながら、答える。
「なあんだ」
ニコラが、拍子抜けしたように漏らした。姿は見えないが、おそらく、心配させやがってという不満げな表情をしているであろうことが想像できた。
「いったい、この道はどこに通じているのでありましょうか?」
「奥にお宝が隠してあるのかなあ」
「わからない、とにかく進んでみよう」
探検隊は、暗闇の中を一列になって進んだ。光から切り離された世界で、こんこんと響くお互いの足音だけが寂しさを紛らわす。黒い空気は氷のように冷たかった。
十メートルも行かないうちに、シロは立ち止まった。
手を添え案内にしていた壁が途切れ、頬に当たる空気の流れがわずかに変わったのだ。どうやら、開けた空間に出たらしい。
「待って」
シロは呼びかけたが、ガラクタたちは止まり切れずにどん、どん、どんと前を行く者にぶつかった。
「おい、急に止まるなよ!」
ニコラの文句が闇の中を飛ぶ。
「ごめんごめん、壁が途切れたの」
「進まないのか?」
最後尾からテトラが尋ねた。
「ううん、どうしよう」
シロはその場で腕を組み、考え込んだ。下手に進んで迷子になってはいけないし、進んだとて、いつまでたってもこの暗闇では、宝探しもままならない。ガラクタたちは、探検隊長が何かを思いつくのを、黙って待った。
ふいに、シロは声をあげた。
「パパラッチ!どこに居る?」
「オイラならここだよ」
子どもっぽい声が、ちょうどシロの足元から答えた。
シロはかがんで両手を伸ばし、ミスター・パパラッチを探した。まもなく指先が冷たいプラスチックの表面に触れた。そのまま腕を回し、パパラッチの身体を抱え上げる。
立ち上がり、ミスター・パパラッチのレンズを前方に向けて構え、シャッターを切った。
バシャリ。
フラッシュが、一瞬闇の世界を消し去った。
しばらく色彩と戯れていなかった視界を急にまばゆい光で満たしたので、目が眩んでしっかり見えなかったが、どうやら前方に四角くこじんまりした部屋が広がっているらしいことは確認できた。奥行はせいぜい五メートル程度だろう。天井から電灯のようなものがぶら下がっているのも捉えたような気がした。
「行き止まりっぽかったぜ」
「あまりよく見えなかったであります」
「もう一度やってみたらどうだ?」
ガラクタたちが後ろから口々に言い立てた。
シロはパパラッチを構えて、今度は別の方向に向けてシャッターを切った。
再び、閃光が闇の支配を下す。
「あ!今、壁にスイッチみたいなのがあったよ」
光が退き、革命の余韻で闇がまだ少し緑がかっている中、シロが叫んだ。
探検隊長は、廊下から直角に折れている壁に手を当て、スイッチらしきものの見えたところまでずりずりと伸ばした。指先が突起物を捉える。風化のためにざらざらとしたその表面を押すと、程良く反発しながら奥に引っ込んだ。
ぱちんと電気回路の繋がる音がしたかと思うと、一光年ぶりに仕事に呼び出された天井の電灯が驚いたように二、三回明滅した後、ようやっと現役の勘を取り戻して部屋全体をほの明るく照らし出した。その橙色の暖かい光は、ポラロイドカメラの刺激的なフラッシュよりはずいぶん目に優しかった。
シロとガラクタたちは戸口に立って、部屋の中を見回した。最初に目に入ったのは、奥の壁にくっつけるようにして置かれた机と、泥棒が入った後みたいにばらばらと床の上に散らばっている長方形の紙切れだった。その紙は茶ばんで、それらの隙間から見える古いフローリングとほとんど同化しかけている。横を見ると、壁際にレンガ造りの大きな暖炉があった。もう何年も使われていないらしく、煤で汚れた空っぽな口を退屈そうに開けている。机と暖炉以外に家具は見当たらず、極めてシンプルな、狭い部屋だった。
「なんだあ、この紙?」
ニコラが床の上の紙の群れを不思議そうに眺めてつぶやく。
「こんなところに、お宝なんてあるのかなあ?」
ミスター・パパラッチが、シロの腕の中に抱かれたまま言った。
そのとき、テトラが何かに気づいたように奥の机を指差した。
「おや、机の上に何か乗ってるぜ」
「ほんとうだ」
一同は、罠に警戒でもするみたいに抜き足差し足で机に近づいた。なるべく紙切れを踏まないように歩いたが、なんせ大量に散らばっているので、それは無理な相談だ。静まり返った室内に、劣化した紙を踏む柔らかい音がかすかに響く。薄く積もっていた砂埃が舞い、鼻がむずむずした。
シロとガラクタたちは机の周りに並んだ。狭い天板に乗っていたのは、一冊の分厚い本だった。一目見てずいぶん昔のものであることがわかるその本は、中のページがかなり抜け落ちてしまっているらしく、汚れた茶色い表紙が小口側に傾いていた。
「こりゃあなんだ?椅子か?」
長らく人間の文化から断絶されていたために、本という存在を知らないニコラが尋ねる。
「これは本だよ。床に散らばってる紙、この本から落ちたのかもしれないね……」
シロは、名探偵よろしくあごに手を添えながら答えた。
「あ、端っこに文字みたいなのが書いてあるよ。シロ、読んでみてよ」
シロの肩に乗って、本の表紙を覗き込んでいたミスター・パパラッチが言った。
確かに、古びたハードカバーの右端に、黒いインクで何か書き込まれているようだった。だが、表紙を覆う分厚い砂埃がモザイクをかけていて、いまいち判別できない。シロは手を伸ばし、指で埃を拭おうとした。
そのとき。
「ウォワッ、フォォォォォォォォォオン!」
本が飛び上がり、"くしゃみ"をした!
開いた口からページが一枚ちぎれて飛び出し、まともにシロの顔面に張り付く。
「ぎゃああああああっ!」
動かないはずの物体の突然の躍動に、探検隊一同はびっくり仰天して悲鳴をあげ、弾かれたピンポン球みたいに一斉に後ろに飛び退いた。
無意識のうちにお互いの身体の一部を掴み合って、戸口に固まる。シロの顔に張り付いたページが、荒い呼吸に押されて二、三度はためいた後、はらりと落ちた。露わになったその表情は、驚きのあまり真っ青になっていた。
シロとガラクタたちは身を寄せ合い、震えながら、元の位置に着地した本を見つめた。激しい動きに舞い上げられた砂埃がもうもうと立ち込める中、本は何事も無かったかのように静かに机の上に横たわっている。だがふいに、人間の年寄りがくしゃみの後よくやるように、ぶるぶるっと四角い胴体を揺すった。そして、小口をわずかに開けて、ゆっくりと喋り出した。
「……おや、来てたのかね、龍一……すまんすまん、ぼうっとしとった」
その声はしわがれ、おぼつかなかった。
シロとガラクタたちは目を丸くして顔を見合わせた。しばらく黙ってその場に立ち尽くしていたが、そうしているうちに、舞っていた砂埃が徐々に落ち着いてきて、視界が晴れてきた。同時に、一時は跳ね上がって口から飛び出しかけたシロの心臓の鼓動も、元のリズムに戻って行った。
ガラクタたちも、まもなく抜けた腰を取り戻したようだ。探検隊は互いに目配せをして、無言の合図を送った。足を踏み出し、そろりそろりと机に近づく。
シロたちが机の周りに集まり、見下ろすと、本はまた小口をゆっくりと開いた。
「久しぶりじゃなあ、龍一。会えて嬉しいよ……」
その口調は緩慢で、疲れていて、表紙を一ミリ持ち上げるのも骨が折れるといった調子だった。
シロの隣に居たニコラが、物珍しそうに本を見やったまま、そっと耳打ちした。
「びっくりだなあ、俺たち以外にまだ、ガラクタが居たなんて」
シロは、虫食いだらけの本に顔を近づけて、申し訳なさそうに言った。
「あの……ごめんなさい、本のおじいさん。私たち、龍一さんじゃないの。私はシロ」
そして身体をずらし、仲間たちを手で指し示す。
「こっちは、ニコラとテトラとマカと、ミスター・パパラッチ」
本は何も答えなかった。瞳にあたるパーツがどこにも無いその外見からは、こちらの姿がちゃんと見えているのか判断しかねた。待っているほうがむずがゆく感じるくらい時間をかけてから、そっとつぶやく。
「そうかあ、龍一じゃないのかあ」
話している相手が誰かなんてどうでもいいかのような、間の抜けた返事だった。
シロは、未知の相手の様子を慎重に覗いながら話しかけた。
「私たち、秘密の扉を通ってこの部屋までやって来たの。うるさくしてごめんね。こんなところにガラクタが居るなんて思ってなかったから、びっくりしちゃって。おじいさんは、いつからここに居るの?」
本はまたむずがゆい間を空けてから答えた。
「……ううん、覚えとらん。ずうっと前からじゃなあ」
「そうなの。そんなに前からここに居て、いったい何をしているの?」
「別に、何もしとらんよ。ただ寝てるだけさ」
「さっき言ってた、龍一ってだあれ?」
「さあ、わからん」
それを聞いて、ガラクタたちは一斉にズッコケた。
「なんでわからねえんだよ、じいさん。自分で言ったんだぜ」
テトラが呆れぎみにツッコむ。
辛抱強いシロは、子どもに呼びかけるみたいに優しく尋ねた。
「じゃあ、おじいさん、あなたはいったいだあれ?なんていう名前なの?」
「さあ、忘れた」
ガラクタたちはまたまたズッコケた。
「おじいさん、自分の名前を忘れちゃったんでありますか?」
犬の眉間にしわを寄せながら、マカが信じられないというふうに首を振る。
「そうじゃなあ、忘れちまった。確か、どこかに書いてあったと思うんじゃけど……」
シロは、表紙の右端に目をやった。砂埃が払われて、先ほどは見えなかった文字が露わになっている。インクが削れて読みにくかったが、目を凝らせばなんとか判別できそうだった。
「ウ、ウ、ウチ、ウチー……、あ、ウチーチェル、だって。おじいさんの名前、ウチーチェルじゃない?」
削れた文字を指でなぞりながら、シロが言う。
ウチーチェルは、しばらく黙り込んだ後、気の無い声でささやいた。
「ううん、確かに、そんな名前だったかもしれんなあ」
自分の名前すらどうでもいいらしかった。
老本のゆったりしたペースに、さっきからいらだちを募らせていたニコラが、もう我慢ならないというように地団駄を踏んだ。
「ああもう、鬱陶しい!このじいさん、駄目だよ。自分の名前すら覚えちゃいない。話してたら、イライラするぜ」
「まあまあ、ニコラ、落ち着いて」
優しい変人がなだめる。
「このおじいさんが、お宝の在りかを教えてくれるかもしれないよ」
呑気なポラロイドカメラも呑気に応戦した。
だが、ニコラは不機嫌そうに言い返した。
「こんなところに宝なんてあるかよ!なーんにも覚えちゃいない、もうろくじいさんが寝てるだけだ。話すだけ時間の無駄だよ。まったく散々歩いて来て、見つけたのがこれって……あーあ、やんなった。俺はもう帰るよ」
そう言って、ぷいと身を翻した。肩をいからせて、ずんずんと戸口のほうへ歩いて行く。残された者たちはかけるべき言葉がわからずに、ただその背中を見つめるしかなかった。
そのとき、皆の後ろでウチーチェルがぼそっとつぶやいた。
「……すまんなあ、何も教えてやれんで。これでも昔は、物知りだったんじゃけど。なんせ、わしらみたいに"宿らせの灰"によって命を得た者は、身体を失うと記憶も失ってしまうから……」
戸口へ向かっていたニコラの後ろ姿が、ぴたりと止まった。そして、スローモーションのように、ゆっくりと振り返る。その両目は、ふいに耳にした非常に興味深い言葉のために、大きく見開かれていた。同時にシロたちも、虚を突かれたような顔をウチーチェルのほうに向ける。
ニコラは、来た道をずんずんと戻って来た。食らいつくように本の上にかがみこみ、尋ねる。
「じいさん、今なんて言った?」
ウチーチェルは、ページのあいだから息苦しそうに埃を吐き出しながら、答えた。
「わしらみたいに"宿らせの灰"に命を与えられたガラクタは、身体の一部を失うと記憶も失ってしまう、そう言ったんじゃよ」
それを聞くとニコラは、口をぽかんと開けて隣に居たテトラを見上げた。双子の片割れもまた、呆気に取られたような顔で見返している。
「今の聞いたか?」
「ああ」
「ヤドラセノナントカって」
「ああ」
「……"命を与えられた"って!」
「ああ!」
以心伝心でそうささやき合う。
「俺たちが今こうして生きて動いてるのは」
「そのヤドラセノナントカってやつの力なのか……?」
シロもマカもミスター・パパラッチもまた、唖然としていた。だって、愉快なガラクタたちがいったいどうやって生まれて来たのか、今の今までまったくわからなかった謎の答えの一端が、思わぬところで顔を覗かせたのである!洞窟の奥の奥でずっと人知れず眠っていた本の、傷んだページのあいだにそれは挟まっていたのである。
テトラは慌てて床に膝を突き、老本に顔を近づけて、興奮ぎみに尋ねた。
「おい、じいさん。そのヤドラセノナントカについて、もっと詳しく教えてくれよ」
他のガラクタたちも、うんうんと頷いて、促した。
だが、ウチーチェルは黙りこくったまま答えようとしない。
「まさか、それも忘れちゃったの?」
床に散らばった本のページにちらと目をやってから、シロが不安げに尋ねた。その不安は、他の皆も同様に抱いていたものであった。
ウチーチェルは、ゆっくりと口を開いた。
「……いや、覚えておるよ。そこのページはまだ、欠けておらんからなあ」
シロとガラクタたちは一斉に安堵のため息をついた。どうやら、答えようとしなかったのではなく、この老本にとってはこれが自然な反応速度なのだということらしい。
「きみたちは、宿らせの灰について何も知らんのかね?」
シロたちは黙ってこくりと頷いた。
「そうか……」
遠くを見るように、そうつぶやく。
聴衆は、年老いた本が続きを喋り出すのを、じりじりと待った。天井から一粒雨のしずくが落ちて、紙だらけの床をぴちょんと打つ。
やがてウチーチェルは、昔話をするような、落ち着いた低いトーンで話し始めた。
「……わしらガラクタは、何もしなければ、ただのガラクタじゃ。喜ぶこともないし、悲しむこともない。なんの感情も無く、人間に使われる道具でしかない。しかし、その身に誰かが宿らせの灰をふりかけると、ガラクタは心を持つ。生きて、喋り、動き、何かを愛するようになる。宿らせの灰というのは、命無きものに命を与える、特別な力を持った灰なのじゃ。そうして一度命を与えられたガラクタは、永遠に生き続ける。どれだけ時間が経っても、ガラクタが死ぬことはない……ただひとつ、火にくべられたときを除いて」
ウチーチェルの話を聞くと、ガラクタたちは顔を寄せて、興奮ぎみにひそひそとささやき合った。
「我々は、その灰によって命を得たんでありますね」
「いったい誰がオイラたちにその灰をかけてくれたんだろう」
「そんなの、社長に決まってるだろ?社長が俺たちを作ったって言ってたじゃんか。作ったっていうのはきっと、灰をかけたってことだよ」
「そうだ。社長は俺たちの親だもの。社長が俺たちに命を与えたんだ」
自分たちの生誕の謎の解明に、ガラクタたちは沸き立った。ひそひその会合の上に、知恵の電球が閃いた。
マカが会合から顔を出して、おずおずとウチーチェルに尋ねた。
「その……もし火にくべられたら、我々はどうなってしまうでありますか?死ぬっていうのはどういうことでありますか?」
世間知らずのポスターの質問に、老いた本は穏やかに答えた。
「死ぬというのは、すべて無くなってしまうということじゃ。記憶も、心も……すっかり生きることを始める前に戻ってしまうということじゃ」
それを聞いて、マカは恐ろしそうに身震いした。ミスター・パパラッチが、怯えたようにシロに抱きつく。
ウチーチェルは続けた。
「しかし、たとえわしらが燃やされたとしても、灰だけは後に残る。別のガラクタがその灰を浴びれば、再び命を宿らせる。記憶も違えば、性格も違う、まったく別の存在じゃ。だが、こうして宿らせの灰の持つ力は永遠に消えることなく、循環していく。新しく命を与えられたガラクタは、死んだ者の犠牲の上に、その感情と身体の自由を謳歌するのじゃ」
パパラッチはシロの腕の中で震えながら、小声でつぶやいた。
「ひええ、燃やされないように気をつけなきゃ……」
「社長に貰った命、大切にしなくちゃいけませんね」
マカも、教訓を垂れるような渋い表情を作りながら、犬の頭を折って頷く。
ニコラは、ウチーチェルの説明にすっかり満足したらしく、かがめていた腰を伸ばして、充実した笑みをシロのほうに向けた。
「始めはとんでもねえもうろくじいさんだと思ったけど……ここまで歩いて来たのも、無駄じゃあなかったな。これで、俺たちがどうやって生まれたのかわかったぜ」
テトラも立ち上がる。
「ああ。俺たちは、社長が宿らせの灰をかけてくれたおかげで、今こうやって生きることができてるんだ。しっかし、灰のおかげで生きてるなんて、ちょっとしょぼいけどな」
冗談めかしてそう言うと、けらけらと笑った。他の者たちも、愉快そうに笑った。
「なあ、探検を始めてからもうずいぶん経ったんじゃないか?シロ、時間は大丈夫かい?」
テトラがそう尋ねると、シロは笑顔を引っ込めた。太陽から遮断されたこの場所では正確な時刻はわからないが、確かに舞台の傍を出発してから、かなりの時間が経っている。外が土砂降りだということも考えると、あまり遅くならないほうがよかった。
「そうだね、もう帰らないとまずいかも」
そう言うと、机の上の本のほうを振り向いた。
「ウチーチェル、いろいろ教えてくれてありがとう。また、遊びに来るね」
だがウチーチェルは、いつのまにか独り言モードに入ってしまったらしい。シロの呼びかけを無視して、自分に向かって語り続けていた。
「……そう、わしらは自由を謳歌する。華やかな景色を見て喜び、哀れな姿を見て心を痛める……だが、常に完全な自由を持っているわけではない。宿らせの灰によって命を与えられたガラクタは、その"親"の命令にだけは反することができない」
「へっ?」
ウチーチェルの口から思わぬ言葉が飛び出したので、シロとガラクタたちは頓狂な声を漏らした。
シロは眉をひそめて聞き返した。
「親の命令?」
「そうじゃ。わしらには自由な意志がある。自分で何がしたいかを決められる。だが、"宿らせの灰"の親に命令されたことにだけは逆らうことができない。意志の強さの問題ではないのじゃ。親に命じられれば、身体は必ずその命令通りに動く」
橙色の明かりに照らされた狭い室内を、冷たい沈黙が埋める。
やがて、ニコラが戸惑いの表情を浮かべて言った。
「まま、待てよ。俺たち、社長の命令なんか今まで一度も聞いてやったことないぜ」
「そうだよ。これまでどんだけいたずらして社長に怒られたか……そんなに命令通りに動くんだったら、いたずらなんてとっくの昔にやめてなきゃおかしいぜ」
テトラも困惑ぎみに同意する。
動揺する双子に対し、ウチーチェルは冷静な口調で答えた。
「それならば、親ではないということじゃ。たとえ真逆の思いを持っていたとて、親に命令されれば、その通り実行せねばならぬ」
声は老いのために枯れているけれども、自信を持ってはっきりと語られたその言葉は、無垢な双子の頭を、精神の棍棒で殴りつけた。双子は、よく似た顔を見合わせた。もし彼らが人間なら、見えている肌の上から下まで、すっかり青ざめていたことだろう。そんな絶望的な表情をしていた。
「嘘だろ?」
「社長が、親じゃない?」
先ほどまでの、謎の解明に沸き立った嬉しい閃きは、まったく鳴りを潜めてしまった。信じたくない事実との遭遇に、苦痛の帳が下りた。
ニコラは手で口を押さえながら、おろおろと言った。
「でも、俺たち今までずっと、社長が自分たちの親だと思ってたし……」
「俺たちを、騙してたってことか?そんな……」
テトラも、現実を拒むように首を振る。
「社長が親じゃないってんなら、他に俺たちに命を与えた人間が居るってことだよな」
「しかし、俺たち気づいたときからずっと社長と一緒に居て、他の人間なんか会ったことないぜ?」
「そうだよ。いったい社長以外の誰が、俺たちの親になれるってんだ」
「きっと何かの間違いだ……俺たちの親は社長だよ……」
苦痛で顔を歪めながら、頼りなげに言葉を交わす双子の様子を、シロは胸が掻きむしられるような思いで見つめていた。今まで当たり前のこととして信じ続けてきたことが思いがけなく覆されるのは、どれほどつらいことだろう。そのときふと、棒立ちになった双子のスーツの前面に広がるツギハギがシロの目についた。濃かったり薄かったりするその無様なモザイクを、じっと見つめる。そして、はっとして老本のほうを振り向いた。
「ウチーチェル!さっき、ガラクタは身体を失うと、記憶も失うって言ってたよね」
ウチーチェルは、厚い表紙を動かして頷いた。
「ああ。わしらガラクタは、身体のあちこちに記憶を宿らせておく。ゆえに、身体の一部を失うと、そこに溜め込んだ記憶も失うことになる」
「それじゃあ……」
シロは言いかけて、口をつぐんだ。嫌な推理が頭をよぎったのだ。
「どうしたの?シロ」
ミスター・パパラッチが、丸いレンズを上目遣いにして尋ねた。
「いや、なんにも……」
シロは言い淀んだ。
だが、気の短いニコラが、その明らかな隠しごとの気配を放っておきはしない。
「なんだよ、シロ。何かあるなら言えよ」
喧嘩を売るように語気を強めて言う。不安が悪童の心をねじ上げて、戸惑いをいらだちに変えていたのだ。
シロは自分の気づいたことについて話したくなかったが、かわいそうな乱暴者の必死な顔を見ると、見過ごしてもらえそうにはないと観念した。
「……私、一度だけ、地上にある社長の家に入ったことがあるんだけど、そのときに見たの。社長の部屋の隅に箱があって、その中にたくさん布の切れ端が入ってた。その色が、ニコラとテトラのスーツの色とおんなじだったんだ」
シロは、抑えたトーンでゆっくりとそう語った。
だが、無邪気な双子には、シロの言ったことの真意が呑み込めなかったようだ。表情を変えずに、話の続きを待つように、相手のきまり悪そうな顔をじっと見つめている。
「それがいったいなんなんだ?どういうことだ?」
我慢できずにニコラが促した。
シロはまた、しぶしぶ口を開いた。
「あの布切れは、きっとニコラとテトラのスーツからちちぎり取られたんだと思う。ふたりのスーツ、ツギハギだらけでしょ?ちぎり取ったところに、継ぎを当てたんだよ」
双子の人形は、しばらく黙って考え込んでいた。小さな世界で育まれた拙い思考回路を必死に働かせて、今耳にしたことを噛み砕いていた。だがふいに、答えに辿りついたらしいテトラがはっと口を開いた。
「ガラクタは身体の一部を失うと記憶も失う……つまり、社長は、俺たちの〝身体〟をちぎって……俺たちの記憶を消したってことか?」
そう言いながら、その口調はだんだん弱々しくなっていった。自分の言っていることを、自分で信じられなかったのだ。
「俺たちの?記憶を消した?いったいなんだってそんなことする必要があるんだ?」
相棒の言葉に、やはりいらだたしげにニコラが問う。
テトラは力なく首を振った。
「それは……俺たちの……"本当の親"が誰かわからないようにしたんだよ、きっと。だから俺たち、自分がいつ生まれたのかも、どうやって生まれたのかも、誰に生んでもらったのかも覚えてないんだ……」
ニコラはあんぐりと口を開けた。そして、先ほどまでは強く腹立たしげだった顔が、栓を抜かれたように突如緊張を失い、頼りなく歪んだ。床に散らばった紙の上にへなへなと座り込む。
「そんな……俺たちずっと、社長が俺たちの親だって思ってたんだぜ?そりゃあいつは怒りっぽいし口うるさいし面倒臭いけど……信頼はしてたんだ、俺たちのことを愛してくれてるって。それが、あいつはずっと俺たちのことを騙してたっていうのか?記憶まで消して?」
虚空に向かって絶望したようにつぶやくニコラの脇に、テトラは膝をついてしゃがんだ。慰めるように、黙って相棒の背中に手を当てる。
「あいつはずっと、自分が親だなんて嘘をついて、俺たちのことを騙し続けてたんだ。身体を破って、記憶まで消したんだ。俺はもう、社長がいったい何を考えているのかわからないよ。そうだ!あいつは外の世界のこともずっと俺たちから隠してたんだ……ここよりもっと楽しい場所があるなんて、ひとことも教えちゃくれなかった。愛してくれてると思ってたのに、あいつがやったことといえば、俺たちを騙して、楽しみを奪い続けることだけだ……ああ!俺はいったい何を信じたらいい?社長は隠しごとをするばっかりで、なんにも教えちゃくれない……」
マカとミスター・パパラッチも、ニコラに近づき、何をできるでもないが、ただ黙ってそっと寄り添った。
ほの明るい電灯の下、惨めに縮こまっているガラクタたちを見ると、シロは、冷たい手で心臓を握られるような感じがした。「社長はちゃんときみたちのことを愛しているよ」と彼らに言ってやりたかった。だが、シロもまた、社長の不可解な行動に疑問を感じ始めていた。DVDを地下に持ち込んだことに対してあれほど怒り狂ったのは、本当にただガラクタたちを守りたかったからなのか……どうして記憶を消してまで彼らの本当の親のことを隠そうとするのか……シロの豊かな想像力を持ってしても、多すぎる疑問に答えを見つけることはできなかった。
「……きっと、社長もそうしなきゃいけない事情が何かあったのかもしれないよ」
自分でも自分を信じていないような頼りない口調でそう言うと、シロは机の上の老本のほうを振り返った。
「ねえ、ウチーチェル!あなたはずっと昔からここに居るんでしょ。何かわからない?どうして社長はニコラとテトラの記憶を消したんだと思う?」
社長なんて言ったって伝わるはずがないことを忘れて、藁にもすがる思いで尋ねる。
ウチーチェルは縁のすり切れた表紙を持ち上げ、申し訳なさそうにゆっくりと答えた。
「すまんなあ。力になってやれたらいいんじゃけど、ここではずっと、ひとりで寝ていただけじゃから……わしにはなんにもわからんよ」
だが、シロは引き下がらなかった。
「どんな小さなことでもいいから、知ってることはないの?……そうだ、あなたの親はいったい誰なの?もしかしたら、あなたの親と、ニコラとテトラの親は同じ人かもしれない。どう、思い出せない?」
「わしの親か。わしの親は、そうじゃなあ、確か……」
ウチーチェルは黙り込んだ。意識の手でページを一枚一枚めくり、記憶を辿っているらしい。しかし、ふいにむずむずと震え出したかと思うと、「ウォッフォン!」とひとつくしゃみをした。埃が舞い、はずみでページが一枚飛び出す。空中ではらりはらりと二往復して、床に積もった紙の山の上に落ちた。
老本はしばらく死んだようにしんとしていたが、やがて間の抜けた声で言った。
「……おや、来てたのかね、龍一」
シロは、口をぽかんと開けて、くすんだ本の表紙を見つめた。
「久しぶりじゃなあ、龍一。会えて嬉しいよ」
相手の無反応もお構いなしに、続ける。
「待って、ウチーチェル、私は龍一さんじゃないよ」
呆気に取られていたシロは、はっと我に返り、慌てて遮った。
シロの言葉を聞いたウチーチェルは、小口をわずかに開けたまま固まった。
「さっき言ったでしょ。私はシロだよ」
「……ああ、そうか」
古びた本は、納得したように表紙を揺らした。
「……どうやらわしは、また物忘れをしちまったみたいじゃのう……」
もごもごとつぶやく。ついさっき知り合ったシロたちのことを、この老いたガラクタはもう忘れてしまったらしい。
シロは悲しげにウチーチェルのぼろぼろの身体を見つめた。背後のガラクタたちも、床の上で固まりながら、なんとなく哀れむような表情でその光景を眺めていた。
「……すまんなあ。こんな老いぼれで」
静まり返った湿っぽい室内で、ウチーチェルは、半分独り言のようにささやいた。
「……わしは長く生きすぎたんじゃ。ガラクタは永遠に生き続ける。どれだけ時間が経っても、その心が絶えることはない。……しかし、そうはいっても、身体は確実に朽ちてゆく。すべてが時に従い盛衰する中で、自分だけが劣化するのを止めることはできない。少し動いただけでも崩れてしまうような身体を抱えながら、心だけが生き続けるんじゃ。誰か面倒を見てくれる人間でも居れば、この崩壊を先延ばしして、少しでも長く若い身体を保っておくこともできるじゃろう。だが、そんな者はなかなかおらん。人間の命は有限じゃからの。もうずっと、誰にも会わずにここに閉じこもっているうちに、わしはこんな状態になってしまった。……あまりにも長く生きすぎたんじゃ」
ウチーチェルのしわがれた声は、聞く者の胸を締め付けるような惨めさを持って響いた。シロもガラクタたちも、その悲しい独白を、少しの音も立てないで静かに聞いていた。
だがふいに、仲間に囲まれていたニコラが震え出し、苦痛に顔を歪め、床に両手を突いた。相棒がさっと手を伸ばし、抱きしめるようにその震える狭い肩を押さえる。
ニコラは、床に無残に散らばったウチーチェルの記憶の欠片を睨みながら、言葉を絞り出した。
「……俺たちも……俺たちもきっと、あのじいさんみたいに朽ちて行くんだ。この狭い世界に閉じ込められて、なんにも知らないまま。自分の親の顔さえ知らないまま。俺たち、とんだ間抜けだよ。騙されてるのも気づかないで、ここがいちばん楽しい場所だって信じて、何も知らずに馬鹿みたいに生きてきたんだ……」
そして、空を見るように低い天井を仰ぐ。
「……俺たちは、何も知らないままここで朽ちて行くんだ!」
テトラとマカとミスター・パパラッチは、心からの悲しい共鳴をその表情に湛えて、かわいそうな人形に寄り添った。
そのとき、天井から一粒、雨漏りのしずくが降ってきて、見上げたニコラの顔の上に落ちた。電灯の暖かい光を受けてきらきらと輝くその丸い雨粒が、布でできた頬の上を、ぽろりと滑る。
まるで、泣いているかのようだった。
その情景が、シロの心臓を刺し貫いた。シロはもはや耐えられなかった。こんなに苦しんでいる魂をこんなに苦しんでいるままでほうっておいていいはずがなかった。優しい変人は、両こぶしを握り締め、床の上で小さく惨めな塊になっているガラクタたちに向かって、しゃにむに叫んだ。
「そんなことない!」
天井を打ち抜きそうな勢いの叫びに、部屋全体がびりびりと震える。
シロが急に声を張り上げたので、ガラクタたちは驚いて一斉にそちらに顔を向けた。
シロは叫び続けた。
「何も知らないままここで朽ちていくなんて、そんなことない!やっぱりおかしいよ、ずっとこんな小さな世界に閉じ込められておかなきゃいけないなんて。そうだ、外に出てみたらいいんだ!外に出て、新しい世界を知ればいいんだ!」
双子は戸惑いの表情を浮かべて、興奮状態のシロを見つめた。
ニコラがおずおずと言う。
「そ、そんなこと言ったって……外に出るなんてできっこないよ。社長に見つかったら、それこそ燃やされちゃうかもしれない」
だが、勢い冷めやらぬシロは、顔を輝かせ、おのれの胸にこぶしを当て、決然と言い放った。
「私に任せて。私が絶対、ニコラに、テトラに、みんなに、もっと広い世界を見せてあげるから!」
彼女の瞳には、有無を言わせぬ情熱の炎が爛々と燃えていた。




