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深海の星空  作者: ふあ
宣戦布告
62/63

約束と宝物

 決して忘れない別れの日から、一年と半年が経った。いつの間にか不眠を忘れた少女は、日課となった早起きを終えると、自室のデスクの前に佇んだ。綺麗に整頓された天板の上には、一冊の本と、一つの財布が重ねられている。


 渡された時から、一グラムも中の重さの変わっていない、端のほつれた財布を彼女は手にとった。皮の硬い感触を、そっとなぞり、コインチャックから指の長さほど伸びた、組紐を指先でつまむ。先についていたはずのお守りの鈴は、いつの間にか、気づかない内に、千切れて失くなってしまっていた。あの夏の日、竹やぶに佇む神社で、互いに願いを叶えるために、お揃いで買ったお守りが残っていれば、今も彼は、隣にいただろうか。そんなことを、彼女は幾度も考える。


 底冷えのする、朝の光が差し込むのみの部屋で、何も言わずに彼女は財布を机に置き、隣に並ぶ文庫本を手に取ってページをめくった。返すことの叶わなかった小説を読み進めるのには、ひどく時間がかかってしまい、彼がいなくなって、これだけの時間が経って、ようやく最後のページを捲ることができた。

 暑い夏の日、少年が薦め、貸してくれた小説は、五人の登場人物たちの物語だった。


 一人目は、孤児の少年。二人目は、不治の病に冒された少女。夢破れた青年、借金を抱えたサラリーマン、最後に、夫と死に別れた老女の話。それぞれが、目を背けたくなる不幸を背負っていた。しかし、初めの少年には、やがてかけがえのない友人ができ、少女は手術を重ねて病気を克服した。青年は新たな夢を発掘し、サラリーマンは人生を省みた後、尊敬し合えるパートナーを迎えた。終わりの一人、孤独な老女の人生は、決して孤独と呼べる悲しいものではなく、この世を去る瞬間を笑顔で迎えた。


 五人の人物は、全員が幸せになった。物語の最後の一行を笑顔で迎えた。どの話もハッピーエンドだった。だから彼は、この小説が好きだったのだ。彼らの人生を自分と重ね、今この瞬間は、ただ苦しい最中にいるだけ、海底に沈んでしまっているだけ。だからいつか、自分も彼らのようにと、空想したに違いない。その為に、何が起きても歯を食いしばり、涙を隠しながらも懸命に毎日を泳ぎ、命懸けで乗り越えてきたのだ。フィクションと現実のどうしようもない差分に唇を噛みながら、「それでも」と毎日毎日願い続け、幸せな終わり方を何よりも望んでいた。

 早く読んで、感想を伝えるべきだった。私も、この話が好きだよと、笑って語り合えばよかった。

 もう時間だと、卓上時計に目をやり、端の破れた中古本を大切に閉じ、財布の横に並べる。彼が間違いなくそこにいた証拠に、「行ってくるね」と微笑んだ。



 待ち合わせたファミリーレストランのチェーン店には、ほどよく暖房が効いていて、例年より冷える二月の空気を忘れさせてくれる。

 ホットコーヒーに流れたミルクがくるくると渦を巻く。日曜日の午後十時、周囲の喧騒を逃れた隅のボックス席で、視線を上げた少女の向かいに居る男女の前にも、同じカップが一つずつ。白い受け皿とカップには、茎を伸ばす植物が、ミルクのように器の周りを回りながら、ピンクの小さく可憐な花を咲かせている。


 ぼくもおなじのがいいと、可愛らしい声が上がるのに、彼女は思わずふふっと笑った。少女の斜向かいで、父親の膝に乗せられているまだ幼い男の子は、自分だけ、色だけが似通ったココアが置かれたことが不満なようだった。コーヒーはまだ飲めないよと、優しく父親が諭すのに、唇を突き出しながらも、素直に諦めると、脇に置いた子ども用のリュックサックに手を伸ばし、いそいそと中身を取り出す。

「ゆうくん、ご飯の時は、出しちゃダメよ」

 隣に座る母親にたしなめられるが、今度は頑固にそれを抱きしめて、口を尖らせた。

「ごはんじゃないもん! のみものだもん!」

 ゆうくんと呼ばれた男の子が、大事そうに抱き抱えているのは、青いクジラのぬいぐるみだった。口元に入った黒い刺繍のおかげで笑っているふうに見える。

「可愛いね、それ」

 少女が笑いかけると、味方を見つけたとばかりに嬉しそうに頷く。

「うん! くじらさん!」

 自分にそっくりな真っ黒な瞳を備えたぬいぐるみに頬ずりをし、決して離すまいと抱きしめている様子から、余程大切な宝物だと覗える。あと一年もしたら、小学生になるのにと、母親は呆れて笑い、父親は愛おしげに男の子の前髪をかきあげた。


 だが、男の子がぬいぐるみで手遊びを初めて大人しくなると、穏やかさに包まれていた空気の温度は、そこはかとなく下がってしまう。

 彼らにも、少女のことは知らされていなかった。住所どころか名前さえも、公的に伝えられるはずがなく、それも当然だと彼女は認めていたから、「一ノ瀬」と名乗る家族から連絡があったことに心底驚いた。店側は顧客の情報を教えることはできない、だが、どうしても伝えたいことがあると、長い日数専売所に頼み込み、渋々電話番号を教えてもらったのだという。そこには、彼が毎日欠かさず通いつめ、大人に負けない仕事ぶりを見せていた信頼も働いたはずだ。


 少年は警察を誤魔化し、世間を欺いたが、桜庭菜々という少女と、大切な家族だけは騙されなかった。だが、今や立派な三人家族にしか見られない彼らは、一度も会いにいくどころか、手紙すら与えなかった。彼の愛した、愛されたかった家族はそこにはいない。

 それでも、決して彼が、人を憎む思いを胸に日々を生きていたわけがないと、信じる家族がそこにいる。だからこそ、彼らに対して嘘をつく必要性など既に感じられないまま、少女は尋ねられる通りに、彼と出会った半年を静かに語った。


 頷き、聞き入る母親の整った顔立ちは少年と似通っていて、隣で寂しげな笑みを浮かべる父親には、彼とよく似た穏やかさが満ちている。ああ、この人たちが、本当の親なんだ。すっかり涙もろくなってしまった少女は、目尻に浮かびそうな涙を堪えた。


 彼の全ての行動は、彼女を守るためだった。決して傷つけさせないと、自分を信じて欲しいと、繰り返した彼は、下手な大人よりもはるかに立派に、困難な約束を果たして見せた。

「……あの子は、本当に優しい子なんです」

 少女の言葉を深く噛み締めるように、母親は頷く。

「いつだって、私たちのことを、一番に考えてくれる子で。……特に弟には、甘やかしすぎるくらいに、いいお兄ちゃんで」

 父親の膝の上で大人しく遊んでいる男の子に、優しく視線をやる。母の慈しみに満ちたその表情は、彼も愛していたに違いない。

「本当は、弟が生まれるなんて、どう思ってしまうのか……心配でした。これで、家族が離れてしまうだなんて、あの子が思ってしまうんじゃないかと」

 そう言う父親は、腕に触れる男の子の小さな手を軽く握る。少年と父親は一滴の血の繋がりもない存在だが、生まれてくる弟は、立派に両親の血を継いでいるのだ。


 もしかすれば、彼が弟を恨んでしまうのでは。最悪の場合、自分が与えられず、望んでも貰えなかった愛情を憂い、嘆き、挙句には憎んでしまうのでは、と両親は懸念してしまったのだ。

「そんなの、全部杞憂だったのに……あの子が、誰かを傷つけたり……まして、弟になる佑人に、手を上げるだなんて、あり得なかったのに……」

 彼は、両親が驚く程に、弟の面倒を見て懸命に愛した。自分が与えられなかった、幼い頃の愛情を、目一杯注ぎ、弟の幸せを願い、四人家族での幸福を懸命に尽くそうと毎日奔走していた。


 そんな優しい彼だから、両親の危惧には、きちんと勘付いていただろう。思った信頼を得られずに、弟を抱き上げることさえ避けるように言われながら、涙を呑んだ日もあったに違いない。だが、その涙を目に浮かべる姿すら誰にも見せなかったおかげで、弟はここまで無邪気に育ち、兄がくれたぬいぐるみを宝物として今も抱きしめている。

「とてもいい、四人家族ですよ」

 少女の言葉に、両親は顔を見合わせると、ありがとうと笑った。

「だから、あの子なんて言うの、やめて下さい」


 ここにきてから、弟の名前は幾度も聞いたのに、彼の名前は一度たりとも呼ばれていない。あの子あの子と、まるで彼は遠くに行って、二度と戻らぬ他人となってしまったように、おかしな代名を付けられている。

 これが、彼が愛した家族の姿。無意識のうちに逸れてしまった、愛情の形。わざとのきらいさえあれば、まだマシだっただろうに、示し合わせたわけでもなく、本当の名前は誰にも呼ばれないまま。


 はっと目を見開いた二人に、少女は厳しい視線をやった。

「他人の私だって、とってもいい名前だと思うのに。家族がくれた、自分だけのものなのに。与えた人ぐらい、逃げないで、ちゃんと呼んであげてください」

 生まれた時に母親がくれた、弟とは違う、唯一無二の、生涯に渡る贈り物。誰かに呼ばれるからこそ深い意味を持つものを、愛する人が使ってくれなければ、孤独は一層募るだろう。


「……ごめんなさい」

 震える声は、少女に向けられた台詞ではなかった。


「ごめんね。ごめんね、広樹……」

 鼻をすすり、目頭を押さえる母親は、これまで目を背けていた悲しみを突きつけられ、小さくしゃくりあげ、息子のために涙を流した。

「おかあさん、どうしたの?」

 幼い子の頭を父親が撫でる。きょとんとして、母が涙を流す意味など、まだ理解しようのない男の子は、きょろきょろと辺りを見回すと、まるで答えを聞くように、くじらの口元に耳を寄せる。その無邪気な姿に思わず微笑んだ母親は、「ありがとう」と彼女に向ける。

「広樹が、あなたと居たがった理由が、わかった気がします」

 思わぬ台詞に、少女はすぐに言葉を返せなくなる。

 ほら、いきなりこんな事を言う。まるで、そっくりだよ。


 だからこそ頼みたいという、苦しい約束を交わした頃には、三分の一ほど残ったコーヒーはすっかり冷めてしまった。お代わりを注文しようかという父親の台詞を丁重に断ると、随分と長居してしまったと、彼女は脇に置いたバッグから、赤いケースのスマートフォンを取り出した。ボタンを押し、十一時を過ぎる時間を確認した向かい側で、明るい声が上がる。


「おにいちゃんのと、おんなじ!」

 父親の膝から身を乗り出し、くじらのぬいぐるみを抱きしめた男の子が指をさす先には、ケースの端に下がる組紐と、銀色の小さな鈴がある。一年以上経っても、嘗て彼が大切に身につけていたお守りを、幼い弟はきちんと覚えていたのだ。


 きらきらと輝く瞳、その目元にはどこか見覚えがあった。なんだ、似てるんじゃん。やっぱり兄弟だね。

「いいな、おにいちゃんとおそろい」

 出来る限りテーブルに顔を寄せ、じいっと鈴を見つめるのに、軽くケースを振って音を聞かせてやると、弟はまさにこれだと明るい瞳をぱちぱちとさせる。こんなに可愛い子が懐けば、それは身を削ってでも可愛がるだろうと、少女は右手に握ったお守りに、左手を添えた。


「あげるよ。大事にするんだよ」

 紐を指先で軽く引き、決して解けないよう固く結んでいた組紐をするすると解く先で、ちりちりと名残惜しく鈴が鳴る。

 その音の寂しさに気がついたのか、いつの間にか真剣な眼差しで、外れていくお守りを見つめていた弟は、首を横に振った。やっぱりいいと、あれ程ねだっていた姿が嘘のように、あっさりと体を引いてしまう。

「ぼく、これがあるもん!」

 父親の膝に座り直すと、しっかり握り締めていたぬいぐるみを、ぎゅっと抱き直した。両側から握られてしまい、少し情けなく眉尻を下げるくじらは、持ち主が戻ってきて、痛くても笑っているふう。


「いいの? おにいちゃんとお揃いだよ」

「おねえちゃん、それ、だいじ?」

「大事だけど……」手のひらに収まる鈴を見つめ、少女は男の子に問い直した。「でも、お揃い欲しいでしょ」

「おねえちゃんのだいじだもん!」

 柔らかなぬいぐるみに、押し当てた柔らかな頬で頬ずりをしながら、弟は太陽のような、眩しい笑顔とともに笑い声を上げた。

「たからもの、いっぱいはいらない! もう、ぼくのたからもの、あるもん!」

 自分にとって、そして人にとっての宝物の大切さを、幼い男の子は既に充分知っていた。誰かがそれを手放してまで、自分を喜ばせることなど望まず、自分のみの宝物だけは、誰のものでもないと抱きしめる。少女が隠す寂寞を察してしまえば、彼女を犠牲にしてまで、自分の幸せなど望まない。弟は、少年によく似た、優しい子どもだった。

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