表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深海の星空  作者: ふあ
宣戦布告
61/63

少年A

 とある少年の凶行は、計画的な殺人未遂だととられる、極めて凶悪なものだった。十五歳の少年が、嘗て自分の母親を襲った男に復讐を遂げた事件は、世間の格好の暇つぶしとなった。

 少年は、アルバイトの新聞配達先の家で、自分の母を犯した本当の父親の存在が出入りしているのを運悪く目撃し、男の殺害を企てた。地元ならば、配達を行う自分を見知った顔は多すぎる、その後知らぬ街へ逃亡するためにも、男が懇意にしている、その家の少女を囮に使い、男を誘き寄せようとした。

 その少女と犯人の少年が、朝に言葉を交わすのを見たという近所の者もいたし、一緒に帰るのを目撃した同級生も存在した。中学生の浅知恵であれど、少なくとも少女が少年に好意を抱いていれば、彼がそのような野暮な手を使い、自身の安全圏を探し移動する手に可能性はあり、如何に卑劣な犯罪であるかを説く偉いコメンテーターは、画面の中で頷いてみせた。

 だが、彼の境遇を鑑みれば、全て少年が一概に悪いと言い切ることなどできない、因果のめぐる事件だと世間を賑わせた。更に、彼の父親であり、今回の被害者となった男と、その仲間だと思われる男達には、捜査の結果、隣県を主とする未成年の売春斡旋という罪状が見つかった。十六年前の事件から、一切の反省が見られない男の血を引いてしまい、罪を許されざるとも、片目の失明という重い障害まで負う結果となった少年に、僅かながら同情の声も聞かれた。



「たったの六年で、あいつは、母を脅し傷つけた罪を償ったと認められた」

 顔も名前も失った少年が、自ら口にする言葉が公開されることは極めて少なかったが、精神鑑定にも異常がなく、至って落ち着いている少年は自ら口にしたという。

「それで、許されることなどあるわけがないんです。それに、その六年は、母のみに対するものだったのですか。そこで生まれてしまったぼくには、何の言葉もなかったんですか。作られてしまったぼくは、どうして生きればいいんですか。ぼくは生きているのに、何故あいつは、みんなに許されているんですか」

 彼が長年抱いてきた悲痛な叫びだった。これまで、犯人と被害者、一対一の関係を覆す、傷みだけを抱いて新たに生まれてしまった命の、痛切な嘆きだった。

 彼を、父親と同類の犯罪者だと嗤うのは如何にも容易い。蛙の子は蛙と、同じ穴の狢だと、口汚いものは罵り、所詮はその程度だと残酷に見下した。そこで抱かざるを得ない彼の苦しみは、計り知れない。




「口数の少ない、真面目な子でした。宿題も忘れず、朝が早くても遅刻さえしない、周りより少し大人びた子でした。まさかあの子が、事件の当事者になるだなんて……。そんな想いを抱いていただなんて、全く感じられませんでした」

 彼が通っていた中学校の担任は、言った。

 マスコミが好む、いじめなどの事実は認められなかったと、学校側は強く主張した。クラス内での友人関係は良好だった、彼に対するいじめは存在しなかった、目立った行動さえ見受けられなかった。それでも、恐らく少年が弱くとも発していたSOSに気づけていたならばと、神妙な面持ちで校長は語った。

 近所でも、挨拶を返せる少年だった。転んだ近所の子どもを起こしてあげるのを見た。仕事先の専売所でも、毎日きちんと時間を守っていた。


 まさか、彼が。


 誰もがそう言った。「まさか」と感嘆し、これまで目にも止めなかった「彼が」と意外性を強調した。

 そんな彼は、名前を失った。誰にも興味を持たれず、「まさか」の言葉さえこれまで聞かれないまま、世間の隅で細々と息をしてきた彼の思惑を確実にしたものが、一冊の手帳だった。彼が唯一の荷物である、通学バッグを投げ捨てても、ナイフと共にジャケットに忍ばせて最後まで持ち歩いていたのが、黒い皮のカバーの大人びた手帳。少年Aの直筆の手記は、一部をニュースで朗読されれば、思春期の少年特有の危機を謳う文句だと訴えられ、この文章こそが、大人しく真面目な少年の心の内の叫びだと、偉い人々は警鐘を鳴らした。




 何も知らないくせにと、少女が毒を吐くことはなかった。

 きちんと一限の授業に時間通り間に合う時刻、身を切る寒さの年末、使い込んだ通学鞄を肩に下げ、ただ一人、駅のホームでもうじきやってくる電車を待っていた。朝のラッシュ時と重なり、会社員風の女性が寒さに手を擦り、マフラーを巻いた受験生が単語帳とにらめっこする列に並んで空を見上げる。吐く息は白いが、雪は降っていない。今日発売だと売店が謳う週刊誌を手にした大学生が後ろに並んだ数分後、皆が待ちわびる電車が灰色の空の下、眠気を知らずにホームへと滑り込んだ。


 中央から少し離れているおかげか、見渡すと空いている席がちらちらと見られる。恐らく、誰かの忘れ物と呼ぶよりも、わざわざ捨てるのさえ面倒だと、放って置いてある週刊誌を手に取り、空いた隙間に彼女は腰を下ろした。座席の下、ふくらはぎあたりから吹き出す暖房の温みにほっと息をつき、膝に鞄を置くと、暇つぶしになる記事があるかと、ぱらぱらと誌面を捲ってみた。あれから母は、いつの間にか、新聞を解約してしまい、新たに契約を結ぶ様子もない。元々きちんと読んでいたわけではないが、今となっては、朝と晩のテレビニュースを眺めるか、スマートフォンで検索をかけて流れる情報を眺める方法しか、世間の実態を知るすべがなくなってしまった。


 しかし、ゴシップ色が濃く、探せば誤字すら見つかってしまうお粗末な出来のそれには、芸能人のお騒がせランキングや、間違ったメイクの方法、来年から始まるドラマの期待値など、役に立つとは言い難い記事がこれでもかと並び、手を止める理由には至らない。


 だが少女は、はたと手を止めた。

 その文の一部は、幾度も目に、耳にした。携帯画面で読み返し、ニュースキャスターが読み上げるのに聞き入り、前後の文が新たに追加されていないかと、暗い顔をする母の目を逃れて探し続けていたが、成果を得られることはなかった。

 両親への謝罪以外に、彼が何をその手帳に書き連ねていたのか、それはすぐ隣にいた少女にすら知るすべはなかったが、その前に書き付けられた文は、目にする紙面の下半分に、右から左へと長く連なっていた。


 殺人未遂の少年A。彼がナイフと共に持っていた、たった一冊の手帳。その最後のページにかけて、書き連ねられていた言葉たち。


「僕は、母を犯し、僕という存在を作ったあの男を許せない」


 その一文から始まっていたが、本当の彼を知っていれば、「許せない」という言葉を、彼がその手で書いたということすら、信じがたいのに。疑うものなど、これを読む人々の中には存在しないのだ。


「あいつは、たった六年の刑期を過ぎれば、のうのうと一般人として社会で生き始めるのに、無理矢理始めさせられた僕は、ゼロから一生苦しまなければならない。許されたあいつが許せない。誰が許そうと言っても、例え神様が認めたとしても、僕は絶対に許さない。

 だから僕が、僕のために復讐しなければならない。

 あいつは、僕の顔を見ても、わかるはずがないけれど、僕は忘れていない。やっと見つけた。やり遂げるまで、僕は捕まるわけにはいかない。彼女を使えば、あいつは必ず、どこへだって近寄ってくるだろう。彼女には悪いけど、僕の復讐の餌になってもらう。大事なものを奪われる悔しさを、あいつに少しでも、思い知らせてやる」


 誰もが、重大な犯罪を犯した少年Aが書いた想いを知りたがり、文字として書き写されたそれを聞けば、彼の危険性を口々に囃したて、無責任に同情し、怖い怖いと嗤う。自著に引用し、知った顔をする作家が現れ、匿名で名を隠す一般人は、作られた可哀想な子だと無意味に哀れんだ。


 だから、誰も知らない。最後のページに、雫が落ちて乾いた跡は、報道されないまま。最後の謝罪を書いた文字が、僅かに震え、崩れていたことなど、誰ひとり気づきさえしない。


「お母さん、お父さん、ごめんなさい。○○、ごめんなさい。僕は、悪いお兄ちゃんでした」


 少年は泣き虫だった。いつだって泣いていた。新聞を配りながら、学校に通いながら、弟の世話をしながら、いつも涙を流していた。それが表面に溢れないうちに、濡れた両腕で懸命に目元を拭いながら、伸びた前髪で涙目を隠し、誰の目にも触れない涙を流し続けていた。だから、彼の濡れた瞳は、海のように美しかったのだ。

 それでも耐えられず、幾度か頬を伝わらせた涙が、少女に見せた全てだった。時折見せる穏やかな笑顔は、そんな涙の乾いた、ほんのひと時だった。


 ひとりぼっちの寂しさや、生まれてしまった苦しさに苛まれながら、少しでも家族の負担にならないよう、高校を諦めアルバイトに早起きをする少年が、一体何をしたというのだろう。率先して家事を手伝い、夕食を作らせる手間さえ与えないようにと配慮する彼が、家族に謝ることなどあるのか。買い物帰りにおやつを買い、遠出をすればお土産を選び、保育園まで弟を迎えに行く彼の一体どこが、「悪いお兄ちゃん」なのだろう。


「う……っ」

 最後の謝罪は、幾度も目にし、覚え込んでしまい、涙はようやく枯れたはずなのに、彼女は濡れた声を漏らした。見る間に、目には涙が溢れ、熱い雫はぼろぼろと頬を伝って制服に染みを作っていく。

 前に屈むと、音を立てて雑誌が鞄の上から滑り落ちたが、それを拾う気などないまま、膝の鞄に髪を垂らし、口元を押さえ、彼女は泣いた。肩が震え、服を、鞄を零れて床に滴る涙は止まる様子がなく、気がついた隣の女性客に声をかけられたが、その中身すら彼女は聞き取ることなく、泣き続けた。


 自分は、誰よりも彼のことを知っている。彼は、見せてくれたのだ。両親にも見せられなかった苦しさを、少しずつ近づく距離の中で、教えてくれていたのだ。こうして伏せられてしまった、彼の弟の名前さえ知っている。いい名前だと言った時、どれほど彼が嬉しそうに笑ったのか、その笑顔も充分覚えている。

 嗚咽が漏れる。

 あの時、眠る自分の隣で、どんな気持ちで、誰を想って彼はこの文字を書いたのだろうか。最悪の場合を想定し、狂気を演じきるために、大切な手帳を使い切って、愛する大切な家族への謝罪に向けて、辛い自分の人生を振り返っていたのだ。あの時に見た瞳の光は、錯覚などではなかった。彼は確かに、横顔で泣いていた。


 ほんのひと晩前も、殺せないと言って泣いていた。自分の片割れだからと、血の繋がった人間だからと泣き崩れる彼は、相手を殺す気などなかったのだ。

 どこか子どもっぽい、幼さの残る彼は、自分よりもずっと、遥かに早く、大人になっていたのだ。

「……ありがとう」

 鞄に顔をうずめ、誰にも聞こえない泣き声で彼女は呟いた。

 彼の隣にいれば、安心できた。不眠がすっかり治り、心も体も、深く寝入ってしまった。だが、彼が目を閉じ、眠ってしまった姿など、一度も見たことがなかったことを、彼女は思い出した。


 あの最後の日、電車で共にもたれかかったが、彼が瞼を閉じる瞬間を目にした覚えはない。恐らく彼は、前日から一睡もせず、手を握り、隣を歩き続けていたのだ。

 どれだけ彼が、自分を大切にしてくれていたのか、省みる。彼と歩んだ道程は、狂おしいほどの愛情は、決して離してはならない、失わせてはいけない、二つとして存在しない宝物だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ