彼の深海
掠れた少年の叫びは、夜の空気を引っ掻く。
聞いたことのない悲鳴に、少女はその絶望に、ただ立ち尽くすのみだった。
彼の深海が。深海の瞳が。
潰されてしまった。
永遠に、失われてしまった。
左目から溢れる血液の量に、ナイフの先で彼の瞳を潰し、目尻へ薙いだ男も流石に一度、その手を引っ込めた。だが、醜く膨れ上がった自尊心が、その引きつった笑みを忘れさせず、痛みに苦しみ、首を掴む腕を握り締めたまま、悶絶する少年を男は余裕を顕に見下す。
「どうだ」
痙攣する呼吸に、不随意に上下する痩せた腹。その顔からは、だらだらと大量の血が流れ落ち、その左目が二度と機能しないことを訴えている。眼窩はただただ赤く、その眼の形すら存在を見て取ることはできない。こめかみへ長く裂かれた傷からも絶え間なく血が溢れていく。
「どうせこうなったら」
生涯初めての激痛に喘ぐ少年の頭の方へ身を乗り出し、首を絞める手に一層力を入れながら、男は笑う。お前のせいだと。全ては、産まれてしまったお前が、馬鹿な真似をしたせいなのだと。
男の手の下で、潰れた喉が懸命に動こうとする。呼吸のためか、叫びのためか。酸欠に少年の両腕は震え、片方残った右目を守ろうと、せめて首だけでも必死に動かそうとする。
「何も見えねえ方が楽になれるだろ……っ!」
男の声が詰まった。
少年の顔の脇に、力の抜けた男の手から滑ったナイフが落ちると高い音を立てる。
彼が全力で曲げ、思い切り蹴り上げた左足は、男の鳩尾に突き立っていた。
突如の苦しみに、男は彼の右手側へゆらりと身体を傾かせ、咳き込みながら蹲る。痛みを与えることに慣れていても、与えられる痛みに男は慣れておらず、思わず彼の首から離した手で、腹を押さえながら崩れていく。
その隙に震える手で少年が握り締めたのは、顔のすぐ脇に落とされたナイフ。息を切らし、酸素を求めながら、柄を強く強く握り締め、間髪入れずに彼は転がった姿勢のまま、左手を振り切った。
鋭い刃の侵入を拒む脇腹へ、少年は全力で刃を埋める。人間の体が懸命に抵抗し、それ以上の深手を逃れようと悲鳴を上げる。
崩れた男がびくりと痙攣するのに、少年は固く握り締めたナイフを引き抜いた。柄に絡んだ指が永遠に解けないのではと思うほど、強く握り締める凶器が腹から抜けると、傷口からどくどくと大量の血が溢れだした。それが致死量に達するのか否か、少年にはわからない。
「殺してやる……」
彼自身、左目を潰され、鼻と口から血を溢れさせる顔は凄惨だった。男の下から這い出ると、呻く声を血と共に吐き出し、残った右目で瞬時に周囲を把握する。ようやく誰かが呼びつけた青色の制服が数人向かってくるのが、狭い視界の隅にある。
離れないナイフを握り締めたまま、少年は膝立ちになると、先ほど自分が転がされていた地面に蹲る男の背を右手で押さえつけた。傷が深かったのか、呻く男に逃げる様子などは見られない。
ぼたぼたと、二人分の血液を浴びた刃からは、今もまだ赤が滴っている。
「殺してやる!」
喉が裂けてしまいそうな大声を、少年は全ての人に聞かせた。「ころしてやる」の六文字を、はっきりと彼の口は発音し、その意味を耳にする人々に理解させた。
背の中央に向け、ナイフを振り上げた腕を、彼は下ろすことができなかった。
骨が折れそうなほどの強い力で腕を掴まれ、肩を、背を押さえつけられ、少年は抜け出そうともがいたが、固まってしまったようにナイフを握り続ける指さえも解かれ、凶器は取り上げられる。「少年を確保!」聞いたことのない声に、かけられたことのない台詞が、耳元で大声で叫ぶ。
一人の男をナイフで刺した、凶悪な殺人未遂の犯人が、背を頭をアスファルトに押し付けられ、腕を後ろへ捻じ曲げられるのを、少女は見ているだけだった。たくさんのことが頭の中で回って、それを整理しようとする気さえ起きず、ただ、握り締める彼の手の温かさや、抱きしめた時の、まだ大きいとは言えない背中の感触を思い出せば、もうやめてくれと声を上げたくなった。そんなに押さえたら、彼は壊れてしまう。まだ中学生の優しい男の子なんだ、大人三人で潰してしまえば、本当に死んでしまう。
それでも、今では呼びたくてたまらない彼の名前を呼ぶことさえ、彼女には許されなかった。気のある者同士であると周りに知らせてはならない、全てを彼自身が仕組んだことだと思わせなければ、左目さえ失ってしまった彼の努力が、水泡に帰してしまう。これほどまでに残酷なことはない。
不器用な少年の策略を全て悟った少女には、肩に手をやって優しげな口調で何かを問いかける警官の存在など眼中にない。ただただ、見つめる先にいるのは、流れる血と溢れる激痛に、苦しげに顔を歪め、もがくことさえできなくなってしまった、彼の姿。
だが、救急車のサイレンが近づく中、一瞬、ほんの刹那、いつもの瞳が彼女の方を向いた。見慣れない生き物たちを住まわせる、深い瞳。あの日、星空を映したのと同じ、彼の深海の瞳は、毎朝見せてくれるのと同じ穏やかさで、笑った。
彼の動作の意味など、誰にもわからない。手を軽く上げて下ろす程度の、何かの拍子だとしか思われない、それでも、彼が長い距離を泳ぎきり、海の底で出会った少女に向けた、確かな言葉であることに、間違いはなかった。
集まる人々の中、ただ一人、その意味を理解した少女は、思わずその場に力なく膝をついた。どうしたと問いかける周りなどどうでもいい。彼はもう、こちらを見てくれない。それでも、最後に言ってくれた。
大好き
あの日教えた手話で、照れ屋で恥ずかしがり屋の彼は、恥ずかしがらずに笑ってくれた。




