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深海の星空  作者: ふあ
宣戦布告
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宣戦布告

 少年の時間稼ぎは功を奏し、代償として彼自身に酷い怪我を負わせていたが、集まった野次馬は軽いパニックを起こし、十五歳の少年が手にするナイフを見ると、警察はまだかと悲鳴を上げる。


 ジャケットの内側から引き抜いたナイフを相手に翳し、放り投げた鞘がどこかで硬い音を立てるのを聞き、少年は真っ直ぐに向かい合うと、乱暴に右腕で顔の血を拭った。上着の黒に紛れるように、鮮血が染み込んだ。


「やっと、復讐できる」


 全ての人に聞こえるように、聞かせるように。静かな彼の声、「復讐」という穏やかでない言葉は、集まった人々に浸透する。一言一句聞き逃さない彼女は、彼の声が「復讐」となぞったのだと俄かに信じられなかったが、不思議なことに、機械を取り付けなくとも、少年の声はしっかりと鼓膜を震わせ、発した言葉を正しく頭に伝えるのだ。


「ぼくのこと、覚えていますか」

 真っ直ぐに刃先を向け、言葉よりも確かな敵意を剥き出す彼に、叔父は怒りに顔を赤くした。少女のただの協力者だと耳にしていたのみの男たちさえも、その様子には些かの困惑を隠しきれないでいる。少女の姿を背に隠すように、目に触れさせない立ち位置で、凶器を向ける少年が、それ以上の関係を持つ者だとは、彼らも予想だにしなかった。


 歯噛みする叔父は、正反対に冷め切った瞳を前髪の奥に宿す彼へ、生意気にと吐き捨てた。

「人の姪を誑かして、調子に乗りやがって。新聞配達のバイトの分際で、ちっと構われただけでいい気になりやがったんだろが。どうせ録でもねえこと言って、ここまで唆しやがったんだろ!」

 自分の所業を一切記憶から排除し、都合の悪い少年の存在だけを憎む男は、刃物さえなければ、今にも飛びかからんばかりの様子で激高する。


「あの時、とっとと轢き殺しちまえばよかったのか、ああ? 人の親戚に勝手に手出しやがって、ガキのくせに駆け落ちでも考えやがったのか、クソガキが!」唾を飛ばし、如何にも悪人は彼なのだと周囲に知らしめるように叔父は声を荒げる。


 それを見る彼の姿は至って冷静で、例え叔父だけではなく、野次馬の全てが敵になろうとも、まるで気にする様子などないまま、静かに、深く長い息を吐いた。

 見当違いの答えに呆れてしまった風な、その相手に言い聞かせるような、大人びた静けさは、確かに彼の持ち得るものだった。

「十六年前に、あなたが犯した罪で生まれたのが、ぼくなんです」

 まるで信じられない台詞に周囲や男たちはざわめき、身に覚えのある叔父は、まさか本人が目の前に現れるとはと、口の端を戦慄かせる。彼をよく知る少女も、今ここで、大衆の面前で自身が望まれなかった命であるという、巨大な劣等を彼が露にするなど微塵も想像しなかった。だが彼は、確かに言ったのだ。少女は、胸元で両手を握り締めた。


「彼女でなくても良かった。ぼくの復讐に付き合って、あなたをおびき寄せる種になるのなら、誰でも良かったんです」

 少女に、悲しい理解が及んでくる。向ける背中だけではない、彼は状況の根源から、大事な人を庇おうとしている。

「母を傷つけ、今も苦しめる、あなたの存在は許せなかった。刑期なんてもので世間が許しても、生き続けなければならないぼくは、許せなかった」


 彼は、自分を逃がそうとしている。


 その答えに行き着くと、あまりの苦しさに、少女の胸は張り裂けてしまいそうになる。桜庭菜々は彼にとって、巧みな言葉で簡単について来てしまった、何の関係もない真っ赤な他人。愛情や友情など欠片も存在しない、ただの客先であるというだけの相手。

 向けるナイフで叔父を挑発する彼は、計画の全ては自分が長年溜め込んできた恨み憎しみ、即ち果たすべき復讐の為なのだと、つまりはそう言っているのだ。


 突如現れた、本来の自分の片割れ。道理に従うならば、反省か、謝罪か、却って血の繋がりと呼ぶ情でも良い、そんなものが彼に対して働いても不思議ではない。

 だが、少年も少女も身を持ってよく知っていた。この男には、道理や倫理や道徳など、はなから存在しない。その証拠に、少年を睨みつける男の目は充血し、立派な敵意を向ける年端もいかない存在に、これ以上ない逆恨みを燃やしている。


「あの女が勝手に産みやがったんだ」

 二人の少年少女は、優しい人間だ。どれほど理不尽な目にあっても、無慈悲に涙を流す状況に陥っても、「それでも」とどこかで思ってしまうのだ。裏切られると分かっている期待を、それは裏切りと呼べるのかも分からない感情を、捨てきれずにいてしまう。だが、男が口にしたのは、そんな脆い強さを持つ二人ですら、絶句し、優しさで庇いきれなくなる台詞だった。


 舌打ちする男は吐き捨てる。

「散々嫌々言いやがって、本気で嫌ならとっとと堕ろせばいいってのによ。結局産んだんなら、あの女にも責任ってもんがあるだろうが。逆恨みだ、お前が俺を恨むんなら、知らねえ間に勝手に出てきやがったお前を俺が恨んだって文句はねえだろ」

 恨むべきは自分であるなどという、あまりに勝手すぎる言葉に、ナイフを握る少年の左手は、ゆっくりと下がっていく。

「十六年っつったな。あの女がぎゃあぎゃあ騒がなけりゃあ、今頃はとっくに時効になってたんだ」


「クズめ」


 歯を鳴らし、少年が唾棄した。歯を食いしばり、歪める顔は、少女に見せたことすら、彼自身、一度も浮かべたことのない、人生で初めての、嫌悪と侮蔑の表情だった。


「よりにもよって開き直りやがって」


 いつも思慮深く、考えすぎるほど自身の言葉の意味を探ってしまう、丁寧な彼が口汚く吐き捨てる。それだけに、どれほどの怒りや、嫌悪や、悔しさや、やるせなさ。そういった感情が彼の中で激しく沸き立っているのかがわかってしまう。「それでも」という言葉など、今となっては、いつだって全てを許し自分を責めてしまう彼ですら、持ち得ることはできない。


「あんたには、本当に救いようがない。死んだって変わらないだろうな。それならせめて、血の繋がったぼくが、責任もってこの手で殺してやる」

 異様に静まり返った雑踏で、彼ははっきりと言い切った。深い海の底には、既に愛する生き物たちの姿はなく、赤黒く滲む、鋭く尖った憎しみは前髪に隠れることなどできないまま、自分を作った人間を睨みつけている。

 それでも、心のどこかに引っかかる、彼特有の優しさが、全ての判断を鈍らせた。元は自分のものではないナイフを、瞬時に彼は振るうことなどできなかったのだ。


 遥かに年下の、憎らしい少年が吐き捨てた台詞に、怒りに我を忘れた男が飛びかかった。

 伸ばした左腕で、まだ細い少年の首を握り締め、背からアスファルトに叩きつけると、その腹を左膝で押さえつける。くぐもった声を漏らす彼を地面に縫い付け、男は首を締めつける。

 あまりの苦しさに、少年は左手からナイフを取り落とし、両手で男の太い左腕を握り締める。だが、いくら両腕を酷使しても、既に喉を掴まれた後では、男の腕一本でも、抗うにはまだ力が足りなかった。

 血のこびりついた顔に、更に切れた口の端から血と唾液を細く零し、つまった声を必死に上げる少年にのしかかる男には、周りの様子すら見えてはいない。あれはまずいぞと、助けを呼び合う周囲の人間など最早構うことなどなく、ここまで追いかけてきた少女の姿さえ視界に入れることなく、猪突猛進に少年の動きを封じその呼吸を奪う。


「その目が気に食わねえんだ!」

 垂れる前髪の向こう、苦しげに細めながらも、はっきりと自分を捉える彼の瞳に、男は怒鳴りつけた。

 その右手が、取り落としたナイフを握るのに、少年は懸命に身をよじって逃れようとしたが、膝で押さえつけられた体は、自分より大きな体の下から這い出ることなど不可能だった。

 振り上げられる男の右手。新品のナイフの切っ先。

「俺が見えなくなりゃあ、ちっとは気が晴れるだろが!」

 口の端を無理矢理歪め、堕落した大人の笑みを浮かべる。人を人とも思わない。傷つけることに、傷つく心など持ち得ない。痛みに共感する感覚さえ存在しない。


 だから男は、少年に向けて、ナイフを振り下ろした。

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