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深海の星空  作者: ふあ
宣戦布告
58/63

疾走

 すっかり、街は夜の帳を下ろしていた。家路を目指す人や、これから飲み屋や遊び場に向かうのであろう、若者や中年の人々が行き来する街には賑わいが湧き上がり、昼間とは異なる雰囲気を呈している。


「走って!」

 あと少しだったのにと、歯噛みする時間さえ惜しく、彼は竦みかける彼女の手を握り締め、立ち止まらないよう声を上げた。金を払うことなど頭から吹き飛ばした男たちが、あっという間に店のドアをくぐり抜けてくるのを、振り向く一瞬で捉える。


 捕まれば全てが御終いだ。少女は恐らく、足の骨を折られる以上の目に遭い、生涯を叔父たちの金づるとして捧げ、汚される。邪魔をした少年にも間違いなく、同等か、それ以上の苦痛を与えることぐらい、軽々とやってのける。その中身が想像を絶する事態であることが、二人の背筋を凍らせ、足を震えさせる原因の一つだった。

 人ごみに飛び込めば、身体の小さな自分たちの方が有利だと踏んだが、隠れられるほどの人の波が見つからず、それでもぶつかりかける人を必死で避けながら、少女より一歩先を行く少年と、少年と手を繋ぐ少女は夜の街を疾走する。


「私のせいだ……」

 思いつめ、涙さえ滲みそうな声で、切らす呼吸の合間に彼女は絞り出した。これで捕まれば、黙っているよりもなお一層酷い目に遭うことは火を見るより明らかだ。

「私が、大人しくしてれば、こんなこと……!」

「ぼくのせいです」

 彼女の後悔を無理矢理声で諌め、彼は彼女を振り向いた。

「逃げようって言ったのはぼくだ。けれど、一番悪いのは、ぼくたちじゃない!」

 汚い怒鳴り声が後ろからかけられる。今すぐ止まらないと殺すと言う。殺されるわけにはいかない、だが止まれないと、二人は無我夢中で駆け、悪い大人たちから逃げ惑う。肩のぶつかった人の罵声を浴び、急ブレーキの自転車に撥ねられかけ、夜闇を蹴り飛ばす。


 走って、走って、走って。


 息が切れる。荒い呼吸の音に、支配されかける聴覚に、野太い男の声が重なる。決して足は止められない。


 一体自分たちは、どんな悪いことをしてしまったのか。愛する相手と言葉を交わすことは、手を繋ぎ笑い合うことは、それ程までに悪いことだったのか。自由を奪われ、人生を売り飛ばされるほどに、認められない違法行為に成り得てしまうのか。


 だが、どう足掻いても、腹落ちし納得する答えなど得られるはずがなく、我武者羅に駆けた。蓄積される疲労になど、後でならいくらでも襲われ、動けなくなってもいい。それでも今だけは、今この瞬間、逃げ切るまでは、足の重みなど忘れなければならない。


 滑り落ちそうな手に気がつけば、少年は右手を、少女は左手を一層強く握り合う。ただの疲れだけではない、覆い被さる恐怖に抗い切れる呼吸。

 少女の運動神経は優れていたが、少年の方が僅かに足は速かった。彼女が追いつけるように、しかし決して捕まらない速度を懸命に少年は探る。人と足並みを揃え、仲良く歩む誰かなど長年持たずに生きてきた彼は、今となっては誰よりも大事な彼女の足取りを、全身の感覚を研ぎ澄ませて感じ取る。決して容易いことではないが、彼女だけを置いて逃げる選択肢など初めからあるわけがない。鞄などは、とっくにどこかで投げ捨てた。彼女と逃げ切れるのなら、中身など、何一つ必要だとは思わない。


 見えてきた、点滅する青信号。広い大通り。あれを渡りきれば、後ろにいる男たちは、赤信号と車の流れに遮られるかもしれない。二人は、横断歩道に勢いよく足を踏み出した。


 地面に描かれた白い横線を踏みつける。一つ、二つ、三つ目。睨みつける信号は、最後の点滅を終える。


 差し込む真っ白な光。少女が右へ向けた視界を埋め尽くすのは、左折する強すぎるヘッドライト。

 何故、ではなく、どうして。

 どうして、あの時と同じ光が。雨は降っていないのに、バスにも乗っていないのに。


 お父さんは、もうどこにもいないのに。


 前よりも、大きいな。刹那の瞬間の中、彼女はそれを見上げてただ思った。



 迫るトラックが角度を変えたように見えたのは、咄嗟に前から後ろへ急ブレーキをかけ、彼女が驚く程の力で少年がその手を力強く、全力で引き返したからだった。彼は大きく一歩二歩と後ろへ飛び退り、竦んでしまった彼女を引き戻す。

 大型トラックが走り抜ける地響きのような振動を足の裏に感じながら、よろめく彼女は彼に抱きとめられた。逃れた歩道の上で、ようやく自分たちが轢かれかけ、彼の瞬時の判断のおかげで命を長らえたのだと知った。

 だがその隙は、追う者たちがあと数メートルまで距離を縮めてしまうのに、十分な後戻りだった。


「警察呼んで」

 反射的に彼女の前に出た彼は、惜しい時間の中で視界に入れた彼女に短く告げる。言葉の意味を彼女が理解できないでいる間に、いち早く飛びかかってきた大型な髭面の男へ地面を蹴った。

 腰を落とし、全体重をかけ、相手に組み付いて押し返す彼は、背後で固まってしまう彼女をもう一度振り返り、声を荒げる。

「警察呼んで、早く!」

 その声が詰まった。


 まだ軽い少年の身体では、相手を留められても、倒すことは不可能だった。自身の手の倍近くある拳で左頬を殴られた彼は、受身も取れずに硬いアスファルトに転げてしまう。

「鬱陶しい真似しやがって!」

 痛みに呻く彼に吐き捨て、数歩分先に佇み、揺れる瞳で少年を見つめる少女に、男は腕を伸ばす。

「離せっつってんだよ!」

 だが、その腕で彼女を掴むことができず、男は自分を引き戻す二本の腕に怒鳴り散らした。


 地面を這いずり、片頬を赤く腫らせた少年が、懸命に男の左足にすがりつき、うまく歩けないよう、引きずられてでも離さないでいる。乱暴に男は足を揺さぶり、彼を振り落とそうとするが、彼は細い指を相手のズボンに絡め、腕を巻きつけ、何が何でも離すまいと抗っている。

「何やってんだ、このクソガキ!」

 追いついた刺青の手のひらが、彼の髪を鷲掴んで無理矢理にでも引き剥がそうとし、足を掴まれる髭の男は、自由な右足を持ち上げると、邪魔な少年の顔面を踏みつけた。

 瞬く間に鼻血が溢れ、痛みに彼はくぐもったうめき声をあげたが、それでも手から力を抜くことはしない。鮮血が滴り落ちる夜に黒いアスファルトは、ぽたぽたと点状の赤に染められていく。


 このままでは、彼が大怪我を負ってしまう。少女は頭では十分理解していた。だが、その理解は十分すぎて、痛みさえも想像の範疇にあったから、彼の血を見ると思考が停止してしまう。どれほどの痛みと恐怖がそこにあるのか知っている。だから、彼の言うとおりに警察を呼ぼうとしても、バッグに入れる手が震えてしまい、中々スマートフォンを取り出すことができない。必死に駆けてきたのに、息は切れずに、唇がただ震えてしまう。警察を呼んで。警察を呼び、全てをバラすことなど、散々躊躇っていたはずなのに、彼はそう叫んだのだ。どうして。


 何事かと集まる野次馬に、さっさと彼女だけでも連れて行こうと、刺青を持つ男が手を離し足を踏み出す。

 すると、少年はすぐさま手を離し、曲げた足で必死に地面を蹴ると、歩きかけた男の腰へよろめきながら飛びかかった。倒されかけた男は、次第に苛立ちを募らせ、ずるずると手を滑らせながらもふくらはぎにしがみつく少年のしつこさに、周囲が振り返るほどの罵声を浴びせ、もう一人と共に幾度と足を振り上げた。


 一層の血で夜闇を染めながら、少年はあまりの衝撃に単音を詰まらせて蹲る。かん、と小さな音が響いた先には、白い歯が落ちていた。

 口元から真っ赤な血を流す彼を見て、少女は情けなく顔を歪めた。誰よりも穏やかな彼が、見る間に傷ついていく。自分を助けようとして、歯まで折られてしまった。

 心の優しい彼は、自分だけでも逃がそうとしているのに、少女は気がついたが、彼と同様、彼女も彼を見捨てて自分ひとり、無事に逃げ切ること真似など決して許すわけにはいかなかった。

 だが、そうでなければ、彼の痛みは、この傷は、どうして意味を持つだろうか。二人共に捕まってしまうなら、今こうして殴られ蹴られる姿は、ただ、悲惨な結末への前座にしかなりえないのか。


「誰か、警察呼べ!」

 見知らぬ野次馬の大声。

 歯を蹴り折られ、血を流す彼は、地面に崩れそうになりながらも、それでも手を離してはいない。予想外に人を集めてしまったことに焦燥を覚え、怒りの矛先を少年に向ける短絡的な男たち。足を掴まれる刺青の一人は、空いた片足で彼の頭を踏みつけるが、彼はその足首にすがってでも、恐らくこれから指を踏み折られるのだとしても、離しはしない。


 逃げ切れないと踏んだ彼の思惑を理解し始めた彼女は、一人、また一人と増えながら遠巻きに自分たちを囲む野次馬の向こうに見つけた色に、血の気が引くのを感じた。

 あの夜、何本もの腕に引きずり込まれた黒いワゴン車。

 ぶるぶると手が震えるのを止められない。震える足は、一歩退くだけで、顔は助手席から下りてくる男を見たまま、逸らすことができない。細い呼吸が漏れてしまう。今朝聞いたばかりの恐ろしい台詞さえ思い出してしまう。


「そんな……」

 もう二度と会うつもりのない、会いたくない男だった。この男と血の繋がりがあることを、叔父などという名称で呼ばねばならない立場である悔しさは、幾年も耐えることはなかった。

 ため息に似た彼女の声は、届くような声量ではなかったが、彼はその絶望を耳にしたかのように、運転席の男を従え、さも少女を心配する親戚といった顔で近づく男に視線を向けた。


 途端、どれだけ蹴られても離さなかった手をあっさりと解き、一度よろめきながらも、少年は立ち上がる。そんな彼の姿を見つけた叔父は、頬の端をひくつかせる憎々しげな顔で彼を見やると、汚い言葉を吐こうと口を開いた。

 だが男は、放とうとした言葉をそのまま飲み下す。


 二本の足で立つ少年は、少女の叔父に、自分の実の父親に、左手に握るナイフを向けていた。

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