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深海の星空  作者: ふあ
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逃亡の朝 1

 午前四時に至る前、少女は家に帰り着いた。時間は殆ど残されておらず、いつもより一時間以上早い時刻には、彼が家の裏まで迎えに来る算段となっている。


 音を立てずに家の鍵をかけ、玄関に滑り込むと、そのまま足音を忍ばせ二階への階段を上がった。家中の電気はすっかり消え、悲しくも幸いなことに、母親は寝室で深く眠り込んでいる。


 ドアを小さく開け、細い光の筋が部屋中を照らしてしまう前に、少女は母の眠る寝室に静かに入り込みドアを閉めた。カーテンと窓の隙間から差し込む星の灯りは、その表情を読み取ることが可能なほどの光源にはなってくれる。

 決して起こしてはならないと、すっかり熟睡している母親の姿を、足元から改めて目にし、随分と疲れているようだと、ようやく少女は気がついた。思えば、父がいなくなり、あの叔父がやって来てから、母の姿に真正面からきちんと向かい合ったことが、幾度あっただろうか。


 少年の話を聞いて、思い立ったことだったが、こうして幾年もの心労を重ねてきた風貌を目にすると、胸の奥がぎゅっと縮こまる。見て見ぬふりを繰り返す母親に、まっさらな気持ちなど二度と抱けないが、かといって、恨み憎むことなど、永遠に出来そうになかった。母は、耐えられなかった。最愛の夫をある日突然失い、幼い娘と二人きり、この世に残された孤独は、大人であれど消化仕切れなかったのだ。大人だからこそ、将来を見通し、悲観し、嘆いてしまったのだ。

 お母さん。少女は声に出さず、母を呼んだ。


 私、好きな人がいるんだよ。


 その人は、とても私を大切にしてくれる。幸せになるためなら、その命すらなげうつ覚悟を見せてくれる。だから私ね、居たいんだ、その人が居る世界に。

 滲みそうになる視界を右腕で拭い、そっと視線を移した。嘗て父が眠っていた空間は、母がいつでも抱きしめられる場として、いつまでも残っている。母の中にも、愛おしい存在は、いつまでも消えず、そこにいるのだ。

 だからきっと、大丈夫。お母さんは、これからも、大丈夫。

 元気でねと、母の寝顔を瞼の裏に残し、永遠の記憶として留める少女は、そっと部屋を出ていった。



 自室に帰ると、デスクのスタンドの明かりの下で手早く着替え、目に入ったあの日のショルダーバッグを引っつかむと、思いつく最低限の荷物だけ詰め込んだ。寝室で思う以上に時間を流してしまい、持ち物を吟味する時間など残されていないと卓上時計が告げる。


 焦っていた為か、少女が気がついたのは、足音が二階に到達した時分だった。不本意だが、足音のみでも、それが世界一望まない人間の持ち物だと彼女には分かってしまった。

 だから、とっさにバッグをベッドの下に放り込み、髪をかいてわざと癖を作り、素早い深呼吸を一つ。決して焦る様子など微塵もなく、部屋のドアを開け、煌々と明かりのついた廊下に出ると、わざわざ階下から上がってきた男と向かい合う。この男が潜む可能性を考慮せず、一階を確認しなかった数分前の自分を、少女はひどく悔いた。


「今日、泊まってたんだ」

 冴え切っている頭で、眠たげな様子を作り上げ、後ろ手でしっかりとドアを閉め、まさに殺す計画を立てていた男を少女は見上げる。怖がるな、怖気付くなと、背を向けて部屋に逃げ込み、鍵をかけたくなる衝動を懸命に堪える。

「どこに行ってたんだ、もう朝になるぞ」

 質問に答えない男は、いつも自分が彼女を連れ回す時刻を都合よく記憶から消し去る。まさか、親父面しやがるのかと、吐きたくなるような嫌悪感に彼女は包まれる。

「友だちと、ちょっと出かけてて。時間忘れてただけ」

「菜々ちゃんに、そんな友だちがいたなんてな」

「いいでしょ、いたって」

 不本意に図星を突かれ、彼女は募る苛立ちを懸命に押し殺すが、叔父の不審な視線は彼女の全体像を舐めるように覗う。腕を組み、せめて顔を背ける少女の演技は見事なものだったが、更なる確信を持つ男は、苦々しく顔を歪めた。


「あいつか」

 あいつって、誰だ。妙に納得している相手に向き合う彼女に、額を突き合わせんばかりに身を乗り出し、男は呻いた。

「新聞配達のガキか」

 瞬時に止まってしまった心臓を何とか動かし、少女はわざと眉根を寄せ、初めて聞く単語のようにその言葉を反芻する。

「新聞?」

「不眠症の菜々ちゃんが、毎朝わざわざ構ってるそうじゃないか」

「なにそれ。子どもが配達してたの、うちって」

 見る者は確実に叔父の勘違いだと思い込む、初耳だとばかりに首元を軽くかく仕草は、呼吸をするような自然体だったが、叔父には彼女の返事など、最早問題ではない様子で詰め寄る。

「今更とぼけたって、騙せやしないぞ」

「だから、なんのことって……」

「いつも早起きして、まるで別人の習慣だって話じゃないか」

 そこに出てきた母の名前に舌打ち仕掛けてしまう。半年の邂逅の中では、やはり同じ屋根の下に暮らす母親には、気取られる日ぐらいあったのだろう。


 相手の感情の高ぶりに、これ以上の誤魔化しは逆効果だと彼女は悟った。早くも、男の手は握りこぶしに固められ、誰かに危害を加えたくてうずうずしている様子だ。

「ちょっと話したことあるだけよ。歳が近いから」全ての関係の否定は観念し、何でもないと軽く首を振る。

「あんなガキのどこがいいんだ」

「別に、いいなんて言ってないよ」

「良くない相手に、こんな時間までつきあうか。中坊相手に、どこまでいったんだ」

「大した用事じゃないし、そんな関係じゃないし。話し込んで、時間忘れることぐらい、あるでしょ」

「俺は、心配して言ってやってるんだぞ」

「心配?」


 思わず、間の抜けた素の声を返し、乾いた笑みを顔に貼り付けながら、少女は腹の奥で大声で笑い、少年に呼びかけた。ねえ、聞いた、今の。心配だって、ばっかみたい。


「心配なんていらないよ。私もう、高二だよ。中学生なんかに引っかかる訳ないじゃん」

「現にかかってるから言ってるんだ。それに気づかないなんて、可哀想な子だ。この時代にガキのくせに、朝っぱらから新聞配ってる奴なんて、どうせ碌な生活送ってないぞ」

「なんで決め付けるの。働いてるだけなのに」言葉の刺を、懸命に少女は抜いていく。今はまだ、これで相手を刺すわけにはいかないんだ。

「そんな奴の気を引く前に、さっさとここから離れよう、朝になれば迎えが来るからな」

「朝? 今晩じゃなくて」

 虚を突かれ問いかけると、「ああ」と叔父が頷くのに、大きな失敗を犯したのだと、彼女は気がついた。すっかり、奴らが来るのは夜だと思い込んでいたが、常識の通じない相手に、何一つ想像に近しいことなど起きはしないのだ。

「パッとしないガキじゃないか」

 一度だけ、少年は逆光で見えなかったと言ったが、叔父は彼の顔を見たことがあった。その時を思い返しているのか、叔父は記憶の中の少年に舌打ちする。


「あんなのといたって、菜々ちゃんは幸せになんてなれないぞ。それよりも、こっちに来れば何の心配もいらないし、菜々ちゃんは居るだけで十分な存在なんだ」

 満足げに、叔父は少女の顔を見下ろした。まさに手の中にいる、瑞々しい唇をきゅっと結び、黙ってこちらを見上げる彼女は、若く愛らしい。

「少し早いが、あいつらに電話して、今すぐ来るように言ってやる。飛んでくるぞ、菜々ちゃんの為なら。お母さんには、こっちから説明しておくから、荷物も何もいらないからな」

 伸ばされる手を、彼女は黙って瞳に映す。

「まあ、せめて、お父さんにお別れぐらい言ったほうがいいかな」

 体の中で、頭の中で、縫い糸のように細い何かが、こよりのように儚いそれが、ぷっつりと、音もなく右と左に分かれていった。


「ふざけんなクソジジイ!」

 腹の底から沸き立つ声を相手に叩きつけ、彼女は伸ばされた右手を、自分の右手で思い切り叩いた。これまで様々な罪を目にし、肌に感じてきたが、こうして暴言を吐いたことは一度もなく、殴られ教え込まれてからは、拒否の言葉を口にすることさえなかったのだ。

「誰が行くか! あんたなんか、とっとと死んじまえ! 二度と目の前に現れるな!」

 空気の弾ける音が聞こえたと思ったときには、少女は足元をよろけさせ、廊下の床に這いつくばっていた。左頬が熱を持ち、殴られたのだと気づいたが、胸ぐらを掴む相手を全力で睨みつける。今度こそ、いや、もう二度と、ただでは言うことなど聞くもんか。こんなことでは絶対に、自分を、あいつを傷つけたりなんかしないんだ。

「いい気になりやがって、小娘のくせに」

 苦しさに息を詰まらせる少女を軽く揺さぶる叔父は、これ以上は手を上げるべきでないと、息も荒く、希な我慢を見せる。彼女の母親を起こし、この光景を見せれば大きなマイナスになり得てしまう。

「いっそ死んだほうがマシだってな、思わせてやる。覚悟しとけよ」

 思い切り、彼女の頭を壁に突き放し、今すぐに仲間を呼び寄せてやると言い放つと、男は苛立った足音など微塵も隠す様子などなく、階下に下りていった。

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