逃亡の朝 2
恐らく瘤にはならないだろうと、痛む後頭部を撫で、それよりもじんじんと熱くなる頬を抑え、自室に引き換えした少女は、ベッドの下からショルダーバッグを引っ張り出すと、勉強机の足元から布の袋を取り出した。
スタンドの電気を消し、窓を開ける。袋から出した体育用のシューズを足にはめ、ベランダから見やる景色の中、敷地を隔てる塀を挟んで、最も会いたい相手の姿を見つけた。制服ではなく、シャツにジーンズ、黒いジャケットの、いつもの配達時の姿だ。家を見上げていた彼もすぐに気がついたようだが、窓を閉めた彼女の行動の先を想像すると、慌てた風に自転車のスタンドを立て、どうすべきか、ひどく困惑している。
深く息を吸い、尻込みする暇なんてないのだと、ベランダの手すりから身を乗り出し、家壁に取り付けられている雨樋に少女は手を伸ばした。我が家が、むやみに背の高い高級住宅ではない幸いを思いながら、手すりの上に立つと、伸ばした足を雨樋と壁をつなぎ止める金具にかけ、身体を二階の高さで宙に移した。きしりと軋む音に、鼓動が早まったが、雨樋がそれ以上嘆く声は聞こえない。
下は芝生だ、万が一落ちても、死にはしない。それより、一か八か、今しか逃げるチャンスはないんだ。言い聞かせ、雨樋に抱きつく姿勢から、手の力を軽く抜いてしゃがみ込み、滑る先で次の金具に足をかける。雨水で汚れた雨樋のおかげで、手にざらざらと嫌な感触が残るが、そんなこと、気にしてはいられない。この体重ぐらい支えてくれと、ゆっくりと膝を曲げて体の高度を下げていく。若干錆の浮いた金属は、体に掛かる重力を懸命に耐えてくれるが、恐怖に竦むほど長い時間など、もつわけがない。
残り三分の一程度は飛び降り、曲げた膝で衝撃を受け止めた。物音で家の中か、近所の誰かに気づかれる前に、庭と公道を隔てる肩ほどの高さの塀へ駆け抜け、天辺を両手で掴む。いきおいよく体を持ち上げ、足を上げ、もう少しとよじ登り、下で目を丸くする彼と視線を合わせる。
両手を伸ばした少年は、数歩後ろに下がってしまいながらなんとか踏ん張り、信じられない冒険を済ませ、よろめく彼女を抱きとめた。時間を数分過ぎても全く姿を見せてくれないことに、どうしたのかと心配を募らせていたが、まさかこうして現れるだなんて、露とも思わなかった。
「こんな、危ない……」
「早く。早く行こ、見つかったら、終わっちゃう」
彼女の早口に背を押され、とんでもない彼女の脱出から様々な事柄を察した少年は、口を閉ざして頷くと、止めてあった自分の自転車のスタンドを倒した。その音にさえ、叔父が勘付き、今にも現れるかも知れないと、電気の点いた一階を睨みつける少女を荷台に乗せ、少年はすぐさま自転車を漕ぎ出した。朝焼けにはまだ時間のある、坂の多い町を、二人を乗せた自転車はあっという間に駆け抜けていった。
その背中に語りかけ、彼が全てを把握した頃、少女は彼にしっかり聞こえるよう、背を抱きしめたまま問いかける。
「そっちは、大丈夫だったの。怪しく思われなかった」
「母が起きてて、びっくりしたけど。でも、大丈夫です」
「配達行くって?」
「早番だからって」彼が苦笑したのが、背を抱く少女には伝わる。「そんなの、一度もないのに」彼の嘘は、立派な真実として、今後永遠に家族に吐き通されるのだろう。
「出かけてたことは、言われなかった、何か」
「特に何も。放任主義だから」
「超放任だね」
「そう」
可笑しくもない話に笑いながら、自転車は信号の点滅する通りを横切り、テールランプと併走し、幅ぎりぎりの路地裏をすり抜け、立ちこぎにより更に加速していく。
彼女が不運にももたらしてしまった時間のロスを立派に取り戻し、街を知り尽くした彼は、タイムリミットの五分前には駐輪場に自転車を滑り込ませた。律儀に自転車に鍵をかけた少年と少女が横切った広場は、人っ子一人見当たらず、まだ眠りの淵にある駅前の時計台を、二人は足早に通り過ぎ、南口のある二階の高さへ階段を駆け上がる。脇にあるエスカレーターも、人のいない時分ではまだ動く気配を見せてはいない。
駅の構内に入り込み、改札を抜けると、始発で会社に向かうサラリーマンの姿がぱらぱらと見られるようになった。疲れを残している風の彼らが、学校に向かうには早すぎる時間にやって来た二人を、気に留める様子などない。
「ちょっとだけ」ようやく、明るい場所で向かい合うと、彼はそう言ってホームの中にある男子トイレへ駆けていってしまう。
こんな時にと、彼女は呆れてしまうが、身体のことは仕方がないと思い直した後の僅か数秒で、戻ってくる彼が手渡すのに、呆れたことを直ぐ様反省した。理由など言う必要はないと、話しはしなかったが、水で濡らされた青いハンカチを受け取り、彼が何も言わない通り、黙って頬に当てた。冷たい夜風に晒され、忘れかけていた熱がぶり返すのを、冷えた布は心地よく冷やしてくれる。雨樋を握ったおかげでついてしまった手の汚れを、叩いて落とした彼女が後ろに回り込むと、彼は不思議そうな表情をしたが、握られていたジャケットの背についた泥を払われると、照れたようにはにかむ顔を見せた。
並んで電車を待ちながら、向かいに見えるのは、ビルの隙間から顔を出す朝焼けと、まだ眠りたいとぐずつく街並み。薄まる青色に、不思議な白や紅色が混ざり、空の色はため息をつくほど美しい。この広い光景の中で、誰かを愛する思いや、殺したいほど憎く思う人々が押し込められて暮らしているとは、俄かに信じがたくさえある。
「どこまで行こうか」終点の切符を握り締め、少女が呟いた。
「どこまでも行こう。大人になれるまで」少女の顔を仰ぎ、少年が言った。
もしも選べるならと、少女は背後に置かれた観光地のチラシの一枚を指差す。あれから十年近くが経過しても、人々の心を惹く、一面の向日葵畑の写真。季節は過ぎてしまったというのに、取り替える誰かが忘れているのか、それとも変わったイベントがあるのか、鮮やかな黄色は紙面を広く彩っている。
「見に行こう」彼女の瞳に宿る懐旧を見取り、彼は目を細めて微笑んだ。「来年、夏になったら、一緒に」
そう、来年はやってくる。また夏が訪れ、ひとつ歳をとっても、この居場所ならば、変わらずに手を繋いでいられる。あの日、見られなかった向日葵を、並んで見に行くことができるのだ。どこか深淵に沈みそうになる心が、ふわりと浮かび、眩しい光に照らされるようだった。




