早朝の話
三年前、小学校六年生のある日、少年は朝早くに目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、一人で眠る枕元に鎮座する、目覚まし時計の針に塗られる蛍光塗料は、明け方の四時を指していた。うつ伏せてぼんやりとしていると、ぼそぼそと両親の話す声が薄い襖の向こうから漏れて聞こえ、二人が起きていることを知った。生まれてまだ半年の弟は、どうやら夜泣きのひどさは人一倍で、深夜でも明け方でも変わりなく、母や父があやして寝かしつける声がよく聞こえてきた。今夜の夜泣きも長かったのか、三人が眠る隣の部屋を出、リビングに移って寝かしつけたようだ。
夜が明ければ、母は朝食の支度を始め、父も普段通りに仕事に出なければならない。当然疲れているはずだ。夏休みに入っている自分とは違い、両親は眠りたい時に、目を閉じることさえできない。
それならばと、少年は眠い目を擦り、布団を這い出ると襖の方へ向かった。例え休日の明け方でも、次に目を覚まし、泣き始める弟を抱いて、泣き止むまであやすことぐらい自分にも可能だ。その間、二人は少しでも眠ることが出来るだろう。言われなくとも、お兄ちゃんの役割は、これぐらい果たせるのだと、無意識のうちに彼は背伸びをしていた。
拳一つ分ほど、音を立てずに襖を開けると、細い光が暗い室内に差し込み、両親の小さな声が先程より少しだけ大きく聞こえ、言葉も辛うじて理解できるようになった。覗き込むと、短い廊下の向こう、テーブルに向かい、こちらに背を向けて座る二人の姿があった。長い話の最中だ、次に言葉が途切れたら、ぼくが起きてると出ていこう。そう思い、目を離すと、背中を合わせるように壁にもたれて座り込んだ。
耳を澄ませる。
「あの子がいなければ」
間違いのない、母の声がした。
まるで、氷水を流し込まれたように、背筋が一気に凍りついた。息が止まった。心臓さえ止まってしまった気さえした。「あの子」というのは、今母の腕に抱かれている弟ではない、自分を指す言葉だ。
狭い部屋の中、自分の暮らす家庭が決して裕福ではないことぐらい彼は知っていたし、子どもというものは、さぞ金のかかる生き物であると、どこかで聞いたことがある。それが二人もいるのだから、今は弟のために休暇を貰っている母親も働きに出ても、変わりなく重荷は課されてしまう。
「今になって言ったって、仕方ないじゃないか」
怒ってなどいない、優しく穏やかな、いつもの父親の声。母の言葉に対し、怒りも動揺もない、慣れきった言葉に、二人のこの会話は、これまで幾度も繰り返されていたのだと、聡明な少年は悟ってしまった。
心臓が、うるさく鳴っている。そのせいで、息が切れる。駄目だ、これでは二人に聞こえてしまうと、胸元をぎゅっと両手で握り締め、背を壁に押し当てた。
これ以上、聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。けれど、知らんふりをして、平気でいられる気もしなかった。聞かないで、両親の本心を知らないでいる恐怖の方が遥かに大きく、恐ろしくて堪らない。
「覚悟して、生んだんだろう」優しい、父親の声。この苦労を、後悔を、知っていて少年を生んだのだと。
「……可哀想だったから……」
湿った母の声は、知りたくない真実だった。
だが、全てはずっと前から気づいていた。弟が生まれてから、その確信は一層揺るぎないものとなった。二人の実の息子である弟とは、明らかな差があった。今後も、誕生日を忘れられることなど、決して有り得ない弟に比べて、自分は必ずしも歓迎されない存在だとは、とっくの昔に気づいていた。父親にとっては、血の繋がりなど一滴も有り得ない子ども。母親にとっては、自分自身をこれ以上なく傷つけた事件を、一瞬たりとも忘れさせない存在。
それでも、こうして、言葉として形にされたことは、十余年の人生で、一度もなかったのだ。腹の立つことや、やるせない思いだって、数え切れないほどあったに違いない。それでも、手を上げるどころか、暴言一つかけられたことはなかった。
「私も若かったから……。とっくに時期も過ぎて……殺すことなんて、できなかったのよ……」
出来ていれば、殺していたのか。選べていれば、望まない命なんて。
苦しい、苦しい。息が、できない。涙が出ない。胸がぐしゃぐしゃにかき混ぜられ、頭は真っ白になってしまう。それぐらい、知りたくない。それなのに、知っていたい。
「最初から、やり直せたら……」
最初とは、どこからなのか。きっと、自分を生かすか殺すか、その選択を含む場所だろうと、少年は涙の零れない瞳で暗い天井を見つめた。
やり直していたら、一ノ瀬広樹という少年は、生まれなかった。この世に存在しないまま、消えてしまっていた。
両親が真に望むのは、そうした世界。
静まり返った空気を、聞き慣れた幼い泣き声が突き破り、近所迷惑にならないようにと、急いであやす両親の声がする。これ以上は、何も聞く必要はない。自分は起きているだなんて、出て行くどころか気づかれてもならないと、彼は手を伸ばして、誰にも知られず襖を閉めた。
全部知っていた、だから、涙は出ないのだろう。そう、全ては今に始まったことではない。弟に向けられる、至極自然な両親の愛情と、嘗て自分に向けられた歪な姿の差異など、仕方のない当然のものなのだ。わかってる、理解している、知ってるんだ。
それなのにと、膝を抱きしめた。頭を埋め、喘ぐように呼吸をすると、潰れる胸が震えた。知ってるよ、大丈夫、何も変わらないから。そうして自分に語りかけても、悲しいと誰かが心の奥で泣きじゃくる。どうしてどうして。どうしていっつも、ぼくだけが。なんでこんなに、悲しいの。
やがて、気づけば、辺りは更に沈んでしまっていた。深度は更に深まり、深海の果ての果て、細い光も、一層薄まる世界に、一人で蹲っていた。時たま、思い出すように通りかかるのは、珍しい、見慣れない生き物の姿だけ。
一ノ瀬広樹という少年がこの世に生まれた日、笑っている誰かなど、一人もいなかった。心からの賞賛もねぎらいも、喜びさえ存在せず、ただただあるのは、悲嘆と絶望。記憶に在らずとも、彼はそのことを十二分に知っていた。自分が生まれ、ようやく会えたと喜ぶ祝福の笑顔など、どこを探しても、出てきやしないのだ。
自分を生かしているのは、情と名がついても、望む愛情ではない、哀れ悲しむ同情であると聞かされると、朝は恐怖に変わった。幾度も、夜中に目を覚ましてしまい、眠れなくなれば、夜光塗料が朝の四時を示す頃には、心臓が早鐘のように鳴り、眠るどころではなくなった。瞼を閉じ、両手で強く耳を塞ぎ、懸命に海の底へと潜っては、誰もいない、何も聞こえない海底で、ただじっと、時が過ぎるのを待った。あの両親の会話が繰り返される気がして、朝を迎えるのが恐ろしくなってしまったのだ。父は連日、遅い残業で疲れていた、母も、神経の細い赤ん坊の面倒にくたびれてしまっていた。だから、普段は口にすることのない弱音だったという可能性は大きい。けれども、空気を震わせた台詞は真実なのだ。
すっかり参ってしまった中で、考えた末、朝を家で迎えない方法として見つけたのが、新聞配達という仕事だった。今後弟の夜泣きが止めば、家族の誰よりも早く起きて、合理的に家を出ることが出来る仕事があると、学校帰りにある専売所の人員募集の張り紙を見つけて思いついた。
加えてもう一つ、仕事を始めようと決定的に思い立ったのが、申し訳なさそうな両親の言葉だった。中学受験をする同級生がいるらしいと、何の気もなく会話に出したある夕食時、公立ならともかく、わざわざ金のかかる遠くの私立への進学は考えないでくれと両親は言い、持ち上がりの公立へしか微塵も考えていないと少年が当然として言うと、彼らはどこかほっとして顔を見合わせた。
だが、続けて高校は諦めてくれと言われたのは、僅かな予想があったにしろ、嬉しいことではなかった。将来を真剣に考えたことはなかったが、漠然と、普段目にする小説の主人公のように、義務教育を終えれば、そのままどこかの高校に向かうのだと、自分の人生も、他人のレールと相違ないものだと、考えるまでもなかったから、咄嗟に笑顔は見せられなかった。
義務教育が無事に終われば、この家を出よう。卒業すれば、自分の力だけで、働いて生きるのだ。
その晩、弟が眠った夜遅く、新聞配達をしたいのだと、両親に打ち明けた。朝が怖いから、などと本心を語るわけにはいかなかったが、中学を卒業して家を出れば、その時に金が必要になるからと、説得した。同意は得られたが、ただ、「説得」という苦労が似合うほど、両親に迷う素振りがないことが、どこか寂しく思えた。
後に、中学受験に盛り上がる同級生や、中学校に上がる直前、最後に絆の思い出をと青春を謳歌するクラスメートを尻目に、小学校を卒業すれば雇ってくれると、渋い顔をしながらも許してくれる専売所を苦労の末見つけることができたのだ。




