家族
日付を越えたアナログ時計の針が示すのは、零時半。電車やバスも、明け方の発車を待つばかりの時間だ。
「始発って何時に出るんだろ」
泣き腫らした目を擦り、ベッドの端に腰掛けた彼女は問いかけた。中高生のみの力で、最も遠くへ手早く向かえる手段といえば、始発の電車に乗るのが一番だ。
「えっとね……」
正面に立ち尽くし、壁掛時計を見上げていた少年は、スクラップとカバーを直した手帳をぺらぺらとめくり、ページの上を指でなぞる。彼の手帳には、街を走る電車の時刻表もメモ書きがされていた。
「駅によって違うけど。一度家に帰るなら、緑ヶ丘のほうが近いよね」学校へ向かうため、いつも利用する駅の名だったが、彼女は首をかしげた。
「それと中央だったら、どれぐらい時間違う。どっちが早い」
「緑が丘だったら、二十分遅くなる」
「そんなの駄目。さっさとしないと」
「それなら、中央にしよう。迎えに行くよ」
少しでも、この街を出る時間は早い方がいい。だが、駅で待ち呆ける時間が長ければ、誰かの目に留まる危険性もある。それを踏まえれば、彼が自転車で迎えに来てくれるのが一番かと、彼女は思案顔で頷いた。
「上りと下り、どっちがいい」
「早い方」
「じゃあ、上りの五時五分」
「ほんとに便利だね、その手帳」
少女の褒め言葉に、少年は未だに濡れて光を反射する瞳を瞬かせ、少し照れくさそうに、どこか誇らしげに笑みを見せる。学校の時間割から、配達のシフト表、幼い子どもへの言葉を書き続けた、手に収まる大人びた手帳は、彼の分身のようにも彼女には思えた。
「自転車で、駅まで急いで頑張れば、三十分ぐらいで着くから」
「それなら、三時くらいにここ出よ」家にいる時間も最低限であるべきだと、彼の言葉に頷いた。
別れの言葉を口にできずとも、少々の準備と、気持ちの忘れ物をしないために、当分帰れない、もしかすれば一生戻れない家に帰る時間が、ふたりには必要だった。
時間を合わせるために、それぞれ順番にシャワーを浴びて、元の通りに着替えるとベッドに横になる。瞳を濡らす涙を洗い流す姿は、共に相手に見せたいものではなかった。
「寝ないの」
左手側で仰向けになる少年に、横を向いた少女が話しかけた。
「寝ちゃって、起きられなかったら困るし。それに、頭が冴えちゃって、眠れない」
「私も」
少女の不眠はいつものことだったが、毎日規則正しい生活を送っている少年も、今はすっかり眠ってしまう気にはならなかった。二人は、木板の見えない、高くない天井を見上げ、シーツに身を預け、眠れない時間を過ごす。
「ねえ」呼びかけると、少年が振り返る。「お母さんと、お父さんのこと、好きなの」
彼女の問い掛けに、彼は、湿った前髪が、重力に従い垂れるおかげで、隠せない目を細めると、微笑んだ。
「好きです」静かな声。「家族三人、みんな、ぼくは大好きです」
生みの母親と、育ての父親と、片親の違う弟。その三人を、彼は、彼女に向けるには幾らか違う感情を持って、彼女同様に愛していた。
「だから、喜んでもらうと、本当に嬉しかった」
小遣いではない、自力で手にした新聞配達の賃金で、頼まれてもいないお使いに自主的に向かう彼は、家に帰って向けられる笑顔を目にすることに、大きな意味を見出していた。家族の一員として、自分の役割を果たし、認めてもらうことが、孤独な彼の心の支えだった。
「そこまでしないと、いけないの」
だが、そうでなければ、家族は三人と一人に別れてしまう。条件付きの四人家族でいることは、果たして彼の幸福に繋がるのだろうか。
彼の口元は、変わらず優しく笑っている。
「勝手にしてるだけなんです。母も、父も、ぼくと同じ。少し不器用で、上手な家族の接し方が分からないだけ。時々、誕生日を忘れちゃうだけなんです」
「それって、相当悲しいことだよ」
「精一杯なんです、みんな」これまで幾度か、誰にも祝われない、記憶にすら浮かばない、自分の生まれた日を、彼は過ごしたことがあった。だが、そこに悪意など微塵もなく、どうしても塞がらない溝と、それを思い出し気に病んでは後悔にくれる両親の心を知っていれば、彼が愛しい家族を恨むはずがなかった。
「母は……お母さんは、ぼくが熱を出した日、会社を休んで一日中傍にいてくれた。お父さんは、小さい頃、父親参観に来てくれて、帰りには手を繋いでくれた」
「それって、あんまり珍しいことじゃないよ」
「それでも、家族がすることだから。ぼくらには、家族でいるっていうことが、難しくって、だけど、一生懸命、家族でいるんです。形だけにしか見えなくても、お互いを、頑張って大事にしてきてるんです」
その中で、弟は無邪気に明るく育ってきた。何の疑いもなく、少年をたった一人の兄として、残酷な事実などまだまだ知る由もなく、保育園に迎えに来る彼を待ち侘びているのだ。あの子がすべてを知ってしまえば。嘗て彼が言った「全て」の意味に、ようやく少女は気がついた。
「じゃあ、それならさ……」
「でも、限界はあった。ぼくは、気がついてた、ずっと前から、本当は」
本当に自分に付き合い、街を離れていいのかと、彼女が迷いを口にする前に、彼は視線を彼女の顔から天井に戻し、きっぱりと言い放つ。
「ぼくが、新聞配達を始めたのが、その理由なんです」
腹の上で軽く両手を組み、天井のくすんだ白を見上げ、吐息のような言葉を落とす。彼の瞳に映るのは、現在ではなく、心に残る過去の光景。少女には見ることのできない、彼だけが知る、その世界。
少年は、ゆっくりと語り始めた。




