幸せと引換えに 1
ある日突然、少女は姿を消した。
何の前触れも感じさせないまま、少女は少年の前に姿を現さなくなった。元来不眠症の彼女は、毎日欠かさず、五時半の早朝に起きて出てくるわけではなかったが、この数ヶ月間、三日を超えて顔を合わさないことは一度もなかったのだ。
どうしたんだろう。変わらずに、毎朝新聞を配達する少年がいくら首を傾げても、答えを与えてくれる者はおらず、新聞を解約したり、停止するという話もない。ばかだねと、からかっては笑ってくれる彼女は、姿を消して一週間が経っても出てきてはくれない。
彼の心に転がる不安の種が、毎朝彼女の家を訪れるたびに水と肥料を得ては不本意にも成長していった。朝の冷えた空気を一人で泳ぎ、一本八十円の自動販売機の前を通り過ぎ、「桜庭」の表札の前までたどり着いては見上げてみたが、そもそも彼は、彼女が寝起きする部屋すら知らなかった。見当をつけようにも、早朝には全ての電気が消えてしまっており、朝の様子だけでは、人が住んでいるという確信すらも得られない。
だが、昨日届けた新聞が姿を消しているのは、この家の誰かが、毎日新聞を取り込み、生活を営んでいる証拠だ。母子家庭で兄弟もいないという話だから、それは彼女か、彼女の母親だろう。時折、吐き捨てる愚痴に含まれる、彼女が毛嫌いしている叔父が、例え入り浸っていたとしても、律儀に新聞を取り込む人間だとは考え辛い。
何か大きな不幸があったのか。外に出られないほどの病気なのか、それとも、何かしらの事故や怪我で、そもそもこの家に彼女は今居ないのか。答えを合わせる相手もいないまま、不安を募らせる少年は、短い配達の間、幾度も考えるが、彼は自分の仕事にきちんと責任を持っていた。中学生といえども、二年を超える仕事の中、自分の立場をよくわきまえていたから、玄関どころか、これまで門より内側に足一本踏み入れたことさえ一度もない。それはいけないことだと自分の感情を抑え、その足でペダルを踏み込んだ。そうして、大事な家の手伝いをおざなりに、放課後は遠回りの先の公園で、六時のメロディーが時計台から流れるまでベンチに座っていたが、彼の姿は、いつもひとりぼっちだった。
少女が少年の前から姿を消して二週間が経ち、不安の芽がいよいよ茎を伸ばし成長し始めたある朝のこと。緑ヶ丘第二中学校の始業時間十分前の、最後の曲がり角で、少年はいきなり後ろから腕を掴まれた。
唐突な現れ方に、咄嗟に声も出せなかった彼の前に立つのは、制服姿に鞄を持つ、今朝も顔を見なかった少女だった。他の生徒もぱらぱらと姿の見える場所で、二人が出会うことはこれまで一度もないことだった。
喜びよりも戸惑いに、前髪の奥で目を見開く彼の腕を、ぎゅっと掴む彼女の顔は至って落ち着いている。これから駅まで走ったとしても、高校の始業時刻にはとうに間に合わない時間だったが、彼女にそれを気にする様子はまるでない。
「ねえ、今晩空いてる?」
近くを通りかかる制服の誰かが興味深そうに振り向いても、聞き取れないほどの小さな声量で問いかける彼女に、「今日?」と彼は短く返した。彼にとっても、周囲に気づかれるか、囃されないかと思い悩む余裕などまるでなかった。それだけ、腕を掴む彼女の手には力が入っている。
「空いてなくても来てよ」
いつも通り強引な、それ以上に言葉に焦りを見せる彼女に、でも、と彼は呟く。
「明日も学校だし、新聞配達あるし……」
「いいの、お願い。これだけだから」
意味深な台詞に、深い説明など許さず、少女は少年に、夜になったらみどり公園に来てくれと言い放ち、手を離した。二人でいる姿を、既に通学路の五、六人に目にされたが、最も避けたいはずの出来事でさえ、今の彼女は、視線をやることさえしない。
ただ事でない緊張感に逡巡する彼は、手を離されても、遅刻が確定しても、踵を返さず、やがて頷いた。
みどり公園は、比較的広い公園だが、背の高い時計が午後九時を示す平日となれば、人の姿はなくなり、街灯に置いてけぼりにされた闇があちこちに蹲っている。その闇をなんとか逃れ、半分だけ光を得るベンチに、明るい声がかけられた。
「待った?」
秋の虫が鈴の音のような鳴き声を、雑木林で響かせる中、いつもの通学鞄を手に提げた少女が、所在なくベンチの暗い方に座り、眠っているように俯いている少年に歩み寄る。果たして、少年が眠っているはずがなく、ぱっと上げた顔の中、揺れる前髪の向こうで、彼は不安げな情けない目にも、どこか安堵を抱いて、首を横に振った。
「嘘つき。あんた、家にも帰らなかったんでしょ。もう九時だよ」
いつもの声で笑われ、彼は彼女が眺める通り、自分の制服のズボンやシャツ、脇に置いた鞄に目をやり、言い訳がましく呟く。
「もし、行き違いになったら、困るから……」
そう、時間の指定は一切なく、彼の言い分は至極正しいものだった。
「いいの、帰んなくって。家は」
「電話、しておきました」
「なんて」
「急用で、泊まってくかもしれないって。……友だちと」
「大嘘つき」
ひどい台詞を被せながら、彼女は誰もが認める愛らしい笑顔を咲かせる。咲き誇るコスモスのように美しく、細やかな金木犀のように儚ささえ感じさせる笑顔に、誰かを責める残酷さはない。
「来てよ」
言い放ち、背を向けて顔だけを向けるのに、少年は黙ったままベンチから腰を上げた。手に持ち、肩に下げる鞄はいつもより重く感じられるが、嫌な予感などはとっくの昔に過ぎ去った。彼女が再び目の前に現れた、この現実を覆す落胆や悲観を携える未来が彼には想像できなかった。どこに連れて行かれるのか、例え驚きはしても、決して後悔はしないと、それよりも、彼女が伝えようとすることを、絶対に逃してはならないと信念を固めた。
不機嫌にさえ見えるほど、口角が下がるまで口を引き結んだ彼は、今回は鍵の落ちる音に動揺する気配はなかった。鍵を拾い、挑発的な笑みを浮かべる彼女が見据えても、その視線をはっきりと受け止める。やれやれと、わざとらしく肩を竦めた彼女が歩き出すと、彼は無言でついて歩く。
「生意気な目しちゃってさ。がきんちょのくせに」
階段を上がり、二階の廊下を誰ともすれ違わないまま、少女は部屋の鍵を開けた。
「鍵、締めときな。逃げたかったら今のうちだよ」
言い放ち、さっさと奥へ進む彼女が聞いたのは、かちゃんと鍵のかかる音。
今更怖気づいて逃げ帰る気など、毛頭なく、いつまでも説明をせず、その意図を見せない彼女の様子に、彼は憮然とした表情のまま、部屋の入り口に立ち尽くした。
ベッドの脇、サイドテーブルに乗るスタンドの明かりが眩しい。鞄から引っ張り出したビニール袋を軽くローテーブルに放り、鞄をぽいと投げた硬いソファーに少女は勢いよく腰を下ろした。反発性の強いソファーは、彼女の体重程度では、大きな凹みを見せない。
「これ、食べていいよ」
ひらひらと左手を振り、テーブルに転がる袋を示す。横倒しのそれから、鮭と梅干のロゴが張り付いたおにぎりがころころと転げていた。
「なんか、帰ってもさ、晩御飯食べる気なくって。どこかで食べようって思って買ったんだけど。あんた、何も食べてないでしょ」
彼だって、昼の給食以来何も食べていないはずだ。だが、少年は腹の減りなど少女同様に感じないのか、自分の鞄を足元に落とすと、袋を一瞥しただけで、すぐに視線を彼女に戻してしまった。
以前とはまるで別人のような姿だが、その真摯な思いは変わらない。前髪に隠れる瞳は、相変わらず深く真っ直ぐに彼女を見据え、今度こそはと離さない。口にこそ出さないが、この二週間の出来事を、彼女の考えを、今の状況を余さず話してくれと、急かす言葉も口にしない彼は問い詰める。
変わんない奴と、軽い笑みを浮かべ、ようやく彼に向き合った彼女は笑って言った。
「私、あんたが嫌いになっちゃった。別れてよ」




