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深海の星空  作者: ふあ
ノンフィクション
42/63

幸せと引換えに 2

 彼は、あらゆる想像をしていた。

 だが、その全てを裏切られ、予想だにしなかった台詞に、虚を突かれて見る間に目を丸くする。澄んだ黒い瞳を大きく見開き、一度も聞かされたことのない台詞を投げかけた彼女に、どこかかすれた声を返した。


「なに、急に……」

「だから、嫌いなの。だーいっきらい。もう付き合ってらんないって言ってんの」

「ぼくら、付き合ってたんですか」

「違うの?」


 一瞬、彼女もきょとんと目を開き、途端に声を上げて笑った。笑えもしない彼と自分には、そもそもに大きな齟齬が、食い違いがあったのだと、今となって思い知り、そのおかしさが中々止んでくれない。

 そういえば、すべての順番が狂っていたし、付き合えと言った覚えさえない。


 細い腕で腹を抱え、ソファーに転げて笑っていたが、やがて、はあ、と笑い疲れたため息をつき、彼女は片手で髪をかきあげ、すくっと立ち上がった。長く艶のある黒髪に部屋の明かりがさらさらと流れていく。

「好きだって言ったんじゃん。察し悪すぎでしょ。弟見習いな」

「好きなら、一緒に居れば付き合ってるってこと?」

「あーもー、めんどくさ! 頭悪すぎ!」

 ほんの数秒前までの笑顔をすっかり打ち消し、両腕を組み、苛立ちを顕に眉間に皺を寄せ、少女は少年を睨みつけ、吐き捨てた。


「嫌いになったの。もう会いたくなんてないからさ、これで最後にしてよ。好きにしていいからさ。やりたきゃすればいいし、でもこれで終わりだから」

 予想だにしなかった少年にとっては、聞き違いだと信じても余りあるほどに、残酷な言葉たちだった。これまでの全てを打ち消し、この部屋を出るときが、何もかもの最後だと、彼女は言い切っているのだ。この建物にやって来て初めて、少年は情けなく口の端を僅かに歪めた。


「どうして、嫌いになったんですか……。ぼく、あなたに、何をしてしまったんですか」

 それなら全てを謝ると。二度と繰り返さないからと、途方もない後悔を秘めた彼の声に、彼女は冷たく言い放つ。

「別に何も。あんたが嫌いなの。そのものが。一ノ瀬広樹っていうやつが。わかる? だからどうしようもないの」

 いつも少女は、少年を「あんた」と、あまり綺麗ではない言葉で呼び、滅多に名前を口にすることはない。それなのに、その喉を震わせる、少年の本当の名前が、こんな悲しい台詞に結びつくだなんて。


 彼の表情が、苦しさに歪んだ。呼吸が辛いのか、一度、正面にいる彼女にもわかるほど、肩を動かして大きく息を吸った。

「それなら、ぼく、頑張るから……あなたが、嫌いなところを、なくせるように……。変われるように、頑張るから」

「そのものって言ってるのに、変われないよ、さっき言ったじゃん。そんな馬鹿なのが嫌なの」

 しっしと犬を追い払うように、片手を軽く振る少女に、少年はなおも食い下がる。

「なら、ちゃんと、勉強するから……。あなたが行っているような、高校に行けるぐらい、頑張るから……!」

 どこか幼い彼らしい台詞だった。頭が悪いと言われれば、それが嫌われる理由になり得るのなら、頑張って勉強するなどと、彼は稚拙な言葉を重ねるしかなかった。


 それでも、彼女はうっすらと酷薄な笑みを浮かべている。今更どれほど懇願し、頑張ると言い張っても許しはしないと、腕を組み、ぷいと体ごとそっぽを向いてしまう。彼女はこれまで、幾度も彼をからかい、時には冷たい態度を見せてきたが、ここまで突き放し、耳を貸さずにいたことは一度もなかったのだ。だからそこに、彼女の大きな覚悟があるのだと、悲しみに暮れる彼は悟ってしまう。

「……別れたら、どうなるんですか」認めたくない未来を認めてしまった世界を、彼は問いかける。


「どうなるって、そのままよ」

「もう、会えないんですか」

「当たり前じゃん。もう顔も合わせないし、声も聞かない」

 未練など毛先ほども存在しないと、顔を横向けたまま。彼女の整ったその横顔が明かりに照らされる。だがその顔を、二度と彼には見せないと彼女は言うのだ。


「配達に行っても、会ってくれませんか」

 出会ったきっかけにすがる彼をちらりと見やり、少女は嫌悪と侮蔑を見せつけるように口の端を歪めた。あんたが嫌いでたまらないんだと、今だって声さえ聞きたくないのだと。


「会うわけないじゃん、馬鹿。そもそも、あんな明け方に、私が外に出る理由なんてないんだから。なんで私が、別れたあんた相手に、わざわざ早起きしなきゃなんないのよ」

 早口で言い放ち、決定的な言葉を彼女は繋げた。

「お母さんにも言っとくから。新聞、他のとこに変えてって。もっと人生の為になる会社見つけたからって」

 そうすれば、決して彼が彼女の家に近づくことはない。彼が訪れるその理由は、仕事を伴わないのなら、成り立ちはしない。


 信じたくないと、必死になる少年は、信じざるを得ないと落胆し、思いつめ、掻き消えそうな声を振り絞り、硬い床にぽとりと落とす。

「それなら、一生……」会うことはない。

「そう、一生会うことなんてないよ。二度とね。そういうこと。そんだけ嫌いになったの。やっとわかった?」

「わからないです」

 我侭に首を横に振り、わかりたくないと言い張る彼に、彼女は一層鬱陶しく顔をしかめ、床を蹴るように爪先でつつき、苛立ちを見せつける。


「嫌だって言ってんじゃん、しつっこいな」

「ぼくは嫌です。あなたと、二度と会えなくなるなんて、そんなの嫌だ」

「うるさい、マセガキ」

「ぼくは、嬉しかったんです。あなたに会えるのが。声をかけてもらえるのが」


 駄々をこねる子どものように嫌だと繰り返す彼は、本当の気持ちをようやく彼女に訴える。無口で恥ずかしがり屋で、コミュニケーションの苦手な少年は、胸を絞る感情をやっとの思いで彼女に告げる。


「ぼくは本当に、誰かと喋るのなんて、苦手なはずなのに……だからいつも、下ばかり向いてたのに、あなたは、何度も話しかけてくれたから」

「そんなの、ただの気まぐれに決まってんじゃん。中学生で新聞配達なんてやってる人間が、珍しかっただけよ。自分だからって思い上がるなよ」

「思い上がったことなんて、一度もありません。それでも、あなたがそう思うのなら、それで構わないです」

 何を言われても、それでもと、彼は大きく首を横に振り、彼女の罵声に真正面から向かい合う。


「あなたと話すのは、苦しくなかった。一人で、何年も、海の底に沈んでいたはずなのに、あなたに、息継ぎをさせてもらえてる気がした。……ずっと伝えてなくて、今更、こんなに遅くなって。下手くそで、ごめんなさい」

 自分が大嫌いな彼が、何があろうとも大好きな彼女へ送る、二度目の告白。


「どうしても、大好きなんです。あなたがぼくを、嫌いになるのなら……もう、声も聞きたくないのに、こんなの、みっともなくて堪らないけど……。もう一度、頑張らせてください」

「……こんなに嫌いって言ってるのに?」

「あなたの姿がなかった二週間、朝が寂しかった。こんな寂しさ、ぼくは今まで知らなかった」


 誰かが隣にいた事実があるからこそ、寂しさという感情は生まれてくる。ずっとひとりぼっちなら、寂しいという気持ちさえ、知ることはできない。その事実を理解してしまうことでさえ、彼にとっては幸福の一つであり、だからこそ、思い知る寂しさの重みは、想像などを遥かに凌いでしまった。

「起き上がれないくらい重い病気にかかってしまったのか。それとも、何かの事故に遭って、怪我をして……家にもいられない状態なのか……。たくさん、いろんなことを考えて、怖くなりました。どうしたんだろうって、ずっと、あなたのことばかり考えていた」

 新聞配達の間は勿論、学校で黒板を眺めていても、弟を迎えに保育園に向かっていても、家の戸締りを確かめていても、いつだって、心を掴んでいるのは、大好きな彼女が消えてしまった理由だった。胸の潰れそうな苦しみに、彼は襲われ続けていた。

 緊張と、崩れてしまいそうな心と、それを懸命に奮い立たせる為に、大きくなる心臓の音でさえ、彼の胸を越えて、少女に届いてしまいそうな空間。


「あなたがぼくを嫌いでも、ぼくは嫌いになんてなれないんです」


「……このわからず屋。情けない。どんだけ女々しいのよ」

 深く深く、覗き込めば、人の住めない深海に触れられそうな瞳を、真っ直ぐに向けて言い切った少年に、彼女は僅かに声を落とし、返す言葉を留めた。腕を組み直し、視線を落とし、思案する少女の顔に、さらりと髪がかかる。


「じゃあさ」


 頬を引きつらせ、少女は髪を揺らして顔を上げる。その唇の端に宿る笑みは、彼の愛するものではなく、相手を見下げ、蹴落とすことに悦楽を覚えるように、ひどく大人びた悪い色をしていた。

 それでも、その笑みは確かに彼女のものだと、彼はぎゅっと口を結び、彼女の次の言葉を待つ。じゃあに続く、恐らく出される妥協案を、決して聞き逃さないように。

「私が、死んでって言ったら、あんたは死ぬの」

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