足音
嫌な音が聞こえる。少しずつ音は大きくなっていく。そんな音、聞こえないふりをして、少女はいつものようにからかいの言葉を口にし、少年は穏やかに笑ってそれを受け入れる。これだけでいいのに、なんでこんな足音が聞こえてしまうのか。
この音が意味する言葉など、気のせいだと懸命に彼女は背を向けた。「崩壊」の二文字など、あと半年もない日常の中で、感じたくないと思った。
夜中の零時過ぎ。町は沈黙を守り、並ぶ住宅から人工の光は既に消え去っている。ぽつぽつと点在する街灯と、その足元に設置された安い自動販売機が放つ光に、集まった蛾が羽ばたく、秋の夜。
言葉さえない無表情のまま、気づかないふりをする家を後に、彼女は見覚えのない車に僅かな違和感を抱いた。門の前に停まったのは、いつものグレーの乗用車ではなく、夜闇に目立たない黒っぽいワゴン車。助手席と後部座席から見通そうとしても、窓のスモークフィルムのおかげで中の様子ははっきりとしない。
叔父が下りてきたのが、予想していた運転席側ではなく、助手席であったことに、彼女は戸惑いを覚え、頬を引きつらせた。ちらりと見えた向こう側、運転席にハンドルを握る知らない誰かがいる。
「誰、あの人」
アイドリングに掻き消えそうな声は、それでも届いたはずだが、少女の細い手首は答えを得られず握られる。ふつふつと、彼女の中に恐ろしい想像が浮かび上がる。
「ねえ、これって……」
「お母さんは、寝てるよな」
やっとの思いで頷いた彼女に、満足そうに醜い笑みを浮かべると、早く去ってしまおうと叔父は彼女の手を引いた。
スモークの奥で、うずくまる黒い影が動くのに息を呑み、彼女は足を引こうとしたが、既に後部座席のドアが開いた後では遅すぎた。背骨がささくれ立つような、悲鳴さえも掠れる恐怖に襲われる彼女へ、伸ばされる太い腕が四本ほど。
少女が取り落とした通学鞄を、証拠隠滅にと拾い上げたワゴン車は、深夜の町内を逃げるように去っていった。
嫌だと一度叫び、殴られた時、少女は五年も前のことを思い出した。あの時も、切れた口の中から血を零していたと、当時と似通った虚脱感に身を任せてぽつりと思った。圧倒的な暴力には、心だけで敵うはずがなく、どれほど惨めで悔しくとも、心を殺して凌ぐしかない。五年前と異なるのは、そんな有り難くもない学びだけだった。
部屋に居るのは、五年分成長した少女と、その年数分老けた叔父と、彼女の知らない、叔父と同年代の見知らぬ男が三人。
殺せ。殺せ。自分を、殺してしまえ。意識のない、理由のわからない涙を乾かしながら、少女は一生懸命に自分の心を殺し、全てが終わる時間を待ち続ける。体に響く痛みに歯を食いしばり、嬉しくない褒め言葉に屈辱さえ感じる余裕も失った。ただ、金になると言った誰かの言葉の意味に、自分の未来を想像し、背筋を凍らせた。
時間の感覚がわからない、だからいつものよう、そう、いつも通りに見上げた天井で、板の皺を数えようと目を凝らしたが、白くくすんだ壁紙の貼られた部屋では、天井板さえ見つけられない。
いい子だと、誰かが言った。柔らかな頬を殴った手で、汗に湿る美しい髪を太い指に絡ませながら、彼女の子どもが欲しいと言った。息を切らし、シーツに顔をうずめる少女が聞いたのは、かといって、結婚などまっぴらだという低い笑い声。
「もう薬はないんだ、菜々ちゃん」
投げやりな台詞に、ソファーで煙草の煙をくゆらせる叔父へ、彼女は辛うじて視線を動かす。薬は今持っている分で最後だという、信じたくない台詞に、声の出ない口を動かすと、それが面白かったのか、四人の男たちは下品な笑い声を上げる。
「学校も行かなくていいように、お母さんには言っておくから、問題はないよ。菜々ちゃんだって、学校は嫌いだって聞いたぞ」
それでも、と言いたかった。だが、潰れてしまった喉は声を出してくれず、詰まった胸は上手な呼吸をさせてくれないまま、彼女は形にならない言葉を、誰にも届かないそれを、シーツの上にぽたぽたと落とすだけ。
彼女の意識が薄まっていることも相まり、上手く台詞が伝わっていないと思ったのだろう。
「どうせ、つんぼのカタワなんだ。大した将来なんてねえよ」
醜悪な本音を不幸にも拾い上げてしまった少女は、飽きない誰かに触れられながら、涙も声も出せないまま、ただひとりの名前を呼んだ。絶望的な諦めの中で、たったひとつの愛しい希望を想うことだけが、崩れ、壊れてしまう心を支える、残された唯一の方法だった。




