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深海の星空  作者: ふあ
ノンフィクション
39/63

四面楚歌

 泣き出した空から振りそそぐ雨粒が校舎を叩く音が、音楽室の天井から吊り下げられているテレビ画面のBGMの更にバックで流れている。雑踏で特定の音や声を聞き取ることが困難でも、音楽の授業にまで大きな支障はもたらされない。ピアノの音を基本としたコード進行を学び、適当に歌の音程を合わせていれば、それなりの点数を得ることに苦はなかった。


 気の良く、人気の高い音楽教師は、人気の由来でもある、丁度良い適当さで、授業の後半にはお勧めの映画を流して時間を潰すことが多々あり、今日は二時間を超える映画の最終部位を迎えていた。

 まあ、映画向きの良い作品じゃないかと、ひねた少女は、ひねくれた感想は抱かず、エンドロールにチャイムが重なると、教科書とノートを合わせて軽く机を叩く。豪華客船に捨てられた赤ん坊が、ピアニストへと成長し、大人となっても船を下りることなく、海の上で生涯を終えるという作品だ。


 窓の外に目を向けると、相変わらず最近よく振り続ける雨が、飽きもせず街を霧に埋めている。白っぽい景色の中、サッカー部や野球部も練習を断念するおかげで、放課後のグラウンドには人っ子一人姿が見えない。

 そんな光景を目に映し、教師が職員会議に早々と出て行っても、音楽室に残っていたことを、少女は大いに後悔した。聞き覚えのある、名前さえ知ってしまった相手の声に隣を振り返ってしまった。栗本幸子という女子生徒は、短く詰めた制服のスカートからのびる足で仁王立ちし、何が面白いのか頬を上げている。この女の純粋な笑顔というものを、少女は見たことがなかったし、今も同様だから、嫌な予感しか覚えなかった。周囲に蔓延る、半年経ってようやく顔に覚えが出てきた程度の女子生徒数人が、いつもより多い六人に増えているのもいやらしい。


AからFまでいるな。こいつらは本当に、一人じゃ教室まで戻ることさえ出来ないのか。

「なに、用事?」

 意識的に残した常識と倫理観で、素っ気ない台詞の素っ気無さを腕で拭い、少女は睨みつけるのを堪え、椅子に座ったまま顔を上げた。


「用事っていうかあ。聞きたいこと?」

 校則を無視し、自毛だと言い張れるギリギリの濃さで茶色く染めた、セミロングの髪に指を絡ませながら、ね、と周りを見渡している。それに頷く者たちが、どこか目の奥に異様な光を宿し、消せない興味を隠そうともしていないことが、いつもにない不信感を彼女に与えた。


「聞きたいことって」

 やましいことなどありはしないと、胸を張って聞き返した。だが、机を囲む一人、Bの位置にいた女子生徒が口にした台詞に、頬を引きつらせる動作を抑えるのに必死に成らざるを得なかった。

 何でもない風を装い、彼女たちがどこまでを知っているのか、問い詰めたい心を全力で押さえつけ、指先で髪を梳く。ああ、あいつと、気のない台詞を、懸命にいつもの声で零した。


「別に、家が近いだけだよ。知り合い。名前もよく知らない」

 家など近くはない。特別な人間。名前だって知っている。その嘘が嘘であることを悟られないよう、「それが何」という態度を彼女は貫く。だが、取り囲む少女たちも、更に教室のあちこちで耳をそばだてている誰彼もが、面白い続きを期待していることは肌で感じられた。お高くとまった桜庭菜々の弱点。つまりは、人間らしさの尻尾を掴んだ彼らは、決して離すまいと意地も悪く全員で握り締めている。


「でも、その割には楽しそうだったんでしょ、ミサ」

 ミサと呼ばれた少女Bにとって、その得ダネを自分が手にしていることは、満点の答案を返されるよりも誇らしいようだ。

「学校いるときより、ずっと楽しそうだったじゃん、桜庭さん」

 けらけらと、女子生徒特有の甲高い笑い声に包まれ、彼女は思わず左耳を軽く手で押さえた。迷惑だ、こんな騒音、環境省に言いつけてやる。

「何が」

「この前さ、みどり公園の通り、歩いて帰ってたじゃない。いつも一人で帰ってるのに、待ち合わせてたんだ」

「偶然見かけただけよ。家近いから、帰る方角同じってだけでさ」

 彼と会って話をして。帰る間の短い時間でも、その瞬間が、楽しくないわけがない。だが、楽しくて、幸せで堪らないなどとは、決して言えない。嘘を吐き続けなければ、自分にもあの少年にも決して良くない将来が訪れることは、彼女には楽に見通せた。


 しかし、「へー」と心のない感嘆を漏らす周囲の人数は、何事かと、一人、また一人と増えている。

「あれ、中学生でしょ。三年ぐらい?」

「すごくない、中学だって」

 わざとらしく黄色い声を上げる連中よりも、「あれ」と言い切ったBに対し、ふつふつと怒りがこみ上げる。桜庭菜々の隣にいたというだけで、何故彼が、名前も顔も知らない相手に、物扱いされなければならないんだ。椅子に座ったまま、机に置いた左手を気持ちのまま握りそうになり、力を抜けと彼女は自身に言い聞かせる。確かに、三日前の月曜日、意図的な遠回りの際に、家族を喜ばせようとお使いに出ていた彼を見かけて、大通りまで一緒に歩いた。そんな事実のみでも、周囲には大好物の餌となり得るのだ。


「年下にもモテるんだ。流石」

「冗談言わないでよ。ただの知り合いだって言ってんのに」

「ほんとにそんだけ?」

「ほんとだって。そんなのあるわけないじゃん」

 これ以上、彼の存在を傷つける台詞を言いたくない。だが、そんな少女の願いなど、取り囲む女子生徒たちが思案するはずがない。

「でもさ、年下なら、何したって簡単でしょ。桜庭さん、大人なんだし、頭いいからさ。ちょちょいって」

 最早隠す気すら滲まない、正面の栗本幸子の下世話な台詞に、やだーと甲高い笑い声が上がる。「嫌だ」と言いながら、何故笑うのか。その矛盾した理由は、解ってしまいそうで、解りたくない。


「でもさ、普通、近所ってだけで一緒に帰ったりする? 名前も知らないのにさあ。あたしだって、近くに小中学生住んでるけど、見つけても一緒に帰ったりとかしないし。ねえ」

 カースト上位者の挑発的な台詞に、周囲は、それが世界の真理だとばかりに深く頷いては、勝手な言葉を並べ始める。

「よっぽどじゃないと、わざわざ一緒に帰ったりとかしないよね」

「なんか言われたの? そういうこととか」

「制服で分かったけど、第二中でしょ、確か桜庭さん、出身だったよね、後輩になるんじゃん」

「うっそー。じゃあもしかして、中学ん時から、その子と仲良かったの」

 後輩という思わぬ近い言葉に、身を乗り出す女子生徒たちに、「だから」と彼女はため息をついた。うんざりした吐息も目つきも、嘘を吐き通すためには隠す必要などない。


「その時から知ってたら、名前も知らないとか、ありえないでしょ。中学生になんて興味あるわけないし」

 彼を否定する声を出してしまう罰として、言う度に、細くて小さな針が、喉の奥をちくちくと刺していく。

 その罰を甘んじて受け入れながら、少女は、少年の笑顔を意識的に思い出す。感情表現の苦手な彼が、嘘も誤魔化しもなく、心の底から浮かべてくれる優しい表情。ここで彼女たちを肯定すれば、今自分が受けている尋問の矛先は、いつしか彼に向いてしまい、その笑顔さえも奪っていく。悪びれもないストーキングぐらい、偶然だと言い張ってこいつらはやり遂げるだろう。ただの歪んだ娯楽の為に、気の弱い彼が犠牲となり、根も葉もない噂を言いふらされ、困り果てる姿が容易に思い浮かぶ。それでもきっと、彼は相手を責めはしないだろうから、余計に今は無視をするべきだと彼女は決め込んだ。全力の否定を見せる方が、遥かに怪しい姿だ。


「でも桜庭さん、いっつも、そういう男子、見向きもしなかったのに」

「可愛い感じの子じゃん。あんまり男らしくなくってさ、もしかして、もっと年下とか?」

 何が楽しいのか。どうして、彼が馬鹿にされ、ないはずの居場所さえ奪われる瀬戸際に立たされるのか。


 少女は口を引き結び、机の正面に向き直ると、重ねてあるノートと教科書で再び机を叩いて揃え、返事をやめた。だが、今になって逃がしてなるものかと、ざわつく彼女たちは誰ひとり口を閉じようとはしない。

「可愛いって、マジで、どんなの?」

「感想だけど。写メ撮っとけばよかった」

「盗撮とか犯罪じゃーん」

「パパラッチだし。合法合法」


 椅子をずらそうとして気がついた。横目で見た、隣に立つ気の強い同級生が、勝ち誇った笑みを浮かべながら、椅子が容易に動かないよう足を引っ掛けている。逃がさねーぞ、と声なき言葉が、鼓膜を通さず聞こえてくる。

「ウチも見たいんだけど」

「ねえ、桜庭さん、関係ないんなら紹介してよ。可愛い系の中学生とか、普通にどんなんか興味あるし」

「なんでその子は振ってあげないんだろーね。すっげー気になる」

「ほんとはなんかあるんでしょ、ねえー」


 気にするな。少女は自分に言い聞かせる。こいつらは、話題が欲しいだけなんだ、しばらく元の道を歩いて帰って、あいつに会わないようにして。少しすれば、飽きっぽい奴らは諦めて忘れていく。


 勿体無いけど。あと少しなのに。


 そうして、表面に現れない深呼吸で懸命に自身を落ち着ける彼女に、残酷な言葉は深く突き立った。

「うちんとこさ、そういえば、弟が第二の中三なんだけど、それっぽいのいないか、聞いとくように言っとくわ」

 どこから聞こえた誰の言葉なのか、彼女にはわからなかったが、それが少年にとって謂れのない酷い仕打ちであることに間違いはない。


 ノートに書かれた、「死ね」の文字。

 体操服につけられた、泥の靴跡。

「友だちなんていないのに」そう言って、すぐ隣で見せた寂しそうな笑い顔。


 全てを思い出してしまえば、耐えられるはずがなかった。

「ぐだぐだうるっせーな!」

 抑えていた喉を震わせ、少女は叫ぶと共に勢いよく立ち上がり、両手に持っていた授業道具を天板に叩きつけた。派手な音を立て、引っ掛ける足などものともせず、椅子が後ろ向きにひっくり返る。


「あんたら、ほんっとにどうしようもねえな。人を不幸にするのがそんなに嬉しい? そんなに笑えんの。趣味悪すぎなんだよ、いい加減に黙れ!」

 思っていた全てだった。まだ中学生の少年を悪意でからかい、問い詰めて困らせることを望む奴らが憎らしく、にやにやと浮かべる笑みを殴らないだけで精一杯だった。

 今や固まる驚愕が、栗本幸子を含め、少女を囲む誰もの顔に浮かんでいた。いや、教室中、向こうの方で輪に加わらずとも耳を澄ませていた男女含む同級生たちも、目を見開いて彼女を見つめている。

 だが、しんと静まり返った空気の中心、そこに後悔の感情は微塵も存在しなかった。

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