裏表
天気のぐずつく日々が続く。豪雨とはいかずとも、霧雨がしょっちゅう街を包み込み、泣き出しそうな曇り空が見上げる先を灰色一色に染める。
明け方に飲み干す空き缶は、あまりに数が溜まれば母に怪しまれるだろうと、面倒を承知で学校に向かう駅のゴミ箱に捨てていた。家庭ごみの持ち込み禁止を唱える貼り紙を無視する不良となり、メーカーも知れない缶を洗って鞄に忍ばせては、電車を待つ間に捨てていく。この数ヶ月、そんな生活が続いていたから、近隣住民にバレていれば変なあだ名でも付けられるだろうが、想像はしなかった。
そんな朝、久々に真面目な時間に寝起きした少女は、垂れ込む雲のような重い心を引きずり、行きたいなどと思ったことのない学校へ向かう電車へ乗り込み、二十分ほどの乗車時間を経て高校の最寄り駅で降りた。
そこで、捨て忘れていた空き缶の存在を思い出し、改札を抜けた先、出入り口を逸れ、案内板の足元にあるゴミ箱の前で鞄を漁っていると、聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。
缶を捨て、ちらりと視線をやると、別に興味などない、誰もが同じに見える同学年の男子生徒数人が、階段下に屯していた。覚えがあったのは、ほぼ毎日、うるさい挨拶を投げてくる男がその中にいたせいだった。確か、近藤という苗字の、サッカー部の部長に就任したという話題の人間だ。女子生徒の間で、桜庭菜々に気がある一人だと、厄介で仕方のない噂を立てられている当事者。
どうせ教室で同じ空気を吸うのだ。校舎の外でまで絡まれる筋合いもないと、連中が気づかないうちに、さっさと駅を出ようと決めた。
「ハードル下げようぜ、ハードル」いつもの、おはようよりもボリュームを下げた声。「あいつ、見た目以上にお堅いんだよ」
あいつという野蛮な言葉が自分を指すのだとは、彼女は容易に気づいたが、そうすれば、何も知らずに立ち去るのは気分が悪い。足を止め、盗み聞きに向かない耳を澄ませる。
「半年あればいけるんじゃなかったのかよ」
周囲の一人がふざけた口調で言う。四、五人の取り巻きは、どれかが同じクラスだった気もしないではないが、記憶に留まるには至っていない。
「まあ、近藤で駄目なら難易度マックスだろ」
庇うような誰かの台詞に、近藤が苦々しげな顔を見せた。
「まだ駄目だとは決まってないだろ」
いつも投げてくる、やかましい程の「おはよう」では決して見せない表情に、彼女は妙に納得し、これが本来の周囲の姿だと心の奥で頷いた。裏表のない人間の方が遥かに珍しい。近藤が特別質が悪い悪人だとは思わなかった。だが勿論、いい気などするわけがない。
「どーせ、見た目だけなんだよ、あんな女。お高くとまりやがって」
こいつの裏は、その程度なのだ。周りで含み笑いをする、顔面偏差値五十未満の類人猿共も、恐らく正面から向き合えばまともに悪口など叩けないくせに、よくも言いやがる。死ね、と小石を蹴飛ばすように、彼女は口の中で吐き捨てた。
「仕方ねえな、あと半年待ってやるよ」
誰が待つかくそったれ。最近忘れ始めていた、黒々とした想いが、彼女の体の奥に滲み出る。この曇り空のように、灰色の濁りが溢れては、最近白さを思い出した心を黒く染めてしまう。
「わかったって」
周りを諌めるように、近藤が体の横で軽く手を広げた。彼の運動神経の良い長身と、爽やかな面構えは、少女がより周囲から疎まれる原因だった。
「その代わり、二万に倍上げな」
誰かの言葉に、彼女はため息すらつかなかった。あーあ。面倒臭く思った。折角好きでも嫌いでもなかったのに、また嫌いが増えちまったじゃないか。
「お前ら、一人ずつだからな」
「そっちこそ、最後に逃げんじゃねえぞ」
高校生の小遣いで遊べるだと。そんな安い女だと思うな。
いつか殺そう。そう、今すぐは面倒臭いから、こいつら全員、いつか殺すリストに追加。肩に鞄をかけ直し、しかしそういえば、こいつらの名前は近藤以外碌に覚えがないことに、彼女はようやくため息をついた。
告白か、キスか、それとももっと先か。どこまでか知らないが、モテる近藤が、お堅い桜庭に苦労する姿を娯楽として、最後に一人数千円ずつ受け取りたい周囲の馬鹿ども。対するは、高嶺の花さえ摘み取り、悔しさに歯噛みする取り巻きから金を巻き上げたい近藤との、汚らしい賭けだった。
折角早めに家を出たというのに、すっかり時間の余裕はなくなってしまった。
奴らに言い返せないほど彼女の気は弱くなどなかったが、気持ちの強弱など関係なく、数時間後に同じ教室に押し込められる未来を思えば、知らないふりをするのが賢い選択だった。揉め事などうんざりだし、面倒臭いし、厄介で鬱陶しくて、どうしようもなくって。
長い髪を翻し、さっさと踵を返す彼女の後ろで、黄色い声が響く。おはよーこんどーくん。どこかの女子に、気のなさを上手に隠した近藤の返事。これで喜ぶ女も馬鹿だし、騙す近藤も器用なやつだ。
駅の構内から今にも泣き出しそうな灰色の空を見上げ、やっぱり午前だけでもサボればよかったと、少女は不真面目なことを思った。




