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深海の星空  作者: ふあ
ノンフィクション
37/63

雨の朝

 あっという間に夏休みは終わり、新学期が始まれば、九月も終わりを告げていた。運動会といった行事を終えれば、炎天の言葉は消え、半袖では珠に冷えを感じる、秋の風がよく肌に触れていった。

 あと、百七十一日。少年には黙ったまま、母校の記憶をたどり、恐らく来年の春休みに入る日を見つけた少女は、口の中だけで呟いた。今朝はもう、十月一日。彼がこの街に残っている日は、あと半年も残されていない。卒業式を迎えれば、新聞配達を続ける理由などは失い、直に彼は街を出ていってしまう。

 だが、そんな寂しさなど、互いにおくびにも見せないまま、朝の邂逅は静かに続いた。眠気を堪える少女と、無口な少年は顔を合わせ、朝日に消えいく言葉を交わし、ほんの数分で、さよならまでのカウントを、また一つ減らしていく。




 お母さんに、お休みをあげよう。


 父が言うお母さんのお休み、というものを、彼女は直ぐ様想像ができなかったが、父親の話を聞いていると、至極納得した。毎日仕事や学校に通う自分たちには、土日や祝日といった、決まった休日がある。だが、毎日家事をこなす母親には、そういった自由な休日が存在せず、だからこそ、プレゼントしようと父親は言ったのだ。それは素晴らしいアイデアだと思ったし、母親の喜ぶ顔を想像すると、それだけで心臓がどきどきと期待で高鳴った。


 果たして、母は父の提案を聞くと、二人の想像以上に喜び、父娘で相談した結果、街を離れた向日葵の咲き誇る名所に行くつもりだと聞くと、率先して詳細を調べ上げてくれた。


 少女は、夏休みに入っていた。夏休みなどない父親にとっては、貴重な日曜日の休日だった。母親は、更に初めての休日だというのに、早起きをして、二人分の弁当を作ってくれた。


 父親と協力し、掃除や洗濯を終えると、子ども用のリュックサックに弁当を詰めた。いってらっしゃいと手を振る母に振り返した手を父親と繋ぐと、遠くへ向かうバスへの期待に胸がふくらんだ。窓際に座り、父子の会話を弾ませながら、まだ見ぬ向日葵畑を探して窓ガラスから見慣れぬ景色を見つめた。電車でひと駅離れる、学校の遠足ですら、前日に眠れないほど胸がときめいたのだ、笑う父親に頭を撫でて軽く窘められる程にはしゃいだ。

 だから、雨粒がガラスに張り付くのを見て、肩を落とした。着く頃にはまた晴れてるよと、父は励ましたが、雨に打たれる向日葵を想像してしまうと、なんだか車内の冷房ですら、余計に冷たく感じられた。

 途中のバス停での停車中、父と席を代わり、徐々に強さを増す雨に落胆していると、通路を挟んだ席にいた老夫婦が、小さなキャンディを渡してくれた。それだけであっさり機嫌は治り、きっと天気は良くなるという父の言葉を信じられた。


 その父の向こう側、曇り空の下、目が潰れてしまいそうなヘッドライトの光。

 何故、と思う間もなく。


 体を粉々に砕くような、生まれて初めての衝撃に気を失っていたのは、ほんの数分のことだろう。

 何が起きたのか、理解できず、視界に映ったのは、ひっくり返ったリュックサックと零れてしまった弁当箱。母が折角早起きして、休みの日に作ってくれた、絶対に美味しいお昼ご飯。

 おにぎりと、卵焼きと。赤いプチトマトと。お芋の天ぷらと。天ぷらなんて湿気てしまうのに、父が好きだといつも言うから、母がよく作ってくれるおかず。

 もったいない。そんなことを思った。


 途端、全身を襲う激痛に気がついた。顔の半分、左側などは、動かせないほどの強い痛みに、涙さえ出せない。かろうじて感じられる左腕に、生温かい液体が流れる感触。それが自身のものでなく、父親の身体から流れる血であることに、痛みに喘ぐ彼女が気づくことはなかった。


 痛いよ、おとうさん。

 助けて、痛い、痛い、ほんとうに、痛いんだよ。我慢できないよ。


 血のこびりつく唇を微かに動かしても、呼吸音が僅かに漏れるだけ。そうして助けを求めて気がついた。自分の体を強く抱きしめる二本の腕。覆い被さる、大好きな、大切な人。

 薄れる視界に映るのは、血だらけの父親と、ガラスが割れ、ひしゃげた座席と、灰色の空。雨が、降っている。


 おとうさん。


 何度も何度も、声も出せずに呼びかけたが、瞼を閉じた父親は、返事をしてくれなかった。ただ、生きる者のみがもつ鼓動と温もりが、抱きしめてくれる腕から、体全体から伝わって、だからその体温にすがり、悲鳴さえもあげることなく、再び意識を失った。



 あの時、残っていた右耳が聞いた音。雨の音に、少女は目を覚ました。昨晩眠った時刻は覚えていないが、大雨が屋根を叩く音に、アラームはかき消され、枕元で充電中のスマートフォンは沈黙している。


 今すぐなら、間に合うかもしれない。


 あの夢のせいかもしれない。雨音に触発された、忘れたくない記憶の後は、一層逢いたくてたまらなくなる。そうでなくとも、別れの日を思うだけで、息ができないほどに、苦しくなるのに。


 飛び起きた少女は、裸足で部屋を出ると、無意識に髪を手櫛で梳くだけで階段を下り、サンダルを引っ掛けて玄関ドアを開け放った。

 土砂降りの雨だった。アスファルトを叩く雨粒が、うっすらと霧のように立ち込めた朝は暗く、時間の感覚を狂わせる。だが、いつもの時刻が既に訪れているのは確かだった。雨の日は手間取ってしまうから、数分遅れてしまうんだと彼は言っていたが、それでも時間は無情に過ぎていたらしい。ざあざあと、滝のような大雨が、さした傘を激しく叩き、全ての音を奪っていく。


 間に合わなかった。


 ビニールに包まれた新聞が尻尾をはみ出させる新聞受けを目にし、顔を上げた先には、遠ざかっていく自転車の後ろ姿。自転車の反射板と、青いカッパの腰に巻きついた蛍光の黄色が、激しく冷たい雨の中に揺れている。

 ふと、その背が振り返った。

 目の良い彼は気がついたようで、新聞を満載した自転車をこぐ左足を地についた。カッパのフードを左手で軽く上げ、自分の見間違えでないことを確かめている。


 おはよと言いたい。せめて、またねと。しかし、いくら雨音が強くとも、それを越える声量を試せば、実の母なら聞きつけて目を覚ましかねないと、少女は声を飲み込んだ。外に出て気づいたが、今の補聴器すら入っていない左耳では、この雨の中、誰かの声を聞き取ることはあまりに困難だ。

 傘の取っ手を左手に持ち替え、右手を握り締め、顔の横に上げた。


 その手が下ろされる意味を彼は覚えていた。おはよう。声がなくとも、聞こえずとも、相手に想いを伝える手段を、以前彼女が教えた言葉をきちんと彼は覚えていた。

 おはようと、同じように少年は返す。カッパの袖からはみ出たずぶ濡れの手を上げて、下ろす動作は、少女が見せたのと全く同じもの。彼の表情が驚いているのか、目を細めているのか、フードのおかげで見やることはできない。だが、彼女にはわかっていた。彼は今、大好きなあの笑顔を見せてくれている。


 彼女が大きく右手を振ると、彼は左手を振り返した。自転車を支えたまま、彼女から見えるように、伝わるように。そんなに手振ると、濡れちゃうよ。彼女が言いたくなるほどに、またねと手を振ってくれる。

 自分が手を振る限り、きっと彼は応え続けるだろう。しかしそうすれば、ただでさえ雨のおかげで遅れる配達が、遅刻を迎えてしまうと、彼女は手を止めた。すると、鏡のように彼も手を下ろし、いつものように軽く頭を下げて、背を向けて、ペダルを踏み込んでいく。雨にけぶる朝に消えていく、少年の背中。大きいといえば齟齬のある、それでも、いつだって相手を支えてくれる力のある後ろ姿。


 何も言えないまま、少女はただ、雨の中に立ち尽くした。

 傘を握り締める手は冷えていき、裸足にサンダルを引っ掛けただけの足元は激しい雨に濡れてしまう。薄いパジャマにも、アスファルトを跳ねた雨粒が染み込み、皮膚は寒さを感じてしまう。それでも、彼女は、彼の消えていった雨の世界を見つめ続けた。


 そう、寒いはずなのに、体は冷たいのに、心の中が温かい。彼に触れて抱きしめた時のように、海岸でキスをした時のように、胸が苦しくなる、愛おしい切なさが溢れてくる。もう彼の背は見えないのに、温もりだけは、ずっとすぐ傍にいてくれる。

 目を閉じて、彼女は彼の残した温みを静かに抱きしめた。あの日失ったはずの全てを、彼が海の底へ運んでくれた気がする。忘れていたはずの、忘れたくない鼓動を、愛しい誰かの体温を、戻りの酸素を顧みずに、彼は深海まで持ってきてくれた。

 少年の幸福を祈る鈴の音を、少女は心の中で響かせた。

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