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深海の星空  作者: ふあ
深海の星空
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深海の星空 2

 専売所に向かう通り道、星が綺麗に見える場所があるんだと、彼は言っていた。そんなもの、ただの目に映る景色、網膜に結ばれる像だと彼女は自分を納得させていたが、勿論本心で腹落ちしたわけではなかった。

「期待させといて、大したことなかったら、わかってるよね」

 せめてそんなふざけた台詞を背中から投げかけると、彼は後ろからでもわかるように首を傾げてみせる。


「ぼくは、好きなんですけど……そこまで言われたら、自信ないです」

「言ったんだから自信もちなよ」

 笑いながら、彼の水色のフードを握って軽く引く。

「苦しいです」

「死んじゃう?」

「死んじゃう」

「いーじゃん」

 ふざけた言葉に交わる小さな笑い声が、流れる風の中に溢れていく。先程のコンビニも遠く過ぎ、低いビルの明かりも消え、並び始める住宅も眠りに落ちている。全ての人間が夢を見ている、その世界から隔絶された場所をたった二人で走っているようだ。


 そんな中、少年の微かな言葉が聞こえたから、少女は手を離した。


 今なら、死んじゃってもいいかな。


 前を向いたままの彼は、きっと、その台詞が彼女の耳に届くとは思わなかったのだろう。だが、彼の声は呟きであっても、風に乗って鼓膜に届いたから。そこに一つの悲しみも感じられなかったから、彼女は、彼のフードから手を離した。


 風を切って自転車が走っていく。

 ぽつぽつと灯る光が流れていく。蒸し暑いはずの夏の夜、八月の熱気が涼やかな風となり、肌に優しく触れていく。緩やかだが勾配の多い町を、大した苦労もみせず、彼の自転車のタイヤは転がり続ける。


 だが、落ちたスピードよりも、彼がペダルの上に立って自転車をこぎ始め、控えめに掴む服が手から離れたことから、中でも急な坂道に入ったことを彼女は知った。見上げると坂の頂上まではまだ距離がある。


 真っ直ぐに辿る線が僅かによろめいた。爪が白くなるほど、少年はハンドルを握り締め、決して倒れないよう、足をつかないようにと全体重をかけてペダルを漕いでいく。

 恐らく聞かせないよう、気を配っている彼の息が上がっているのを耳にし、些か苦しげに膨らんでは萎む背を彼女は見つめた。絶対に自ら弱音を吐かぬよう、気を張る彼に声をかける。


「無理しないでよ。あとちょっとだし、私押すから」

 停めてくれれば怪我もせず、後ろから荷台を押して、半分を越えた坂を彼だけに苦労を負わせず上りきることができる。だが、彼は弾ませる呼吸の中で否定をした。


「大丈夫です。ちょっとだから。ぼくだって、男なんだから」

 ペダルを踏みしめ、前だけを睨みつけ、懸命に夜を押しのける彼に、彼女を振り返り笑顔を見せる余裕などない。こめかみを垂れていく汗さえも拭えないまま、だが、確かに言い切った彼は、彼女が荷台から下りることを許さなかった。


 少年は、少女の手を引いていく。上へ上へと、全力で駆けていく。


 ゆっくりと、しかし、確実に夜空が近づいてくるのに、彼女は気がついた。ここからあの星への距離を思えば、この坂の長さなど、目に見えぬ些細なものでしかない。しかし、その歩幅を果てしなく広げ、星への距離が、ペダルのひと踏み毎にぐんと縮まっていくのを感じる。上がっていく。近づいてくる。あの、夜空が。


 苦しさが抜けていく。呼吸が楽になっていく。水圧が小さくなり、水面の灯りが近づいて。まるで、深海からゆっくりと、浮上しているように。


 もうじき、水面に手が届く。光が近づく。ずっと求めていたそれが、もう、手の届くところに。海の底から、星空へ。


 前後のタイヤが水平に並んだ。がたん、と音が鳴るとともに、少年が大きく息継ぎをした。

 八月五日、もうすぐ六日に変わる夏の夜空はよく晴れ渡っていた。一等星、二等星、三、四、五と、強く弱く輝く数々の星が視界いっぱいに散りばめられ、首を曲げて見渡せば、同じように空を見上げる美しい三日月。


 この星空が、見上げ続けた光の正体だった。

 海の外は、これほどまでに、広く、輝いていた。


 言葉を失う代わりに、少女は胸いっぱいに空気を吸った。今なら、楽に息ができる。いつも、誰かに握りつぶされ、水圧に押され、薄い酸素に喘ぐ呼吸が、驚く程すんなりと酸素を取り込んでいく。

「すごい……」

 少女の前で、少年も首を上げて短い言葉だけを声にした。幾度もこの坂を上り、同じ場所から夜空を目にしてきた彼も、感嘆にため息をつくのが、今日の星空だった。

 二人はようやく、水面に顔を出した。手を繋いで、水をかいて、必死に目指した光の方へ、やっとの思いでたどり着くことができたのだ。


 彼は、約束を守った。迎えに行くと、一緒に上がろうという言葉には、一切の嘘偽りなど存在しなかった。


 果たされた約束に胸を詰まらせる少女へ、どこまでも一生懸命な少年が振り向いた。あどけなさの残る笑顔を見せた。風に揺れる前髪の向こう、孤独の海の中に生きる彼が持つのは、深海の瞳に映る、眩しく瞬く星空。この世のどこにも、二つとして存在しない、深海の星空。


 見上げる星空も、見つめる深海も、泣きたくなるほど美しく。泣いてしまう代わりに、少女は笑って上手に呼吸をする。誰よりも優しく、何よりも切ない約束を想って、迎えに来てくれた少年に笑いかける。懸命に涙を堪えねばならないのは、彼が、いつものように、笑ってくれる世界があるから。

 次に潜る時は、もう苦しくなどない。今、思い切り息継ぎができたから。望む光の輝きを知ったから。世界の全てを知ることができたんだから。


 なによりも、もう、ひとりではないのだから。


 上った坂は、やがて少しずつ下っていく。これが、再び海の底を目指す道のりだとしても、この幸福は少しも薄れない。今となっては、深い、深い、この距離でさえ、愛おしい。

 少女は、少年の背を抱きしめた。しっかりと腕を回し、繋いだ手を引く彼の全てを、存在を感じられるよう、全身に刻み込む。


 海の底で出会えた彼の背に、頭をあずける。少し高い体温と、早い鼓動が耳を使わずとも伝わってくる。生きている少年の、確かな温もりは、腕の中にある。


 少しずつスピードが増していく。このまま夜の中に吸い込まれて、消えられたらいいのに。少女は、夜を切り裂く自転車で、夢を想った。目が覚めない内に、深く暗い夜の中、彼とふたりで消えてしまえたら。そんな夢想に溶けてしまう前に、スピードが出過ぎぬようにとかかるブレーキが、キッと高い音を立てる。まるで、二人が消えてしまわぬよう、この世界に引き止めるように。ひとりとひとりではない、ふたりの少年少女が、世界からいなくならないようにと。


 この夜のことを、ふたりはずっと覚えている。互いの姿を、隣から失ってしまっても、姿も声も触れられなくなろうとも、色褪せぬ記憶として、思い出す。何度でも、繰り返し、指でなぞっては胸にしまう。ある夏の星空のこと。

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