深海の星空 1
駐輪場から彼が引っ張り出した自転車は、二年以上毎日使い続けたおかげで、元は濃い青色だったフレームの塗装も随分と剥げ、幾度もブレーキに油をさし直した使い込まれたものだった。「専売所まで、これで行くんです」カラカラと、二人には違いのわかる、新聞配達用の自転車とは異なるタイヤの空回る音を鳴らしながら、彼は言った。
大きな通りを抜け、人通りの少ない道に入ると、少年は立ち止まり、自分のバッグと受け取った彼女のショルダーバッグを前かごに収めた。
「家、方向違うんでしょ」
「大した距離じゃないです」
中々目を合わせられないまま、それでも不器用さを誤魔化すように、うっすらと笑って首を軽く振った。居酒屋やゲームセンターのある通りを離れると、すれ違う誰かもまばらになり、街灯の下で、ようやく相手の表情を捉えられるほどの薄闇だ。
「夜中になっちゃうよ、帰るの。そんな暗くなっていいの」
「冬の明け方も、ずっと暗いから、大丈夫です。それより、あなたが暗いところを歩くほうが怖い」
言うようになりやがって。下手をすれば夜闇に溶け込んでしまいそうな彼の顔を眺めて少女は思った。夜だから、彼はこんな台詞を簡単に並べられるのだろうか。目元を前髪で隠し、夜の暗さに気持ちを隠せるから、相手を喜ばせる、恥ずかしげな言葉を口にできるのか。
「行きますよ。タイヤ、足挟まないようにしてください」
「わかってる。あんたこそ、こんな細いのに大丈夫なの。こけないでよ」自転車にまたがり、ペダルに右足をかけるのに、彼女は控えめに荷台に腰をかけると、彼のパーカーの背を握り締めた。
「新聞配ってる時より、バランスとってもらえる分、ずっと楽です」
すれ違う人がいないのを確認し、少年は軽く左足でアスファルトを蹴ると、右足で強くペダルを踏み込んだ。
初めの一度、二度の踏み込みこそふらついたが、僅かでもスピードがつくと、直ぐ様自転車は安定し、真っ直ぐに走り出した。大きいとは言い難い手のひらは、しっかりとハンドルを握り締め、まだ薄く頼りなく見える背中や細い手足は、意外な程力強く、二人分の体重を乗せる自転車を転がしていく。
普段通りの悪態などつけず、年下なのにと、少女が彼の力に感心していると、いくつかの街灯のスポットライトを通り過ぎた少年が振り返った。
「ちょっと、コンビニ寄ってもいいですか。用事思い出して」
広い駐車場を構える、青色の看板が通りを沿って見えてくる。周囲は、昼間に戸を開く喫茶店や背の低いビルが肩を並べ、駅前とは打って変わった静けさに包まれている。
「私も行く」と少女が言い出さないうちに、少年は彼女が下りた自転車のスタンドを立て、財布だけを手にすると、店内へと足早に向かってしまった。
一度、大きく息を吸って吐き、建物から離れた駐車場の隅で自転車を見張りながら、彼女は敷地を隔てるフェンスにもたれかかる。夏の暑さは感じるが、駅に充満する夜の熱気は、幾分温度を下げ、肌にまとわりつきはしない。指を伸ばした右手でぱたぱたと仰ぐ顔を上げると、暗い夜空に上弦の三日月と星が瞬いている。夏の星座など碌に知らないが、いつか習った有名なものを見つけられないかと、明星を目で追っていると、聞き慣れた足音が近づいてきた。随分早く戻ってきた彼は、飲み物の缶とボトルを左右にひとつずつ手にしている。
「早かったね」
「さっき走ったから、少しだけ、喉渇いて」
そう言うと、左手に変哲のない水を握ったまま、右手に持つ缶を彼女に差し出した。
「冷たいのにしましたけど、コーヒーでよかったですか」
いつも彼女が、自宅前で手にしているのを思い出したのだろう、彼自身は苦手なブラックのコーヒーが入った缶だった。
「ありがと」
彼女が受け取ると、どこかほっとした表情を浮かべ、よかったと声に出さず少年は呟いた。
「百三十円じゃ、だいぶ足りないけど……」
ボトルのキャップをひねる彼は、先ほど奢られた金額を返そうと考えていたらしい。だが、不器用な彼は、彼女を待たせず相応の品を返す手段が他に思いつけなかったのだ。
「いいって言ってんのに。可愛くないの、マセガキめ」
年下のくせに、貸しの一つぐらい、作らせてもくれないのか。呆れた彼女が不敵に笑うのを見て、彼は一度水を喉に流すと、目を細めて笑いながらバッグに財布をしまった。つけたばかりのお守りが、ちりんと澄んだ音を夜に流す。
「ほら、半分こ」
「いいですよ。……ぼく、ブラック苦手ですから」
「飲まないといつまでたっても慣れないよ。苦手とか言ってる内は、自分じゃ飲む機会すらないでしょ」
未だに躊躇う姿が、今日キスをしたばかりの相手だとは思えない。間接がついたとしても、彼はアイスキャンデーを一口分けるだけで、本当にいいのかと幾度も少女の顔を伺い、恥ずかしがって視線を合わせられずにいた。
「私も、ちょっと水飲みたいしさ」
「なら、小さいの買ってきますよ」
「そんなにいらないし。嫌ならいいから。くれなくたって」
「嫌だとか、そういうんじゃ……」
口を尖らせながらも、彼はすぐに赤くなってしまう顔を夜に隠し、結局は半分ずつわけ合った。折角含んだコーヒーを味わう間もなく胃に流し入れ、水で舌を誤魔化す彼の様子が可笑しかった。
歳の近いだれかと、こうして、夜更けに理由もなく顔を合わせ話し込むことは、二人とも初めてのことだった。コンビニの駐輪場、大して珍しくもない行為を共にする誰かを、少女も少年も持ったことがなかった。
身のない、といえば素っ気ない。他愛のない話。将来だとか、勉強だとか、家族や学校、悩みや相談。そういった言葉を用いない、夜に埋没してしまう、かけがえのない、小さな話。
帰りたくないな。
今日何度抱いたか、最早思い出せない想いを胸に、この時間がずっと続けばと、彼女は思った。時計が壊れ、太陽と月が動きをやめ、世界が狂ってしまえば、時間は止まってくれるだろうか。なんて幸福な想像だろう。
帰る頃には、日付をまたいでしまうと、呟いたのは少年だった。流石に母親も心配するだろうと、年下の彼に不安そうに言われると、その可能性を考えられずとも、彼女は言い返すことができなかった。
その代わり、彼は短い遠回りを提案した。




