あと、少しだけでも 1
元のバス停に下り、午前十時に顔を合わせた中央の広場にたどり着いた時刻は、既に午後の八時を回っており、数分歩けば駅前の繁華街に繋がる駅前は朝方よりもずっと多くの人々で賑わっていた。海岸のように、幼い子ども連れや老人夫婦の姿はないが、夏休みを迎えた、または補講や塾の帰りだとみられる中高生、暇を持て余す大学生、仕事を終えた大人たちが騒がしく行き交っている。
「ねえ、お腹空かない?」
弱々しく水を吐く、形ばかりの噴水の前で、少女は口数の減った少年の顔を覗き込む。不思議なことに、彼との沈黙は、他人や家族と感じるような気まずさや居心地の悪さを覚えない。
「言われれば、少し……」
「じゃあ、折角だし、なんか食べて帰ろうよ。時間ある?」
「時間は、大丈夫です。新聞配達、休みだし……」
右腕の時計に目をやり、文字盤を確認した少年は首を傾げて彼女を見返す。
「あなたは、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃないなら、言わないし」
それなら決まりだと、少女は少年を促した。彼の言う「大丈夫」の意味を掘り下げられないうちに、あちこちから光の溢れる大通りへと足を向ける。今更、帰りが遅いと言って母親に叱られるとは、とてもじゃないが考えられない。もう十七なんだ、心配される歳じゃない。そういうことにしておく。
酔ったサラリーマンの集団とすれ違い、酒が飲めるのか怪しい年齢の大学生たちが行き過ぎる。夜になると尚の事、生き生きと元気を取り戻す街は、波のような喧騒に包まれ、夜を忘れた居酒屋が絶え間なく人を飲み込んでは吐き出していく。左手を歩く少年とガードレールを挟み、マフラーを改造したバイクが五台、わんわんと頭に響く騒音を轟かせて去っていき、少女の歩く右手側では、自動ドアの開いたゲームセンターから男子高校生の集団と、猛烈なボリュームの電子音が流れ出してくる。
頭を抱えたくなる音たちに、彼女は、うるせーなと口の中だけで呟いた。ほんの少し前、バスの中で聞いた花火の音は、あんなに大きくても、ちっともうるさくなんてなかったのに。
「こういうとこ入れたら、かっこいいのにね」
負けないように僅かに声量を上げた彼女の声を聞き取り、少年は少女が顎をしゃくった方に視線を向けた。
「まだ無理ですよ」
二階建ての居酒屋が玄関先にぶら下げている、「酒」の文字が入った提灯を見て、彼は苦い顔をする。どう足掻いても、まだ十五の誕生日さえ迎えていない少年では、付き添いの大人がいなければ、どんな嘘をついたところで受付すら通してもらえないだろう。
「まあ、あんたは年相応だからね」
「あなただって、二十歳には見えないですよ。いくら大人びてるって言っても」
「言うようになったな、がきんちょ」
どんな口をきいたところで、世間では大人としては認められない。二人はそれを認めていたから、「早く大人になりたいね」そんな台詞を交わして、店の前を通り過ぎた。
避けられれば最善だったが、そういうわけにもいかず、行き場を失くした同年代が集まる、ファストフードのハンバーガー屋を彼女はやがて指さした。
周囲を確認する少年の視線は見ないようにして、彼女も素早く視界に入る人々、主に若者をチェックする。幸い、見覚えのある制服や顔の存在は、ごった返す客の中には見当たらない。三つのレジはフルで稼働し、気の毒なほどの笑顔を見せる店員の前には、長蛇の列ができている。
「私並んどくからさ、席とっといてよ」
「えっ?」
「席。とっといて、混んでるから」
騒がしさに聞き返す少年に、声を大きくし、言葉を区切りながら顔を近づける。「適当に頼んどく」聞き取った少年が、僅かに眉根を寄せて迷いを見せるのに、これまでいたずらが過ぎたなと改めて思いながらも、しっしと左手を振って彼を遠ざける。役割を与えられた少年は、何か言いたそうな顔をしながらも、人ごみに消えていった。
平日だというのに、何故これほどまで若者が集うのだろうかと、自分をさておいた少女は、やがてトレーを受け取ると、少年が上っていった階段に足をかける。何はともあれ、顔見知りに逢わなければ十分だ。
二階は、壁の三方をカウンターに囲まれ、中央には椅子に囲まれた大きなテーブルが三台備え付けられていた。
あいつはどこにいったんだと彼女が探す間もなく、階段を上り終えた先へぱたぱたと駆けてきた少年は、有無を言わさずトレーを受け取る。
「いくらでした」
先導して歩く彼の声は、あちこちで話し声が沸き立つ中では、辛うじて拾える程度だった。とくに、テーブル席を陣取っている、男女五人組の高校生などは、行儀悪く椅子にあぐらをかいては、人目を気にせぬ馬鹿笑いを響かせている。
「いいよ。大した値段じゃないし」
「駄目ですよ」
否定の言葉を口にし、足を止めた少年は、壁にかかるメニュー表やトレーのちらしを覗き、自分が手にする商品の値段を計り始めた。
「いいって言ってんの。年下なんだから、素直に言うこと聞けよ」
「だって、まだ働いてないのに……」
「私がニートみたいな言い方すんな、ばかたれ」
中学生でバイトをしてる方が希なんだと、少年の側頭部をはたき、進め進めと軽く背を押す。
「でも、聞いてないですよ」
「言ってないしね」
「それなら並んだのに」
「めんどくさいな、男のくせにしつこい奴」
そこまで言われれば、彼も口をつぐみ、押されるままに歩くしかない。おしゃべりを楽しむ女子三人組、パソコンに向かうサラリーマン、スマートフォンにかじりつく大学生が並ぶカウンターの端までやって来ると、トレーを置く。
席を取るために置いていたバッグに、抜いていた財布とハンカチをしまう姿を眺めながら、少女は軽く首を傾ける。
「あんたにしては、いいとことったじゃん」
「さっき、前の人が片付けていったばかりで」
正面と左手が壁に面した隅っこなら、まだ声も聴き取りやすい上に、周囲の目も極力気にしなくて済む。そして相変わらず、挑発的な台詞に彼が腹を立てる様子などない。
「あの、奥行っていいですか」
代わりに少年はそんなことを問いかけた。
「奥って、左側?」
「はい。……聞こえにくいとか、ありますか」
「席いっこぶんぐらい、変わんないけど」
それならばと、壁際の席に少年は腰をかけ、肩から下ろしたショルダーバッグをカウンターの隅に置き、彼女もその隣に座る。
「ぼく、左利きだから」
「箸使わないんなら、関係ないじゃない」
「でも、こうすると……。ほら、邪魔ですよね」
間に置いたトレーから、細長いポテトを摘んだ左肘を、わざと行儀悪くカウンターについてみせる。確かに、彼女と立ち位置が逆になれば、肘がぶつかり文句を浴びる羽目になる。
ふうんと鼻を鳴らし、少女は同じようにポテトを摘み口に運ぶ。少し効きすぎた塩味が、なんだか懐かしく、口の中でカリカリと音が鳴る。これ以上なく店の隅で顔を合わせていれば、ざわめきを無視するよう努める限り、会話にさほど苦労は感じない。
「左利きってさ、困ることって多い?」生粋の右利きである彼女は、頬杖をつくと彼の顔を覗き込んだ。奥歯でポテトを噛み締める少年は、前髪に隠れる瞳を宙に泳がせて考える。
「慣れてると、普段は思わないですけど……。備え付けのハサミとか、使いにくくて。改札の切符とか、自販機のお釣りとか、右側だし。料理のお玉って、左手だと手首が痛くなるんです」
「へえ。結構あるんだ。あんたって、全部左利きなの。お箸とか、文字とか」
「そうですね。書くのも、食べるのも……ボール投げたり、新聞入れたり、全部左手ですね」
「不便でしょ。世の中ってさ、なんでも右利き用に出来てるらしいね」
「小学校の習字とかも、大嫌いでした。漢字も、右手で綺麗に書けるようになってるんです。後ろに張り出してるのなんて、本当に下手くそで、見るのが嫌でした」
自分の作品がどれほどのものか、それを人と比べても、毎度残念な結果にため息をつく羽目になるのだ。下から三人を選べば、必ず自分が入っている教室の背後の壁を見るのが、彼は嫌いだった。
「左利きか。だから変人だったんだ」
「差別ですよ」
否定しろよと、思わずこぼし、少女は右手に摘んだポテトを彼の目の前でくるくると回してみせる。意味を理解できない彼の黒目が、合わせて動き回るのに笑いながら、えいと突き出して咥えさせると、不審そうに眉を寄せた。しかし、手を離されると、何も言わずにもぐもぐと食べる。
「ただでさえ自信喪失してんのに、救われないね」
「聞いたのが、左利きって、右利きの人よりストレスで寿命が短いって。九年分」
「嘘つけ。そんなに差が出るわけないじゃん。せいぜい一ヶ月だとか言ってよ」
「だから、優しくしてください」
あまり見せない、彼のいたずらっぽい姿に、心の底から笑みを浮かべ、少女はその肩を軽く押す。すると幸せなことに、彼も同じように笑顔を返す。
「あんたが早死にするくらいなら、さっさとその左手ぶった切ったげる。そうすりゃ、嫌でも右利きになって寿命も延びるでしょ」
「さっき言ったこと、聞いてました?」
呆れを混ぜるのに、聞こえてると返しながら、少女は見せすぎた笑顔を横向け、空腹を思い出すとハンバーガーの薄い包みをがさがさと鳴らす。続々と捌かれる列の中では、気の利いたいたずらを思いつけず、買ってきたのは外れのない、一般的なハンバーガーと中間サイズのポテトとコーラ。そのセットを二つだけ。彼女は知らなかったが、炭酸が苦手な少年はストローを咥えると、嘗てブラックのコーヒーを飲んでしまった時と同様の、心外な表情を浮かべたが、文句を言うことはなかった。




