遠い花火 2
少女の方を向いた彼が、あっと声を上げた。
バスに乗り合わせる数人の乗客も、彼と同様、窓側へ視線をやり感嘆の息をつく。
少女の耳にも、どこかで聞いたのことのある、しかし思い出せない音が聞こえた。空気のはじける音は、一度。重なって、二度三度と連なっていく。周りにつられて窓の向こう側、既にすっかり陽の沈んだ海に目を向け、遠くで輝く光を見た。
「今日、花火だったんだ」
随分遠くなってしまった、水族館の影がそびえる海岸の方角で、海から夜空へ光が駆け上がっていく。夜空を軽やかに蹴り上げ、白く眩しい光が昇っていったかと思うと、ぱっと大きな光が咲く。赤。青。黄色。美しい大輪の花火が、月や星に負けない光で暗い夜空を彩っていく。あんなに眩しいのに、ちっともうるさくない。いつまでだって見ていたい、瞬きの瞬間さえ惜しくなる、静かで鮮やかな、炎の花。
「綺麗ですね」
背を伸ばし、彼女を通して窓の外を見つめる少年の瞳にも、同じ色の光が宿る。大きく開かれた深海の瞳に、夜空に輝く花火が映る。花が咲いた直後、どん、どんと、窓ガラスを透かした音が腹の奥で轟き、海岸で同じものを見上げる人々の歓声すら、すぐ傍から聞こえる気がする。
水族館の閉まっている日であるのに、何故あれほど多くの人が訪れていたのか、帰りのバスがこれほど空いているのか、ようやく合点がいった。
「花火だなんて、知らなかった。だからあんなに人が多かったんだ。あーあ、あとちょっと待ってたら見れたのに」
「そう、都合良くはいきませんよ」心底残念そうな彼女の声に、少年が返す。
「つまんねーこと言うな」
「いた」
つまらない台詞を吐く頬を少女が軽くつまむと、彼は頬を歪ませたまま、いつもの困った笑顔を浮かべた。
バス停の少ない海岸沿いの道、未練も躊躇いもなく、バスはぐんぐんと距離を開けていってしまう。
「もっと近くで、見たかったな」
「来年も、きっとやりますよ」
「そうだね。あんなに人も集まってるんだし」
暗い水面に、色とりどりの花が咲く。夜空を照らし、人々の瞳を輝かせ、咲いては散り行く一瞬の煌きは、静かな海に反射しては消えていく。夏の夜、ほんの一夜、誰もが胸をときめかせる世界の瞬間。
きっと、来年も同じ光景が、この海岸には広がっている。双澄海岸。熱いたこ焼きが美味しくて、竹やぶをくぐった先の神社は涼しくて、お土産が充実していて、アイスキャンデーが冷たくて。
何も変わらない。「ねえ」呼びかける声でさえ、変わらないはずなのに。
「卒業したら、本当に出て行っちゃうの」
瞳に花火を映したまま、窓の向こう、広がる夜の海に頬杖をついている少女の隣で、少年が軽く目を伏せた。
「うん」
二人にしか聞こえない声は、変わらないのに。
「どこ行くの」
「どこか、遠いところ」
「キザなこと言いやがって」
「少なくとも、家は出ます。そうしたら、あの街にだって、いる必要もない」
バスがゆっくりとカーブを描き、乾いた山肌に花火が消えていく。どん。どん。打ち上がるその音ですら、次第に遠ざかっていく。
「そんなこと言うんだ」
「そう思ってたんです」
腕を下ろし、花火を映せなくなった目を彼女が向けると、彼も目を合わせた。暗めの明かりと、月と星の光が差し込む車内で、彼女の前で涙を流したことのない少年の顔が、今にも泣き出しそうなものに見える。
「あなたのせいです。ずっと決めてたのに。躊躇いなんて、一切なかったはずなのに」
油断をすれば逃してしまいそうに、微かに震える声で、それでも彼は涙を流すことなく、深い瞳に彼女を映した。
「ぼくはもう、何も手にしないように、生きてきたはずだったのに」
濡れているような、美しく輝く黒の中に自分の姿を見つけ、もう何も言わない少年に、少女も言葉を返さなかった。
少年の右手に左手を重ね、ただ、握り締めた。




