遠い花火 1
停留所にやって来たバスに乗り込んだ時分、太陽はほぼ海の中に姿を消し、星空を引き連れる夜が、うっすらと空に滲み始めていた。
あれだけ人がいたんだから、さぞ混んでいるだろうと二人は話していたが、乗り合わせる乗客は、点々と二、三人が散らばるのみで、予想外に空いていた。
進行方向を向いて右側、海が見える窓際に座ろうとする彼の袖を軽く引き、彼女はバスが動き出す前に、すとんと窓側に腰を下ろし、自身のショルダーバッグを膝に置いた。
すぐにバスは発進し、低いエンジン音と小刻みの振動が体の芯を震わせる。これであと一時間は、座りっぱなしだ。
「ほんと、ブラコンなんだね」
少女の横で、少年は身体から離したボディバッグのチャックを開け、中身を軽く整理している。携帯電話すら持っていない彼の荷物は随分と少ないが、バッグの体積の殆どを占めているのが、土産用の一つの紙袋だった。
どこかで何かしら手に入れようという考えを基に、途中で少年に似合わない眼鏡と、少女に似合う帽子を置いていた店で手に入れた、彼の弟へのお土産だった。
弟は現在、食玩のミニカーに執心だと彼は口にしたが、生憎土産物屋に目ぼしいミニカーは見つけられず、恐らく、ぬいぐるみなら外れないだろうと当てを付け、海が近いおかげで、所狭しと並べられた種々の魚を選ぶことができた。中でも色黒のチョウチンアンコウを選ぼうとした少年の手を止め、その弟の姿を知らない少女も頭を悩ませ、これがいいと最後に二人の意見が揃ったのが、可愛らしくデフォルメされたクジラのぬいぐるみだった。爽やかな青い体に、二つに分かれた尾びれ、白い口元には黒く太い線が一本走り、まるで笑っているように見える。大人には片手で十分だが、幼児ならば両手で抱えて丁度良い大きさの、世界最大の哺乳類だった。
「そんなに可愛いんだ」
以前も、頼まれてもいないお使いの帰りに、彼がわざわざ、歳の離れた弟の為におやつを買っていたのを思い出す。
「可愛いですよ」
紙袋の端を丁寧に折り、中身が潰れないよう、しまい直した彼は、いつかの公園で見せた柔らかな表情を見せる。
「今朝も、どこ行くのって、ずっとついてきて。普段バイトに行くときはすぐに諦めるのに、察しがいいから、本当は休みなんだって、何故かわかっちゃって。泣きそうになるのが、可哀想だけど、可愛いんです」
「親には何て言ってきたのよ」
「友だちとって」
「ふうん」
素っ気なく、窓のへりに肘をつき頬を片手で支える彼女に、彼も問いかけた。
「何て言ってきたんですか」
「友だちと」
「ふうん」
真似をする鼻先を軽く弾いてやると、苦笑する。そんな彼も、やはり、彼女の存在を家族や周りに言えない理由があるのだ。だが、二人にとって、そんな詮索はただの傷を広げる自傷行為でしかない。
「弟が生まれた日のこと、まだ覚えてます」
大き過ぎない、それなのに彼女の耳にきちんと届く、いつもの少年の声は、愛する家族を語る。
「寒い、初雪の降る十二月で、ぼくは冬休みに入ってて、病院で待ってたけど、中々生まれなくって。夜中、待合室の椅子で眠ってたら、看護師さんが起こしてくれて。生まれたんだって」
まるで、目の前にその光景が広がっているかの如く、彼は目を細める。
「あの子が生まれた日、みんなが笑ってました。母も、父も、父方の祖父母もいて。可愛いねって、元気だねって。やっと会えたねって。みんな笑顔で、喜んでて、母も元気でいてくれて。ぼくも、嬉しかった」
弟が望まれて生まれたことが、少年には嬉しかった。たった一人の弟が、周囲の祝福と笑顔の中で誕生し、愛されて成長する未来を確信すると、彼も嬉しくて堪らなかった。
「それまで、赤ちゃんなんて、全然違いなんかわからなくて。どれも同じにしか見えなかったけど」
「口悪いな」
「あなたほどじゃないです」
座席に落とす右手の甲を彼女が軽くつねると、彼はいたいと漏らして小さく笑う。
「だけど、弟は一番可愛かった。他の赤ちゃんと並んでても、直ぐにわかりました。どの子が、ぼくの弟かって」
「本当に仲良しなんだね。そんなんさ、その子が大きくなって、今みたいに遊んでくれなくなったら、兄貴のくせに拗ねちゃうんじゃない。ちょっとぐらい弟離れしたほうがいいよ」
「それはきっと、問題ないです」
柔らかく口元で笑ったまま、彼は瞬く瞳をわずかに伏せさせる。「今だけだから」エンジン音にも掻き消えそうな小さく短い台詞。
「今より物心がついて。察しのいい子だから、きっと、近いうちに解ってしまう。ぼくが、実は、本当の兄なんかじゃなくて、父親の違う人間なんだって知ったら、ああして笑ってなんかくれない」
自分が四歳の時に母親が結婚した相手が、今の父親、弟の実の父なのだと、嘗て彼は語った。
「全部知ってしまったら……。きっと、その時は、もう……」
彼は笑っている。だからこそ、この葛藤が、すでに長年彼の心の中に巣食っているのだという事実が見えてしまう。
「……そんなに、大問題なの」
反対に、少女は首を傾げた。
「私は、兄弟なんていないから、想像しかできないけどさ。こんだけ可愛がってくれる兄貴を、そう簡単に嫌いになんてなる? 親が違うのもさ、別にあんたのせいじゃないでしょ」
今のご時世、異父兄弟という家族構成は、有り触れていなくとも、騒ぐほど珍しいとも思わなかった。何より、少年が母親の連れ子であるという現実に対し、彼が思い悩み落ち込む必要はない。むしろ選ぶなら、責任があるのは親の方だ。家族の手伝いに時間を割く少年は、その分愛しい家族に顧みられているようにも見えないのに、今もこうして、家に対し、思いつめた表情をしている。
「大事なんでしょ、その弟くん。なんてったっけ、ゆうとくん?」
「はい。たすけるに、ひとって書いて、佑人です。大事ですよ」
「いい名前じゃんか。それに、大事ならいいじゃない」
大切な弟の名を褒められ、少年は口元を綻ばせながらも、ゆっくりと首を横に振る。
「いいんですかね。ぼくは馬鹿だから、わからない。嫌われるかもしれない。今まで兄貴面してたから」
彼の言う「全部」が、実は父親が違うのだという真実を指すなら、そこまで俯く必要があるだろうか。あまりに真面目に悩む姿に、彼女はむしろ呆れてしまった。
「ほんとに大事な弟なんだ」
「だから、怖いんです」
諦め切る彼は、恐れながらも、いつかやってくる弟の拒絶を受け入れ、力ない笑みを浮かべる。
「心配しすぎじゃない。逆に考えてみなよ、あんたが弟なら、卵ボーロだのぬいぐるみだの買ってくる兄貴がさ、ほんの半分血が離れてるってだけで、手のひら返したりしないでしょ。そんな性格悪い奴? あんたの弟って」
「いいえ」と直ぐ様首を振る少年は、いつになく励ましの言葉を並べ、弟を庇う少女に視線を合わせると、やがて目を細めて嬉しげな顔を見せた。
「……ありがとうございます」
「私は知らないよ、あんたの弟も、あんたのことだって、正直さ。でも、そんな悪い奴に、こうしてお土産なんて買ってやらないでしょ」
左腕を伸ばし、彼女は彼が膝に置くバッグを人差し指でとんとんと叩いた。指先で感じるのは、中に詰まる、ぬいぐるみの柔らかさ。彼が抱えるように両手をバッグに添える。
「他人にぜんっぜん興味持たないあんたがさ、わざわざ買ってやってんだよ。精々お土産でも買ってやるかって」
「恩着せがましい……」
「ほんとのことだし」
にやりと笑い、彼女はバッグをつついた指を彼の腕に立てる。幾度もつついてやると、虫刺されを掻くように彼は左腕で右腕をさする。
「他に何か買ってやる他人なんて、あんたにはいないでしょ。そーゆーこと。思いもしないくせに」
コミュニケーションの苦手な彼は、決して他人の気持ちに鈍感なわけではない。むしろ過敏すぎて、自分の行動の正確さを計りすぎるあまり、タイミングを逃し、いつも上手な台詞を見つけられずにいるのだ。
「……もしかして、拗ねてます?」
だから今も、彼は彼女自身ですら気づけない感情に先に気づいてしまった。「は?」と少女は眉根を寄せる。
「あんた、最近調子乗り過ぎてない?」
「いや、そういうつもりじゃ……」
あの帽子は、果たして、似合うと言った自分が買って渡すべきだったのでは。彼はそんなことを考えてしまうのだ。そうして少女も、少なからず、自分が好きな彼が、誰よりも心の奥に住まわせている家族の存在に、焼きもちを焼いていることを思い知った。
「碌にあいさつも出来なかったくせにさ。それ以上生意気ほざいたら、その舌引っこ抜いてコンクリ詰めて、さっきの海に沈めてやる。深海魚の餌になっちまえ」
「こわい……」
「血肉になれば、ずっと一緒にいられていいでしょ」
「全然よくないです……」
過ぎた脅し文句に震え上がる少年に、冗談に決まってると少女は笑い飛ばす。既に一人ぼっちで深海を歩む彼にとって、そこに住まう彼らはよく知り合うものたちだ。彼らが牙をむくことなど、決してありはしない。




