二秒間
休館の水族館は想像以上に大きく、正面の広場では屋台で買ったクレープや焼きそばを頬張る人々が休憩し、側の土産物屋は、魚のイラストがプリントされた浮き輪を出入り口にぶら下げ、客を呼んでいる。
また来られたら、中に入ろう。そう言い合って、二人は元来た道を辿ることにした。
随分と涼しげに見えたアイスキャンデーを、一口ずつ交換した。冷たく甘い、ミルク味とレモン味。協議の結果、それぞれ違う美味しさがあると決まった。
行きに素通りした店を覗き、時間をかけて歩いたが、夏の一日の陽は確実に傾き、日中の日差しとは異なる西日が、互いの頬を照らす頃、初めに見上げた地図の前まで戻ってきてしまった。
意味の掘り下げという無粋な真似などせず、右手に海岸の見える海沿いを、一つ向こうのバス停まで歩くことにした。砂浜と舗装された道路を隔てる、腰ほどの高さの防波堤に上がり、少女が歩き出すと、「危ないですよ」と歩道側で足を止めた少年が見上げる。
「へーきへーき。よく見えるよ、海」
陽の沈む海に顔を向け、彼女が笑ってみせると、彼はそれ以上何も言わないまま、再び歩き始めた。
交わす言葉もなく、誰ともすれ違わないまま、帰り道へと歩を進める。左手側を低い山に挟まれる海沿いの道は長く続き、緩くカーブを描くおかげで先は見通せない。バランスをとる少女の前には、数歩分進む少年の背中。耳にかかる黒髪が、強い西日に照らされて、うっすらと橙に染まっている。
黙ってそれを見つめていた少女は、口を開き、透き通った声をこぼした。
「私、今から消えるよ」
えっと少年が振り向いた背後に、少女の姿はなかった。
慌てて防波堤に取り付いた彼が見下ろす砂浜で、少女はおかしく笑っている。およそ二メートルの高さだが、下は柔らかな砂地で、平気な姿をしている彼女に、彼は呆れて息をついた。
「ほら、こっちおいでよ」
彼女を引き上げるには少し高さがあり、そうして手招きをされると、視線を巡らせた彼は、向こうに石段あるのに、とは言わずに、同じように防波堤に足をかけ、軽く飛び降りた。
広く続く砂浜は、水族館の方角に豆粒のような人の影が集まっているだけで、ここまでやって来て遊ぶだれかの姿はない。遊泳可能な場所が水族館近辺に限られているせいか、シャワーや海の家といった設備も見当たらない。
積み重ねられたブロックに並んで腰を下ろし、眩しい日の入りの水平線に向き合った。
「海、真っ赤だね」
少女が零す言葉が、乾いた砂浜にぽとりと落ちる。黙ってしまえば、穏やかに打ち寄せる波の音だけが響く海では、燃えるような太陽が水面を赤く照らしている。
「燃えてるみたいですね」
前髪の向こうから、目の前に広がる海を見つめる少年の瞳にも、髪を染める色と同じ橙が映り込む。深い深い彼の瞳に、日が沈んでいく。
「海の中、熱くないのかな」
「あれだけ赤いから、熱いかもしれない」
「深海魚出てきちゃってさ、熱いから。打ち上がってないかな。そしたら面白いのに」
少女は、曲げた膝を抱える両手を、ぱっと花火のように上げる。あんなに太陽が燃えているんだから、きっと水中も熱いだろう。いつか画面で見た、奇妙な形の魚たちが、熱い熱いと上を目指して飛び上がる光景は、写真に収めれば歴史に残るに違いない。
深海魚、という言葉が彼女の口から出てきたことに、一瞬驚きに目を丸くした少年は、それが以前、自分が彼女に語った話であると思い出すと、柔らかく口元を緩める。
「リュウグウノツカイとか」
「なんとかドラゴンとか」
「リーフィーシードラゴン」
「そうそれ。あとなんてったっけ、ラブカとか」
「かっこいいですよね、ラブカ」
「おこちゃまめ」
「すごく見てみたいけど、やっぱりいいです」
顔を見合わせて笑う彼は、小さく首を振った。
「どうして、好きなんでしょ。剥製なんかじゃなくて、生だよ。生ものだよ」
「深海にいるから、深海の魚なんです。海から出てしまえば、そこに住むべき場所はない。浜辺は、彼らの生きる世界じゃない」
「彼らって、なにそれ」
随分顔見知りな言い方だと笑いながら、少女は少年の瞳を見つめ、そうして納得した。夕日の差し込む、彼の深い瞳には、まさに海の底で生きるべき彼らの存在があるのだ。誰にも見えない、自分しか歩かない世界で、息苦しさに耐えて水面を見上げる彼の傍にいるのが、聞きなれない、見慣れない姿のものたちなのだ。
伸ばした手で、少女は少年の髪をかきあげた。戸惑い、一度目を閉じる彼の前髪を親指で掬い、残りの指で横の髪を押さえつけ、彼が中々人に見せたがらない顔を夕日に晒して目を見つめた。
「前から思ってたけどさ、あんた、こうしてみたら綺麗な顔してるのに」
まだ中学生の風貌を抜けられない、あどけなさの残る少年の面立ちはすっきりとしている。あまり他人に笑顔を見せず、ともすれば無愛想だと取られ、その瞳すら隠してしまう彼の顔は、好きだと言った少女の贔屓目を抜いても、十分に整っていた。
「どっちに似たの。お父さん、お母さん?」
「母親です」
「即答じゃん。お父さんかわいそう」
「ぼくは、母親似です」
すぐさま言い切る彼の顔から手を離し、彼女は笑いながら、目が見えるようにと、長い前髪を横に分けてやる。
「こうしてさ。ちゃんと顔見せて、もっと笑って、面白いこと言って。テンション上げてけばいいのよ」
「それはもう、ぼくじゃないですよ」
「勿体ないって言ってんの。男でしょ、モテたくないの?」
困りきり、上手に笑えない彼は、少女が手を離すと指で髪を梳いてはいつも通りに目元を隠してしまった。
「ぼくには、そんなの……」
そうして、彼女から海の方へと目線を外してしまう。どれほど笑顔を見せるようになっても、彼が失った自信や、目元を隠す理由は、容易に解決される問題ではなさそうだった。
自分の膝を抱いて、その様子を眺めていた少女は、にっこりと笑って唐突に投げかける。
「ねえ、私のこと、好き?」
「え?」
落ち込みそうな気持ちが、ふっと浮上するような単音を空気に浮かべ、少年は誰もが求める笑顔を見せる彼女に目を向けた。
「どういうこと……」
「私が聞いてんの。好き、嫌い、二者択一、どっち?」
「それは、勿論……好き、です」
恥ずかしさを未だに隠しきれないまま、それでも彼は、好きという言葉をはっきりと使う。視線を泳がせ、彼女のように相手の目を見つめられずとも、そんな自分を嫌ってしまおうとも、彼は嘘など吐けない。
「じゃあさ、証拠見せてよ」
「証拠って」
「最初はさ、私だってわかってるよ。無理矢理だったでしょ。何にも知らなかったあんたにさ。挙句には泣かせちゃったし」
「無理矢理なんて、そんなこと、言わないでください。ぼくは、そう思ってなんかないから。それに、泣いてなんかないです」
名前さえ教え合わないまま、全ての順序が壊れていた。だが、そんな彼女の呟きを、少年は懸命に否定し、泣いてないという言葉を強く推す。
「そう? ならいいんだけどさ」
「ぼくだって、好きだって言ったんだから」
「それならさ、証拠見せてよ」
繰り返し、少女は、沈みゆく夕日に勝る明るい笑顔を向けた。顔を上げる向日葵のように鮮やかで、水を浴びる紫陽花のように涼やかな、誰にも真似できない笑顔で。
「キスして」
短い言葉に、少年は目を丸くした。咄嗟に逸らすことさえ忘れた瞳で、彼女の大人びた表情を見つめる。
「全部私からじゃない。始めっから、今までずっと。性格だって、わかってるしさ、仕方ないって言えばそれまでだけど。女の子に引きずられてばっかの男って、どうよ」
「それは……確かに、情けないですけど……」
「ね。だから今度は、私は何もしない。あんたのこと、疑ってなんかないよ、今更。だけどね、待ってるから。待ってたいの」
不器用な彼が、精一杯告げてくれる言葉に、今になって疑惑を抱くことはしない。それでも少女は、望む相手が与えてくれる愛が、欲しかった。促した結果であれど、形だけであろうとも、自分が愛する相手が、愛してくれる人が、伸ばしてくれる手のひらの温もりが。これまで無意識に望み、それでも得られなかった、自ら欲し、答えてくれる、愛おしい存在が。
瞼を閉じる少女を見つめる少年は、迷ってなどはいなかった。
彼にとっても、彼女は特別な人間だった。傷ついて欲しくない、決して傷つけたくない、いつまでも笑っていてほしい相手であることに、間違いはない。少し乱暴で強引でも、彼女が自分を引っ張るのは、自分が言い出せないから、それだけ好いてくれているから。その事実に気づけないほど、彼は幼くはなかった。
ただ、今は、これまで慣れることなく残ってしまった、無垢で幼い心が邪魔をする。恥ずかしいと、叫んでいる。自分からなんて、そんなの駄目だなどと、幼稚な言葉を並べている。
音を立てず、深い呼吸をし、彼はぎゅっと手を握り締めた。彼女は待っている、待ってくれている、早くしなければ、迷う理由なんてないんだと、あどけない言葉たちを諌めた。
震える瞼を閉じた。
心臓が、うるさかった。
ぎゅっと閉じた唇でキスをする。一所懸命に全力を振り絞り、精一杯に、触れるだけのそれは、時間にすれば、ほんの二秒ほど。
少年が顔を離すと、少女も瞼を開いた。これまでの、彼女にとってのキスという行為において、あまりに短い時間だったが、それは長い年月をかけて、望んでいた時間だった。
かけがえのない、二秒間。彼の勇気が姿を現し、形となって、彼女に応えた、胸が苦しくなるほど愛おしい瞬間。音もなく、ほんの僅かな温もりを抱いて流れた時間。
「真っ赤だね」
とても目を合わせられないまま、彼がこちらに向けている顔は、今日最後の夕焼けを浴びて一層赤らんでしまっていた。
「夕焼けのせいです」
苦しい言い訳を呟き、唇を引き結んでしまう少年は、必死に何でもない風を装おうとしているが、顔色まで誤魔化しきることはできない。
「嘘ばっか」
「ほんとですよ。あんなに赤いんだから」
「ふーん。それで耳まで赤くなるもんなんだ。じゃあ、私もなってるはずだよね。どう、赤い?」
そう言って少女が顔を寄せ、耳を近づけると、彼は尚の事恥ずかしがり、もう顔も向けていられず、横顔を髪に隠してしまった。手で顔を覆うことさえしないが、もし潮が満ちていれば、深く海に潜り、体温が下がるまで隠れてしまうだろう。
胸の奥が苦しくなり、少女は微笑んだ。悲しい苦しさではない。ようやく知ることの出来た、愛おしく、切なく、いつまでも抱きしめていたい苦しさだ。窄まる胸の奥が温かい。この温もりを与えてくれる存在が、手を伸ばせば、触れるどころか抱きしめられる距離に居る彼が、恥ずかしがり屋の少年が、何よりも誰よりも、大好きでたまらない。




