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深海の星空  作者: ふあ
深海の星空
29/63

お守り

 水族館まであと二百メートルの看板が目に入る大通り、施設が閉まっているというのに、行き交う人の数は更に増えていた。人ごみ、と呼称するには至らないが、真夏の日光の下を歩く人々の姿は絶えることがない。

 古い町並みのおかげか、どこか情緒を感じさせる朱色のポストが直立する角を曲がり、二人は人通りの少ない細い道へ足を踏み入れた。


 次第に両脇に並ぶ店が数を減らし、代わりに現れた整頓された竹やぶが、長身を天へ伸ばすおかげで、強すぎる直射日光が木漏れ日へと姿を変えていく。生息範囲が異なるのか、蝉の声も聞こえず、思い出したように吹く風が、さらさらと笹の葉を鳴らせば、いつの間にか少女の暑いという嘆きも消え、少年が服の襟を摘んで風を送る動作も止んでいた。


 そうして歩くうちに、入口で見上げた地図に描かれたマークの通り、小さな赤い鳥居が姿を現した。鳥居の脇の手水舎、手前の拝殿と奥の本殿、木造の社務所だけを備えた、木々に囲まれた神社は、三段の石段を上がるとすっかり中が一望できるほど小さく、人の姿は見えない。

「どっちからでしたっけ」

「右手に持って、左手から洗うはず。確かね」


 折角だからお参りしておこうと、鳥居をくぐり、あまり手にすることのない柄杓に、ちょろちょろと流れる手水を掬って、手を清める。冷たい水が皮膚を通して体全体を冷やしていくようだ。

「神様、信じてるんですか」

 柄杓を戻し、ポケットから出したハンカチで手を拭きながら、少年が尋ねた。

「なに、信じてたら悪い?」

「悪いなんて、ないですけど。こういうの、馬鹿にするんじゃないかって」

「馬鹿にしてるよ」

「やっぱり」


 手を拭き、無碍に言い放つ少女に、いつもの通りだと少年は苦笑する。余裕の満ちる笑みで首を傾げる彼女の髪が、さらりと肩にかかる。

「大体さ、神様って何。何してんの」

「それは……色々、決めてるんじゃないですか」

「色々って」

「その、人間にはできないこと……。寿命とか、運命だとか、目に見えない色々を」

「運命ね。すっごいよね、そんなことできるとかさ。給料いいんだろうね。神様みたい」

「神様だから」


 当然の返しに、少女は肩をすくめてみせた。

「それができるのにさ、えこ贔屓が過ぎるよ。気に入った奴はとことん可愛がるくせに、気に入らない奴はどん底まで虐めるんだから」


 祈ったって。少女は思う。これまでの人生、神様神様仏様と、いくら祈っても、願っても、泣き叫んだって助けてなんてくれなかった。あの人に手を出される最中なんて、嘗ては嫌になるほど懇願したのに、未だに何一つ救われていない。むしろ悪化すらしていることに気づいてからは、祈ることを止めた。人並みの代償は払ってきたはずなのに、相応の還元が成された気など少しもない。


 ただ一つだけと、言葉にせず、少女は少年を見返した。いい事といえば、彼と出会えたこと。彼と知り合う道筋を、神様とやらが決めていたんなら、これだけは、感謝してやらないでもない。

「目の前で悪口なんか言ったら、聞こえますよ」

 いくらか声を抑える少年は、どこか覚束無い目線を周囲に巡らせる。

「目の前ってなによ」目に見えない神様とやらに気を遣う、そんな子どもっぽい仕草が少女にとっては可愛らしい。この少年の存在が、神様が可愛げのない自分に与えたせめてもの温情なのだろうか。


 だけど、もう少し余りをくれてもいいじゃないか。せめて、互いの存在を周りに言える程の幸福をくれたっていいのにと、砂利を踏みしめ、拝殿へ歩く少年の背中を、少女は後ろを歩きながら眺めた。


 少女にとっての少年が、極力人に知られてはならない存在であるという現実が、地元からバスで一時間かかる今日の道のりだった。クラスの人間が、いや、学校の誰かが彼女の隣を歩く他人の姿を目にすれば、忽ち根も葉もない噂が際限なく広まることは容易に想像できる。あの桜庭菜々の人間らしさ、つまりは弱みを一度でも握れば、奴らは決して離さないだろう。馬鹿が付くほど真面目で、泣きたくなるほど優しい少年は、人に知られて恥ずかしい人間などでは断じてなく、互いにやましい思いなどこれっぽちもないが、そんな二人の心情など、彼らが構うはずがない。


 それ以上に、少女は家のためにも他人の目を避けねばならなかった。朝のアラームも極力ボリュームを下げ、玄関先に出る物音も最低限に抑え、自宅だとは思えないほどこっそりと、絶対に母親に気づかれないように行動する。母に怪しまれ、叔父に何かしらの告げ口をされれば、御終いだ。嫉妬深いあの男は、自分が気を引きたい彼女が、歳の近い少年としきりに顔を合わせていると知れば、黙ってはおかない。母に何かしら口を出し、新聞を解約させるに留まれば御の字だ。最悪の場合、立場の弱い彼に脅しをかける可能性も否めず、実力行使にでる危険性もある。頭のネジが五六本抜けている大の男の力に、まだ少年の身体しかもたない彼が敵うとは思えない。想像しただけで少女の背筋は凍りつき、何があっても家族には黙ってなければとその度に噛み締め、自分たちが決して周囲に恵まれない不幸を恨んだ。


「じゃあさ、あんたは信じてるんだ」

 拝殿の屋根で作られる日陰に入り、賽銭箱に至る数段の石段の前で足を止めた彼に問いかけた。

「神様ですか」

「そう」

「……いたら、いいとは思いますけど」

「なにそれ。私とそんな変わんないじゃん」


 それだけで、彼女には分かった。おそらく彼も、神様に愛された記憶など碌に持っていないのだ。贔屓癖の強い、どうしようもなく崇高で絶対的な存在に、認められ可愛がってはもらえないのだろう。

「きっとさ、私たち、神様に嫌われてるんだよ」

 互いが隣にいることを、誰の目にも晒せない。少しでも神様に愛されていれば、こんな不幸は知らなかったはずだ。


 石段を見上げて言い切り、奥の本堂から自分たちを監視する相手を睨む少女の横顔に、少年は否定をしなかった。自分が嘗て愛された証拠を思い出せないまま、彼は困ったような顔をした。


 ここまで来たのならと、彼女はショルダーバッグから財布をとりだし、中の小銭を指先で転がす。十円玉と五円玉を一枚ずつ。二枚の硬貨を右手に乗せ、「ならさ」と、隣で同じように小銭を引き出す彼の方を顧みる。

「神様にさ、喧嘩売ってやろうよ」

「なんて」

「やれるもんなら、幸せにしてみやがれってさ」

「そんな言い方したら、ばちが当たりますよ」

「わざわざクソ暑い中やって来て、頭下げてお金まで払うんだよ。叶えてくれなくても、それでばちさえ当てるんならさ、どうしようもない。心狭すぎじゃない」

 彼女の言い分の正当性を計りきれず、彼はそれは違うとも、その通りだとも言わないが、どこかで納得したらしい。また口の悪いことをと、呆れて笑いながら石段に足をかける。


 年季の入った賽銭箱へ、掛け声もなく同時に硬貨を放り、人間の世界と神様の世界、それを繋ぐ太い鈴緒をそれぞれ左右から両手で握り締める。ゆっくりと力を入れると、天井近くに見える大きな本坪鈴が、ガラガラと大きな音を小さな神社一帯に響かせた。耳を澄ませば、手水舎で流れる水の音さえ聞こえそうな静けさの中、鈴の音の余韻を耳に残し、頭を下げて柏手を打つ。


 瞼を閉じ、直近の初詣すら幾年も前になる少女は、一つだけの願いを探す。これほど文句を垂れる自分に、甘い蜜を吸わせる願いなど、今更神様が叶えてくれるとは思えなかった。それなら、彼と笑っていたいという、自分を含める願望は訴えない方がいい。一つだけ。幾つも望めば、気まぐれだって起こしちゃくれない。だから、たった一つ、一度だけ、願わせてくれるならば。


 今隣にいる、一ノ瀬広樹という少年が、一日でも長く笑っていられますように。


 叶えてみせろ。これだけでいいんだ。これまで諦めるまで無視してきやがったんだから、今本気で願う祈りにぐらい、耳を貸してみせろ。金が欲しいだとか、成績向上だとか、長生きしたい、昇進したい、合格したい、そんなことは思わない。贅沢なんて言わない。笑ってるだけでいい。願うことは、ひとつだけ。


 長い祈りの間、すっかり両手を下ろして待っていた少年が、踵を返して石段を下りる気配があった。とん、とん、とん。使い古したスニーカーの足音に、ようやく少女は顔を上げ、遠い昔に母親に習った通り、一礼して振り返る。

 太い柱の側で、少年は相手を急かすことなく、取り出したペットボトルのキャップを捻り、半分ほど残る麦茶を喉に流している。炎天下から逃れても、夏真っ盛りの空気は十分熱を帯びており、油断して水分補給を怠れば、体は干上がってしまいそうだ。


「なにお願いしたの」

 軽く段を下りた彼女は、中身を更に半分にしたボトルの栓を直し、口元を拭う少年の顔を覗き込んだ。垂れる前髪の向こうで、彼は視線を一度上へ泳がせたが、答えを口にする代わりに頬を緩めた。

「内緒です」

 いつも少女が見せるのと同種のいたずらっぽい表情も、彼にはどこか幼さが残っている。

「言ってよ」

「言いません」

「言えよ」

「秘密です」

「言えってば」

「やだ」

 珍しく、いや、初めて融通を利かせない姿を少女に見せる少年は、頑固に口を閉じる。腕を掴まれ軽く揺さぶられても、根負けする様子はなく、不満を隠す気配のない彼女が詰め寄ると、それならと妥協案を一つ唱えた。


「あなたが教えてくれたら、ぼくも教えます」

 普段とまるで正反対の状況に、言えるわけがないと、少女は文句を飲み込んだ。あんたの笑顔を祈ってたなどという台詞を、彼女の意地っ張りが許すはずがない。彼女の願いの中身さえ知らずとも、その性格が、一番の願望を他人に軽々しく教えられないものであることを知っている、彼が見せる初めての意地悪だった。

「いじわる」

 彼にそう言われれば、教えてくれと強く出るわけにもいかない。自分が言えやしないのに、他人には口を開けという台詞は道理に合わない。折角祈ってやったのにと言えないまま、少女はせめて少年の細い右肩を掴み、乱暴に揺さぶっては、聞こえの悪い不満を漏らすしかなかった。


「馬鹿。あほ。クソガキ」

「ぼくは、馬鹿ですよ」

「この大馬鹿野郎。呪われちまえ。今すぐ祟られろ、ばーか!」

 謂れのない幼稚な悪口を浴びながら、澄ました顔で視線を逸らした彼は、また一つ発見をしたと、左手の人差し指を彼女の後ろに向けた。

「ほら、お守り売ってますよ」

 誤魔化されるかと、口を尖らせる少女を促し、少年はどこか嬉しげに、敷地の隅に鎮座する社務所へと足を運ぶ。胸元の高さに据えられたガラスの引き戸の向こうには、おみくじの入った箱や、お守り、御札といった、神社ならではの品物が並べられている。


「嫌われてたって、少しは、思い直してくれるかもしれないですよ」

「嫌いだって言われちゃあ、そうそう気に入られやしないよ。こんなんで気が変われば苦労なんかしないし」

 少女の気のない台詞に、「それでも」と彼は笑いかける。

「何もしないより、きっとマシですよ。無謀な願いだったとしても、ほんの少しだけでも、叶えてくれるかも知れない」


 無謀なんかじゃない、それを言えない彼女は、内心で首を傾げた。さっきから彼は笑っている。煩すぎない、少年らしい静かな笑顔で、嬉しそうにしている。

 願いを叶えてくれたのだろうか。彼の笑顔を願ったばかりの彼女は、思ってもいない文句を引っ込め、返事を待つ彼を見返した。神様の気まぐれが、この瞬間だけでも起きているのだろうか。

 それならば、これが続くというのなら。

「……わかったって」

 感謝ならいくらでもする。お守り一つで気まぐれが長持ちするのなら、安いもんだ。仕方ないなと、腰に手を当て、並べられたお守りに目をやった。



 初めて買ったお揃いがお守りとは、随分自分たちらしいと、鳥居の下で鈴のついた組紐を彼女は摘む。赤、青、黄、紫と、色のついた細い紐がくるくると組み合う端には、金色の小さな鈴。軽く振ってみる指先で、ちりんと涼しげに鳴る。

「なくすなよ。この為だけにまた来るなんて、やだからね」

 スマートフォンを取り出し、赤いケースに空いた小さな穴に紐を通し、外れないよう結びつける。

「なくしませんよ」

 同じ機器を持っていない少年は、財布を取り出し、コインポケットのチャックの片側に結ぶ。端がほつれ、使い古されているが、黒い革製の二つ折り財布は、大事にしている手帳同様にどこか大人びていた。


「叶ったらいいですね。願いごと」

 手のひらに乗せた鈴を瞳に映す少年に、「そうだね」と少女は返した。結局、彼は願いを教えてはくれなかったが、これで十分なんだと彼女は鈴を鳴らした。

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