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深海の星空  作者: ふあ
深海の星空
25/63

ノートと約束 2

 ようやく顔を上げた少年は、強く絞った体操服から水分を落とすと、シャツをつまんで風を送りながら、ベンチまで戻ってきた。


「これ、あげる」

 いくらか汚れの薄まった、丸めた体操服をテーブルに置き、頬に汗を零す彼が水筒に口をつけているのに、少女は小さく折りたたんだビニール袋を突き出す。


「今から乾かしたって、そのまま入れたら、中身汚れるでしょ」

 少女の珍しい素直な優しさに、どこか目を丸くしながらも、口元をぬぐった彼は礼を言って受け取った。テーブルを挟んだ向かいのベンチに、濡れた体操服を広げる姿が、その背側を見せないよう立ち回っているのに、少女は気づかない振りをした。彼が何故、用事もないのに学校から自宅への直線距離を離れ、一人で公園の水飲み場にしゃがんでいたのか、その理由は既に明確だったが、口にはしなかった。


 服の傍に袋を置くと、ようやく少年は少女の隣に腰を下ろす。理由もなく、無意識に並んでベンチに腰掛けるまで、出会ってから実に二ヶ月半という時間が経過していた。


 猛暑を超え、酷暑を迎えると予想されている今年の夏は、日増しに暑さを募らせ、この日も今年一番の日中最高気温を記録している。水分補給を終え、タオルで額や首元を拭う姿を眺めていると、前髪についた汗を拭き取った少年と目があった。なに、と少女が見つめ返すと、彼は慌てて目を逸らしてしまう。恐らく彼が長期間溜め込んできた、コミュニケーション不全の弊害は、ちょっとやそっとでは治らないだろう。


「その、髪が、違うなと思って」

「あ、これ?」


 そういえば、彼の前で髪を束ねているのは初めてだと、少女は後ろで一つにまとめている髪の房を片手で軽く握る。

「さっきの時間、移動授業でさ。違う教室で授業あったんだけど、クーラー壊れてるとかさ、拷問じゃない?」


 髪が首にかかる暑ささえ耐え難く、集中も何もあったもんじゃないと、細いエナメルのゴムで髪をまとめたまま、彼女は特に違和感もなく学校を出て来ていた。

「中学は、クーラーなんてないですよ」

「知ってるよ、私の時もそうだったし。クソ暑かったわ。あんな環境で授業受けろとか、税金の回し口間違ってんでしょ」

 仕様のない愚痴をぼやきながら、少女は髪をまとめていたゴムを解いた。ろくに人間性も理解せず、見た目で全てを知った気になる同級生に、不良だと言われることもある少女には、耳にピアスの穴ひとつ空いておらず、艶やかな髪の毛も一本残らず、生まれたままの黒色だ。頭を振ると、背の中ほどまで伸びる、真っ直ぐな髪が、揺れに合わせて緩やかに波打つ。


 それを、少年はただ見るだけで、例え機器を持っていようが動画どころか写真さえも撮る気配などなく、真っ黒な瞳に真っ黒な髪の毛先を流している。

「あんただって、目、見えてんじゃん。いつもより」

 前髪が汗で濡れたおかげで幾束かに分かれ、いつも通り目を隠せていない少年に少女が軽く笑いかけると、彼は忽ち前髪を指で梳き、頼まれてもいないのに目を覆う。


「反抗すんな。可愛くない」

「そんなつもりじゃないです」

 彼の声は小さく、笑っているように目を細めているが、その瞳の深度は、いつもより深みを増しているように少女には見えた。被さって見える曇の影は、伸びた前髪のせいだけではない。


「ねえ」

 少年にぐっと顔を近づけ、頬を上げ、いたずらっぽく笑う。


「デートしよ」


 何事かと、ぽかんと目を見張った彼は、始めて耳にする英単語のように、片仮名を平仮名に直して少女の言葉を反芻した。

「そう」

「……何するんですか」

 ひたすら疑問を感じている様子の少年から顔を離し、少女は呆れた声を返す。

「そんなん決まってんじゃん」

 決まってる。一体、何が。


 口にしてから、自分自身、そういった事柄に実に疎いことを思い出す。行き過ぎたことは、年齢以上に知ってしまったのに、そこに至るまでの、実に初歩的で在り来たりな事柄を、少女は具体的に習ったこともなければ、語り合う誰かもこれまでもたなかった。


「なにすんの」

「ええ……」

「男でしょ。考えてよ」

「そんなこと言われても」


 少女以上に疎い少年は、両腕を抱えてすっかり困りきってしまった。ぽとりと落ちた二人の沈黙に、うるさい蝉の鳴き声が侵食しては夏の色をつける。

「どっか行こうよ」

「どこに行くんですか」

「どこがいい」

「どこでも」


 蝉の羽音に負けない大きさで、少女はため息をつき、大げさに肩をすくめてみせる。

「それって、一番困るやつじゃん。今日何食べたいで、なんでもとか返すやつ。すっげー迷惑」

「公園とかじゃなくて、遠くですか」

「そりゃあね」

「どこまで遠くですか」


 質問を重ね続ける少年に、少女は形の良い眉をひそめ、半身を倒すとわざわざ彼の顔を下から見上げるように覗き込む。

「もしかして、嫌?」

「いえ、あの、全然、そんなわけなくって……」

 過ぎた反感を買って嫌われやしないかと、慌てて少年は首を横に振った。伸びた前髪を揺らし、どこか迷いを埋める瞳で、体を起こす少女を見返す。

「その、休みが合うかわからなくって」

「新聞でしょ。別に休みが平日でもさ、もうすぐ夏休みじゃん。中学なんて補講もないし、いつだって楽勝じゃない」

「昼も、バイトがあるから……」

「バイト? あんた、昼も働くの?」


 頷く彼に、そうだと両手を打つように思いつき、少女はにやりと意地悪な笑みを浮かべる。

「なんのバイト。遊びに行ってあげる」

「そういうのじゃなくて……」

「なにそれ、人に言えないような仕事?」

「そんなわけないです」

 こいつはどこまで働くんだ。もしその姿を覗くことができるなら、朝より長い時間からかってやろうと、邪な考えを持つ少女に、少年は頬を指でかきながら言った。

「夏休み入ったら、夕刊も配るので」


 その言葉に、彼女は思わず「は?」と間の抜けた声を漏らした。

「特にお盆の時期だと、帰省する大学生や、大人の方も多いので、穴が空くよりはって、やらせてもらってるんです。前から」

「前からって、去年の夏も? 昼間っからうちの前通ってたの」

「いえ。夕刊は取ってる人が違うから、ルートも違うんです」


 ぽつぽつと空く穴を補うために、地理感覚のない未経験者を新しく雇うよりは、普段から朝刊を配っている地元の少年を穴埋めとして使う方が、確かに効率的だ。朝より部数は少なくとも、離れた距離同士を繋いでいるおかげで、彼は街一帯の地理に詳しくなり、公園に近い郵便局の場所を知っていたのも、真面目な仕事の賜物であった。脇にある細い路地が気になり、配達後一人で立ち寄った先にあったのが、潰れそうな古本屋や、老舗の駄菓子屋だった。


「それで休みがないって言ってんの。あんた、一体何が楽しくて生きてんの」

「さあ……なんでしょうね」

「じゃ、もしかして冬休みも?」

「年末は、折込広告が増えるから。あまりないけど、雪が降ったりしたら、夏よりずっと大変ですよ。手が動かないし、よく滑るし」


 でも春休みはしてないと、取り繕うように言うのに、少女は、なにもめでたくないじゃないかと、呆れよりも感嘆のため息をついた。

 だから彼は、遠くへ行くことに躊躇っていた。朝と昼の配達に間に合わなければ、いくら築き上げた信頼があっても、立場の弱い中学生などあっという間に不適合だとみなされるだろう。これまで二年以上、同じ仕事を続けてきた彼に対して、それはあまりに不憫かつ気の毒な話だ。中学生という身分では、代わりに飲食店やコンビニで働くこともできないし、彼は以前、何軒も当てを探した中で、唯一許可をくれたのが、今の専売所だとも言った。それをただ一日の思いつきで壊してしまっては、いじわるの範囲を超えてしまう。


「ちょっと待ってください」

 考え込み、いくらか冷えてしまった空気へ、夏の様相を取り戻すように、彼は横に置いた通学鞄に右手を差し入れた。

「それぞれ週一で、どこかが休みになるんですけど……被ってる日があるかもしれない」

 同級生の心ない手ほどきの焦点から逃れるべく、わざわざチャックのついている内ポケットから、大事そうに取り出したのは、少女にも見覚えのある、黒い手帳だった。


 まだ骨の細い指でページを繰り、貼り付けた小さなカレンダーを見つめる瞳は、前髪を透かしてもひたむきで、少女は黙って彼の口が動くのを待つ。薄い紙の上を滑る人差し指が、日付の一つではたと止まった。

「一日だけですけど……」

「いつ?」

「八月五日。夕刊が休みで、次の朝刊も休みなので……だけど、月曜日で、平日だから……」

「じゃあ、そこにしよ」

「いいんですか」


 あっさりと言い切った少女に、彼は手帳から目を離す。

「ぼくはよく知らないけど、高校って、中学みたいな夏休みじゃ、ないんですよね。その、補講って、大丈夫なんですか……」

「気にすんなよ、少年」

 彼が膝に置いている手帳のカレンダーを、指先でとんとんと叩いて少女は不敵に笑う。


「あんたらみたいに、四十日あるってわけじゃないけどさ、ちゃんと夏休みもあるっての。二週間ぐらい」

 本当は、八月七日の水曜日から終日の休みに入るのだが、彼女は平然と言ってのける。進学校を名乗る為に存在する半強制の午前の補講で、貴重なたった一日を潰してしまうなんて、人生における損だ。馬鹿だ。そんな真面目さ、知ったこっちゃない。


「あんたじゃ頼りないからさ、どこ行くかは私が決めたげるから。あんたはてるてる坊主でも作っときな」

「変なところ、言い出さないでくださいよ」

「補導はされないようにしとくよ、一応。文句言うなよ」

 それよりもと、少女は彼の左手に右手を重ね、ぱたんと手帳を閉じさせた。

「よくそんな体でもつよね。義務教育なんだから、勉強しときなよ。どーせ碌にしてないんでしょ」

 閉ざされた手帳を両手で握り、どこか不安げな表情を見せていた少年がやっと笑った。そうなんだと、感心できない返事をする彼の瞳からは、向こうに広がる夏空のように、曇はすっかり消え去っていた。

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