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深海の星空  作者: ふあ
深海の星空
26/63

双澄海岸 1

 八月五日 月曜日 午前十時 中央南口 時計台

 遅れたら殺す


 そんなふざけたメモを、少女が新聞受けに挟まなくてはならない理由は二つあった。


 一つは、彼が自分専用の連絡手段を持っていないということだった。今やベビーカーに座る赤ん坊でさえ画面を眺めているスマートフォンを、彼は両親しか持っていないのだと言い、かといって折り畳みの携帯電話さえ使ったことがないと、八方塞がりな台詞を並べた。

「お金かかるし、あと少しだし……」

 元から手にしてなければ、大して不便さなど感じないという、実に古くさい言いぐさに、今まさに不便だろうと少女が口を挟むと、彼は言葉を呑んでしまった。だが、今更仕様のない話だ。


 二つ目は、少女の不眠が治る気配を見せず、この朝は必ず会えるという保証ができないことだった。時間より早く目が覚める朝があれば、耳障りなアラームを鳴らす機械を床に叩きつけて壊したくなるほど、不定期な睡眠欲に支配される日もあった。


 健全な青春など縁なく過ごしてきた彼女が、ようやく場所と時間を決定したのは、八月四日の昼間のことで、脅迫じみたメモを書き上げ、新聞受けから路上側へはみ出すように挟んだ時刻は、既に夜の十時。時計の針が零時を越えた八月五日、午前三時に意識を失った彼女は、五時過ぎのアラームでは瞼一つ動かすことなく、とうに日の昇った七時を超えた時刻に身を起こした。急ぎ足で覗いた新聞受けからメモ用紙が姿を消し、代わりに朝刊が差し込まれているのに、幸いだったと胸をなで下ろした。


 この街で中央と呼べば、多くの人が指さす方角にある広い駅は、浸透しない正式名称を持っていたが、彼女同様、楽しいことなどろくに知らない様子の彼にも、意味はきちんと伝わっていた。正面口よりも、バス停やファストフード店が肩を並べる南口へ改札を抜け、二階の高さから階段下の広場を見下ろし、少女は少年の姿を見つけた。

「よく来たね。待った?」

 まだ十時までには五分ある。広場の時計台に向かい、安っぽい噴水の縁に浅く腰掛けている少年は、彼女のよく通る声に顔を上げた。


「いえ。今来たところです」

「上等じゃん」

「殺されたくないから」

 確かにメモを受け取った彼のパーカーのフードを、少女が軽く引っ張ると、彼は苦笑いを返し、手元の文庫本をぱたりと閉じる。日陰に逃げることなく、真夏の日差しの中で彼が読んでいた本を、少女は屈んで覗き込む。

 彼女の視線に気づいた彼は、慣れた手つきで青いブックカバーを外し、親指の幅ほどの厚さしかない本を裏表と片手でひっくり返してみせた。群青色の夜空に、ぽつぽつと五つの星が灯る表紙。


「本なんか読むんだ」

「うん」

「暗いね」

「好きなんです。小説読むのが」

「小説ね」

 彼女自身も本は読むが、好きだと断言するほどではない。

「そんなの、所詮フィクションじゃない。だれかさんの頭の中で作られた、事実無根の話。実在する事件団体人物と一切の関わりはありませんってね」

「だからです」

 馬鹿にしながらも少女がそれを受け取るのを、少年は前髪に透かして眩しそうに見上げる。伸びた髪は、強い日差しから目を守るのに、少しでも効果を与えているようだ。


「貸しましょうか。ぼくはもう、何度も読んだから」

 文庫本の端はよれ、どこかでついてしまった折り目は、裏表紙を縦断し、彼の言葉を形取っている。

「元々中古だったので、もうぼろぼろですけど……。短編集なので、読みやすいですよ」

 裏表紙には、二百円の値札シールが貼り付いたままだ。いつか前を通った、路地裏にひっそりと佇む古びた古本屋を脳裏に浮かべながら、少女は、ふうんと曖昧に頷いた。折角なら借りてやろうかと、失礼な思いと共にカバーをかけ直し、試しに目次をめくり、一ページ目の一行目を目でなぞる。

「うわ、出だしから暗すぎ」

 一話毎に人の名前がふられる目次を見るに、五人の人間の物語が綴られているようだが、いきなり現れた十三歳の主人公は孤児だという。肉親も、心を許せる仲間さえもいない少年の話の出だしに、明るい将来など見いだせるわけもなかったが、その台詞は想定内だとばかりに目を細める彼を見て、少女は文庫本をショルダーバッグにしまった。



 晴れればいいと願ったが、願う以上に八月五日の天気は眩しく、姿の見えない神様とやらが、空色の絵の具で描くグラデーションが、夏空に緩やかだ。沸き立つ入道雲の白さが際だつ。

 桜の木々が、青々と茂る葉を天に伸ばす南口の広場を横切り、オーバーサイズのTシャツにショートパンツの少女は、駅のホームから離れる。髪を揺らす彼女の背に遅れないよう、黒のジーンズを履いた足を動かす水色のパーカーの少年は、離れる駅を幾度も振り返った。大通りを辿りながら、彼が自転車を停めた駐輪場を過ぎ、駅前にひしめくファストフード店や居酒屋、ゲームセンターの前を素通りする。


「バスですか」

「そう。電車だと方角違うから」

 うるさい人通りを抜け、現れたバス停留所で少女はやっと足を止めた。

「終点まで行くの、一時間に二本しかないから。この十時半ってやつね」

 端の剥がれかけた時刻表を彼女は指さす。

「終点って、どこになるんですか」

「一時間くらいかかるらしいんだけど、双澄ふたすみ海岸って知ってる?」

「名前ぐらいは……」

「行ったことは」

「ないです」


 それでいいと、少女は頷いた。彼女自身も足を運んだことはなく、先日までは、そうちょう海岸と読んでいた場所だ。

「なんか、色んなお店とかがあるんだって。海の近くで、水族館が有名らしいんだけど、月曜休館ね。しょうがない」

「お店って、どんな」

「お土産ものやとか、出店とかあるらしいよ。まあ、行けばわかるでしょ」


 自分から娯楽施設を探すことなど、これまでただの一度もなかった彼女が、二週間頭をひねって調べた結果だった。初めは、取りあえず、一般的な中高生のデートスポットとは何かという、基礎から辿ってみた。都会とも言えない地元にめぼしい場所などあるはずもなく、何より互いに、顔見知りと遭遇する危険は可能な限り避けねばならない。そうした暗い気持ちを無理に押しのけ、街を離れれば安易にテーマパークかとも考えたが、あの少年がキャラクターの耳を被るとも思えず、勝手に想像して補講中に吹き出しそうになる事故を堪えては、冷静になれと自分を叱咤した。交通費だけでもそれなりの金額になるし、各々の性格にあまりに適さない。彼が怒ることはないだろうが、わざわざそんな苦痛を強いて疲れさせる必要もない。


 そうしたわけで、有名所の水族館が閉まっていたとしても、海岸沿いの観光名所は距離や経費を踏まえると、もっとも妥当な場所だった。

「私もあんま知らないし、これ以上調べてないけど、文句言うなよ。言ったら道路に突き飛ばすから」

「……ありがとうございます」

 恐ろしい台詞に恐怖の色は見せず、礼を言う彼は幾分ほっとした様子だった。

「なに」

「いえ……。意外と、まともな場所でよかったと思って」

「もうすぐトラックが来るね」

「手離してください」

 向かってくる長距離トラックに少女が目をやると、背中に手を当てられた少年は一歩退く。前科があることを承知している少女も、そうすれば大人しく手を離した。

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